第十一回 孫可望、永歴帝へ帰順し、
     呉平西、大いに劉文秀を破る。

 

 王輔臣とゆう男がいた。彼は猛将で射撃も巧かったので、呉三桂は義子にしていた。
 ある時、その王輔臣は言った。
「父上は皇帝陛下への謁見を求めて却下されました。もうご存知のように、父上は朝廷から疑われているのです。これは、例の南京からの三大使が父上の陣中へ立ち寄ったせいではありませんか?朝廷では父と南京との交流を疑っているのです。あの駱養性など、一行を歓待しただけで更迭されてしまったではありませんか。摂政王は猜疑心の強いお方です。駱養性の見せしめは、父上への警告かも知れません。ともあれ、臣下が主君から疑われると、結果は悲惨です。ましてや父上は功績は高く人望も篤い。その上兵力まで握っているのですから、破局は駆け足でやって来ますぞ!
 今、福王の政権は将軍と大臣との反りが合わず、史可法が兵を率いて地方へ出た為、朝廷内での派閥争いまで激化しているとか。これは絶好の機会です。今、兵を動かせば、あの政権は一気に瓦解するでしょう。南京を平定すれば、勿論父上が一番手柄ですし、北京からの疑いも解けます。まさしく、一挙両得ではありませんか。今、朝廷では粛王と預王を派遣するようですが、マゴマゴすると、両殿下に手柄を取られてしまいますぞ。」
「その大使達なら、幾度も面会を求められたが、私は会わなかった。ただ、人づてに答えたものだ。
『福王からの賜はいただけませんが、私は死ぬまで江南へは弓引きません。』と。
 その言葉はまだ耳に残っている。何で功を貪ってこれに背けようか?」
「父上に功を貪れとは申しません。既に嫌疑が掛かっている以上、災いを避けるべきだと申しているのです!」
「だが、朝廷からの命令は降っておらぬ。専断で軍を動かすのは越権行為だ。却って災いを招くようなものではないか。」
 すると、圓圓が言った。
「王様の言われるとおりですわ。南京攻略は困難で、まだ詔もない。これで挙兵するのは旧主へ対して信義が無く、現君へ対しては越権行為。信義を無くせば未来永劫唾棄されますし、越権行為は朝廷からの譴責を受けます。絶対になりません。今はこの国の基盤造りこそ肝腎です。功績を貪って災いを招くようなことは、どうか王様、なさらないで下さい。」
「うむ。お前の言うとおりだ。」
 こうして、暫くは出陣せず、李賊残党の招撫などに力を注いだ。
 と、図らずも清朝廷から命令が降った。
「四川の張献忠が皇帝を僭称している。これを掃討せよ。」
 この時、東南の各省はまだ清朝の支配下になかったので、定南王の孔有徳と平南王の尚可喜及び承襲、そして靖南王の耿継茂に兵を与えて攻撃させていた。呉三桂は勅命に従い、四川の首都成都へ向かって進撃した。

 さて、張献忠は、李自成の別働隊として南下した後、明将の左良玉と黄得功を相次いで撃破し、その勢いに乗って成都を占領して皇帝を僭称したのだった。人民は、賊軍の虐殺を畏れて自ら帰順した。呉三桂が四川へ乗り込んだ頃には既に張献忠は死んでいたが、彼の政権は遺将の孫可望が継承して武威を張っていた。
この頃、南京は清の両王の為に撃破され、史可法は揚州にて戦死。南朝は滅亡した。

