廃帝の乱   廃帝の昏虐
 
廃帝即位 

 宋の孝武帝の大明八年(464年)、孝武帝は玉燭殿で崩御した。その遺詔に曰わく、
「太宰の義恭は、尚書令を解任し、中書監を加える。驃騎将軍柳元景を尚書令として、台城内に居住させよ。天下のことは、大小に関わらず、この二公と相談せよ。又、重大事件に関しては、始興公沈慶之にも関与させ、戦争のことは沈慶之へ一任せよ。朝廷のことは僕射の顔師伯へ、地方官の統率は領軍将軍王玄謨へ委ねよ。」
 この日、皇太子が即位した。御年十六歳。大赦が下される。(後に廃されるので、この皇帝を便宜上、「廃帝」と呼ぶ)
 即位の式典では、吏部尚書の蔡興宗が璽綬を奉じ、太子がこれを受けた。その時、太子はふんぞり返っており、哀しげな想いなど欠片もなかった。
 蔡興宗は、退出すると知人へ言った。
「昔、魯の昭公は、父親の喪の最中にも全く哀しまなかった。それを見て、叔孫穆子は、昭公がまともな死に方はできないと知った。我が国にも禍が起こるぞ!」 

  

硬骨漢 

 七月、南北二馳道を廃止し、孝建以来の制度は、全て元嘉時代のそれに復旧させた。
 蔡興宗が都堂(多分、尚書達が政務を執る場所でしょう)にて、顔師伯へ食ってかかった。
「先帝は盛徳の主君ではなかったかも知れないが、要点だけは押さえておられた。それに、主君が崩御した後、三年間はそのやり方を変えないのが、『論語』の教えでもある。今、もがりが漸く終わったばかり。先帝の御遺体は、まだ山陵へ葬ってもいないのに、全ての制度を、その是非を論じる事さえもなく、全て削り去るとは何たることか!天下の識者達は、朝廷へ対して疑いの目を向けるぞ!」
 だが、顔師伯は従わなかった。
 義恭は、もともと戴法興と巣尚之(孝武帝の近習。「孝武帝の治世」の「賄賂横行」参照)等を畏れており、輔政の遺詔を受けながら、身を退いて事を避けていた。それで、政権は近習へ移ってしまった。戴法興等は朝廷の権力を専制し、その威勢は近遠へ振るい、詔勅も彼等の手から出された。尚書は大小となく彼等の決裁を採り、義恭と顔師伯は虚名を守るだけとなった。
 蔡興宗は吏部尚書という立場上、朝廷へ上るたびに賢人の推挙や法律の得失、朝政等について博く論議した。義恭は臆病者で、戴法興へおもねってばかりで彼の機嫌を損ねないよう恐々としていたので、蔡興宗が何か言う度に震え上がって返答もしなかった。彼の発案については、戴法興や巣尚之が添削して返答した。
 蔡興宗は朝堂で義恭と顔師伯へ言った。
「陛下は暗愚で、万機を人任せ。献策された事については、検討の過程を公表もしないで、結果だけ突き返している。これでは、その回答が陛下の意向かどうかも判らないではないか!」
 義恭も戴法興も立腹し、蔡興宗を新昌の太守へ左遷した。だが、蔡興宗は人望があったので、程なく建康へ呼び戻した。 

  

王太后憤死 

 八月、王太后の病状が重くなり、彼女は病床から廃帝を呼んだ。すると、廃帝は答えた。
「病人の周りには鬼が多い。そんな所へ行けるか!」
 王太后は激怒して、侍者へ言った。
「刀を持ってきて、我が腹を切り裂いておくれ!あの畜生は、ここから生まれたんだから!」
 同月、王太后は崩御した。 

 この年、宋の境内には、二十二州、二百七十四郡があった。県の数は千二百九十九、戸数は九十四万余である。
 東方諸郡は、飢饉が続き、米一升が銭数百まで値上がりした。建康でも百余銭で、六・七割の人間が餓死した。 

 翌年、廃帝は、永光と改元し、大赦を下した。(この年、明帝が即位して、泰始と改元。永光元年=泰始元年=465年である。) 

  

