突厥   高宗時代
 
 龍朔元年(661)回乞の酋長婆閏が卒した。姪の比栗毒が代わってその衆を統率し、同羅、僕固と共に国境を犯した。
 左武衞大将軍鄭仁泰を鐵勒道行軍大総管、燕然都護劉審禮と左武衞将軍節仁貴をこれの副とし、鴻臚卿蕭嗣業を仙萼道行軍総管、右屯衞将軍孫仁師をその副とし、兵を率いてこれを撃つよう詔が降りる。審禮は徳威の子息である。
 二年三月、鐵勒の九姓は唐軍が来ると聞いて、衆を合わせて十余万となって、これを拒んだ。そして驍健な者数十人が戦いを挑んだが、節仁貴が矢を三発射ると、三人が死んだ。残りは下馬して降伏した。仁貴はこれを悉く穴埋めにして、磧北を渡り、その余を襲撃した。葉護三人を捕らえて還る。軍中ではこれを歌って言った。
「将軍は三箭で天山を平定し、壮士は長歌して漢関へ入る。」
 思結、多濫葛等の部落はまず天山を確保したが、仁泰等がやって来ると聞いて、皆、迎降した。仁泰はこれを襲撃してその家を掠め、兵士への褒賞とした。
 虜は兵をまとめて遠く逃げた。将軍楊志がこれを追撃したが、虜に捕らえられた。
 斥候が、仁泰へ告げた。
「虜の輜重が近くにあります。これへ行って奪いましょう。」
 仁泰は軽騎万四千を率いてこれへ急行する。遂に大磧を越えて仙萼河へ到着したが、虜の姿は見えない。兵糧が尽きたので還った。途中、大雪に遭い、士卒は飢凍した。武装を棄て、馬を殺して食べる。馬が尽きると、人は互いに食べ合った。塞へ入った時には、兵卒は僅か八百人しか残っていなかった。
 軍が還ると、司憲大夫楊徳裔が劾奏した。
「仁泰等は降伏した者を誅殺し、虜を逃げ散らす結果となりました。士卒を慰撫せず、兵糧も計らず、遂に野を骸骨で覆い甲冑を棄てて寇の資としたのです。聖朝開創以来、今日のような喪敗は聞いたことがありません。仁貴が監督した所でも、貪婪淫乱の極みでした。得た物があるとはいえ、喪った物を補えません。並びに法に照らして処断してください。」
 功を以て罪を贖うと詔して、皆、これを赦した。
 右驍衞大将軍契必何力を鐵勒道安撫使として、左衞将軍姜恪をその副とし、その余衆を安招させた。何力は精騎五百騎で九姓の中へ馳せ入り、虜は大いに驚いた。何力は言った。
「わが国は、汝等が脅されて従っていることを知っている。汝の罪を赦そう。罪は酋長にある。彼等を得たいだけだ。」
 その部落は大いに喜び、共にその葉護及び設、特勒等二百余人を捕らえて何力へ授けた。何力はその罪状を数え上げて、斬った。
 九姓は遂に平定した。 

 この年、西突厥が庭州へ来寇した。刺史の来済が兵を率いて拒もうとして、その衆へ言った。
「吾はずっと前に死ぬべきだったのに、幸いにも今日まで生き延びることができた。今こそ、身を以て御国へ報いるときだ。」
 遂に武装を解かず、敵へ赴いて戦死した。 

 三年正月。左武衞大将軍鄭仁泰が造反した鐵勒の余種を討ち、これを悉く平定した。
 二月、燕然都護府を回乞へ移し、瀚海都護と改名した。もとの瀚海都護は雲中の古城へ移し、雲中都護と変名する。磧を境とし、磧北の州府は全て瀚海へ隷属させ、磧南は雲中へ隷属させる。 

 麟徳元年(664)正月甲子、雲中都護府を単于台と護符と改称し、殷王旭輪を単于大都護とする。
 李靖が突厥を破った時、三百帳を雲中城へ移し、阿史徳氏をその長とした。それ以来部落は次第に人が増えて行った。阿史徳氏が闕を詣でた時、胡法に則って親王を可汗に立て、これを統率するよう請願した。上は、召見して、言った。
「今の可汗は、昔の単于だ。」
 こうして単于都護府と改称され、殷王へ遙頒させたのである。 

