高肇専横   高肇と于忠
 
宣武帝の政治 

 天監三年(504年)、十一月、国学を建設するよう詔が降りた。
 この頃、魏は平和になってから久しく、学業が盛んになっていた。燕・斉・趙・魏の地方では、享受する者が数え切れないくらい居り、著名な先生は千人からの弟子を持っていたし、数百人以上の弟子を持つ師匠も多かった。州が茂異で推挙する者や、郡が孝廉で推挙する者も、毎年大勢居た。 

 十二月、殿中郎の袁翻等へ、律令の制定を命じた。彭城王等がこれを監修した。 

 四年、八月。太極殿の西序に芝が生えた。芝とゆうのは、マンネンダケのことで、芳香がするので縁起がよいとされているキノコである。そこで、宣武帝が崔光へ示したところ、崔光は言った。
「これは、荘子の言う、『気が蒸されて菌となる』とゆうものです。このような菌類は、もともと廃墟やごみ溜や湿地帯に生じるもので、宮殿のように高華な場所に生えるものではありません。今、このような物が生じたのは、誠に奇怪と言うべきでございます。
 大体、野木が朝廷に生えたり、野鳥が宗廟へ入り込むとゆうのは、昔から国が滅亡する前兆であります。殷の太戊や中宗の時にもこのような事がありましたが、彼等は災いを恐れ徳を修めましたので、殷の国は栄えました。いわゆる、『奇怪な前兆が起こると人々は気を付けて身を修めるので、家は栄え国は興る』とゆうものです。
 今、国勢を見ますに、西でも南でも戦争が続いておりますし(柔然や梁との交戦)、国内では日照り続き。今ほど民が苦労し憔悴しきっております時は、滅多にございますまい。このような時、彼等を育む者は、憐れみを垂れるべきでございます。陛下へ伏してお願いいたします。これからは更に心新たに聖道を歩まれて下さい。派手な宴会などを節制し、民を撫育すれば、魏の国祚は山岳のように永く栄えましょう。」
 宣武帝が宴楽に耽っていたので、崔光はこのように言及したのである。 

 五年、二月。宣武帝は王公以下に直言するよう詔を下した。すると、治書侍御史の陽固が上表した。
「宗室と親しみ、庶政に勤め、農桑を貴び工商を賤しみ、清談などの空虚な論議を禁じ、無用の費えを省いて民を飢寒の苦しみから救済することこそが、当今行うべき事でございます。」
 この頃、宣武帝は高肇へ政治を任せきりにして宗室を疎んじ、政治をお座なりにしていたので、陽固はこのように言ったのだ。 

  

高肇専横 

 五年、正月。于后が皇子昌を生んだ。大赦が降る。
 六年、十月。于后が急死した。この頃、高貴嬪がもっとも寵愛深かったが、彼女は嫉妬深かった。そして、高肇の権勢に、中外は皆媚びへつらっていた。そんな中で皇后が急死したので、人々は高氏へ疑惑を持っていたが、宮廷の出来事は闇の中。真相は誰も知らない。
 七年、三月。皇子昌が卒した。表向きは侍御師の王顕が治療を誤ったとゆうことになっていたが、裏で高肇が糸を牽いていると思わない者はいなかった。
 七月、高貴嬪が皇后となった。尚書令高肇の権勢は、益々重くなる。
 高肇は、先朝の旧制へ大きく手を加えた。諸侯の封秩や勲臣の特権を削減したので、怨みの声が道に溢れた。
 群臣や宗室も高肇には卑下している中、支尚書元匡だけは彼に対抗していた。高肇は元匡を憎んだ。ある時、朝廷にて元匡と太常の劉芳が制度のことで議論していると、高肇は太常へ加担した。議論が進むにつれて元匡と高肇との論争になり、元匡は高肇のことを、「鹿を指して馬と言う」と罵った。すると王顕が、「宰相を誣毀した」として元匡を弾劾した。朝臣の中には死刑を求刑する者も居たが、結局、光禄大夫への降格で落ち着いた。 

  

