第八回  闖王は圓姫を棄てて陜西へ逃げ、
     呉三桂は誥命を賜って南朝と戦う。

 さて、李自成は呉襄を城壁の上へ引き出して今にも殺そうとして見せたが、呉三桂は兵を退く気配すらなかった。とうとう、李自成は呉襄を斬り殺し、併せて呉三桂の一族三十人を虐殺してしまった。そして、その首級を次々と投げ落としたのだ。
 呉三桂は激怒して、投げ落とされた首級を集めるよう部下に命じた。次々と集められた首級は、父の物、母の物、弟の物。あるいは使用人の物もあったが、圓圓の首級だけ見つからなかった。
゛何故圓圓の首だけがない?まさか彼奴目、毎晩圓圓を弄んでいるのか!゛
 思った途端、彼の怒りが爆発した。しかし、こんな思いを言葉には出せない。
「父の仇、君の仇、そして家族の仇!手を休めるな!」
 主人の惨劇を目の当たりに見た兵卒達も、我が事のように怒りに燃えて攻撃は益々激しさを加えた。
 片や李自成は勢いに任せて虐殺したものの、呉三桂の怒りを恐れて城内へ逃げ帰ってしまった。
 この時、圓圓だけは身近にいた。李自成は、恐れの余り呉三桂へ送り返そうと考えたが、そう思って圓圓を見遣れば心を蕩かす艶やかさ。やはり後ろ髪引かれたので、幹部を集めて軍議を開いた。すると、谷大成将軍が言った。
「呉三桂と戦う前に圓圓や家族を送り返したならば、まだ何とかなったかも知れません。しかし、今は既に虐殺を行ってしまいました。呉三桂がいくら圓圓が愛しくても、両親を見殺しにして女を取るなど他人の口が恐ろしいでしょう。それで退却などした日には、彼は物笑い。この状況で圓圓を送り返したならば、却って彼は後顧の憂い無しに猛攻撃を掛けるに違い有りません。このまま圓圓をそばに留めて防戦に徹してください。」
 彼の言葉に、李自成の顔が輝いた。すると、その表情を見た李岩が、思わず言った。
「大王は家族を皆殺しにしながら、圓圓一人殺さなかったのですか!それなら、大王が色香に迷ったと笑われましょう!これは亡国の行為です。かくなる上は彼女も殺し、士卒を鼓励して最後の一戦をしかけるのみです。たとえ敗れても都を棄てて逃げるのみ。無用の誹りを受けませんよう!」
「いや、わざわざ殺すには及ぶまい。それに最後の一戦を仕掛けるなど自棄になるな。とりあえず谷将軍の言う通り、ここは防戦に徹しよう。」
 と、その時、伝令兵が駆け込んできた。
「呉三桂軍、外城を突破しました!」
 李自成は慌てふためいて幹部達を振り返った。
「呉三桂は悍将だ。しかも、外城が破られた。どうすればいい?」
 すると、谷大成がキッパリと言った。
「某が、呉三桂と決戦します!」
 李自成は大喜びで谷大成を送り出した。谷将軍は一軍を率いると討って出た。
 片や呉三桂は真っ先立って奮戦している。谷将軍はすぐに呉三桂を探し出した。
「てめえはそれでも中国人か!野蛮人に泣きつきやがって!この卑劣漢!俺が成敗してくれる!」 呉三桂は返答できなかったので、知らぬ顔をして軍を指揮した。
 号令一下、弓や弩が一斉発射。谷大成は必死で部下を励まして応戦した。明け方から夕暮れ時まで激戦が続いたが、互いに死者が増えるばかりでなかなか決着はつかなかった。
 と、忽然として大風が吹き荒れた。飛び交う黄砂は日を陰らせるばかり。そしてこの風で、谷大成軍の軍旗が倒されてしまった。
゛不吉な!゛
 谷軍の兵卒が動揺した。その有様に潮時を感じ、谷大成は退却を命じた。
 この時、李自成は城壁の上から戦況を見ていたが、谷軍が退却するのを見て士気を鼓舞させてやろうと軍鼓を鳴らさせた。その音に呉三桂が振り返ると、城の上に李自成か居るではないか!彼が狙いを付けて弓を射た。矢は風に乗り、李自成の左肋に見事、命中した。李自成軍は大騒動。更に大風は吹き荒ぶ。遂に谷軍は総崩れとなって城中へ逃げ帰った。呉三桂軍は勢いに乗って攻めまくり、遂に外城を撃破して城中へと踊り込んだ。
 丁度その時、九王ドルゴンの率いる本隊が到着した。