 五月、乙卯、昆明の弄棟川へ姚州都督府を設置した。 

 咸亨二年(671)四月甲申。西突厥の阿史那都支を左驍衞大将軍兼匐延都督として、五咄陸の衆を安衆させた。 

 西突厥の十姓可汗阿史那都支とその別帥李遮匐が吐蕃と連合して安西を少しずつ侵略していった。調露元年(679)、朝議は出兵してこれを討伐しようとした。すると、吏部侍郎裴行倹が言った。
「吐蕃の侵略で審禮は滅亡し、戦争が止みません。これでどうして西方へ出兵できましょうか!今、波斯王が卒して、その子の泥亘(「水/亘」)師は人質として京師へ在住しています。使者を派遣して帰国させましょう。その途中で二虜を通過しますから、隙を見てこれを取れば、刃に血塗らずして擒にできます。」
 上はこれに従い、行倹へ波斯王冊立を命じ、並びに安撫大食使とする。
 行倹は、粛州刺史王方翼を自分の副官並びに検校安西都護とするよう上奏した。
 かつて裴行倹は、西州長史となったことがある。今回、朝廷の使者として西州を通過すると、吏人は郊外で出迎えた。行倹はその豪傑の子弟千余人を悉く召して自分に随従させ、宣伝した。
「これから暑くなるので、遠方へはいけない。西上にて涼むとしよう。」
 阿史那都支はこれを伺い知って、遂に防備をしなかった。
 行倹は四鎮の諸胡の酋長を静かに呼び寄せて言った。
「昔、西州にいた頃狩猟をしたが、とても楽しかった。今、昔のことを賞したいが、誰か吾と共に狩猟をする者はいないか?」
 諸胡の子弟は争って随従を請い、たちまち一万人近く集まった。
 行倹は、上辺は狩猟と言いながら、部伍の手綱を操り、数日間、西方へ急行した。都支の部落から十数里のところまで来ると、まず都支に親しい者を派遣し、その安否を問うた。こうして、上辺は遊覧に見せかけたので、まさか討襲とは思われなかった。続いて使者を派遣し、会見を促した。
 都支は、秋中は漢(夷人は、中国のことを「漢」と言っていた。ちなみに、漢代には「秦」と言っていた。)の使者を拒むよう、以前から李遮匐と同盟を結んでいたが、軍隊が突然やって来たのでどうする術もなく、子弟を率いて迎謁した。遂にこれを捕らえる。そして彼の契箭を入手し、これを使って緒部の酋長を悉く呼び寄せ、捕らえて碎葉城へ送った。
 ここで精騎を選び、軽装で遮匍の部落へ昼夜急行した。途中、遮匐の元から還ってくる都支の使者と遮匐の使者の一行を捕らえた。行倹は遮匐の使者を釈放し、これを先行させて、都支を捕らえたことをもとに遮匐を諭させた。遮匐もまた、降伏した。
 此処に於いて都支と遮匐を捕らえて帰国した。波斯王は自分で帰国させ、王方翼は安西へ留めて碎葉城を築かせた。 