京兆王造反 

 話は遡るが、京兆王愉(宣武帝の実弟)は、宣武帝の肝いりで于后の妹を妃にした。だが、彼は妃を愛さず、妾の李氏を寵愛しており、彼女との間に子息を儲けた。名は宝月。これを聞いた于后は、李氏を後宮へ呼び寄せて杖でぶった。
 京兆王は驕豪で貪欲、不法なことも数多くやっていた。宣武帝は京兆王を禁中へ呼び、杖で五十回打った上、冀州刺史として出向させた。
 京兆王は年長だったが、二人の弟(清河王懌、廣平王懐)よりも官位が低く、常々不満だった。また、自分も愛妾も屈辱を受けた上、高肇が彼等兄弟を屡々讒言していたので、とうとう堪忍袋の尾が切れた。
 八月、冀州にて、長史の羊霊引と司馬の李遵を殺して決起した。この時、彼は詐称した。
「清河王懌から報告があった。高肇が陛下を弑逆したぞ!」
 そして、信都の南で即位し、建平と改元、李氏を皇后に立てた。法曹の崔伯驥が従わなかったので、これを殺した。
 冀州の北方の州鎮は、この声明を真に受けて、朝廷で大乱が起こったものと動揺したが、定州刺史の安楽王詮がこれを頑強に否定したので、動揺は収まった。
 魏の朝廷は、尚書の李平を都督北討諸軍に任命し、京兆王を討伐させた。 

  

彭城王謀殺 

 高氏が立后された時、彭城王は固く諫めたが宣武帝は聞かなかった。高肇は、これ以来彭城王を憎むようになり、屡々宣武帝へ讒言していた。しかし、宣武帝はこれを信じなかった。
 ところで話は前後するが、かつて彭城王は、舅の潘僧固を長楽太守に推薦していた。今回京兆王愉が造反したが、京兆王は潘僧固を脅しつけて仲間に引き入れていた。
 高肇は、この事実を本に、「彭城王は北は京兆王と通じ、南は梁軍と通じて、南北から兵を招き寄せた上、この国を簒奪しようとしています。」と誣告しようと考えた。すると、彭城郎中令の魏偃と、前の防閣高祖珍が高肇に媚びへつらって、でっち上げに協力した。
 高肇は、侍中の元暉に上表させようとしたが、元暉はこれを断った。そこで、左衛の元珍に上表させた。
 宣武帝が、この件について元暉へ下問すると、元暉はキッパリと否定した。そこで、今度は高肇へ下問した。すると高肇は、偃と高祖珍を引き出して証人としたので、宣武帝はこれを信じてしまった。
 九月、宴会を開くとゆうことで、彭城王と高陽王ヨウ、廣陽王嘉、清河王懌、廣平王懐及び高肇が召し出された。この時彭城王は、妃の李氏の出産を控えていたので固く辞退して行かなかった。だが、皇帝からの使者が相継いでやって来たので、やむをえず、彭城王は妃と別れて牛車へ乗った。
 東掖門を入って小橋を渡ると、どうしたことか、牛が先へ進まない。何とか車を進めようと、何度もこれを鞭打っていると、皇帝の使者がやって来て遅参を咎めた。仕方がないので、牛を取り外して人が車を挽いて行った。
 禁中で宴会が始まり、夜になるとみんな酔っぱらったので、各々好きな所で酔を醒ましていた。と、そこへ突然元珍が兵を率いて入って来て、彭城王へ毒酒を押しつけた。
 彭城王は言った。
「私は無罪だ。陛下に会わせてくれ!」
 元珍は言った。
「陛下が罪人へなど会われるか!」
「いや、陛下は聖明なお方だ。私を無実に殺したりはしない。どうか一目会わせてくれ。」
 武士達は、刀を持って彭城王を包囲する。
「冤罪だ!ああ、天よ!忠義の臣下が殺されます!」
 武士は容赦なく刀を突きつける。彭城王は、遂に毒酒を飲んだ。
 明け方、死体を片付け、彭城王は酒を飲み過ぎて急死したと公表した。
 李妃は泣きながら叫んだ。
「高肇は理非もなく人を殺す。天に御心が有れば、お前もきっと非業の死を遂げます!」
 宣武帝は、東堂で追悼した。彭城王へ官位を贈り、その葬儀は非常に手厚かった。朝臣達は貴となく賤となく呆然としており、道を行く士女でさえ涙を流して言い合った。
「高令公が賢王を枉殺した。」
 これによって、高肇の悪名は益々轟いた。 

