衛の懿公、鶴を好む。

 

(春秋左氏伝)

 衛の懿公は鶴が大好きだった。これの養育費には巨額の費用を掛け、徳に見事な鶴には官位を与えたり、車に乗せて連れ歩いたりしていた。
 魯の閔公の二年、狄が衛へ攻め込んだ。懿公が迎撃しようとしたところ、武器を与えられた兵士達は口々に騒いだ。「俺達には官位もないし、出入りに車も付かない。鶴に戦わせればいいじゃないか。」
 結局、衛は狄と戦って敗れ、国が滅んだ。

(博議)

 衛の懿公は鶴好きが高じて国を滅ぼした。たかが禽獣を玩んで国中の人心を失った為だ。このくだりを読んだ人は、その愚行を嘲笑するに違いない。しかし、私はこれをもっと重く見ている。
 そもそも、世間の人々は、ただ頭に朱を戴いて羽白く二本足のもののみを「鶴」と呼んでいる。だが、高尚な理論を戦わせ、皆から尊敬されているが、実務には全く役に立たない者も、外見こそ人間であるが、その実「懿公の鶴」とどこが違うと言うのか。

 戦国時代の斉では、学者を大切にした。稷下には常に大勢の学者が養われ、大臣になる者、大冠長剣を身につけ我が物顔でのし歩く者が横行し、その理論は精緻を極めた。ところが、卓(正しくは水/卓)歯が斉王を虐殺した時や、秦兵が斉を滅ぼした時など、その国難に力を尽くそうとした者はただの一人も居なかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。
 文学好きの後漢の霊帝は、文章の巧い学生達を抜擢して鴻都門下にて特待した。この時には自分の能力を売り込む者が殺到し、大勢の者が爵位や官位を授かった。さて、彼等は定めし立派な国策を制定してくれるかと思いきや、「黄巾の賊」で天下が鳴動した時、有効な献策をする者や自ら矛を執る者など一人も居なかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。
 西晋の懐帝の時、清談に耽る者が朝廷に満ちあふれた。一觴一詠、万物を傲慢に見下し、自ら高尚ぶって雅のみを至高のものと讃えていた。五胡が侵入するや、西晋はあっけなく滅んだ。彼等も又、「懿公の鶴」である。
 梁の武帝の時、朝廷の臣下達は朝に仏教を論じ、夕に道教を談じ、あちこちで講釈会が開かれ、何かと言えば形而上学の論争が始まるのが時代の風俗だった。一旦、侯景がクーデターを起こして首都に迫るや、惰弱に馴れきっていた士・大夫達は馬に跨ることさえできない有様。結局、手を束ねて殺戮を受けるしかなかった。彼等も又、「懿公の鶴」である。
 この数カ国で、平日尊用している者達は、確かに弁は立ち、文章は巧い。外見の押し出しがよいし、議論を聴けば緻密でもある。それは確かに嘉すべく、仰ぐべく、慕うべく、親しむべきだろう。しかし、一旦災厄が起これば、それを乗り越える為には何の役にも立たず、「懿公の鶴」に異ならない者はほとんどいない。どうして懿公のみを嘲笑できるだろうか。

 いざとゆう時に必要な人間は日頃寵用しておらず、日頃寵用している人間はいざとゆう時役立たない。彼等は、親しい者に楽をさせ、疎い者に危険なことをやらせている。あるいは、「貴き者は利益を享受させるだけで、賤しい者は害を受けるだけ。」とゆう有様だ。このような風潮がまかり通れば、必ず懿公と同じ禍を受けてしまうに違いない。

 更に、私に深く考えさせる事がある。
 鶴は確かに禽類だが、その名は易経に載り、詩経に播かれ、詩人墨客の諸作品に雑出する。その人々が尊重する有様は、凡禽の比ではない。それでさえ、懿公がこれを御輿に乗せて喜ぶようになると、国中がこれを怨んだ。彼等はきっと、この鶴達を鴟や梟のように忌み嫌っただろう。これは、鶴に対する愛憎が急変したのではない。その居場所が正しくないから憎んでしまったのだ。
 鶴は、もともと人々から貴重かられている禽である。それでさえ、居場所を間違えると、ここまで忌み嫌われてしまうのである。いやしくも他の禽獣が、その居場所を間違えると、どのように思われるだろうか。そう思うと、慨嘆の他ない。

(訳者曰く)

 そもそも、大半の企業は営利を目的としている。だから利益を上げる人間が重用されるのが当然である。しかし、現実には上役の覚え目出度い人間が出世することなど珍しくない。社内営業は、会社に一円の利益も生み出さないにも関わらず、である。
 人は出世したがるものであるし、給料は多い方が良いとゆうのは人情である。だから勤めている会社がそのようであれば、皆は競って上役のご機嫌伺いに励むだろう。その分、利益を上げる本当の仕事はお座なりにされてしまうのだ。これらのことが横行すれば、競争力のある会社にはならない。
 企業が抜擢しなければいけない人間は、部下の指導ができる社員であり、優遇しなければいけないのは実績を挙げた社員である。ところが、企業が大きくなる程社員の算定が見えにくくなり、結局人事の胸三寸に依ってしまう。そして、出世を願う優秀な社員は算定の基準に従って動き、結果、実益をあげない人間が評価されて出世することとなってしまう。俗に言う「大企業病」の一つである。「安宅産業」から「山一証券」に至るまで、凡そ、よもやと言う大企業が倒産した場合、この病に冒されていなかったことは殆ど稀ではないか。
 人よ懿公を嘲るなかれ。「懿公の鶴」の系譜を辿れば、現在に至るまで連綿と続いているのだ。