 十月。単于大都護府突厥阿史那徳温傅奉職の二部が共に造反した。阿史那泥熟匐を可汗に立て、二十四州の酋長が皆、これに呼応して造反した。その数は数十万。
 朝廷は、鴻臚卿単于大都督長史蕭嗣業、右領軍衞将軍花大智、右千牛衞将軍李景嘉等へ兵を与えてこれを討伐させた。
 嗣業は前哨戦でしばしば勝ったので、油断して防備をしなくなった。大雪が降った時、突厥はその陣営を襲撃した。嗣業は狼狽して営から逃げ出した。衆は大混乱に陥り、虜に敗北して大勢の死者が出た。大智と景嘉は歩兵を率いて戦いながら行軍し、遂に単于都護府へ入ることができた。
 嗣業は死刑を減じて桂州への流罪となり、大智と景嘉は共に免官となった。
 突厥は定州へ来寇した。すると刺史の霍王元軌は城門を開けて旗を収めるよう命じた。虜は伏兵があるかと疑い、懼れて夜に紛れて逃げた。
 州の住民李嘉運は、虜と密通していた。これが判明したので、上はその余党を糾明するよう元軌へ命じた。すると、元軌は言った。
「強寇は国境におり、人々は不安がっている。もしも大勢を逮捕したら、彼等を造反へ駆り立てることになる。」
 そして嘉運一人だけを処刑し、その他の者は問わなかった。そして自ら命令違反を弾劾した。上は上表を覧て大いに喜び、使者へ言った。
「朕はもう、先の命令を悔いている。王がいなければ、定州を失う。」
 これ以来、朝廷に大事が起こると、上は元軌へ密敕を出して、方策を尋ねるようになった。
 壬子。左金吾衞将軍曹懐舜を井ケイへ、右武衞将軍崔献を龍門へ屯営させ、突厥へ備えた。
 突厥は奚、契丹を煽動して営州へ侵掠させた。都督周道務が戸曹の始平の唐休景(「王/景」)へ兵を与えて撃破させた。 

 十一月癸未、上は裴行倹と宴会を開き、彼へ言った。
「卿は文武の才を兼ね備えている。今、卿へ二職を授けよう。」
 そして禮部尚書兼検校右衞大将軍へ除した。
 甲辰、行倹を定襄道行軍大総管として、十八万の兵を与え、西軍検校豊州都督程務挺、東軍幽州都督李文東(「日/東」)と共に三十余万で突厥を討伐させた。彼等二人は共に行倹の指揮下とする。
 務挺は、名振の子息である。
 永隆元年(680)三月、裴行倹が突厥を討伐した。
 行倹は朔川まで進軍すると、部下へ言った。
「用兵の道は、部下を慰撫する時は誠を貴び、敵を制する時は詐術を貴ぶ。前日蕭嗣業は、突厥に輜重隊を襲撃されて兵糧を掠められ、士卒は飢え凍えたから、敗北したのだ。今、突厥は再び同じ事をする。だから詐術で対するべきだ。」
 そして、偽の糧車三百乗を準備し、車毎に壮士五人を伏せた。各々へ大刀、弩を持たせ、寂へ異数百人にこれを護衛させ、精兵を険要へ伏せて敵を待った。
 果たして、虜はやって来た。弱兵は車を捨てて逃げる。虜は、車を水や草のあるところまで牽いてきて、馬の鞍を解いて放牧し、兵糧を取ろうとした。その時、壮士達が車の中から躍り出て、これを襲撃した。虜は驚いて逃げたが、そこへ伏兵が飛びかかり、殆ど殺し尽くされた。
 これ以来、虜は輜重隊へ、敢えて近づこうとしなかった。
 軍が単于府の北へ到着したときには、もう暮れに近かった。唐軍は屯営し、その周囲に塹を掘った。ところが、行倹は高岡へ陣を移すよう命じた。諸将は皆、「士卒達は既に安堵しているので動かしてはならない」と言ったが、行倹は従わず、移動させた。その夜、暴風雨となり、最初に陣を布いた場所は一丈余りの水に呑み込まれてしまった。諸将は驚き、また、感服し、暴風雨を予知できた理由を尋ねたが、行倹は笑って言った。
「これからは、ただ我の命令に従え。その理由など問う必要はない。」
 突厥の酋長奉職を捕らえる。可汗泥熟匐は部下に殺され、彼等はその首を持って降伏してきた。
 さて、奉職が捕らえられると、その残党は狼山へ逃げ込んだ。戸部尚書崔知梯が詔を受けて定襄へ駆けつけて将士を宣撫し、残党を掃討した。
 行倹は軍を引き返した。 