戴法興 

 廃帝は、幼い頃から度量が狭く、横暴だった。即位した当初は、まだ太后がおり、大臣や戴法興等を憚って少しは自重していた。やがて太后は崩御し、皇帝も少しづつ成長する。だが、廃帝が何かやりたがると、戴法興はこれを抑制して廃帝へ言った。
「そのようなことをして、営陽王のようになりたいのですか!」(劉裕の長男。一旦即位したが、行いが悪すぎたので、在位一年で大臣達から殺され、帝号も与えられなかった。後世では「少帝」とも呼ばれる。・・・これって、「殺されたいのか?」と脅しつけているのですね。臣下が皇帝へ言う台詞ではない。)
 廃帝は不満がたまって行った。
 廃帝は、宦官の華願児を寵用し、多くの財宝を惜しげもなく与えたが、戴法興は常にそれらを減らした。それで華願児も、戴法興を憎んだ。それで、廃帝から庶民の様子を見て来るよう命じられた時、華願児は廃帝へ答えた。
「道行く人々は、皆、言っております。『宮中には二人の天子がいる。戴法興は真の天子。陛下は贋の天子』それに、陛下は深宮に住んでおり、殆ど人と接しません。それに引き替え戴法興と太宰(義恭)、顔、柳は一体となり、彼等の許へ出入りする客人は数百人。内外の士も庶民も、一人残らず畏服しています。又、戴法興は孝武帝の近習として長い間朝廷にいました。彼等が力を合わせれば、この座を奪われてしまうでしょう。」
 遂に、廃帝は詔を発して戴法興を罷免し、領地を没収した上、遠郡へ流した。
 八月、戴法興へ死を賜り、巣尚之を解任した。
 員外散騎侍郎の渓顕度もまた、孝武帝から寵用されていた。労役の監督が職務であり、民を苛虐にこき使っていた。労役の途中で死んでしまう人間も大勢おり、民は皆、これに苦しんでいた。そこで、廃帝は常に戯れに言っていた。
「渓顕度は、民の患いとなっている。これは取り除くべきだ。」
 左右もこれに賛成したので、旨を述べて殺した。 

  

皇帝暗殺計画 

 顔師伯は、尚書右僕射、領衛尉卿、丹陽尹を兼任していた。権力を得て久しく、いつのまにか傲慢豪奢放埒になっていた。廃帝は親政をしたがったので、顔師伯を尚書右僕射とし、卿と尹を解任した。そして吏部尚書の王イクを右僕射として、権力を分散させた。顔師伯は始めて懼れた。
 さて、孝武帝は猜忌心が強く、王公大臣は息を潜めるようにして、妄りに集まることもできなかった。孝武帝が死ぬと、太宰の義恭等は皆、相賀して言った。
「これで横死を免れた。」
 孝武帝を葬った時も、義恭と柳元景、顔師伯等は宴会を開いてどんちゃん騒ぎ。廃帝は内心穏やかではなかった。
 それが、戴法興が殺されたので諸大臣は震え上がり、各々不安になった。
 此処に於いて、柳元景と顔師伯は皇帝を廃立して義恭を立てようと謀り、日夜集まってたくらんだが、ぐずついて決断できなかった。
 柳元景は、この謀を沈慶之へ告げた。だが、沈慶之は、もともと義恭とは親密ではなかった。又、顔師伯は常に朝政を専断し、沈慶之のことは、殆ど無視していた。ある時、顔師伯は令史へ言った。
「沈慶之は、単なる爪牙だ。なんで政治に参与させられるか!」
 沈慶之はこれを怨んでいたので、陰謀を暴露した。
 癸酉、廃帝は自ら羽林兵を率いて義恭と彼の四人の息子を殺した。義恭の体をバラバラにし、腸と胃をズタズタにして、眼球を取り出すと蜂蜜漬けにした。
 柳元景のもとへは別の人間を派遣し、詔召と称したが、その後には武装兵が続いた。左右が柳元景のもとへ駆け込んで言った。
「兵刃が迫っております。」
 柳元景は、禍が来たことを知り、母親に別れを告げると、朝服を着込んで車に乗り、召しに応じた。
 弟の、車騎司馬柳叔仁は、戎服を着、左右の壮士を率いて命令を拒もうとしたが、柳元景は必死で是を説得して止めさせた。
 巷を出ると、大軍がやってきた。柳元景は車を降りると戮を受けたが、その姿は落ち着いたものだった。彼の八人の子供と六人の弟、及び諸姪達も殺された。
 顔師伯は、道で捕らえて殺した。六人の息子達も殺された。
 廃帝は、東宮に居る頃、過失が多く、孝武帝は廃嫡して新安王子鸞を立てようと考えたこともあった。その時、侍中の袁豈(豈/頁)が盛んに言った。
「太子は学問好きで、日々成長しております。」
 それで、孝武帝は思いとどまった。これによって、廃帝は袁豈に恩義を感じていた。今回、群公を粛清したので、彼を引き立てて朝政を任せようと考え、吏部尚書に抜擢した。徐援等は義恭討伐の功績で、県子爵の爵位を賜った。 

