魏、北燕を滅ぼす。
 
使者、于什門 

 晋の安帝の義煕十年(414年)、八月。魏王嗣は、謁者の于什門を使者として北燕へ派遣した。
 于什門は和龍へ到着しても、王宮へ入ろうとせず、言った。
「大魏皇帝から詔を以て来た。馮王が出迎えて受け取った後でなければ、入城しないぞ。」
 だが、北燕王馮跋は、人を遣って引っ張ってこさせた。こうして、于什門は馮跋の前に連れてこられたが、拝礼しない。馮跋は、臣下へ命じて、于什門の項を押さえつけさせ、無理矢理頭を下げさせた。すると、于什門は言った。
「馮王が陛下の詔を拝受すれば、我は賓客として敬われてやろう。それを、どうしてこんなやり方をするのか!」
 馮跋は怒り、于什門を軟禁した。すると、于什門は北燕主従を散々罵ったので、側近達は彼を殺すよう請うた。だが、馮跋は言った。
「あれも、主人の為にやっているのだ。」
 そして、于什門を幽閉し、降伏させようとしたが、于什門は頑として受け付けなかった。 やがて時が経つと、于什門の衣冠はボロボロになり、シラミがわき出るようになった。そこで、馮跋は新しい衣冠を贈ってやったが、于什門は受け取らなかった。 

 十三年、劉裕が後秦を滅ぼした。 

 十四年。和龍に赤気(オーロラの一種。ただし、色は赤一色)が顕れた。燕の太史令張穆が、北燕王へ言った。
「これは、兵気です。今、魏の国力は増強していますが、我が国は魏の使者を捕らえており、それ以来、国交は断絶状態。臣は、密かに懼れるのです。」
 馮跋は言った。
「吾も気にはなっているのだ。」
 五月、魏王嗣は東巡し、甘松までやって来た。そして、征東将軍長孫道生等に二万騎の精鋭を与えて北燕を襲撃させた。又、驍騎将軍延普と幽州刺史尉諾に、幽州の兵を率いて遼西へ向かい、燕を牽制するよう命じた。魏王嗣自身は、突門嶺にて待機した。
 長孫道生等は乙連城を抜き、和龍へ進攻。そこで、燕の単于右輔古泥と戦い、これを撃破した。敵将皇甫軌を殺す。
 燕王馮跋は籠城した。魏郡はこれを攻撃したが、落とせない。そこで、国民萬余家を略奪して還った。 

  

馮跋、卒す 

 宋の文帝の元嘉三年(426年)、八月。燕の皇太子永が卒したので、次男の翼を皇太子とした。
 七年、八月。馮跋が重病となった。馮跋は、中書監申秀と侍中陽哲を内殿へ呼び寄せると、彼等へ後事を託した。
 九月、病は益々重くなった。そこで、皇太子の翼に、国事軍事を全て委ねた。
 ところで、宋夫人は自分の息子の受居を皇太子にしたかったので、翼が政権を持ったことを憎み、翼へ言った。
「陛下は重病なのです。陛下に代わって、はやく皇帝を名乗るべきです!」
 翼は仁弱な人間だったので、そう言われると世間の目を気にして東宮へ帰ってしまい、毎日三度、父親の見舞いに行くようになった。だが、宋夫人は詔を矯正して、内外を途絶した。行き来できるのは宦官のみ。翼も庶子も大臣も、謁見することができない。ただ、中給事の胡福は出入りでき、禁衛のことは、彼が専掌した。
 胡福は、宋夫人の陰謀が成就するのではないかと慮り、司徒の中山公弘(馮跋の末弟)へ告げた。馮弘は、壮士数十人を率いると、武装して禁中へ乗り込んだ。すると、宿衛達は戦いもしないで逃げ散った。
 宋夫人は東閣を閉鎖させた。しかし、馮弘の部下には庫斗頭という、武術自慢の男がいた。彼は閣を飛び越えて潜入し、皇堂へ行くと、宋夫人を射殺した。
 この騒動で、馮跋は激憤の余り崩御した。そこで、馮弘が天王の位に即き、部下に城内を巡らせて告知した。
「天が凶禍を降らせたまい、陛下は崩御なさった。皇太子は、陛下の見舞いさえしなかった。群公も喪に服しておらず、これではどんな陰謀が巡らされているか判らない。まさしく、社稷の危機である。そこで、皇帝の弟である私が、大位に即き、国家を安んじようと思う。我がもとへ駆けつける百官は、二階級特進させよう。」
 皇太子翼は、東宮の兵を率いて戦ったが、敗北し、兵は逃げ去った。弘は翼に自殺させた。馮跋には、百余人の子息が居たが、馮弘は、これら全員を殺した。
 馮跋に「文成皇帝」と諡して、長谷陵へ葬った。
 九年、春。燕王は慕容后の息子王仁を皇太子とした。 