  

造反鎮圧 

 京兆王は、信都を守ることができず、城門を焼き、李氏と四人の子息をかかえて百余騎を従え逃げ出した。李平は信都へ入城し、京兆王が任命した冀州牧の葦超等を斬り、統軍の叔孫頭に京兆王を追捕させた。叔孫頭は、京兆王を捕らえて信都へ帰還し、その旨を洛陽へ報告した。
 群臣は、京兆王を誅殺するよう請願したが、宣武帝は許さず、洛陽へ護送するよう命じた。京兆王は宣武帝の実弟だったので、教え諭そうと考えたのだ。だが、その一行が野王まで来た時、高肇の放った刺客が、京兆王を暗殺した。
 京兆王の子息達は洛陽へ到着したので、宣武帝は彼等を全員赦した。そのかわり、李氏は殺そうとしたが、中書令の崔光が言った。
「李氏は懐妊しています。妊婦の腹を割いたのでは、桀や紂のような暴君と言われてしまいますぞ。どうか、出産を待って処刑して下さい。」
 宣武帝は、これに従った。
 李平は、京兆王の一味千余人を捕らえ、悉く殺そうとした。すると、録参軍の高景(「景/頁」)が言った。
「彼等はただ脅されて従っただけです。それに、前に許された人も居ますので、陛下へお伺いを立ててから行動するべきです。」
 李平がこれに従ったところ、皆、死刑を免れた。
 済州刺史高植は、京兆王平定に功績があった。その褒賞として封じられようとしたが、高植はこれを断った。
「我が家は、国家の重恩を受けて参りました。御国の為に命を捨てるのは当然のこと。なんで恩賞など求めましょうか。」
 高植は、高肇の子息である。
 李平には、散騎常侍が加えられた。だが、彼は高肇や王顕と仲が悪かった。王顕は、李平が冀州で略奪を働いたと弾劾し、李平は除名(宮廷内出入り禁止処分)となった。 

  

胡充華 

 九年、三月。魏で、皇子羽(「言/羽」)が生まれた。母親は胡充華。彼女の父の国珍は、武始伯を襲爵していた。
 胡充華が後宮へ入った時、皆は祝いの言葉を述べた。
「どうか諸王か公主を生みますように。ただ、太子だけは生ませて下さいますな。」
 もともと、北魏では、皇太子の生母は殺されるのがしきたりだった。(孝文帝の晩年からは、「因習に従って」の表現が無くなり、宮廷内の権力争いの結果として殺されたように記載されている。そこら辺は、資治通鑑に記載されているとおりに翻訳したので、読み返してみると、よく判る筈です。しかしながら、理由はともあれ、皇太子の母親は今まで全員非業の死を遂げたのが、歴然たる事実です。)だから、このように祝いの言葉を述べたのだ。だが、胡充華は言った。
「妾の志は皆様とは違います。我が身一つの命を惜しんで、国の血統を絶えさせることなど、どうしてできましょうか!」
 妊娠した時、皆は堕すよう勧めたが、胡充華はこれを断り、神へ祈った。
「どうか男子を。そして恙なく育み下さい。もしも男子を生めたなら、妾は死んでも憾みません。」
 果たして、羽が生まれた。
 宣武帝は先に皇子を喪ってからずいぶん経ち、自らの歳も長じていたので、間違いなく育つよう深く慎護ざせ、家柄の良い者を選んで乳母とした。別宮で養育され、皇后も胡充華も近づくことができなかった。
 十一年、十月。魏は、皇子羽を皇太子に立てた。この時、旧来の習慣を破り、始めてその母を殺さなかった。
 尚書右僕射の郭祚を太子少師とした。
 十二年、八月。崔光を太子少傅とし、太子に彼を礼拝させた。崔光は畏れ多いと辞退したが、宣武帝は許さなかった。 

  

