北周、北斉を滅ぼす   1.平陽陥落
 
北斉の後主 

 北斉の後主は、どもりの気があって、狎れ親しんで小人以外とは、余り喋らなかった。性格はグズで、人から見られることを嫌った。だから、三公や尚書令、録尚書事でさえも後主を仰ぎ見ることはできず、指示を受けたら逃げるように退出していた。
 また、後主は、世租の頃の豪奢な風潮を受け継ぎ、贅沢するのが帝王として当然だと考えていた。後宮の女性達は、皆、宝の衣を着て、宝石を食べているようなもの。一着の着物の代価は、万匹にも値した。衣服類は、競うように巧緻を凝らされてゆく。宮殿も、盛大に造られた。それらは壮麗を極めて造られたが、好みが変わる度に壊して作り直される有様だった。百工土木は休む暇もなく、夜になっても篝火の中で造らされ、寒い時にはお湯で泥をこねた。晋陽の西山に大像を鋳造した時には、宮中を照らす為に、一晩で万盆の油が燃やされた。災害や変異が起こっても、食膳を減らすことはなく、ただ寺院への寄進を行って、徳を修めたと称した。
 自ら琵琶を弾く事を好み、「無愁の曲」を作った。すると、近侍が百人以上も、これに和した。それで、民間から「無愁天子」と呼ばれた。
 後主は又、いろいろな遊びをして楽しんだ。たとえば、華林園に貧児村を造り、後主はボロボロの服を着て乞食をして回った。又、西鄙の諸城を模倣した城を造り、人々に黒衣を着させて、これを攻撃させる。そして後主は、内参を指揮して、これを守るのである。
 陸令萓、穆提婆、高阿那肱、韓長鸞等を寵用し、朝政を専断させた。宦官の陳徳信、胡人の何洪珍等が機権に参与し、各々党類を引き立てて出世させた。官位も裁判も賄賂次第。彼等は競って姦諂を為し、政治を腐らせ民を害した。
 かつての蒼頭の劉桃枝等は、皆、開府となって王に封じられ、その他の宦官、胡児、官奴婢等で高官へ昇った者は一万を数えた。庶姓で王となった者が百人を越え、開府は千余人、儀同となったら数え切れなかった。一時は、領軍が二十人、侍中・中常侍は数十人おり、果ては狗、馬、鷹へ儀同、郡君の号を与えたり、闘鶏を開府にしたりした。そして、それぞれが規定の碌を食んでいた。
 大勢の太鼓持ちが朝夕左右に侍り、一回の戯れに巨万の金が動いた。
 こうして、府蔵は空っぽになった。そうしたら、二三郡や六七県を賜下し、これを官吏へ売って金に換えるよう指示した。以来、郡太守や県令は、大商人達が独占した。彼等は元を取るために貪欲に稼ぐ。しわ寄せは全て庶民へ行った。 

  