  

魏、再び来寇す。 

 五月、魏王が南郊へ兵を集め、北燕攻撃を謀った。
 六月、魏王は燕を攻撃した。この時、太子晃を録尚書事としたが、この時晃は僅か五歳だった。又、左僕射安原と建寧王祟等を漠南へ駐屯させ、柔然へ備えた。
 七月、魏王は濡水まで進軍した。一方、安東将軍渓斤を幽州へ派遣し、幽州や密雲で民を徴発させると共に攻具も調達して和龍にて合流するよう命じた。
 魏王が遼西まで来ると、北燕王は、使者を派遣して酒や肉を献上した。
 やがて、魏王が和龍へ到着すると、燕の石城太守李祟が十郡を率いて降伏して来た。すると、魏王はそこから三万人の民を徴発し、和龍の守りを固めた。なお、李祟は李績の息子である。
 八月、燕王は数万人を率いて戦いに出たが、魏の昌黎公丘等がこれを撃退。北燕の使者は一万を数えた。
 燕の尚書高紹は、万余家を率いてキョウ胡固を保った。だが、魏王自らこれを攻撃し、高紹を斬り殺した。
 平東将軍賀多羅は帯方を攻撃し、撫軍大将軍永昌王建は建徳を攻め、驃騎大将軍楽平王丕は冀陽を攻め、全て攻略した。
 九月、魏王は西へ引き返した。この時、六郡(営丘・成周・遼東・楽浪・帯方・玄莵)の民三万家を、幽州へ強制連行した。 

 燕の尚書郭淵が、燕王へ言った。
「魏王へ美女を献上し、属国となるよう請うたらいかがでしょうか。」
 すると、燕王は言った。
「我等の怨みは、既に深くなっているのだ。弱腰になれば殺されるだけ。心を励まして守り通すしかない。」 

 魏王が和龍を包囲した時、宿衛の士が大勢戦陣へ参加し、行宮には人が少なかった。そこで、東晋の雲中鎮将の朱修之は、魏王暗殺を考えた。南朝の人間と共に魏王を暗殺し、和龍から海路で南へ帰ろうというものだ。そして、冠軍将軍毛修之へ相談したが、毛修之が賛同しなかったので、沙汰止みとなった。
 ところが、この事件が漏洩した。そこで、朱修之は北燕へ亡命した。
 燕は、魏から何度も攻撃されていた矢先だったので、燕王は宋へ救援を頼もうと、朱修之を使者として宋へ派遣した。彼は海路で東莱へ渡り、そこから建康へ還り、黄門侍郎の官職を拝受した。
 十一月、魏王は平城へ還った。 

  