「外城を陥落させたのは将軍の殊勲。この上は京城陥落も楽なもの。後日の論功行賞では、将軍こそ勲功第一である。」
 言葉を受けて、呉三桂はドメゴンを拝礼したが、すぐに戦闘の指揮を続けた。
 片や李自成は部下達から抱えられて宮城内まで逃げ帰ることができたが、志気は完全に萎えてしまった。
「呉三桂一人でさえも持て余しているのに、満州国の援軍まで到着した。これでは勝てんぞ。ここで大敗すれば兵卒達は愛想を尽かして逃げ出すだろう。今は逃げるのが上策だ。西方の秦隴まで逃げ込み、そこで兵力を回復して再び決戦を挑もう。」
 すると、全員が頷いた。将軍達にも厭戦気分が広まっていたのだ。
 衆議一決すると、李自成は軍卒を呼び集め宮城へ火を放って焼き払った。そして宮殿内のめぼしい宝を一切合切かっさらうと、圓圓を拉致したまま西の門から逃げ出した。先陣は牛金星。殿は谷大成。他の将軍達も続々と逃げ出していった。
 呉三桂が、城内を見遣れば、旗指物は翻っているが散閑として人の気配がない。更に、突然火の粉が飛び上がったので、呉三桂は雀踊りして喜んだ。
「見ろ!賊軍は都を棄てて逃げ出したぞ。我等の勝利だ!」
 応戦していた賊軍も、もはや蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。呉三桂は得意の絶頂で命じた。
「よし、入城するぞ!陣形を整えよ!」
 だが、
「あいや、待たれよ!」
 阻んだのはドルゴンである。
「この様子だと、賊徒共は西へ逃げたようだ。多分、長安へ落ち延びるのだろう。そこで勢力を回復されては、今までの苦労が水の泡。ここは、勢いに乗って追撃するべきだ。疲労した兵が一度休むと、緊張が一気に解け、却って疲れ切ってしまうものだからな。甲冑を解かずに、このまま追撃するべきである。賊徒共を一掃し、君父の仇を討ってからゆっくりと休んだとて、決して遅くはあるまい。」
 呉三桂は命令を拒めず、そのまま西へ向かって進撃した。

 李自成は、北京を逃げ出した後、呉三桂から追撃されることを恐れて日夜休まず走り続けた。これに対して呉三桂も、一つには李闖を自分自身で殺したかった為、二つには賊徒を一掃して都へ凱旋する為、三つには勝ち戦で志気が高揚していた為、疾風のように追撃し続けた。そして、山西界でようやく追いついた。
 呉三桂が追いついたことは、後陣からの報告で李自成の耳に入った。李自成は眷属や輜重を棄てて逃げ足を早めようと思ったが、圓圓を棄てて行くのは忍びなかった。しかし、背に腹は代えられない。李自成は、断腸の想いで圓圓へ言った。
「お前を此処まで連れてきたのは、呉三桂への人質としてだ。お前が呉三桂を説得してくれるというのなら、奴へ引き渡したそう。さもなくば奴は猛撃をかけ、我等は全滅してしまう。」
「呉三桂は勇敢ですが愚か者。陛下、どうかそのようなことをなさらないでください。彼が此処まで追撃したのも、実は妾を奪還する為なのです!妾を奪ったら、きっと軍を返すでしょう。でも、彼は暴戻な男です。妾は彼と会いたくありません。」
 思いがけない返答に、李自成は相好を崩した。
「では、お前はどうしたいのかな?」
「妾は会いたくありませんが、陛下のご命令ならやむを得ません。妾は彼に愛想を尽かしていますが、彼は妾に首ったけ。妾の言うことならば、何でもやってくれます。ですから、陛下が妾の言う通りになさるなら、きっと追撃を阻んで見せます。」
「それはお前の言う通りにしよう。しかし、あいつに会いたくはないのだろう?」
「もしも、妾を呉三桂へ引き渡すと言うのなら、嫌なことです。あいつはきっと、妾が陛下に辱められたと勘ぐるでしょうから。」
「ああ、そうゆう事か。」
 賊軍の首領は上機嫌だ。
「それなら好きな方法で逃げ帰って良い。そしてもしも呉三桂が退却したら、朕が中国を平定した暁には、お前をきっと皇后にしてやるからな。」