高肇の野望 

 十一年、正月。高肇が司徒となった。清河王懌は司空、廣平王懐は驃騎大将軍となり、儀同三司を加えられた。 

 高肇は、三司となったのだが、自分では尚書令を望んでいた為、まだまだ不満で怏々として楽しまなかった。これを見た人々は、身の程知らずな姿を嘲り笑った。
 尚書右丞の高綽と、国子博士の封軌は、共に実直な人間と評判だった。さて、高肇が司徒になった時、高綽は往来まで出迎えたのに、封軌は遂に出向かなかった。高綽が振り返ってみると、封軌の姿が見えなかったので、慌てて帰り、嘆息した。
「私は、平素から節義正しさを自認していたが、今日判った。封生には遠く及ばなかったか。」
 清河王懌は才学があり名望高かった。しかし、彭城王の末路に懲りており、宴会の時、高肇へ言った。
「天子の兄弟でさえ殺されてしまった。ところで、昔、王莽は民へ恩恵を施し、その民の力を利用して簒奪を行ったのだ。今、君も同じようにして身を屈めて衆望を集めたならば、遂にはこの国を奪われるかもしれないなあ。」
 やがて旱害が起こると、高肇は独断で囚人達を減刑し、衆望を得ようとした。そこで、清河王懌は宣武帝へ言った。
「昔、季氏が泰山を祭った時、孔子はこれを憂えました。泰山を祭るのは魯の主君の役割なのに、それを臣下の李氏が勝手に行ったからです。ですから、君臣の分とゆうものは、些細なうちにこれを防いで、大きくならないように気を付けるべきです。ところで、災いが起こった時に食膳を減らしを減刑して哀悼の意を表明するのは、本来天子の役目です。それなのに、今回、司徒が独断で行いました。これが人臣のすることでしょうか!主君を棚上げして臣下が実務を取り仕切るとゆうのは、下克上の始まり。今、まさにその時ですぞ。」
 だが、宣武帝は笑って応じなかった。 

  

田益宗 

 魏の東豫州刺史田益宗が老いぼれてしまい、子や孫達と共に収奪に精を出すようになったので、領内の民は苦しみ、造反まで考えるようになった。
 十三年、宣武帝は中書舎人の劉桃苻を田益宗のもとへ派遣し、慰労させた。劉桃苻は都へ帰ると、田益宗の横暴な有様を報告した。そこで、宣武帝は詔を下した。
「劉桃苻が、卿の子息の魯生に関して、淮南で貪暴の限りを尽くしていると聞きつけてきた。このような行いは本人の為にならぬばかりか、卿の至誠にも傷を付けてしまう。よって、魯生が横暴を振るえないよう、私の手元に置いておこう。闕にて官職を与えるので、上京させるように。」
 魯生が上京しないうちに、田益宗を鎮東将軍・済州刺史へ転任した。そして、彼が素直に受けないことも考え、後将軍李世哲と劉桃苻へ兵を与えて派遣した。
 魯生と彼の弟達は関南へ逃げ、梁へ降伏した。梁の武帝は援軍を出したが、三月、李世哲がこれを撃破した。
 田益宗は洛陽へ呼び戻され、征南将軍・金紫光禄大夫を授けられた。田益宗は、劉桃苻の讒言と訴え、彼との対決を望んだが、許されなかった。
「謀反の罪を糾明されなかっただけでも十分すぎる恩恵ではないか。これ以上、過去のことを蒸し返させるな。」 

  

酷吏 

 御史中尉の王顕が、治書侍御史の陽固へ言った。
「我が太府卿となったら、官庫は充満したぞ。卿の時と比べてどうかな?」
 すると陽固は言った。
「公は、百官の俸禄の四分の一を取り上げ、州郡の鞍に備えてあった穀物などを悉く洛陽へ移し、そうやって官庫を満たしただけではないか。『税金を搾り取る臣下よりも、禄盗人の方が余程ましだ。』と言うではないか。戒めなければならないぞ!」
 王顕はムカつき、他の事にかこつけて陽固を弾劾して罷免させた。 

  