馮祟、魏へ降る 

 当初、馮弘の嫡妃は王氏だった。彼女は長楽公祟を生んだ。祟は、兄弟では最も年長である。だが、馮弘は、即位すると慕容氏を皇后に立て、祟も肥如の鎮守へ出されてしまった。
 ある時、祟の同母弟の廣平公朗と楽陵公貌が相談した。
「我が国が、もう長くないことは、馬鹿でも判る。それに、王は慕容后の讒言を信じ込み、我等を死地へ送り込むつもりだ。」
 そこで、二人して都を逃げ出して遼西へ行き、魏へ降伏するよう馮祟を説得した。馮祟はこれに同意した。
 そうこうするうち、魏王が使者を派遣して馮祟を招いたので、十二月、長楽公祟は郡を挙げて魏へ降伏することを申し入れた。
 これを聞いた燕王は、将軍封羽を派遣して、遼西にて長楽公祟を包囲した。
 十年、正月。魏王は永昌王健を派遣して、遼西を救援した。
 二月、魏王は、馮祟を車騎大将軍として、遼西王に封じ、遼西の十郡を、その食邑とした。 

  

講和の条件 

 六月、魏の永昌王健と左僕射安原が諸軍を都督して和龍を攻撃した。
 将軍樓勃は、別働隊として五千騎を率いて凡城を包囲した。すると、守将の封羽が、凡城ごと降伏したので、樓勃は住民三千余家を連行して還った。
 十一年、正月。馮跋は魏へ講和を求めたが、聞かれなかった。
 閏三月、燕王は尚書高顆を使者として派遣し、属国となることと、娘を後宮へ差し出すことを申し出、魏王はこれを許した。そして、燕の太子王仁を入朝させるよう言った。
 今回の講和で、北燕は、魏の使者于什門を本国へ送り返した。
 于什門は燕に幽閉されること二十一年。しかし、最後まで節義を曲げなかった。魏王は詔を下して褒称し、その人格を蘇武と並べた。そして、この事件を宗廟へ告げ、天下へも告知した。
 だが、北燕王は、結局太子を人質に出さなかった。すると、散騎常侍の劉滋が言った。
「昔、重山の険を持つ劉禅も、長江に阻まれた孫晧も、皆、晋に滅ぼされてしまいました。何故です?それは、強弱の勢が違ったからです。今、我々はかつての呉や蜀よりも弱く、魏はかつての晋よりも強力です。服従しなかったら、滅ぼされるだけではありませんか。どうか、太子を速やかに人質として差し出し、その傍ら、政治を引き締め百姓を慰撫し、離散した人心を繋ぎ止め飢えた民を救済し、農桑を奨励し、賦役を省かれますよう。そうすれば、どうにか社稷も保たれましょう。」
 燕王は怒り、劉滋を殺した。
 六月、魏は永昌王健に燕を攻撃させた。健は、燕の稔りと民を略奪して帰った。 

  

魏、四度来寇す。 

 十二年、正月。北燕王は、魏の悪行を数え上げ、宋へ使者を派遣すると、属国となることを申し入れた。そこで宋は、これを正式に燕王に封じた。江南では、この国を「黄龍国」と呼んだ。(北国で、首都が和龍だから)
 三月、燕王は魏へ使者を派遣して入貢した。そして、太子については病気で派遣できないと言い訳した。
 四月、燕王の使者が宋へ来て、援軍を要請した。
 六月、魏王は驃騎大将軍楽平王丕と鎮東大将軍屈垣等に四万騎を与えて、北燕を攻撃させた。
 七月、魏軍が和龍へ到着した。燕王は、肉や酒を振る舞ってこれをねぎらい、甲三千を献上した。だが、屈垣は、太子を人質に出さなかったことを詰り、男女六千人を略奪して帰った。
 魏から屡々攻撃され、燕の国威は日々衰え、君臣共に憂慮していた。十一月、太常楊岷が、再び、太子を人質として差し出すよう燕王へ勧めたが、燕王は言った。
「どうしても忍びないのだ。いよいよとなったら、高麗を頼って再起を図ろう。」
 だが、楊岷は言った。
「魏は天下を挙げて一隅を攻撃するのです。勝てないはずがありません。高麗が信じられますか?始めは親しんでくれても、最後には我等を見捨てるでしょう。」
 燕王は聞かず、尚書の陽伊を密かに高麗へ派遣し、高麗への亡命を打診した。 

  