 さて、ここで永歴帝が登場する。
 彼は明の神宗万歴帝の孫で、崇禎帝のいとこに当たる。だから、王位継承権で言うならば、福王と同等の資格を持つわけだ。始めは桂王に封じられたが、南朝滅亡の後肇慶にて帝位に即き、その後安隆の方へ御幸した。
 その頃孫可望は川に沿って湘の方まで勢力を伸ばそうとしていたが、そこで永歴帝の御幸を聞きつけた。彼は即座に帝の許へ駆けつけると帰順した。永歴帝はこれを嘉し、彼を四川安撫に任命した。
 彼の帰順によって意気挙がった永歴政権は北伐を計画したが、これは孫可望にとっても大きな利益があった。四川安撫に任命された孫可望は即座に激を飛ばし、近隣に宣伝したのである。
 この頃になると、人々は明朝の政治を懐かしがっていた。その中で、孫可望が「前非を悔いて正道に就く」と宣伝したのだから、大勢の人々が彼の許へ駆けつけてきた。
 しかしながら、その実孫可望は改心などしていなかった。彼はただ清軍に対抗したかっただけなのだ。
 江南の福王が滅亡し、福州の唐王も滅ぼされ、後に残った明朝の正当は永歴帝のみだった。だから、多くの人々が永歴帝の許へ逃げ込み、近隣の地方は争うように永歴帝へ忠誠を誓った。孫可望は、その勢力を後ろ盾にしたかったのだ。だから、「臣」と称しながらも命を捨てる気など無く、できれば永歴帝を満州軍へ対する盾として使う腹づもりだった。だが、こうして大勢の兵卒が集まると、その機会を逃す人間ではない。彼はさっそく檄文を書いた。

゛昔、飢饉が続き、敵国が国境を窺い、世の中が乱れて英雄が並び起こった。そして、中原には剣劇の音が鳴り響き、鉄騎が縦横に走り回る世の中となってしまった。皆は、明の滅亡も近いと言い、各々胸に大望を抱いていた。ここにおいて、そのおこぼれに預かってでも出世しようとゆう連中が、腕をさすり策謀を深く蔵して群がってきた。こうして李自成は北京を落とした。だが、この時、呉三桂は野蛮人共を中国へ引き入れて逆襲に転じたのだ。そして遂には、この中国が野蛮人の手に落ちてしまった。何と嘆かわしいことだ!
 私は寒門の出身だが、なんとか出世したいと思っていた。兵法を学び武略を磨き、開国の元勲になろうとて、隴蜀を棄てて城池に割拠するに至った。そして「聖天子に従って、芳名を後世に残す。」とお題目を唱えながら、なんぞ知らん、いつしか祖国を忘れ、敵国の先鋒となってしまっていたではないか。ここにおいて、私は憤然と前非を悔いたのである。
 我々は中原を失い、野蛮人が跋扈している。今は私的な野望よりも、公の大義をこそ優先すべき時。私利に走って大局を忘れるような真似が、どうしてできようか!
 今、南京は亡んだが、幸いにも東越は恙ない。唐王は没したが、桂王が興った。万歴帝は神宗陛下の孫にあらせられる。大明の正当の身を以て広東肇慶に即位するや、六七省がその指導を仰ぎ、版図は数万里の広きに及んだ。此処を以て知るべし。明は未だ滅びず。天命は改まらず。
 私は上は天意を知り下は人情に従い、諸軍を率いて天子の許へ駆けつけたのだ。もはや悪夢から目覚めた。妄執我欲から足を洗い、ただ一途に国を守り、野蛮人共を追い払うという大義に殉じる。
 我々は明の民である。三百年に亘ってその恩を受け、数十世の間守っていただいた。そして今、明の皇帝は即位し、義兵が呼応しているのだ。今は明の天下、それは虚妄ではない!゛