討斉諸謀 

 北周の武帝は、北斉討伐を謀り、辺将へ兵糧を蓄えさせ、兵卒を増員した。北斉はこれを知り、守備を厳重にした。そこで、柱国の于翼が武帝へ言った。
「力尽くの侵略で互いに勝ったり負けたりするのでは兵力の損失が測り知れません。ここは一旦軍備を解いて、修好しましょう。それで彼等が怠って防備を解いた時、その隙に乗じて攻撃するのです。一戦で奴等を滅ぼしてしまいましょう。」
 武帝は、これに従った。
 太建七年、(575年)。韋孝寛が、三策を献上した。
「臣は長年辺境におり、敵の隙を窺っていますが、やはり、戦争で勝つ為には機会を得なければなりません。かつて、我が軍は出征しましたが、勝利を得ることができませんでした。これは、機会を失っていたからです。
 淮河の南は、肥沃な土地です。それなのに、わずかに余命を長らえた陳氏がここを攻撃すれば、一挙に平定してしまいました。北斉の兵卒達は、数年の激戦の後、敗北して帰ってきたのです。(太建五〜六年。「宣帝、北斉を討つ」参照。)今、北斉は内は乱れ外は造反し、計略は出し尽くして力は尽きております。これこそ、仇敵の隙、失ってはなりません。
 今、もしも大軍で進軍し、陳氏が呼応し、廣州で義軍を呼びかけ、山南の驍鋭を募兵し、北山の稽胡にヘイ、晋の道を閉ざさせたら、どうなるでしょうか。一戎を滅ぼすのは、この一挙にあります。」
 その二、
「もしも、国家が後々まで考えるのなら、大挙して北斉を攻めるより、陳と連合するべきです。萬春以南に広く屯田し、兵糧を蓄え驍勇を募って隊伍を整える。そして、北斉が陳と対峙した時を見計らい、我等が奇襲するのです。それで奴等が大軍を動員したら、我等は野原を焼き払って退却し、援軍が帰っていったら再び襲撃を掛けます。そうやって奴等を疲れさせれば、一・二年のうちに必ず北斉はバラバラになります。それに、北斉の主は昏迷暴虐、出世はコネ次第、裁判は金次第といった有様。目先の利益が全てに優先し、酒と女に溺れ、忠良を害する。その馬鹿さ加減は、数え上げたらキリがありません。これを観るに、放って置いても自滅します。その後、全てを奪い去ればよいのです。」
 その三、
「昔、越王句踐は、呉を滅ぼすのに十年の年月を費やしました。周の武王は紂を滅ぼすのに再挙を厭いませんでした。今、国力の増大を思うなら、今暫くの時を待ちましょう。その間に隣国とよしみを結び、民を安んじ商工を育成し、志気を養い、敵の隙を見計らって動くのです。」
 この書を読んだ武帝は、開府儀同三司の伊婁謙を呼び付けて、言った。
「朕は戦争をしようと思うが、真っ先に何をすれば良いかな?」
「斉主の暴虐ぶりは、あきれ果てたもの。名将の斛律光を讒言によって殺しました。上下の心は離間しており、民は道路で主君への憎悪を目くばせして伝えあっています。そんな国を滅ぼすなど、容易いことです。」
 武帝は大笑いした。
 三月、伊婁謙と小司寇の元衛を斉へ使者として派遣し、その隙を窺わせた。 

  

北斉討伐 

 武帝は、斉王や内史王諠と共に、北斉討伐の計略を練っていた。又、安州へ使者を出し、安州総管の于翼にも諮問していたが、この事は、それ以外の誰も知らなかった。
 七月、大将軍以上の人間を大徳殿へ呼び集め、始めてこれを告げた。
 丁丑、北斉討伐の詔を下した。柱国陳王純、栄陽公司馬消難、鄭公達奚震を前三軍総管とし、昌公候莫陳祟、趙王招を後三軍総管とするた。斉王憲は二万の兵を率いて黎陽へ向かい、隋公楊堅、廣寧公薛迥は水軍三万を率いて渭水から黄河へ出た。梁公侯莫陳丙は二万の兵力で太行道を守り、李穆は三万の兵力で河陽道を守り、于翼は二万の兵力で陳、汝へ向かった。
 武帝自身は河陽へ出向こうとした。その先には洛陽がある。すると、内史上士の宇文ヒツ(「弓/弓/攵」)が言った。
「北斉は建国以来、数代続いております。今の主君が無道とはいえ藩鎮の守将には、まだまだ人材が残っています。ですから、今、陛下が出陣するに当たって、場所を考えなければなりません。
 河陽は要衝で、敵も精鋭を揃えています。力攻めでは、なかなか落とせません。臣の見るところ、攻略しやすいのは汾曲です。あそこは小高い丘で、険阻な地形もありません。まず、ここを攻めましょう。」
 民部中大夫趙巨が言った。
「河南と洛陽は、四方を敵に囲まれています。これを攻略しても、守り通すことができません。まず、河北へ向かって、敵の首都の太原を直接攻撃しましょう。巣穴を覆せば、一挙に平定できます。」
 遂伯大夫の鮑宏は言った。
「我等は強国で、北斉は弱小です。勝つに決まってますぞ!ただ、先帝(宇文泰)は屡々洛陽を攻撃しましたので、ここの守備は厳重です。臣が思いますに、汾・路方面から直接晋陽へ出て、敵の不備を衝くのです。これこそ上策です。」
 しかし武帝は、これらに従わなかった。
 壬午、武帝は六万を率いて洛陽を攻略するべく河陰へ向かった。楊素は、父親の麾下を率いて先鋒となることを願い出て、受諾された。
 八月、北周軍は国境を越えた。兵卒へ対して、樹木の伐採や略奪を禁じ、犯す者は斬る。
 丁未、武帝は河陰大城を攻撃し、落とす。
 斉王憲は武済を抜く。更に進んで洛口を包囲し、東西の二城を抜いた。そして、浮き橋を焼き払った。
 北斉の永橋大都督傅伏は、夜半、永橋から中単城へ入城した。北周は南城を落として中単を包囲したが、二十日経っても落ちなかった。(河陽には、南・北・中単の三城があった。)
 北斉の洛州刺史独孤永業は金ヨウを守る。武帝はこれを攻撃したが、落とせなかった。
 九月、北斉の高阿那肱が晋陽から救援に来た。対して北周軍は、武帝が病気になったので、退却した。河水は急流で、船に乗ったままでは西へ帰るのに時間がかかる。そこで北周軍は、水軍の軍艦を焼き払った。
 傅伏は、北斉の行台乞伏貴和へ追撃を願い出たが、却下された。
 斉王憲、于翼、李穆は向かうところ敵なし。攻略したり降伏してきた城は、三十余城を数えた。しかし、これらも全て守らずに棄てて帰った。ただ、王薬城だけは要害なので、儀同三司韓正へ守らせていた。すると、韓正は城ごと北斉へ降伏した。 