北燕滅亡 

 十三年、二月。燕王は、魏へ使者を派遣して、入貢した。そして、太子の人質の件は、しばらく待ってくれるように頼んだが、魏王は、もはやそれを信じなかった。魏王は討伐を決定すると共に、高句麗等諸国へ使者を派遣した。(燕へ加担しないよう通達したのか、亡命者を拒否するように通達したのか?詳しい内容は記載されていない。)
 二月、魏の平東将軍娥清、安西将軍古弼が一万の精騎を率いて、燕討伐に出動した。また、平州刺史の拓跋嬰が、遼西の諸軍を率いて、これに合流した。
 四月、魏軍は燕の白狼城を攻撃して、これに勝った。
 高麗王は、燕王を自国へ迎え入れる為、葛孟光へ数万の兵を与えて燕の使者陽伊と共に派遣していたが、この頃、その軍が和龍へ到着し、和龍城の東へ駐屯した。
 燕の尚書令郭生は、民が移住を嫌がっていたので、遂に魏軍を城内へ導くことを決意し、城門を開いた。だが、魏兵は罠かと疑い、入城しなかった。そこで、郭生は兵を指揮して燕王を攻撃した。燕王は東門から高麗軍を引き入れ、闕下にて郭生と戦った。郭生は、流れ矢に当たって死んだ。
 入城した高麗軍は、自分たちの使い古した武器を棄て、燕の武器庫から頑丈な武器を奪った。そして、城内で大いに略奪を働いた。
 五月、燕王は龍城の住民を率いて東へ逃げた。この時、宮殿へ火を放ったが、その火は十日間に亘って燃え続けた。婦人にも武装させ、その周りを陽伊率いる精鋭兵が護衛し、葛孟光の軍は殿となった。この一行は、前後八十里も続いた。
 古弼の部下に高苟子とゆう部将が居た。彼は後を追おうとしたが、酔っぱらった古弼が刀を抜いて止めた為、燕王は逃げることができた。これを聞て魏王は怒り、娥清と古弼を檻車で平城まで連行させて、一兵卒まで降格した。
 戊午、魏王は高麗へ使者を派遣し、燕王の引き渡しを要求した。
 九月、高麗は燕王を引き渡さず、魏へ使者を派遣して言った。
「我等も、馮弘と共に、陛下へ仕えとうございます。」
 魏王は、高麗攻撃を考え、隴右の騎兵を動かそうとしたが、劉契が言った。
「秦や隴は征服したばかり。まずこれを慰撫して、彼等が豊かになり我々に懐くまで待ってからでないと使えません。」
 楽平王丕も言った。
「和龍も攻略したばかりでございます。まず、この地方で農桑を奨励し、民が豊かになり軍事物資が溢れたならば、その時こそ進取するべきでございます。そうなれば、たかが高麗など、一挙に殲滅できましょう。」
 そこで、魏王は思いとどまった。 

  

馮弘の最期 

 燕王が亡命して来た時、高麗王連は使者を派遣してねぎらった。
「龍王馮君、野宿続きで疲れただろう。」
 馮弘はむかついた。
 高麗王は、彼等を平郭へ住ませたが、やがて北豊へ移した。
 馮弘は、もともと高麗人を軽蔑しており、政刑賞罰は、全て自国にいたときのように行っていた。ところが、高麗人は馮弘の侍人を奪い、太子の王仁まで人質としてしまった。
 馮弘は怨み、宋へ亡命を打診した。
 十五年、宋では王白駒を使者として高麗へ派遣して、馮弘を迎え入れようとしたが、高麗王はこれを望まなかった。
 高麗王は北豊へ人を派遣して、馮弘を殺した。「昭成皇帝」と諡する。
 王白駒は、七千の兵を率いており、馮弘を殺した人間を討ち果たした。高麗王は、王白駒等が、自分の部下を殺したとして、宋の文帝を詰った。文帝は、遠国のことでもあり、余り事を構えたくなかったので、王白駒を牢獄へぶち込んだが、しばらくして釈放した。