 七月、突厥の残党が雲州を包囲した。代州都督竇懐折(「折/心」)と右領軍中郎将程務挺が兵を率いてこれを撃破する。 

 開輝元年(681)正月。突厥が原、慶等の州へ来寇した。
 乙亥、右衞将軍李知十等を派遣してケイ、慶二州へ屯営させ、突厥に備えた。 

 裴行倹の軍が帰国すると、突厥の阿史那伏念は再び自立して可汗となり、阿史那徳温と連合して来寇した。
 正月癸巳、行倹を定襄道大総管とし、右武衞将軍曹懐舜と幽州都督李文東を副官として、兵を与えてこれを討伐させる。
 曹懐舜と裨将竇義昭は前軍を率いて突厥を攻撃した。
 ある者が告げた。
「阿史那伏念と阿史徳温傅は黒沙に居り、護衛もわずか二十騎以下です。行けば捕まえられます。」
 懐舜等はこれを信じ、老弱兵を瓠蘆泊へ留めて軽鋭を率いて急行した。だが、黒沙へ到着しても、誰もいなかった。人馬が疲弊したので、兵を引き返した。
 薛延陀の部落が伏念の麾下へ入ろうと西進していたが、懐舜軍へ遭遇し、降伏を請うた。
 懐舜等は兵を率いて静かに還ったが、長城の北にて温傅と遭遇した。少し戦って、各々兵を引いた。
 横水へ至って、伏念と遭遇する。懐舜、義昭と李文東及び裨将劉敬同の四軍は合流して方陣を造った。戦いつつ進み、一日が経った。伏念が追い風に乗って攻撃したので、唐軍は乱れ、懐舜等は軍を棄てて逃げた。唐軍は遂に大敗し、数え切れないほどの死者が出た。
 懐舜等は敗残兵をかき集め、金帛をかき集めて伏念へ贈賄してこれと和平を約束した。牛を殺して盟約を結ぶ。伏念が北へ去ったので、懐舜等は帰ることができた。
 五月丙戌。懐舜は死刑を免れ、嶺南へ流された。 

 裴行倹は代州のケイ口へ陣を布き、反間工作に精を出した。これによって、阿史那伏念と阿史徳温傅は互いに猜疑し合うようになった。
 伏念は、妻子と輜重を金牙山に留め、軽騎で曹懐舜を襲撃した。行倹は裨将の何迦密を通漠道から、程務挺を石地道から金牙山へ派遣し、これを取った。伏念は曹懐舜と講和して還ったが、金牙山まで戻ってみると、妻子も輜重もない。その上、大勢の士卒が疾病にかかったので、兵を引いて北上し、細沙へ向かった。行倹は、又、副総管劉敬同、程務挺等へ単于府の兵を与えてこれを追跡させた。
 伏念は、温傅を捕らえて許して貰うことを請願したが、尚も躊躇していた。また、遠くまで逃げたことでもあるし、唐軍はやって来ないだろうと多寡を括って、ろくに防備もしていなかった。敬同等の軍が到着すると、伏念は狼狽し、軍を整えることもできず、遂に温傅を捕らえて、間道から行倹のもとへ出向いて、降伏した。
 斥候の騎兵が、「天まで立ち籠もるほどの塵埃がやって来る」と報告すると、将士は皆震え上がったが、行倹は言った。
「これは、伏念が温傅を捕らえて来降したのだ。他の賊ではない。しかし、降伏を受ける時は敵を迎撃するような態度で迎え入れるものだ。防備はしなければならない。」
 そして厳重な防備を命じ、使者を出して迎え入れ、ねぎらった。
 しばらくすると、果たして伏念は酋長を率いて温傅を縛り上げ、軍門を詣でて罪を請うた。
 行倹は突厥の残党を悉く平定し、伏念、温傅を連れて帰京した。
 十月壬戌、裴行倹等が定襄の捕虜を献上した。
 丙寅、阿史那伏念、阿史徳温傅等五十四人を都市で斬った。
 もともと、行倹は伏念へ命を助けると約束していた。だが、裴炎が行倹の功績に嫉妬して、上奏した。
「伏念は、副将の張虔助(「日/助」)、程務挺等から追い詰められ、又、回乞(「糸/乞」)等が磧北南から迫ってきて、切羽詰まって降伏してきただけです。」
 遂に、これを誅殺した。
 行倹は嘆いて言った。
「渾と濬が功績を争ったのは、古今の恥だ(晋の元帝の太康元年参照)。ただ、降伏した者を殺したのでは、これから降伏する者が居なくなることが心配だ。」
 そして、病気と言い立てて出仕しなくなった。 