(訳者、曰く。)前々年、陳が北斉を攻撃した時には、攻略した城も降伏した城も全て、城名が明記されていたし、攻略した将軍の名前も克明に記されていた。それで大勝利のように思えたが、あの城を全て合わせても三十あっただろうか?対して、北周の場合は、三十余城と、一言で済ませている。資治通鑑は、やはり南朝の活躍には熱が入ったのだろう。
 ただ、陳の場合、淮河から揚子江へ至る一帯を全て攻略したが、今回、北周はどれほどの領土へ攻め込んだのだろうか?どうも、北斉の防備は対北周の方が厳重だったようだ。 

  

再挙 

 八年、九月。北周の武帝が群臣へ言った。
「去年は、朕の病気のせいで仇敵を滅ぼせなかったが、その折、敵の軍隊を見た。ほとんど子供の戯れに等しい。ましてや、奴等の主君は昏迷で朝廷は乱れ、小人達が政治を執り、百姓は傲然としている。天の与えたるを取らなければ、後悔を遺すことになる。
 前回は河外へ出陣して、敵の背を討ったが、まだ喉を締め上げるところまでは至らなかった。晋州は、高歓が決起した場所で、北斉の重鎮である。今、ここを攻撃すれば、奴らは必ず援軍を出す。そうなれば、我等はゆっくりと敵の来るのを待ち受ければよい。必ず勝てる。その後、勝ちに乗じて東へ進み、敵の巣穴を滅ぼすのだ。」
 だが、諸将の大半は従軍を願わなかった。武帝は言った。
「好機は失ってはならない。進軍を阻む者は軍法で裁く!」
 十月、武帝は出陣した。
 晋州へ入ると、汾曲に陣営し、斉王憲へ二万の兵を与えて雀鼠谷を守らせた。内史王諠が諸軍を監督して平陽城を攻める。北斉の行台海昌王尉相貴は、城を閉じて守った。
 甲子、北斉の諸軍が晋祠へ集結した。庚午、北斉の後主が晋陽から諸軍を率いて晋州へ向かった。
 同日、北斉の行台左丞侯子欽が北周へ降伏した。やがて、北城を守る晋州刺史崔景嵩が、夜半に内応の使者を出した。王軌がこれに応じて攻撃する。未明、北周軍が攻撃すると、崔景嵩は尉相貴へ斬りかかった。北斉軍は乱れて、遂に晋州は落ちた。尉相貴及び武装兵八千人を捕らえる。
 北周は、開府儀同大将軍梁士彦を晋州刺史として、一万の兵力で鎮守させた。
 その日、北斉の後主は、潘叔妃と共に天池で狩猟に興じていた。晋州からは、急を告げる使者が相継ぎ、午前中だけでも三回は早馬が届いた。だが、右丞相の高阿那肱は言った。
「陛下は、ただ今興じておられる。辺境で微々たる戦闘が起こるのは、常のこと。早馬を使うほどの事か!」
 暮れになって、到着した使者が言った。
「平陽が、陥落いたしました。」
 報告を受けて、後主は帰ろうとしたが、潘叔妃は言った。
「もう一囲み、狩猟を楽しみとうございます。」
 後主は、それにつき合った。 