  

この兄にして・・・ 

 山陰公主は皇帝の妹で、既に結婚していたが、淫乱な性格で、いつも廃帝へ言っていた。
「妾と陛下は、男女の違いがあるとはいっても、共に先帝の分身です。陛下は六宮に数万の女性を抱えていますのに、妾の相手は一人だけ。これは不公平ではありませんか。」
 そこで、廃帝は公主の為に三十人の世話係をあてがってやった。又、身分も会稽郡長公主とし、郡王格とした。
 吏部郎の者(「衣/者」)淵は非常な美男子だったので、公主は、そばに侍らせたいと廃帝へせがみ、廃帝は許諾した。それで者淵は十余日も公主の傍らに侍り、その間迫られ続けだったが、自殺すると言って、とうとう拒み通した。者淵は、者湛之の息子である。
 九月、廃帝は、新安王子鸞に死を賜った。又、彼の同母弟の子師や同母妹も殺し、殷貴妃(子鸞の母)の墓を暴いた。 

  

義陽王亡命 

 徐州刺史の義陽王永(永/日)は、孝武帝から憎まれており、世間では造反するのではないかと噂されていた。義陽王は、魏へ逃げた。彼は博学で文章が巧く、魏では彼を重んじた。(後、魏は彼を奉じて斉を攻撃する。) 

  

地方か朝廷か 

 袁豈は、当初廃帝に信任されていたが、やがて信頼を失い、寵遇も衰えた。そうなると、彼の罪状を糾弾する役人も出てきたので、袁豈は懼れ、地方官となることを望んだ。
 甲寅、袁豈は、督ヨウ・梁諸軍事、ヨウ州刺史となった。
 袁豈の舅の蔡興宗は言った。
「襄陽は星が悪い。なんでそんなところへ行くのだ?」
 袁豈は言った。
「白刃が目前に迫っております。ただ虎口から逃れたいだけ。それに、天道とは遼遠なもの。験があるかどうか判ったものではありません。」
 この時、臨海王子頁(王/頁)が都督荊・湘等八州諸軍事、荊州刺史となっていた。朝廷は、蔡興宗を子頁の長史、荊郡太守、行府、州事に任命したが、蔡興宗はこれを辞退した。
 袁豈は蔡興宗に言った。
「朝廷の行く末は見えています。朝廷の大臣となったら、いつ殺されるか判らない。今、舅は出向を命じられた陜西は、八州をその勢力下に置いております。私の行く襄・ベンは、土地が豊かで兵は強く、江陵も間近。水陸の交通も便があります。もしも朝廷に不測の事態が起こった暁には、共に力を合わせて桓公文公の功績を立てようではありませんか。凶狂に制せられて殺されてしまうのと比べて、格段の違いではありませんか!今、地方へ出なければ、この後出向しようとしても、どうして出来ましょうか!」
 すると、蔡興宗は言った。
「我は元々下賤の出身。主上とも疎遠だから、いまだに患いもない。宮省の内外の人々が命の危険を感じていたら、やがて変事が起こる。朝廷内で変事が起こるのならば、外応は必ずしも必要ない。汝は外へ出て命を全うし、我は中央で禍を免れる。各々その志を遂行するのだから、何と良いではないか。」
 蔡興宗の行動に納得すると、袁豈は狼狽して道を急いだ。それでも、廃帝の気が変わって追っ手が掛かるのではないかと気が気ではなかったので、尋陽まで到着すると大喜びで言った。
「ようやく免れた。」
 さて、晋安王子員(員/力)の鎮軍長史の登(登/里)宛(王/宛)が、尋陽内史を兼任していた。彼は袁豈と慣れ親しんでおり、逢う度に昼から夜明けまで会談した。この二人は、同郷でもない。これを見る者は、造反の萌芽を知った。
 やがて、蔡興宗は吏部尚書となった。 

  