「陛下から殺されなかっただけでも、感激の至りでございます。皇后など畏れ多い。もしも陛下の為に追撃をくい止めることができましたなら、髪を下ろして尼となり二度と俗世と交じりません。さあ、ここで妾を棄てていってください。妾はここにて呉三桂を待ち、再会した時には陛下の為に説得して見せます。彼が退却するように。」
 李自成は大いに喜んだ。
「花の貌玉の肌。尼になるなど勿体ない。待っておれ、朕はきっと勢力を回復しお前を迎えに来るからな。」
 と、その時、せわしげに声が挙がった。
「呉三桂軍が来ました!」
 李自成は離れがたい想いだった。圓圓も上辺は名残惜しそうな振りをした。
「ああ、陛下、時間がございません。陛下の為に働くのなら、今こそその時。」
「お前を棄てて行くと、どのように扱われるか気に掛かる。」
「陛下の軍卒が乱暴をしなければ、妾は一人で平気です。」
 そこで、李自成は割り符を渡した。
「これを持てば大丈夫だ。部下は悪さをしないだろう。ではくれぐれも気をつけて。きっと迎えに来るからな。」
 李自成は馬を進ませたが、何度も何度も振り返った。
 李自成の姿が見えなくなると、圓圓は嘘泣きをやめて逃げ出した。
 陣営を離れて少し進むと民家が見えたが、一家揃って逃げ支度をしていた。圓圓はかくまってくれるよう頼んだが、このような状態で妙齢の女性をかくまえられる訳がない。
「心配なさらないでください。妾をかくまってくれたなら、この戦乱に巻き込まれないどころか、きっと大金が貰えますわ。」
 この家主の名は陳六安。彼が圓圓の言葉に訝しがって素性を聞くと、彼女は答えた。
「陳圓圓と申します。呉三桂将軍の愛妾で、李自成に拐かされていたのですが、混乱の中で逃げ出すことができました。いずれ将軍も来るでしょう。そしたら助けてくれます。」
 陳六安がよくよく目を見開くと、目の前の女性は天女のような艶やかさ。すぐにその言葉を真に受けて家の中へ案内した。さて、落ち着いてみると、二人とも名字は同じ「陳」である。これも何かの縁だろう、と、二人は義兄弟の約束をした。
 そうこうするうちに、通りが馬や車の音でやかましくなった。李自成軍が逃げているのだ。圓圓が貰った割り符を家の門へ掛けたので、この一行は陳家へ害を為さなかった。
 彼等が通り過ぎると、圓圓は割り符を片づけた。
「もうすぐ将軍がやって来ますわ。さて、義兄さん。妾の言う通りにしていただけるなら、きっと報酬が貰えます。」
 陳六安が承諾したので、圓圓は文を書いた。

゛将軍と別れて都へ残ったのは、決して妾の本意ではありません。家訓と、国の掟のせいで、どうしようもなかったのです。いつも貴方を想っていました。それこそ、日照りに雨を待つように!それが図らずも盗賊達が跋扈して都は蹂躙され、妾は浚われてしまいました。国が滅び陛下が崩御された今、生きていて何の楽しみがありましょうか?でも、一目貴方に会いたくて、又、身の潔白も証明したく、敢えて生きてきたのです。李闖は何度も迫りましたが、妾はキッパリとはねつけてまいったのですよ。
 幸いにも、李闖が貴方を畏れていた為拒み通すことができました。そして、賊徒達が逃亡する混乱の中、隙を見て割り符を盗み逃げ出すことができたのです。
 都を出てから幾日経つか。親兄弟の行方も判らない。首を巡らせて北を見遣る度に切なさに胸が締め付けられるのです!今、妾は兄の家に居り、将軍一人を心の支えとしています。
 そんな中で、都を回復した将軍が逃げ去った賊軍を追撃に出たとの風聞を耳にし、謹んでお手紙をしたためました。妾を想う気持ちが将軍の御心の中ににまだ残っておりますならば、どうか迎えに来られてください。
 手紙では、思いの丈を尽くすことができません。ただただ再会をお待ちするだけでございます。゛

 陳六安は手紙を受け取ると、呉軍の陣中へ行った。手紙を受け取った兵卒は差出人の署名を見ると、慌てて呉三桂のもとへ持って行き、呉三桂はすぐに手紙へ目を通した。
「おお、圓圓は私を裏切らなかった!」