 顔の美醜は判っても、心の美醜は判らない。この檄文が流布するや、遠近の民は孫可望が改心したものと信じ込んだ。四川の勢力が永歴帝と合体し、中原回復も遠くない。その希望が大勢の民衆を集め、彼等の勢力は一気に増大した。こうなってくると、孫可望は自信に酔った。遂には彼は、永歴帝を成都へ呼び寄せようとまで考え始めた。つまり、曹操が天子を擁立して諸侯の長となった故事に倣おうと目論んだのだ。天下を平定した後に禅譲を迫っても遅くはない。そこで、彼は腹心の大将王復臣を使者として貴州へ派遣した。永歴帝を陵安まで来駕させるように、と。
 片や永歴帝は、四川へ憧憬を抱いていた。そこは天険の地で、守るには堅固。しかしながら、晋王の李定国が傍らにいたため、望みを叶えきれなかったのだ。
 この李定国は、歴戦の勇者。その為人は沈着剛毅。数多の戦功を建てた明の将軍である。永歴帝は、帝位に即いた後、彼に全兵権を委ねていた。そして彼は、明復興こそ我が天命と信じ込んでいた。
 ここに突然、孫可望が帰順を申し入れ、聖駕を迎えに来た。李定国は永歴帝に言った。
「孫可望は、別名孫朝宗。元来剽悍にして勇猛な男。張献忠は、それを見込んで義子としたのですが、戦闘に於いては略奪御免の無頼漢。当の張献忠は、四川の将軍楊展所に殺されました。この時、孫可望は幸いにも逃げおおせ、彼に代わって首領となったのです。今、呉三桂が四川を攻略しようとしておりますので、我等の臣下と上辺だけ偽って共同戦線を張ろうとゆう腹でしょう。
 このような狼子野心の輩など、頼みとすることができません。利用できる分には利用しても良いでしょうが、腹心とするわけには行かないのです。彼に従って四川へ行けば不測の事態が起こりかねず、国家にとっては災いでございます。」
「しかし、彼の領土は広く兵卒は多い。今、朕はこの南鄙に逼塞している。北伐を考えるなら、強大な軍閥の助力が必要だ。四川の雄、孫軍の衆、この機会を無くすのは実に惜しい。」
「勿論、利用できる分には利用しましょう。彼に高い爵位を与えて北伐させるのです。それで敵の矢面に立たせましょう。もしも四川への御幸を求められたら、こうお答え下さい。
『朕の在所は、衆目の注視する的である。人心が定まるのを待ち、機会を見てから入蜀しよう。』と。」
 永歴帝はこの言葉に従い、孫可望を景国公に封じたが、遷都の件は、婉曲に断った。

 任務に失敗した王復臣は、成都へ帰ってその旨を復命した。聞いて、孫可望は憤懣やるかたなかった。
「明帝は、俺を疑っているのだ。我等は十数年に亘って奮戦したが、李自成も張献忠も遂には犬死にに終わり、清国だけが漁夫の利を得た。我等としては、明朝へ帰心し中国全土を陛下へ献上する以外、この大恥は雪げないではないか。もしも大功を建てた暁には、陛下も必ずや疑いを解いて下さるだろう。」
 すると、張下に控えていた総参謀の劉文秀が進み出た。
「閣下がその思いを忘れず明朝の補佐に尽力すれば、それこそ国家の幸い。呉三桂の頭は、きっと某が切り落とし閣下へ献上いたします。」
「よくぞ申した!劉文秀、お前に五万の兵を与える。先鋒となって呉三桂を討て!」
「はっ!有り難き幸せ!」
「よし、王復臣、お前には副将を命じる。余は本隊を率いて後詰めとなろう。」
 こうして、たちまち北伐軍が編成された。
 先陣は熱狂のうちに送り出されたが、後に残った孫可望はフと考えた。
゛両軍が激突する前に、ある程度は睨み合う。まあ、半月程経ってから出陣しても遅くはあるまい。゛
 彼は、もともと酒色に迷いやすい人間だった。ましてや、張献忠が死んだ後、彼が遺した十数人の側室を強奪したばかりだった。百花繚乱とはこのことか。孫可望は、その中でも殊に美しい女性達を独占して悦に入っていたのである。