宣武帝崩御 

 十四年、正月甲寅。宣武帝は発病し、式乾殿で崩御した。享年三十三。廟号は世宗。
 崔光、于忠、王顕、侯剛が太子の羽を東宮へ迎えに行き、顕陽殿へ連れてきた。王顕は、明るくなるのを待ってから即位の礼を行おうとしたが、崔光は言った。
「天位はしばしも空白にしてはいけない。朝を待つ必要はない!」
「いや、まず中宮へ報告しなければ。」
「帝が崩御すれば皇太子が立つ。それは国の常典ではないか。なんで中宮の命令が必要なのだ!」
 ここにおいて、崔光等は皇太子を泣き止むよう請願し、東序へ立たせた。于忠と黄門郎元昭が、太子を助けて西を向いて十余声泣いた。崔光が策を奉じて璽と綬を差し出すと、皇太子は跪いて受け、コン(天子の礼服)と冠を身につけ、太極殿にて即位した。これが孝明帝である。崔光等は当直の群臣を庭中に立て、北を向いて稽首し万歳を唱えた。
 高后は、胡貴嬪を殺そうと思った。これを知った中給事の劉騰は侯剛へ告げ、侯剛は于忠へ告げた。于忠が崔光へ智恵を求めると、崔光は胡貴嬪を隔離して、警備兵を置いて厳重に警戒させた。胡貴嬪は、この四人に深く感謝した。
 戊午、大赦を下す。己未、蜀や淮へ出向いている兵卒を呼び戻した。
 ところで、専横を極めていた高肇は、人望の高い宗室を深く忌んでいた。太子太傅の任城王澄は、屡々高肇から讒言されていたので、誅殺されることを恐れ、酒浸りの毎日を送っていた。まるで狂人のように振る舞い、朝廷での会議には関わらない。世宗が崩御した時、高肇は蜀討伐軍を手中に収めて外にいたので、人々は不安がっていた。
 孝明帝はまだ幼かったので、粛于中は門下省(侍中の管轄下にあった)と協議した結果、太保の高陽王ヨウを西柏堂に居住させて庶政を決裁させ、任城王を尚書令として百揆を総括させる事とし、その旨皇后に敕を授けて貰うよう請願した。
 王顕は、もともと世宗から寵愛されていたので、これを恃んで威張り散らし、人々から憎まれていた。彼は任城王の下では干されることを恐れ、中常侍の孫伏連と共に陰謀を巡らした。皇后の令を矯めて、高肇を録尚書事に、王顕と渤海公高猛を侍中にさせようとゆうのだ。
 これを知った于忠は、「看護の仕方が悪かった」と言い立てて王顕を捕らえ、その爵位を剥奪した。捕らわれる時、王顕は冤罪と叫んだが、直閣は構わずに彼に斬りつけて、右衛府へ送った。王顕は、翌日には死んでいた。
 庚申、詔が下った。百官は二王の下に入る事になったので、中外は悦び服した。
 二月、皇后が皇太后となった。
 孝明帝は、世宗の崩御を高肇へ伝え、彼を召還した。凶報を受けて、高肇は憂懼し、朝夕泣き続け。げっそりと憔悴しきってしまった。帰路の途中、家族が出迎えたが、高肇は見向きもしなかった。
 辛巳、高肇は闕下へやって来て、号泣した。そして、太極殿へ登って哀しみを尽くした。
 ところで、高陽王は于忠と共に密謀し、兵卒十余人を舎人省下へ伏せていた。哭が終わって高肇が西廡へ退出すると、清河王等諸王は目配せをした。高肇が舎人省へ入ると、伏兵が飛び出して、彼を絞め殺した。
 詔が下りて、高肇の罪悪が暴かれ、彼の党類は悉く誅殺の上、官爵を剥奪された。彼等は、士の礼で埋葬された。
 癸未、高陽王が太傅・領太尉、清河王が司徒、廣平王が司空となった。
 胡貴嬪は、皇太妃となった。
 三月、高太后を尼にして瑶光寺へ住まわせた。そして、大節慶以外、彼女は宮中へ入れなくなった。
 話は先走るが、十七年(518年)、天文に異変があった。これを凶兆と見た胡太后(現状の胡皇太妃)は、災いを高太后へ肩代わりさせようと考えた。こうして、高太后は急死した。尼の礼式で埋葬する。諡は順皇后。 

  

于忠 

 于忠は、侍中の上に宿衛も統べたので、朝政を専制し、その権勢は一事を傾けた。
 ところで、太和年間、戦争が続いていたので歳入が足りなくなった。この時、高祖は百官の俸禄を四分の一減らしたが、それが今までずっと続いていた。于忠はこれを従来通りに戻した。又、民へ対しても、税を払う時に絹一匹当たり八両の綿を追加で徴収していた。これは、税を輸送する費用である。同様に、布一匹当たり麻十五斤を余分に徴収されていた。于忠は、これも廃止した。
 乙丑、文武の群官は全て官位を一等進めるよう詔が下りた。 