放埒 

 廃帝の舅の東陽太守王藻は、世祖の娘の臨川長公主を娶った。公主は焼き餅焼きで、王藻のことを廃帝へ讒言したので、王藻は牢獄にぶち込まれて殺された。(王藻は、王導の子孫である。) 

 会稽太守の孔霊符は、至る所で業績を上げた能吏だった。だが、近臣の不興を買った。その近臣は廃帝へ讒言し、孔霊符は鞭で打ち殺された。 

 寧朔将軍の何遇は、廃帝の姑の新蔡長公主と結婚したが、廃帝は彼女を自分の後宮へ入れて寵愛した。そして何遇には、「公主は死んだ」と言い、宮婢を殺して贋の葬式も行った。
 何遇はもともと豪陜な人間で、死士を大勢養っていた。そこで彼は、廃帝が外へ出かけた隙にこれを廃立し、晋安王子員を立てようと計画した。だが、この陰謀は漏洩し、十一月、廃帝自身が兵を率いて何遇を誅殺した。 

  

沈慶之 

 さて、沈慶之は顔・柳の陰謀を暴露したので、廃帝とは昵懇だと自負し、屡々言葉を尽くして廃帝を諫めた。廃帝は、次第に不快になっていった。沈慶之は懼れ、家の門を閉ざして賓客との交流を謝絶した。
 そんな中で、蔡興宗がこっそりと人を遣って沈慶之へ言った。
「公が門を閉ざして賓客を謝絶しているのは、就官運動をする人間を避けているのでしょう?私は、何も求めるものがありませんのに、どうして謝絶するのですか?」
 そこで沈慶之は蔡興宗のもとへ使者を派遣し、蔡興宗は沈慶之のもとへ出向いて言った。
「陛下の行いは、人倫を踏みにじっておられます。徳を以て行いを改めさせるなど、望むべくもありません。今、陛下が忌憚しておりますのは、ただ公一人です。口をバクバクさせている百姓が頼みにしているのも、公一人です。公の威名はもとより著しく、天下が服しています。今、朝廷を挙げて汲々としており、人々は命の危険で一杯です。一呼すれば、皆が応じますぞ!それが猶予して決断せず、世間の行く末を見ているだけでは、旦夕に禍が降りかかるばかりではなく、天下の重責まで、全て公へ掛かるのですぞ!今までの厚恩を顧みて、言葉を尽くすのです。どうかつまびらかにこれを考えて下さい。」
 沈慶之は答えた。
「僕も、今日の憂危は熟知している。まったく、命を守ることさえおぼつかない。ただ、私としては忠義を尽くして国へ奉じる。始終それだけで、結果は天命に委ねます。それに加えて、私は隠居した老人。兵力もありません。事を起こしたとしても、成功はできないでしょう。」
「いえ、今回事を起こそうと思っている人間は、出世を望んでいるのではありません。ただ、朝夕の死から逃げ出したいだけなのです。殿中の将帥は、皆、外で騒動が起こることに耳をそばだてております。もしも一人の人間が叫んだら、すぐにでも事は定まります。ましてや公は累朝の将軍で、昔の部下は宮省におり、恩を感じている人間も沢山おります。沈悠之の輩など、単なる公家の子弟。従わなくても何の患いがありますか!それに、公門の徒は義に附きます。公の出身である三呉には勇士も多く、殿中将軍陸悠之もまた、公と同郷です。今、その陸悠之には賊討伐の命令が下り、武器が配給されてたまま、出発しないで待機しています。公はその武器を採って麾下へ配り、陸悠之を前駆とします。僕は尚書で百僚を率いて前代の故事を挽き、社稷を奉じることを表明すると、天下のことは定まります。又、朝廷の施策には、全て公が関わっていると、民間では信じられています。公が今決断せず、他の人間が決起すれば、公は附従の罪を免れませんぞ。(これが、先程の「天下の重責が掛かってくる」の意味である。)側聞によれば、車駕は屡々公の家へ御幸して、陛下は酔うまで呑まれるとか。又、陛下は左右を引き下がらせて、公を一人閣内へ入れる事もあるとか。これは万世一時の好機です。失ってはいけません。」
「君の言葉には感銘した。だが、この大事は、僕の能力を超えている。事ここに至ったら、忠義を懐いて死ぬだけだ。」
 青州刺史沈文秀は、沈慶之の甥である。彼が任地へ向かう為、麾下を率いて白下まで出張った時、沈慶之へ言った。
「主上は、このように狂暴です。いずれ禍乱が起こりますぞ。それなのに、我等一門は、このように栄達しており、人々は、我等が主上と一心同体だと言っております。そのうえ、若者は愛憎がコロコロ変わり、猜疑心や残忍さは特に甚だしいお方です。不測の禍は、進退いずれでも免れません。今、この兵力を以て事を図るのは、掌を返すよりも容易い事です。好機は得難い。失ってはなりません。」
 再三勧めて涙まで零した。だが、沈慶之は従わなかった。沈文秀は、遂に出発した。
 さて、廃帝は何遇を誅殺した時、沈慶之が必ず諫めに来ると考え、先手を打って青渓橋を閉じ、彼の入宮を拒んだ。沈慶之は、果たしてやってきたが、入れずに引き返した。
 廃帝は、沈悠之を使者として、沈慶之へ薬を届けた。沈慶之は呑むことを拒んだので、沈悠之は沈慶之を殺した。享年八十。
 沈慶之の息子の侍中沈文叔は、逃げようと思ったが、義恭のように全身をバラバラにされるのが怖く、弟の中書郎沈文季へ言った。
「我が死んだら、お前は敵を討ってくれ。」
 遂に、沈慶之の薬を飲んで死んだ。弟の秘書郎沈昭明も、首を括って死んだ。沈文季は刀を振り回しながら、馬を走らせて逃げた。追っ手は敢えて近寄ろうとせず、遂に免れることができた。
 廃帝は、沈慶之が病死したと表明し、侍中・太尉を追贈した。忠武公と諡した。その葬礼は、甚だ厚かった。 