 ここに、杏娘とゆう女性がいた。歳は二十歳。詩文に通じ歌舞に巧みな彼女は叙州生まれ。もとは、李功良とゆう男の妻だった。十六の時に嫁いで行き、ごく普通の生活を送っていたのだが、張献忠が叙州を侵略してから、彼女の人生は狂った。
 叙州にて殺戮の限りを尽くした張献忠は、李功良の家で杏娘を見て、その艶やかさに目を見張った。彼は即座に李功良へ言った。
「この女はお前の何だ?何故こんなにも美しい?」
「これは我が愚妻。本の姓は『王』といい、三年前に嫁いできたのです。」
「どうだ?これを俺に譲らんか?そしたら、お前の一家は安泰だぞ。」
「大王は大義を行われているのではありませんか?そんな無体を言われないで下さい。」
「やかましい!」
 張献忠は有無を言わさず刀を抜くと、李功良の喉元へ突きつけた。
「お前が拒むなら、奪い取るまでだ!」
 凶刃は目の前に迫っているのに、それでも彼はぐずついた。その時、杏娘は見るに見かねて飛び出した。
「旦那様!妾一人の為に家族を危険な目に遭わせないで下さいまし。それに、妾が大王様の貴妃になれば、旦那様も出世できます。人を殺すことも富ませることも、大王様には思いのまま。どうして思い煩われるのですか?」
 もとより刀が恐ろしかった時に杏娘の口からこの言葉が出たので、李功良も遂に彼女を献上した。張献忠は大喜びして、彼等家族を見逃したのだ。
 この時から杏娘は張献忠の女となったが、やがて皇后と呼ばれるようになり、正式に貴妃に冊立された。張献忠は、彼女の魅力に溺れたのである。
 張献忠が亡んでから、杏娘は孫可望のものになった。孫可望は杏娘を手に入れると、傍らから一時も離さなかった。そうゆう訳で、本来ならすぐにでも出陣して劉文秀と王復臣の援護をしなければならなかった時にさえ、彼女との痴情に耽っていた。

 しかし、そうそうゆっくりもしておられない。部下達からは出陣を要請され、ついに彼も重い腰を上げた。するとその時、杏娘は孫可望の前で泣き伏した。
「妾は幸いにも将軍のご寵愛をいただきました。ですが、将軍は出陣なさいます。これから五年十年とご帰還なさらなければ、妾は誰を頼ればよいのでしょうか?」
 孫可望は、愛しさと切なさに胸塞がれながら彼女を抱き寄せた。
「成都こそ我が家だ。どうして此処を棄てて行こうか。今回は単なる出陣。劉文秀と王復臣を援護して、あの逆賊呉三桂を討ち滅ぼしたなら、すぐにでも帰ってくる。お前ともすぐに再会できる。そんなに悲しむでない。」
 だが、それを聞いても杏娘はまだ泣きやまなかった。孫可望は更に言った。
「今、俺が出陣しなければ、劉文秀と王復臣が危ない。この二軍が壊滅すれば成都の危機だ。行かねばならんのだ。」
「将軍の出陣を、なんで妾が止めましょうか?ただ、哀しいのです。切ないのです!」
 杏娘の泣き声は益々大きくなった。孫可望は放っても置かれず、ただおろおろとするばかり。と、忽ち流星馬が飛んできた。
「呉三桂は大軍を率い、叙州まで進撃!」
 聞いて、側近達は大いに焦った。
「張大王が死んだ為我々は四川を失いましたが、将軍が百戦の苦労の末、ようやく回復したのではありませんか。もしもここで齟齬が起これば、それも水の泡ですぞ!呉三桂は剽悍並び無き猛将。しかも大軍です。我等が前哨戦でつまづけば、奴目は必ず全軍を挙げて成都へ進撃してきます。そうなれば処置無しです。どうか速やかに大軍を発し、劉・王両将の援護をなさって下さい。そうすれば、前線の兵卒達も奮い立ち、呉三桂軍とまともに戦えます。もし将軍が猶予すれば、どんなに悔いても追いつきません。」
 孫可望も納得し、杏娘を説得したが、杏娘は承知しない。あくまで、彼の傍らを離れたがらなかった。孫可望は仕方なく、彼女を連れて戦場へ臨んだ。だが、彼女が戦場へ出るのはこれが始めてである。山を越え川を越えての苦難の長征は、か弱い女性には相当こたえた。孫可望はこれを気遣った為、その軍足は遅々として進まなかった。