 裴植は、王粛にも負けない才能があると自負していた。だが、魏の朝廷の処遇はそれ程高くなかったので、常に怏々としていた。遂に、隠遁を申し出たが、宣武帝は許さず、これによって彼に興味を抱いた。
 やがて裴植は尚書となったが、志気は驕慢で議論する時など、衆人の前で相手の不備をやりこめることを生き甲斐にしていた。田益宗が征南将軍となった時、上表した。
「華と夷は別の人種です。彼を衣冠の上に置いてはいけません。」
 これを聞いて、于忠も元昭も歯ぎしりして悔しがった。
 尚書左僕射の郭祚は出世して飽きず更に求め、自ら言った。
「我は東宮の師傅。封侯や儀同となっても当然ではないか。」
 そこで詔がおり、郭祚は都督ヨウ・キ・華三州諸軍事、征西将軍、ヨウ州刺史となった。
 郭祚も裴植も于忠の専横を憎み、彼を地方へ出すよう、高陽王へ密かに勧めた。これを聞いて于忠は激怒し、この二人の罪状を誣奏するよう役人へ命じた。そこで、尚書が上奏した。
「羊止が、裴植の姑の子の皇甫仲達へ言いました。『裴植から命じられたのだ。詔を受けたと偽って手勢を率い、于忠を殺せ。』と。我等が糾明しても言い逃れをしておりますが、証人は大勢居ます。これを律に照らし合わせますと、死罪です。
 この証人達は裴植から命令されたわけではありませんが、皆、言っております。『仲達は、裴植の命令でやったのだ。』と。情状の推論ですから不確かではありますので、同様に裁かず降減しても宜しいでしょうが、仲達と同罪ならば裴植も死刑となります。
 裴植は、かつて寿陽城ごと我が国へ降伏して参った者。この点も考え、御裁断願います。」
 于忠は詔を矯めて言った。
「凶悪な陰謀が既に行われた以上、その罪を恕する訳にはいかない。我が国の徳をしたって参った者とはいえ、赦すわけには行かない。秋を待って処刑せよ。」
 八月、裴植と郭祚は処刑された。
 于忠は、高陽王も殺そうとしたが、崔光が固く拒んだ。そこで、高陽王を免官にした。
 この冤罪に、人々は切歯して悔しがった。 

  

胡太后 

 丙子、胡太妃を皇太后として、祟訓宮へ住まわせた。于忠は領祟訓衛尉、劉騰は祟訓太僕、侯剛は侍中撫軍将軍となった。又、太后の父の国珍は光禄大夫となった。 

 己丑、清河王が太傅・領大尉、廣平王が太保・領司徒、任城王が司空となった。
 翌日、車騎大将軍の于忠が尚書令となり、特進の崔光が車騎大将軍となった。共に開府儀同三司となる。 

 群臣は、胡太后へ朝廷へ臨まれるよう請願した。九月、胡太后は朝廷へ臨み、麻政を聞くこととなった。太后は聡明な女性で、読書を好み文章が巧かった。政事については、自ら決裁書を書いた。
 胡国珍を侍中とし、安定公へ封じる。
 郭祚等が処刑されてから、于忠が生殺の詔を出せることが判り、王公は彼を畏れ息を潜めるようになっていた。だが、今回、太后が親政するようになり、于忠は侍中・領軍・祟訓衛尉を解任され、ただの儀同三司・尚書令となった。旬日後、太后は門下侍官(侍中から散騎常侍、侍郎まで)を祟訓宮へ呼び集めて訪ねた。
「于忠の評判はどうですか?」
 ある者が答えた。
「息が詰まってやり切れません。」
 そこで、于忠は都督冀・定・瀛三州諸軍事、征北大将軍、冀州刺史となり、司空の任城王が尚書令となった。すると、任城王は上奏した。
「安定公も禁中へ出入りさせ、大務に参与さたら宜しゅうございます。」
 詔が下りて、これに従った。 

  

