晋、虞へ道を借りてカクを討つ。
 
(春秋左氏伝) 

 僖公の二年、晋の荀息はカクを攻撃しようと考えた。その為には虞の領内を通過するのが近道である。そこで、虞公へ屈産の馬と垂棘の璧を賜うよう晋公(献公)へ請うた。すると、晋公は言った。
「二つとも、我が宝なのだが。」
「いえ、カクを滅ぼしたら、ついでに虞を滅ぼすことができます。それなら、虞公へ贈ったとはいえ、外の倉庫へ一時保管しておくようなものではありませんか。」
「だが、虞には宮之奇がいるぞ。」
「宮之奇は、主君へ強諫いるような人間ではありません。主君の強欲に押し切られてしまいます。」
 そこで、晋公は馬と璧を虞公へ贈った。宮之奇は諫めたが、虞公は聞かず、晋軍は虞の領内を通過してカクを攻撃した。
 五年、晋公の愛姫の驪姫が晋公をそそのかし、晋公の嫡子の申生を殺した。(俗に言う「驪姫の乱」。)
 同年、晋は再びカク攻撃を計画し、虞の領内の通行を求めた。宮之奇は虞公へ言った。
「『唇滅べば歯寒し』と言うではありませんか。カクが滅んだら、虞も滅びます。」
 すると、虞公は言った。
「晋は我等と同じ姫姓。同宗へ害を為す筈がない。」
「姫姓と言うなら、カクも又、姫姓。晋は、そのカクを滅ぼすのですぞ。それに、晋の献公は、自分の一族の桓氏や荘氏も滅ぼしたのです。ましてや他国を見逃すものですか。」
「私は、祭りの度に立派な供物をささげている。神が必ずこの国を護ってくれるさ。」
「『神は人に親しまず。ただ、徳のある者を護りたもう。』と聞きます。徳を用いなければ、民は和せず、神もお受けになりません。」
 しかし、虞公は聞かなかった。
 晋軍は、カクを滅ぼし、帰国の途中、虞も滅ぼした。こうして、屈産の馬も垂棘の璧も晋公のもとへ返った。馬と璧を見て、献公は言った。
「璧は元の通り。馬は賜った頃より、却ってよく肥えている。」 

  

  

(東莱博議) 

 諫言は、主君が悟る前に行ってこそ効用があるものだ。主君が既に悟っていることを諫めるものではない。これは、臣下が主君へ仕える常道である。
 ところで、主君が悟っていることを諫めないとゆうのは、二つの場合がある。
 一つは、主君が悟り、計画を中止した場合。このような時には、諫める必要がない。
 もう一つは、主君が悟っているけれども、行いを改めない場合。この時には、諫めてはならない。これについて、もう少し突っ込んで説明しよう。
 主君が、既に「判った」と言った。その言葉の通り十分に理解しきっているのに、まだ改めない。それは何故か?被害が予想できているけれども、その行為がもたらす利益に心が動いて、未練が断ち切れないのだ。
 極諫する人臣の言葉は、大体相場が決まっている。
「これは姦に決まっています。」
「これは詐に決まっています。」
「これは危に決まっています。」
「これは亡に決まっています。」と。
 懇切丁寧に言葉を連ねるのも、ただただ主君の感悟をこいねがっているだけなのだ。
 しかし、主君は既に、それの姦詐を知っている。それの危亡をしっている。それでも欲望を抑えられなくてこれを犯し、上辺だけを言葉で繕って彼等の諫言を塞ぐ。そのような時に諫めて、何の役に立とうか。 