゛人情に溺れれば、利口者も盲に変ってしまう。゛とはよく言ったもの。圓圓が李自成に拉致されて都落ちしたことも、呉襄が処刑されたことも明々白々な事実なのに、彼はこの手紙にまんまと丸め込まれてしまった。
 呉三桂は手紙を読み終えた後、陳六安を連れてこさせた。彼が圓圓の兄と名乗ると、呉三桂は大喜いに喜び、すぐに圓圓を迎えに行かせると共に六安には金や絹を褒美を与えた。
「我が軍が敵を撃破したなら、官位も与えるよう推薦してやろう。」
 陳六安は拝謝して去っていった。
 今、呉三桂の目の前には圓圓が居る。
「李自成を破ったことなどどうでも良い。今はお前が居てくれる!奴等は俺の家族を皆殺しにしていったが、お前は無事だった。ああ、天に感謝したい!」
 圓圓は努めて虚涙を流した。
「あの大難で、幾度死のうと思いましたか・・・。ただ、将軍に会いたいばっかりに、歯を食いしばってきたのです。今、将軍が居られます。もう、何も要りません。
 振り返ってみれば、妾は家にも殉じず、国にも殉じず、本当に罪深い女でございます。できますなら、今、ここで玉の緒を断ち切り、身の証を立てとうございます。」
 言葉と共に、彼女は短刀を抜き放ち我が喉へ押し当てた。呉三桂は慌てて短刀を奪い取るや、人目も憚らずに圓圓を抱きしめた。
「馬鹿なことをするな!誰もお前を疑ってなどいない。俺は挙兵してからずっとお前のことばかり想っていたのだ。お前の苦労を思いやれば、挙兵の遅すぎたことが悔やしくてならん。ただ、お前が賊の手に落ちずに再会できたのだ。これからは二度とお前を放さない。そう、この天と地が砕け散る時まで!」
 その言葉に、圓圓は泣き崩れた。
「さあ、これで何の憂いもない。この上は賊軍を皆殺しにして家族の怨みを晴らしてやる。圓圓、お前ももう何の心配も要らないぞ。俺と一緒について来い。」
「あ、そうそう。」
 圓圓は涙を納めた。
「将軍の出征は御国の大事。妾は何も言いません。けど、一つだけお聞かせください。将軍は満州軍から兵を借りられたのではございませんか?その満州兵は今どこに?」
「連中は北京へ入城した。俺は賊軍追討を九王から命じられたのだ。」
 圓圓は訝しげに眉をしかめた。
「九王はどうして同行なさらなかったのでしょう?将軍を都から追い出して、何か企んでいるのではございませんか?」
「そりゃ、都にも衛兵は要るさ。追討の役が俺に回ってきた。それだけだ。」
「将軍は満州兵を借りただけではなかったのですか?どうして九王の命令をお聞きになるのです?それにそのお姿。」
 圓圓はまじまじと呉三桂を見遣った。弁髪と、満州の服装。
「もしや将軍。明の復興をお忘れになられたのでは・・・。」
「馬鹿を言うな。ただ九王の信頼を得るための方便だ。」
「でも、将軍は西征へ出られ、九王は都に・・・。これは大変なことではありませんか?試みに尋ねますが、もしも賊軍が二殿下を返還していたら、九王は彼等をどうなさったでしょうか?」
「おかしな事を聞くものだな?九王殿下は俺を裏切らんよ。」
「それは間違ってます!昔、項羽と劉邦が戦った時、彼等の周りの人間は暴戦を行い、献策される謀略は詭策のみでした。誰か信義を貫いた人が居ましたか?将軍が都を留守にすれば、その隙に九王は北京を乗っ取ってしまいます。」
 呉三桂は躊躇して答えられなかった。
「ああ、もしも妾の推量が当たったならば、将軍は賊軍を掃討しても、却って大罪を犯したことになります。大体、賊軍は夜逃げした窮余の軍隊。将軍の手を煩わす程の相手ではなかった筈です。大局に立って観るならば、将軍は急いで引き返すべきです。将軍の軍隊の威風で脅せば、あるいは野蛮人の野望を頓挫させられるかも知れません。でなければ、中国の危機でございます!」
゛あっ!゛
 呉三桂の背筋を、冷たい物が駆け抜けた。
゛ありうるが・・・・まずい!九王が中国を強奪したら俺の軍隊では勝ち目がない。゛