 永淳元年(682)西突厥の阿史那車薄が十姓を率いて造反した。
 四月辛未。礼部尚書聞喜憲公裴行倹が金牙道行軍大総管となり、右金吾将軍閻懐旦等三総管を率いて、数道から西突厥を討伐した。だが、軍が到着する前に、行倹は卒した。
 阿史那車薄が弓月城を包囲した。安西都護王方翼が軍を率いて救援に駆けつけ、伊麗水にて虜を撃破し、千余の首級を挙げる。
 俄に三姓の咽 と車薄が連合して方翼を拒んだ。方翼はこれと熱海で戦った。戦いの最中、流れ矢が方翼の臂を貫いた。だが、方翼は佩刀でその矢を切断したので、左右は気がつかなかった。
 麾下の胡兵が、方翼を捕らえて車薄へ内応しようと謀ったが、方翼はこれを知ったので、彼等を全員召し出して会議を開いた。軍資を分け与えると言って呼び集めたのだが、皆が集まると全員処刑した。丁度大風の日で、方翼は金鼓を盛大に討ち鳴らさせて、彼等の悲鳴を誤魔化した。七十余人を誅殺したが、その部下達は誰も気がつかなかった。
 胡兵を処刑すると、裨将を分遣して車薄、咽 を襲撃した。大いに破ってその酋長三百人を捕らえる。
 西突厥は、遂に平定した。結局、閻懐旦は出陣しなかった。
 方翼は夏州都督へ出世し、朝廷から呼び出されて辺事を議論した。この時、上は方翼の衣に血がこびりついていたので、そのいわれを尋ねた。すると方翼は熱海での苦戦の有様をつぶさに語った。上は、傷跡を見て嘆息した。だが、彼は廃立された王后の一族だったので、遂に夏州へ帰れなかった。 

 この年、突厥の残党阿史那骨篤禄阿史徳元珍等が亡散した民をかき集め、黒沙城を占拠して造反した。并州及び単于府の北境へ入寇し、嵐州刺史王徳茂を殺す。
 右領軍衞将軍、検校代州都督薛仁貴が、兵を率いて雲州にて元珍を攻撃した。
 虜が唐の大将軍が誰か問うたので、「薛仁貴」と答えると、虜は言った。
「仁貴は象州へ流されて、ずっと前に死んだと聞くぞ。何で我を騙すのか!」
 そこで仁貴が甲を取って顔を見せると、虜は相顧みて顔色を失い、下馬して列んで拝礼すると、スゴスゴと引き返した。仁貴はこれに乗じて奮撃し、敵を大いに破る。万余級の首を斬り、二万余を捕虜とした。 

 弘道元年(683)二月庚午、突厥が定州へ来降した。刺史の霍王元軌がこれを撃退する。
 乙亥、再び為(「女/為」)州へ来寇する。
 三月庚寅、阿史那骨篤禄と阿史徳元珍が単于都護府を包囲した。司馬の張行師を捕らえて、これを殺す。勝州都督王本立、夏州都督李祟義へ兵を与え、二道から救援に向かわせた。
 五月乙巳、突厥の阿史那骨篤禄等が蔚州へ来寇し、刺史の李思倹を殺した。豊州都督崔智弁が兵を率いて朝那山にてこれと戦ったが敗れ、虜に捕らえられた。
 朝廷の議会では、豊州を廃してその住民は霊、夏へ移住させようとした。すると豊州司馬唐休景が上言した。その大意は、
「豊州は河を阻んで固めとしていますので、賊が居座れば要衝となります。ここは秦・漢以来、わが国の郡県となっていた土地で、その地質は農耕牧畜に適しています。隋末の騒乱で、百姓を寧・慶へ移住させたので、胡虜が深く侵略してきて、霊・夏が辺境となったのです。貞観の末、人を募ってここへ移住させ、西北はようやく落ち着きました。今、これを廃止すれば、河濱の地は再び賊の領土となり、霊・夏等の州の住民は生業に専念できなくなります。これは国家の利益ではありません!」
 そこで、中止した。
 六月、突厥の別部が嵐州を寇掠したが、偏将の楊玄基がこれを撃退した。
 十一月戊戌、右武衞将軍程務挺を単于道安撫大使として、阿史那骨篤禄等を招討させた。 