于忠失脚 

 于忠が権力を振るっていた頃、彼は自分で言っていた。
「世宗陛下が、出世を約束してくれていたのだ。」
 太傅の高陽王ヨウ等は、皆、これに逆らわず、于忠に車騎大将軍を加えた。
 更に、于忠は言った。
「今上陛下の即位の時に社稷を定める大殊勲を建てたのは、この俺だ。」
 百僚は、于忠の示唆を受け、彼へ恩賞を与えるよう請願した。高陽王等は協議の上、于忠を常山郡公に封じた。
 だが、いくら于忠とはいえ、自分一人だけが公に封じられるのでは体裁が悪すぎる。そこで彼は、門下に居る者全員へ封邑を与えるよう、朝廷へ諷した。高陽王等はやむをえず、崔光を博平県公に封じた。
 この事態にあって、尚書の元昭等は、彼等の封爵を不当として訴え続けていた。そこで、太后が公卿を集めて再度審議させたところ、清河王懌が言った。
「先帝が崩御されれば、皇太子を推戴するのは臣下として当然のことで、功績とは言えません。前回、臣等が于忠へ封邑を与えたのは、彼の権勢を畏れ、諂ったに過ぎません。実に、我等が過でございます。ですが、功績によって過失を相殺させていただけるのでしたら、どうか前回の封邑を、追奪させてください。」
 崔光も又、与えられた封邑を返上したいと、十余回にわたって上奏した。太后は、これに従った。
 高陽王が、自らを弾劾した。
「臣が始めて柏堂へ入りました時、門下の独断で詔が出されている有様を見ました。この時、これがとんでも無いことだと判ってはおりましたけれども、阻止できませんでした。于忠は権力を独占し、生殺を恣に行っていましたが、臣は逆らえませんでした。そして、于忠は臣を殺そうとしました。ただ、この時はそれを拒む者が居て、どうにか難を逃れました。臣は于忠を地方へ出そうと考えましたが、ぐずついている間に、却って于忠によって廃されてしまいました。
 結局臣は、官職を与えられながら、何の職務を果たすこともなく、俸禄を盗んでいただけでした。ここにそれを自白し、どのようなお裁きもお受けいたします。」
 しかし太后は、かつて自分を守ってくれた于忠の功績を思い、不問に処した。
 十二月、于忠を太師、司州牧としたが、やがて録尚書事へ復帰させ、太傅の清河王懌、太保の廣平王懐、侍中の胡国珍と共に門下省へ入れ、庶政を執らせた。 

 十五年、二月。中尉の元匡が于忠を弾奏した。
「国の大災を幸いとして、朝命を専断した。裴植と郭祚を冤罪にて殺し、宰輔を凌辱しました。又、自ら旨を矯めて儀同三司ともなっております。これらの事は、とうてい赦されざる大罪であります。それに、赦恩もまだ出ておりません。どうか顕戮を加えて下さい。彼は今、冀州刺史として出向していますが、使者を一人派遣したら済むことです。また、世宗陛下が崩御されてから皇太后陛下が親政をなさるまでの間に、于忠が好き勝手に抜擢した官吏が大勢おります。彼等の地位も奪うべきでございます。」
 すると、胡太后は令を下した。
「于忠は、既に恩赦を蒙っている。さかのぼって罰するのは宜しくない。しかし、それ以外のことは奏上通りに行おう。」
 元匡は、侯剛も弾劾した。彼も皇后の寵を蒙り好き勝手なことをやっていたので、王公から畏れられていたのだ。
 侯剛は、封戸を三百戸削られた。
 四月、胡太后は、于忠の功績を思い出して言った。
「たった一二度の過ちで、あの功績を棄てて良いものですか!」
 こうして、于忠は霊寿県公に封じられた。ついでに、崔光も平恩県侯に封じられる。
 十七年、三月。于忠は卒した。 

  

(訳者、曰く) 

 権臣達の横暴が目に余っていた時、于烈は屹然として正しさを貫いていた。その姿は、描写していてもすがすがしいものがあった。そして、子息の于忠も、父に倣って皇帝へ忠義を尽くしていたものである。(「佞臣相争う」参照)
 それが、自ら権力の座に座ると、かくも横暴になってしまうものだろうか。まるで、前後二人の于忠がいるようではないか。