豊(「豊/里」)舒、趙衰と趙盾を賈季に問う。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の文公の七年。狄が魯を攻撃した。文公は、晋へ助けを求めた。丁度この時、晋の旧臣の賈季が狄へ亡命していたので(詳細は、「陽処父、改蒐し、賈季、陽処父を殺す」に記載)、晋の趙盾は、賈季へ豊舒を詰問させた。
 この時、豊舒は賈季へ尋ねた。
「趙盾と、先代の趙衰とを比べると、どちらが優れた人物ですか?」
 すると、賈季は答えた。
「父の趙衰は冬の太陽、子の趙盾は夏の太陽、とでもお答えしましょう。」 

(東莱博議) 

 天下の諸々の事象は、猜疑心で見てはいけない。
 万物を我が目の前に並べてみよう。鴨は短く鶴は長い。定規はまっすぐで、鉤は曲がっている。堯は仁恕で桀は暴虐、伯夷は廉で盗跖は貪。それらは明々白々で、惑いようがない。
 ところが、一旦猜疑心が加わると、鴨が鶴のように見え、定規が鉤のように見え、堯が桀のように思え、伯夷が盗跖のように思えてしまうのだ。これは、対象となる物の罪ではない。猜疑心を交えて物を見たので、正しい見方ができなかった為なのだ。
 心の中に猜疑を持てば、何を見るにも偏見がつきまとい、心に響く物を無視して枝葉末節にばかりこだわってしまう。何と難しいことだろうか。
 いや、実は、これはそんなに難しいことではない。この場合、対象となる事象は、私を眩ませようとしたわけではなく、こちらが物を疑っているだけに過ぎないのだから。私が心に疑いを持って物を見ると、物の中で似ている所を探り出してまで、猜疑心を強めてしまう。罪は、我が猜疑心にのみあるのだ。
 ところが、天下には元々似ていて判断付けにくい物もある。猜疑心を持ったままで、それを見てしまったならどうなるだろうか?私は惑っているし、相手は眩ませようとしている。ああ、これこそが、最も判断の難しい物である。 

 賈季が趙盾を仇としていたのは、古来有名な話だ。
 ところで、もしも誰かが自分の仇の事を批評したならば、誰もが偏見を持って聞いてしまうに違いない。
 だから、賈季が趙盾を清廉だと褒めたならば、人々は必ず言うだろう。
「上辺は清廉だと褒めているが、本当はうすら馬鹿だと言いたいのだ。」と。
 賈季が趙盾を剛直だと褒めたとしよう。すると、人々は言うだろう。
「口先では剛直だと言っているが、本心では頑固者だと思っているのだ。」と。
 賈季が公平な想いで褒めたとしても、聞く人間が偏見を持って聞いてしまう。言葉はここにあるのに、聞く人間の心はあそこにある。その言葉は簡単明瞭で疑う所がない時でさえ、なおアレヤコレヤと勘ぐってしまい、どんなひねくれた解釈でもこじつけてしまう。
 ましてや、褒め言葉それ自身が褒めたかどうか判別付きにくい程疑わしい言葉だった時、どうしてその真意を汲み取って貰えるだろうか。 

 冬の太陽は、人々が愛するものである。夏の太陽は、人々が畏れるものである。賈季は、趙衰のことを冬の太陽と言い、趙盾のことを夏の太陽と言った。この言葉一つ取った場合、賈季は、趙衰と趙盾とどちらを立派だと褒めているのか、判別が付け難い。分かりにくい話ではないか。
 それにもう一つ、趙盾が夏の太陽だとして、それは趙盾の威厳を畏怖しているのか、趙盾の残虐を畏怖しているのか、これも又判別付けがたい。
”どっちが優れているか”について、たった一言で答えてしまい、たった一文字は「威厳がある。」とも、「残虐である。」とも、どちらの意味にでも取れる。もしも賈季と趙盾に確執がなく、ただこの批評だけを聞いたなら、人々は趙衰と趙盾のどちらを褒めているのか、その答えを軽々しく決めつけたりはしないだろう。
 だが、賈季と趙盾とには確執があった。その上で、このように答えたのだ。
 最初に、「ああ、趙盾は賈季の仇である」とゆう想いを胸に抱いてこの言葉を聞いたならば、どんな知恵者でも「賈季は趙盾を謗っている」としか考えないだろう。
 もしも賈季の本心がそうだったのならば、賈季は趙盾を誹ったように見えるのではなく、真実、趙盾を謗ったのである。人々は賈季の人格を疑っているのではなく、その本性を明白に見ているのである。ああ、私はどうやって、賈季が趙盾を謗っていないことを証明すればよいのだろうか。 