 光宅元年(684)七月、突厥の阿史那骨篤禄等が朔州へ入寇した。
 九月、左武衞大将軍程務挺を単于道安撫大使として、突厥に備えさせる。
 同月、李敬業が造反する。程務挺は密かに上表して道理を述べたが、これで太后の逆鱗に触れた。務挺はもともと唐之奇や杜求仁と仲が良かったので、ある者が彼を讒言した。
「務挺と裴炎は、徐敬業と内通しています。」
 癸卯、左鷹揚将軍裴紹業を派遣して、軍中にて務挺を斬り、その家族を国へ没収した。
 突厥は務挺が死んだと聞いて、宴会を開いて相慶んだ。又、務挺の祠を立て、出陣するごとに必ずこれに祈った。  

 垂拱元年(685)阿史那骨篤禄等が屡々辺境を荒らすので、左玉今衞中郎将淳于處平を陽曲道行軍総管として、これを討たせた。
 三月癸未、突厥が代州へ来寇した。淳于處平が兵を率いて救援する。忻州にて突厥に敗北し、五千余人が戦死した。 

 二年九月丁未。西突厥の継往絶可汗の子の斛ヒツ羅を右玉今衞将軍として、継往絶可汗の後を継いで五弩失畢部落を支配させた。 

 同月、突厥が入寇した。左鷹揚衞大将軍黒歯常之がこれと拒戦する。
 両井にて突厥軍三千余人と遭遇した。彼等は唐兵を見ると皆、下馬して鎧を付けた。常之が二百余騎でこれへ突撃すると、敵は皆、鎧を棄てて逃げた。日が暮れると、突厥が大挙して押し寄せた。常之は営中で火を燃やさせ、東南にも又火を起こした。虜は援軍が呼応しているのかと疑い、遂に夜逃げした。
 三年二月丙辰。突厥の骨篤禄等が昌平へ来寇した。左鷹揚大将軍黒歯常之へ、諸軍を率いて討伐するよう命じた。
 八月、骨篤禄、元珍が朔州へ来寇した。燕然道大総管黒歯常之を派遣して、これを撃たせる。左鷹揚大将軍李多祚が副官である。彼等は黄花堆にて突厥を大いに破り、四十余里追撃する。突厥は、皆、磧北へ奔走した。
 多祚は代々靺鞨の酋長だったが、軍功が認められて宿衞へ入れた。
 黒歯常之は、賞を賜るごとに皆、将士へ分配した。ある時、軍士が善馬を損なった。官属はこれを笞打つよう請うたが、常之は言った。
「なんで私馬の為に官兵を笞打ってよかろうか!」
 ついに、不問に処した。
 黒歯常之が功績を建てたのを見て、右監門衞中郎将爨寶璧が余寇を追い詰めるよう上表して請願した。すると寶璧へ、常之と合議して声援となるよう、詔が降った。
 十月、寶璧は軍功を独占しようと、常之を待たず、精鋭兵一万三千を率いて先行した。塞を出て二千余里、敵の部落を襲撃する。だが、彼は到着すると、まず人を派遣してこれを告げたので、敵は厳重に備えをしており、戦って敗北した。唐軍は全滅し、寶璧は軽騎で逃げ帰る。
 太后は寶璧を誅殺し、骨篤禄を不卒禄と改名した。 

 永昌元年(689)五月己巳、僧懐義を新平軍大総管として、北方の突厥を攻撃させた。紫河まで進軍したが虜の姿を見なかったので、単于台にて石へ紀功を刻んで還った。
 九月壬子、僧懐義を新平道行軍大総管とし、二十万の兵を与えて突厥の骨篤禄を討たせた。 

 西突厥の十姓は、垂拱以来東突厥から侵掠され、ほとんど散亡してしまっていた。
 天授元年(庚寅、690年)十月、濛池都護継往絶可汗斛瑟羅が、その余衆六・七万をかき集めて内地へ入居した。右衞大将軍を拝受し、竭忠事主可汗と改号する。 

 延載元年(694年)正月、骨篤禄可汗が卒した。その子が幼かったので、弟の黙啜が自ら立って可汗となった。 

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