 さて、劉文秀・王復臣の両将は、重慶に布陣して呉三桂の進撃へ対して防戦していた。
 四川の人々は、かつては張献忠の暴虐を怨んでいたが、孫可望が前非を悔いて皇帝の麾下へ入った為大喜びしていた。その上、中国人のくせに満州族を引きつれて四川へ攻め込んでくる呉三桂への憤りも大きく、大勢の人民が義勇兵となって孫可望のもとへ集結して来た。又、劉文秀もよく部下をいたわったので、陣中では正規兵も義勇兵も一旗同心となり甘苦を分かち合った。その為彼等の軍隊は強く、重慶・叙州の各郡県は、清の勢力下にあった土地も次第に孫可望の勢力下へ回復していったのである。
 対して呉三桂軍は遠征軍だった。その上連戦続きで疲労も溜まっていた。これでは奮戦する劉文秀の軍隊には歯が立たず、連戦連敗のていたらくとなった。
「孫可望の軍は烏合の衆ではない。その上有能な将軍が指揮している。それは誤算だった。
 だが、我等は寧遼で旗揚げしてから今日まで、堅陣を落とし大敵を破ってきたのだ。それがこんな所で敗退しては、恥ずかしくて世間に顔向けできんぞ。」
「将軍、それは間違っています。」
 参謀の夏国相だ。
「将軍が都を離れられてはや三年。その間部下達は奮戦してきましたが、戦陣での疲労は鬱積し、今やそれは極まっています。『強弩の末、薄絹も穿つ能わず』と申すではありませんか。ここで強いて決戦しても徒に恥を取るばかりです。ここは一旦保寧まで後退し、軍備を固めましょう。そうやって兵卒に急用を与え鋭気を回復させてから、敵の隙に乗じるのです。それしかありません。」
「しかし保寧で支えられるかな?」
「保寧城は確かに小城ですが、その地形は堅固。それに、敵が追撃をかけてきたら、今度は我々が城に籠もって防戦するのですから非常に有利になります。その時こそ敵を撃滅できます。」
 呉三桂は納得し、保寧まで撤退した。
 呉三桂軍の撤退す。その報告に、劉文秀は大いに喜んだ。
「敵はもう戦意を無くした。今こそ反撃の時。逃すでないぞ。」
「それはまずい。」
 待ったをかけたのは王復臣だ。
「我々は連勝で大いに志気が挙がった。だが、敵の方が大軍なのだ。ここで追撃して、敵の中で孤立したら却って大敗してしまう。ここは孫閣下の後詰めを待ち、合流して一気に敵を壊滅するべきだ。」
「いや、呉三桂は虎だ。弱っている時にとどめを刺ささずに鋭気を回復させてしまえば、手の打ちようがない。それに、我々も連勝しているのだ。弱兵ではない。孫閣下の来援など、待つ必要もない。」
 遂に制止を振り切って、劉文秀は追撃を命じた。彼等は保寧まで一気に進撃し、軍を四隊に分け、これを包囲したのである。王復臣はこの布陣に驚いた。
「これでは呉三桂軍に逃げ場がない。」
「ここで逃がさぬ為に追撃をかけたのだ。」
「しかし、呉三桂は敗れたとは言っても、大敗したわけじゃない。まだ十万からの大軍を擁しているのだ。その兵卒達が覚悟を決めて反撃したら危険だ。『背水の陣』という言葉もある。この死地にあって呉三桂が全軍を鼓舞したら、奴等は死に物狂いで向かってくる。ここは一方の囲みを開けよう。奴等は敗戦で戦意が萎えているから逃げ場所があったら逃げ出すさ。そうすれば失地を回復できるし、それで良いではないか。」
「いや、戦には勢いがある。今は敵を全滅するべき時だ。味方の士気を阻喪させるような言動は慎んでくれ。」
 劉文秀は包囲を厳重にするよう命じ、王復臣には全軍の参謀を頼んだ。西南二軍の指揮は張璧光。自身は東北二軍を指揮した。張璧光は、剛勇無双の猛将である。
 こうして、保寧城は完全に包囲され、あたかも鉄の棺桶のようだった。
 だが、呉三桂には余裕があった。
「城攻めには敵の三倍の兵力が要る。今回、敵の方が小勢だ。劉文秀め、勝ちに驕ったな。この軍勢で包囲されても撃破など容易い。敵将は誰か?」
「はっ、斥候の報告によると、東北二陣が劉文秀、西南二陣が張璧光。」
「張璧光?あの猪武者か!無謀な奴など恐れるに足らん。よし、討って出るのは西南の二面。精鋭兵へ伝達せよ。突撃して東へと転戦。俺は敵の混乱を測って、東門から突撃する。」
「はっ!」
 呉三桂軍も、動き始めた。