 だが、ここでハッキリと断言しよう。
 幽囚野死の誹りは、堯が生きていたその時代ではなく、秦・漢の時代になって興った通説だ。つまり、秦・漢時代の人々の心で、唐虞の心を推し量ったのだ。この通説が疑わしいことは明白である。
 孔子が佞臣へ仕えたとゆう誹りは、孔子の時代ではなく、戦国時代に生まれた通説である。戦国時代の人々の心で、孔子の心を推し量ったのだ。この通説が疑わしいことは明白である。
 後世の人間の感覚で、昔の人間の行跡を見れば、どんなことでも疑って掛かることができる。これは、一人の賈季に限ったことではないのだ。 

 兄弟が家の中で争っていても、他人から侮りを受けたら協力して立ち向かう。昔の人間は、たとえ私闘をしても、家族を愛する想いを決して忘れはしなかったのだ。だが、後世の人間が自分の想いでこれを見れば、「この兄弟は互いの怨みを隠して、打算のために無理して協力した。」と勘ぐってしまう。
 誰からか踏みにじられることがあっても、その為に故郷を棄ててりしない。昔の人間は、私の怨みで故郷を愛する想いを棄てたりはしなかったのだ。だが、後世の人間が自分の想いでこれを見れば、「彼は無理して、自分の心を抑えている」と勘ぐってしまう。
 これを以て、この事件を見れば、答えは明白である。
 賈季と趙盾の確執は、私仇である。賈季にとって先祖代々の御恩を蒙った祖国を、どうして一趙盾の為に棄てるだろうか。趙盾が豊舒を詰問する使者として賈季を選んだのは、賈季が自分を怨んでいても晋を怨んではいない事を知っていたからだ。だから、賈季は豊舒へ対して趙盾を褒めた。彼が褒めたのは晋であって趙盾ではないのだから。 

 趙盾は晋の使者を選んだのであって、自分の使者を選んだのではない。賈季は晋の為に答えたのであって、趙盾の為に答えたのではない。どうして後世の人間の狭量な心で彼等の思いを推し量れようか。
 趙衰を冬の太陽に喩え、趙盾を夏の太陽に喩える。上辺だけを聞けば、趙衰を優として、趙盾を劣としているかのようだ。だが、本心はそうではない。戎狄は恩愛で懐けることが難しく、威厳で制圧するべき相手なので、豊舒へ対して、「趙盾の威厳は犯すべからざるもの。趙衰が狎れ易かったのとは、訳が違いますぞ。」と伝えたかったのだ。
 趙盾の威厳を張るのは、晋の威厳を張ることだ。これこそ、いわゆる、「実は与えて文は与えない。」とゆうものである。 

 かつて、馬援が隗ゴウへ言った。
「劉邦は可もなく不可もなし。劉秀(のちの、後漢の光武帝)は吏事を好み、節義正しく動き、飲酒を喜ばない。」と。
 これは劉邦を尊んで劉秀を卑しんだのではない。このように言ったのは、「光武帝が小細工に騙される人間ではない」と、隗ゴウへ伝えたかったからなのだ。
 同様に、賈季も趙衰を優として趙盾を劣としたのではない。このように言ったのは、趙盾の威霊が犯すことができないと、豊舒へ伝えたかったからなのだ。
 もしも、馬援が劉秀へ対して怨恨を持っていたなら、世の人々は、賈季を疑うような気持ちで、馬援をも疑っただろう。
 古の人々の心を理解しないで、ただ古の人々の行跡だけを見て、これを論じる。これでは、無用の嫌疑が後を絶たないのも無理はない。