 昔、虞は貪欲で滅亡し、カクは驕慢で滅亡した。これらは深く論じるに足りない。だが、この事件の中で、虞公が宮之奇の諫言を拒んだ一件が不審だった。虞公の返答は、余りにも現実からかけ離れている。これについて熟慮した結果、彼の言葉が、宮之奇の諫言を拒む為の、単なる虚飾に過ぎないと悟ったのである。
 晋の献公は、一族でさえも次々と滅ぼしていた。それこそ、霍氏だの魏氏だの、一つ二つでは済まない。しかし、ここではそれらの事実を全く無視して、ただ道を貸すとゆう一点だけで論じてみよう。
 晋は姫姓である。そして虞も姫姓である。それを思うならば、なるほど同宗だ。だが、カクも又姫姓ではないか。晋は、このカクを滅ぼす為に出兵するのだ。それなのに、虞公は宮之奇へ答えた。
「晋は我の宗族だ。我を害するはずがない。」と。
 虞公がいくら昏君だと言っても、まさかカク公が自分と同宗であることを忘れたりはしないだろう。それならば、この言葉は一体どうゆう了見だろうか? しかし、その真情をそのまま訴えたらどうなるだろうか?
「晋は詐術を使っているかも知れない。しかし、俺はどうしても名馬が欲しくて我慢できないのだ。」と。
 そんなことをハッキリ言ってしまったら、物笑いだ。だから、枝辞曲説を使って漠然としたことを言い、宮之奇の口を塞いだのである。「晋は同宗だから、我が国を害したりはしない。」などと、どうして本心から思ったりするものか。
 しかし、宮之奇はこれを真に受け、「虞公は、晋とカクが同宗であることをご存知ない。」と言い、乳飲み子に教えるように噛んで含めて説明した。なんと事情に疎いことか。
 そこで虞公は、宮之奇の口を塞ごうと思って考えた。
”こいつは頭が良いから、こいつと理屈を争っても反論され、結局は俺が言い負かされてしまう。ここは神怪に託せば、事が深遠だから、言い返すこともできまい。”と。
 そうして、虞公は言ったのだ。
「我は神へ敬虔に接して祭祀を絶やしたことがない。きっと神が助けるに決まっている。」
 これは、神怪に仮託して宮之奇の諫言を拒んだだけだ。神を心底から恃んでいるわけではない。それなのに、宮之奇は区々として神頼みのアテにならない事を説いた。意味のないことだ。
 だいたい、主君がその危害を知らないからこそ、弊害について丁寧に説明するのだ。主君が、その危害を既に知っているならば、弊害を告げたところで無駄ではないか。 

 宮之奇は忠義を尽くした。しかし、何の輔けにもならなかった。
 荀息は璧や馬とゆう微々たるもので虞とカクを掌を返すように滅ぼした。これを見て、後世の人間は知恵者だと言う。だが、私の見るところ、とても知恵者だとは言えない。
 彼が晋の為に企てた謀略は、一つは巧妙だったが、一つは劣だった。そして、彼が見立てた宮之奇の人柄は、一つは当たったけれども、一つは外れた。
 璧馬を取り戻し、二つの国を奪った。これは巧妙だ。それに対して驪姫が申生を害した時は、傍らにいながらまるで手出しができなかった。何と稚拙ではないか。
 宮之奇に対しては、諫言しても聞かれないだろうと予測した。これは当たった。しかし、宮之奇は何度も何度も諫言し、蹇々として屈しなかった。にも関わらず、「宮之奇は怯懦な人間だから強諫できない。」と予測した。これは外れたではないか。
 宮之奇の人柄を予測して当ったり外れたりしても、それで晋が存亡かるわけではない。だが、
内難の際にで謀ることができなかった件に関しては、晋の国統が途絶えて殆ど滅亡寸前にまでなってしまったではないか。そのような人間を、どうして智者と言えようか。 

  

(訳者、曰く) 

 昔読んだ物語の一節で、詐欺師とその友人との会話が、今でも心に残っている。
「詐欺を行う時に大切なことは、何だと思う?」
「さあ?相手から信じられる事かな?」
「違うな。相手の欲を掻き立てることだ。」
 いつの世でも、甘い罠にはまる人間は後を絶たない。もちろん、心底信じていた相手から裏切られる人間も、中にはいるだろう。しかし、半ば相手を疑いながらも、目先の欲につられて騙されてしまう人間の、何と多いことか。
 この事件での虞公も、その適例である。彼は、晋公を信じていたのではない。掻き立てられた欲望を抑えきれなかっただけなのだ。

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