  

造反計画 

 領軍将軍王玄謨は、廃帝の刑殺が多すぎると、屡々涙を零して諫めた。廃帝は大いに怒った。王玄謨は宿将で、威名があったので、巷では、彼が誅殺されたと噂が流れた。
 蔡興宗は、かつて東陽太守だったが、王玄謨の典籤の包法栄の実家は東陽に在った。そこで、王玄謨は包法栄を使者として蔡興宗のもとへ派遣した。蔡興宗は言った。
「領軍将軍が憂えておられるのなら、決起するべき。なんで、禍を座して待って良いものか!」
 そして、王玄謨の決起を勧めた。
 王玄謨は、包法栄を媒介にして、蔡興宗へ言った。
「これは容易なことではない。君の言葉は、決して洩らさない。」
 右衛将軍劉道隆は、廃帝から寵任され、禁兵を指揮していた。蔡興宗は、彼にも謀反を語りかけており、劉道隆は了承していた。 

  

廃帝と諸叔父 

 廃帝は、叔父達を畏忌していた。彼等が地方官として権力を固めれば後々の患いとなる、と考え、彼等を建康へ集めて、殿内へ幽閉して虐待した。
 湘東王イク、建安王休仁、山陽王休裕は、皆太っていた。廃帝は竹籠を造ると、その上に彼等を盛りつけて、各々「豚王」「殺王」「賊王」と称した。この三王は年長だったので、特に念入りに虐待された。東海王緯は凡劣な人間だったので、これを「驢王」と称した。ただ、桂陽王休範と巴陵王休若は、まだ幼少だったので、それ程の虐待は受けなかった。木槽に飯を盛って食わせ、泥水を飲ませたこともあった。
 廃帝は、三王を殺そうとしたことが、十数回もあった。だが、休仁は知恵が回ったので、その度に冗談に紛らわせて追従し、何とか事なきを得ていた。
 少府の劉蒙の妾が孕み、臨月となった。廃帝は彼女を後宮へ迎え入れ、男を生んだら太子に立てようと思った。その頃、廃帝は湘東王イクに立腹し、手足を縛り上げて裸にし、これを杖で貫いて言った。
「今日、豚を屠殺してやる。」
 すると、休仁が言った。
「いえ、まだ早うございます。」
「どうしてだ?」
「いずれ皇太子が生まれましたら、その時こそ豚を殺してその肝肺を取り、お祝いするべきでございます。」
 廃帝は笑って、怒りが解けた。
 やがて、劉蒙の妾は男児を生んだ。その子供を「皇子」と名付け、大赦を下した。 

  

