東 莱 博 議

虞叔、虞公を征つ。

(春秋左氏伝)

 虞公は、虞の領主である。封建領主だから、虞の国王とイメージして貰った方が判りやすい。虞叔は虞公の一族である。しかし、既に虞公が爵位を襲爵して封建領主の地位に即いたのだから、その身分は虞公の臣下に他ならない。

 さて、虞叔は立派な宝玉を持っていた。ある時、これを欲した虞公が献上しろと命じたところ、虞叔は断った。しかし、彼はやがて考え直した。
「私は何の過ちも犯していないが、分不相応な宝物を持つことが罪なのだ。(小人過なしと雖も、玉を抱くが罪なり。)たかだか一個の玉を愛して我が身を害するなど馬鹿らしいではないか。」
 結局、虞叔は宝玉を献上した。すると、虞公は今度は宝剣を求めた。
 虞叔は言った。
「虞公は厭きることを知らない。やがては全てを取り上げられてしまう。」
 遂に虞叔はクーデターを起こし、虞公は共池へ出奔した。

(博議)

 虞公は貪欲がたたって国を失い、虞叔は吝嗇(けちんぼ)が高じて主君を追放した。そして、結局クーデターとゆう最悪の事態に到ったのだ。
 貪る者は他人の所有物を入手しようと思い、吝嗇な者は自分の所持品を失うことを恐れる。貪る者は万金を得てもなお厭かずして更に多くを求め、吝嗇な者は一金を失ってもその恨みを忘れない。虞では主君が貪欲で臣下が吝嗇だった。貪る者が吝嗇な者から宝物を求め、吝嗇な者はそれを失うまいと守り通す。これでは反乱が起こらない方が不思議だ。
 だが、ここで考えてみよう。もともと貪欲と吝嗇は別のものではない。
宝物が欲しいとゆう思いで他人の物を見れば貪欲になり、その同じ思いで自分の物を見れば吝嗇になるのである。つまり、まだ得ていない物を欲しがれば貪欲、既に得た物を守ろうとすれば吝嗇となる。
貪欲と吝嗇と名前こそ違うけれども、どちらも財貨を嗜むとゆう同じ一つの想いに根ざしているのである。
 虞公が宝剣を求める心は、虞叔が宝剣を守ろうとする思いと同じだ。虞公がその心を思いやれば決して貪欲にはならなかっただろう。虞叔が宝剣を守ろうとする心は、虞公が宝剣を求める心と同じだ。虞叔がその心を思いやれば決して吝嗇にはならなかっただろう。しかし、互いに思いやることができずに、却って互いに責め合った。これが莫大なる災いを醸し出した原因である。
 おおよそ古来から現代に到るまで、人々が互いに争い合い殺し合った原因は、全てこれに根ざすのである。

それでは、貪欲な者には廉潔を語り、吝嗇な者には施しを勧めれば、この様な惨事は起こらずに済むのですか?

 ああ、君は何と馬鹿なことを言うのだ。
貪欲な者に廉潔を語るとゆうのは、餓虎に肉を求めるなと言うようなものだ。吝嗇な者に施しを勧めるとゆうのは、餓虎から肉を求めるようなものだ。そんなことをしても相手は変わらない。君がいたずらに辱めを受けるだけで何の益もありはしないよ。

 それならば、惨事を未然に防ぐ手だてはないものなのでしょうか?

 いや、そうではない。廉潔や施しで貪欲や吝嗇を直すことができないだけだ。貪欲を以て貪欲を治め、吝嗇を以て吝嗇を治めれば宜しい。至理の中には廃除してよいものなど一つもないように、人心の中にも妄りに切り捨ててよい想いなど一つもないのだ。
 これについて説明しよう。

 貪吝の念とゆうものは、人間の本性ではないのか?いや、それならばそんな思いを人々が持つわけがない。貪吝の念は人々が生まれながらに備えている情欲の一つなのだ。それならば、どうしてこれを無くすことができるだろうか。貪吝の念は無理して無くしてよいものではないし、又、なくす必要さえもないものだ。心の迷いが渙然として氷解すれば、貪欲も吝嗇も、大切な理の一つであることが判るだろう。
 そもそも、事に善悪はあるが、想いに善悪はない。ある想いを善いことに使えば善念となり、その同じ想いを悪いことに使えば悪念となるのである。或いは善念と名付け、或いは悪念と名付けているが、しかし、その「想い」そのものは全く同じである。ただ、使い方が変わったに過ぎない。

 これを火に例えてみよう。
 火は物を暖める。その性質を煮炊きすることに使えば善となるが、山火事を起こすことに使えば悪となる。しかし、火そのものに善悪の二種類があるだろうか?そんな筈はない。火はあくまで火。どちらの場合も、ただ単に物を熱したに過ぎない。その性質が巧く使われた時に、人々は「善」と名付けて感謝するのだし、暴走してしまった時に「悪」と名付けて忌み嫌うのだ。
 今度は水に例えてみよう。
水を田圃にそそげば「善」となり、城へそそいで水浸しにすれば「悪」となる。しかし、水はあくまで水。水自身には善悪の二種類があるわけではない。
人が自分の利害でこれを見るから善悪の二種類があるように思える。しかし、その本質は、二つの間に卓然として独存しているのだ。

 人々は虞公を指して「貪欲」と言っているが、それは、彼は財宝を求めて厭きなかったからである。もしもその貪欲な想いで以て、正しい生き方を求めて厭きなかったならどうなっただろうか?人々から賢人と誉められてもなお厭かずして更に励み、聖人となるよう努力するわけである。孔子は、「学びて厭かず。」と賞賛されているが、その態度と何ら変わらないではないか。
 人々は虞叔を指して「吝嗇」と言っているが、それは、彼は財宝を守り、失うことを嫌ったからである。もしもその吝嗇な想いで以て、正しい生き方を守り、失うことを嫌ったらどうなっただろうか?その一生の間、欲にも迷わず脅されても従わず、ただただ人間として大切な行動を固守するのである。顔回(孔子の一番弟子)は、「他人の善行を聞くと、それを大切にしまい込み、失うことを恐れるようだった。」と賞賛されているが、その態度と何ら変わらないではないか。

 財宝を求めるのと、人の道を求めるのとでは、人間としてのレベルが大きく離れている。しかしながら、いわゆる「厭きない」とゆう念は何ら変わらない。財宝を守るのと、人の道を守るのとでは、人間としてのレベルが大きく離れている。しかしながら、いわゆる「失わない」とゆう念は何ら変わらない。「善」と「悪」は、あくまでそれが向けられている対象によって呼び方が変わっただけで、その念は全く変わってないのだ。
 人々は、貪欲や吝嗇の念が大惨事を招いたことを見てこの念を嫌悪し、遂には「これらの妄念をなくして立派な人間になろう。」などと考える。しかし、これは火傷した人間が一生火を使わずに済まし、溺れかけた人間が一生水を飲まないでいようとする事と変わりない。そのような考え方は、間違っている。

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