 北周の斉王憲は洪洞、永安の二城を攻略して、更に前進した。すると北斉軍は橋を焼き払い険阻な地形に陣取ったので、進軍できなくなった。そこで、永安へ戻った。永昌公椿へ、鶏栖原を守らせる。
 後主は、一万人を別働隊として千里徑へ派遣し、別の一隊は汾水関へ向かわせ、自らは大軍を率いて鶏栖原へ進んだ。北周の宇文盛が、使者を派遣して急を告げたると、斉王憲が自ら救援へ赴いた。北斉軍が退却したので、斉王憲は追撃を掛けて、これを撃破した。すると、永昌公から”敵軍迫る”との報告が来たので、斉王憲は引き返した。 

  

平陽攻防 

 十一月、後主は平陽へ到着した。彼等は新手で、対する北周の兵卒達は戦争で疲弊している。武帝は、盛大に軍鼓を鳴らして虚勢を張り、そうやって敵を牽制している間に西へ戻ろうとした。すると、開府儀同大将軍宇文忻が言った。
「陛下の聖武で、敵方の悪逆に乗じるのです。必ず勝てます!もしも斉の主君が立派な人間に変わり、君臣が一致団結したならば、湯王や武王の軍隊でもしかし、今、北斉の主君は暗愚で、兵卒に戦意はありません。たとえ敵方が百万でも、捕虜を連れてきたようなものです。」
 軍正の王絋が言った。
「斉の国政は、既に累世に亘って綱紀が乱れています。天は周室へ味方して、一戦にして敵の喉を締め上げさせようとしてくださったのです。乱国を滅ぼすのは、まさに今日この日です。それなのに、これを棄てて去られるのですか?臣には理解できません。」
 武帝は、その言葉を正しいと思いながらも、退却した。
 武帝は、斉王憲を殿とした。北斉軍が追撃してきたので、斉王は宇文忻と共に各々百騎を率いて戦った。北斉軍は、驍将賀蘭豹子等を斬られ、退却する。
 斉軍は、そのまま平陽を包囲した。昼となく夜となく攻め続け、平陽城は落城寸前。しかも、援軍も来ない。
 梁士彦は、自若として将士へ言った。
「今日こそ、死に時。我が先に行こう。」
 すると、豪傑達は一斉に奮い立ち、その吼え声は地を揺るがした。そして、奮起した彼等は、一人で敵の百人と戦った。斉軍は、閉口して少し退却する。すると、梁士彦は、軍民婦女総動員で城を補修した。その工事は昼夜なしに続けられ、三日後には、城は完成した。
 武帝は、斉王憲へ六万の兵を与えて束川へ屯営させ、北斉軍を牽制した。
 北斉軍は、地下道を掘って平陽城を攻めた。その地下道のおかげで、城壁が十余歩も陥没した。北斉の将士は、それに乗じて攻め入ろうとした。ところが、後主は攻撃中止の敕を出し、潘叔妃を呼んだ。彼女と共に落城の瞬間を見物しようと思ったのだ。召しを受けた潘叔妃は、入念に化粧し丁寧に着飾ったので、やって来るまでずいぶんと時間がかかった。その間に、城では木を組んで拒んだので、結局平陽城を落とせなかった。
 さて、晋州城の西石の上には聖人の跡があると言い伝えられていた。ある時、潘叔妃がそれを見物したいとおねだりした。後主は妃が橋を渡る時に弓矢へ当たることを心配した。そこで、城攻の道具を解体してその材木で橋を囲った。潘叔妃の見物が済むと、囲いを撤去して、それで再び攻具を造った。 