晋安王、決起 

 ところで、宋の太祖も世祖も三男だった。晋安王子員もまた三男だったので、廃帝は彼を憎んでいた。そこで何遇の勧めに従い、左右の朱景雲を使者として晋安王のもとへ派遣し、薬を賜った。だが、朱景雲は途中で留まって、先へ行かなかった。
 子員の典籤の謝道遇と主師の潘欣之、侍書の者霊嗣はこれを聞くと長史の登宛のもとへ駆けつけて、涙を零して対策を請うた。そこで、登宛は言った。
「私は、南土の下賤の出。先帝の御厚恩を蒙り、愛子を託されました。どうして今の地位を惜しんで日和見を決め込めましょうか。命を以て、恩に答える覚悟です。幼主は昏暴で、社稷は滅亡寸前。その名は「天子」と言いながら、その実体は独夫です。今、文武を率いて京邑目指して直進し、群公卿士と共に昏君を廃して明君を立てるだけです。」
 そして、登宛は、「子員の訓戒を垂れる」と標榜して兵卒を武装させた。子員は戎服で出てくると、僚佐を集め、潘欣之に旨を宣言させた。すると、皆が答えるより早く、録事参軍陶亮が請願した。
「命を懸けます。何とぞ、私を前駆としてください。」
 こうして、衆人は王の旨を奉じた。そこで、陶亮を諮議参軍とし、軍事を統総させた。功曹の張沈も諮議参軍とし、軍艦製造を任せた。その他、南陽太守沈懐宝、岷山太守薛常宝、彭沢令陳紹宗等を将帥とする。
 登宛と張悦の二人が参謀となり、諸事を専掌した。彼等はまず五百の兵卒で大雷を占拠し、商人や公私の通行を遮断した。そして、器械を制作する為、諸郡の民を徴発した。十日と経たないうちに武装兵五千を得たので、大雷を出発し、両岸に砦を築かせた。
 又、巴東、建平二郡太守の孫沖之を諮議参軍とし、陶亮と共に前軍を指揮させた。 

  

淫虐止まず 

 廃帝は、諸公を殺した時、臣下達から報復されることを懼れ、宗越、童太一、沈悠之等武勇の士を爪牙として、美人や金帛を賜下した。以来、彼等が殿省に詰めるようになったので、衆人は畏服し、廃帝の為に力を尽くした。
 廃帝はこれを恃み、益々忌憚がなくなって放埒な行いに拍車が掛かったので、中外は騒然とした。ある時など、諸王の妃を面前にズラリと並べ、彼女達と交わるよう左右の臣下に強制した。南平王の妃がこれに従わなかったので、廃帝は怒り、妃の三人の子息を殺し、妃は鞭打ち百の刑に処した。
 左右宿衛の士は、皆、内心異志を懐いていたが、宗越等を畏れて事を起こせなかった。 

  

廃帝暗殺 

 三王は幽閉されており何もできない。だが、湘東王の臣下達は、廃帝暗殺を企てた。首謀者は阮田夫、王道隆、李道児。すると、直閣将軍柳光世と廃帝の左右の淳于文祖も加担した。
 少し前のことになるが、かつて廃帝が華林園の中にある竹林堂で遊んだ時、宮人達へ乱交するよう命じた。ところが、一人、これに従わない者が居たので、これを斬り殺した。
 その夜、廃帝は夢を見た。竹林堂で、一人の女性から罵られる夢だ。
「こんな悖虐不道の皇帝には、来年などありません!」
 廃帝は、夢の女に似た女性を後宮中から探し出して、斬り殺した。すると、その殺された女が夢に出てきた。
「天帝へ訴えてやったわ!」
 そんな事があったので、廃帝が巫女を呼び出して見させると、彼女は言った。
「竹林堂には鬼が居ます。」
 そこで、その日、廃帝は大勢の巫女や数百人の綏女を率いて竹林の鬼を退治に出かけた。この一行には建安王休仁、山陽王休裕、会稽公主も同行したが、湘東王イクにはお声が掛からず、湘東王は益々憂懼した。
 ところで、廃帝はもともと主衣の寿寂之が気に食わず、彼を見る度に歯ぎしりしていた。そこで阮田夫は、皇帝暗殺計画を寿寂之へ語った。すると、たちまち姜産之、戴明宝等五・六人の有志が集まった。彼等は、休仁や休裕にも、密かにこれを告げた。
 この頃、廃帝は南巡の計画を立てていたので、腹心の宗越等はその準備に忙殺されており、ただ隊主の樊僧整のみが華林閣を警護していた。だが、彼は柳光世と同郷だった。そこで柳光世が密かに計画を告げると、彼は同意し、たちまち十余人の同志を集めた。
 阮田夫は、完璧を期す為にもっと兵力を集めたがったが、寿寂之は言った。
「人間が多いと洩れやすくなる。これだけ居れば十分だ。」
 夕方、鬼を射る儀式は滞りなく終了した。そこで楽団が演奏を始めようとした時、寿寂之が抜刀して飛び込んできた。姜産之や淳于文祖等が後に続く。
 雄叫びを聞いて、休仁は休裕へ言った。
「始まったぞ。」
 二人は、揃って景陽山へ逃げ込んだ。
 廃帝は狼藉者を見て弓を射たが、外れた。綏女は皆逃げだし、廃帝も逃げたが、寿寂之は追いかけて弑逆した。享年十七。
 寿寂之は、宿衛へ言った。
「湘東王は太皇太后の命を受け、狂主を除いた。これにて乱は平定した。」
 殿省の人々は惶惑して、為す術を知らなかった。
 休仁は秘書省へ行くと湘東王へ会い、「臣下」と称した。そして、彼を御座へ登らせると、諸大臣へ謁見させた。
 座が定まると、休仁が主衣を呼んで、白い帽子を湘東王へかぶせた。そして、太皇太后の言葉として、廃帝の罪悪を数え上げ、湘東王へ帝位を継承させると告げた。
 明け方、宗越等が入宮した。湘東王は、彼等を厚く労った。 