  

平陽陥落 

 武帝は、一旦長安へ帰ったが、再び晋州救援の軍を起こした。
 十二月、斉王憲を、平陽へ先発させる。戊申、武帝が平陽へ到着した。庚戌、北周の諸軍が集結した。総勢八万。城の近くで陣を布いた。それは、東西二十余里にも連なった。
 北斉軍は、北周の援軍を恐れ、城の南へ壕を掘った。それは、喬山から、汾水まで連なった。後主は、大軍を繰り出して、壕の北へ陣を築いた。
 武帝は、斉王憲へ、敵の陣を偵察させた。すると、斉王は復命した。
「奴等を破るなど、朝飯前です。」
 武帝は悦んだ。
 武帝は、いつもの馬に乗り、数人を率いて陣を巡回し、至る所でその主帥の姓名を呼んで励ました。将士は皆喜び、奮戦を誓った。
 戦闘が近づくと、ある者が馬を交換するよう請うたが、武帝は言った。
「朕一人良馬に乗って、何を求めるのか!」
 一方、北斉の後主は、高阿那肱へ言った。
「戦うべきか?どうだろうか?」
 高阿那肱は答えた。
「我等の方が兵力が多いとは言え、実際に戦える兵は十万程度。病傷者や城へ対する兵で三分の一は裂かれています。昔、神武皇帝(高歓)が玉璧を攻撃した時でさえ、敵に援軍が来たら退却しました。今日の将士が、あの頃の将士に勝てましょうか!戦わずに退却し、高梁橋を守るべきです。」
 すると、安吐根が言った。
「多寡の知れた賊徒ども、ひっつかまえて汾水へぶち込んでやる。」
 後主は、どうするか決めかねていた。すると、皆は言った。
「奴が天子なら、陛下も天子。奴等が攻めてきたのに、我等が壕を守るなど、弱気なことができますか!」
 後主は言った。
「そのりだ。」
 そこで、壕を埋めて南へ陣を布いた。北周の武帝は大いに喜んで、攻撃させた。
 合戦が始まると、後主は潘叔妃と並んで観戦した。東の軍が少し押され気味になると、潘叔妃は恐がって言った。
「私達の負けですわ!」
 穆提婆も言った。
「陛下、お逃げください!お逃げください!」
 後主は潘叔妃と共に高梁橋まで逃げた。すると、開府儀同三司奚長が、諫めて言った。
「一進一退は戦の常です。我が軍はまだ支えております。それを見捨てて安全なところへ逃げられますのか!陛下の一挙一動を、将士達は見ておりますぞ。志気が乱れたら、立て直しようがありません。どうか速やかに戻って将士を激励してください。」
 武衛の張常山が後からやってきて言った。
「我が軍は、良く戦っております。包囲された平陽の敵兵も動いてはおりません。臣の言葉が信じられなければ、様子を見に誰ぞ派遣されてください。」
 後主はそれに従おうとしたが、穆提婆が後主の肘を引張って言った。
「あんなもの、嘘っぱちです。」
 遂に、後主は潘叔妃と共に逃げた。
 北斉軍は大敗して、使者は一万を越えた。棄てられた軍資器械は、数百里の間に山と積まれていた。ただ、安徳王延宗の軍のみ、無傷で退却してきた。
 辛亥、武帝は平陽へ入城した。梁士彦は、武帝へ縋り付いて泣いた。
「もう、陛下に二度とお会いできないと思っておりました!」
 武帝も貰い泣きした。
 武帝は、兵卒達が疲れているのでこのまま引き返そうとしたが、梁士彦は馬を叩いて諫めた。
「今、北斉の軍は散り散りに逃げており、兵卒達は怯えきっています。追撃すれば、必ず勝てます!」
 武帝はこれに従った。
 諸将達は西へ帰るよう固く請うたが、武帝は言った。
「今逃がしたら、後々の患となる。卿等が信じないのなら、朕一人でも行く。」
 そこまで言われて、諸将は従った。
 癸丑、北周軍は汾水関まで到達した。 

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