 廃帝の同母弟の子尚は、兄に似て頑悖だった。湘東王は、太皇太后の命と称して、子尚と会稽公主に死を賜った。建安王休仁等は、漸く宮殿から出ることができた。
 廃帝の屍は、雨曝しのままだった。すると、蔡興宗が尚書右僕射の王イクへ言った。
「凶悖とはいえ、天下の主だったのだ。せめて手厚く葬らなければ、これに乗じる人間が、必ず出てくる。」
 そこで、秣陵県の南へ葬られた。
 論功行賞が行われ、寿寂之等十四人が県侯爵や県子爵になった。 

 十二月、東海王緯が中書監、太尉となった。晋安王子員が車騎将軍・開府儀同三司となった。建安王休仁が司徒・尚書令となり、山陽王休裕は荊州刺史、桂陽王休範は南徐州刺史、安陸王子綏が江夏王となった。
 これらの処置が終わってから、湘東王は即位した。これが明帝である。安始と改元する。やがて、沈太妃は宣太后と追尊された。
 宗越・談金・童太一等は、一応慰撫されたが、内心不安だった。又、明帝としても、彼等に宮中に居られたくなかったので、ある時、従容として言った。
「卿等は、暴朝の時代に勤労に励んできた。これから、ゆっくり休まれるが良い。どこの地方でも、好きなところを考えておかぬか。」
 ところが、彼等は元々不安だったところにこのようなことを言われたので、皆、顔色を失ってしまった。心理的に追い詰められた宗越等は造反を企み、沈悠之へも持ちかけたが、沈悠之は、これを密告した。明帝は宗越等を捕らえて投獄し、殺した。沈悠之は、再び直閣へ入った。 

  

経済政策 

 話は遡るが、孝建以来、偽造貨幣が出回っており、商業が衰退していった。
 永光元年(=泰始元年)二月、二銖銭が鋳造された。その形は、薄く、小さい。官銭が出る毎に、民間ではそれを真似して偽造した。その形は次第に小さくなり、周りの縁取りもせず、磨かれもしなくなった。民間では、これを「来子」と呼んだ。
 やがて、沈慶之が民間の貨幣鋳造を許可した。これによって、巷には銭が溢れ返った。その銭は粗悪品で、たとえばその厚みは、千枚通しても三寸にも足りない程だった。皆は、これを称して「鵝眼銭」と言った。これより更に劣るものは、「延環銭」と言い、これを紐で連ねて水へ入れても沈まない。手で力を込めると割ることができる。とうとう、民間では銭を数で数えず重さで量るようになった。十万銭でも、両手一杯にはならず、一斗の米が一万銭。とうとう、貨幣による売買は殆ど成り立たなくなってしまった。
 明帝が即位すると、二銖銭、鵝眼銭、延環銭の使用を禁止した。だが、それ以外の銭は、従来通り流通させた。
 泰始二年、新銭(元嘉四銖と孝建四銖)の使用を禁止し、専ら古銭を流通させた。