 しかし、圓圓の言葉は理に適っており、反論の余地もない。心中の焦りを隠して、呉三桂は撤兵を命じたのである。

 彼の軍隊が河間まで引き返すと、都の風聞も耳に入った。
 果たして、九王ドルゴンは北京を占拠していた。満州王が入京したら皇帝に即位させ、自身は摂政として全権を担おうとの腹づもりだ。降伏した将軍の范文程や洪承畴は彼の股肱となっていたが、軍権は全て九王の手に握られていた。
 昔日の北京の官僚達は大半が彼の許へ群がり寄った。恥を知る者にしても、せいぜい門を閉ざして隠遁するのが関の山であり、しかもそのような官僚はごく少数に過ぎなかった。范文程や洪承畴が、そのような連中の間を飛び回って出仕を促したからである。
 ただ、ここに一人の城兵がいた。彼は同僚に言った。
「俺はここを数十年も守備してきたが、図らずも野蛮人共に占領されてしまうとは!この上命を貪って何の意味が有ろうか!」
 彼は、そのまま城壁から飛び降りて自殺した。
 城内の庶民達は、李自成の乱暴狼藉に懲りていた。満州軍が入城すると、ある者は旗や幟を立てて恭順を示し、又、ある者は李自成軍の後を追って逃げ出した。こうして、九王は一兵も傷つけることなく北京占拠を果たしたのだ。
 噂を聞いて、呉三桂はため息をついた。進撃しても勝てない。今更退却するのも恥である。進退はここに極まった。と、幕僚達がドカドカと押し寄せてきた。
「閣下。早くご指示を。」
「まあ待て。九王は疑い深い。変に睨まれたら我が軍は壊滅してしまう。今は国家の大事だから過ちのないようにしなければ。」
「なにを他人事のように言われるのですか。あの満州軍は、将軍が引き入れたのですぞ。それでいて撃退できないとなれば、明の宗廟にも天下の万民にも顔向けができません。もしも閣下が日和見を決め込んだら、千代万世までの物笑いです。」
「判っておる。だが、真っ向勝負では勝てん。満州軍と戦えば、背後の李自成軍から挟撃されるではないか。」
「北京以外はまだ明の領土です。根拠地を創れないわけではありません。それに、明朝は二百年。その間大勢の武門を養ってきました。忠義の士は必ず居ます。憂国の軍団は、将軍の一挙で全国から馳せ参じます。思い煩うことはありません。」
「諸君の言葉にも一理ある。もうしばらく考えさせてくれ。」
 呉三桂はそう言って、諸将を引き取らせた。

 ところで、呉三桂が北京の風聞を耳にしたように、呉三桂軍の動きも北京に伝わっていた。
゛さては呉三桂、寝返ったかな?゛
 九王は思った。
゛奴が反旗を翻したら、大河南北の各省は必ず義軍を起こして呼応するに違いない。よし、機先を制して招安するか。゛
 彼は即座に思案を定め、洪承畴を軍使として派遣した。呉三桂を平西王に任じ、その証の冠と服及び褒美の金や絹を届けさせるのが、その内容だった。

 さて、ここで話は変わる。
 当時、蘇州に王仁龍とゆう男が住んでいた。洪承畴の親友の息子で、なかなかの名士である。彼は、今までの一連の風聞を聞いて明王朝の滅亡を知り終日慟哭していた。そんなある日、洪承畴が派遣されたとの噂が彼の耳へ届いた。
「呉三桂を懐柔するのだな。
 北京の戦況を観るに、呉三桂が満州の麾下へ入ればもはや明の望みは絶たれる。だが、あいつは武人で大義を知らん。好餌で釣られたら喰らいつくぞ。どうすれば良い?」
 あれこれ考えているうちに、フと彼は思いだした。
「そうだ!昔、遼陽で明軍が大敗した時、洪承畴が戦死したとの風聞が入り、崇禎帝陛下は哀悼の想い断ちやらず御自ら哀悼文を作られたことがあった。」
 だが、実際には洪承畴はオメオメと降伏して生き延びていたので崇禎帝は酷く後悔したのだが、その話は置いておこう。この時、王仁龍はその哀悼文に感激し一言一句空暗記したのである。
「よし、これでおじさんを無明の闇から救い出してみせよう!」
 彼はそう決意すると、一枚の文書のみを懐に入れて洪承畴の許へ出かけたのである。
 さて、洪承畴は変節をさすがに後ろめたく想っていた。又、世間の誹りも怖かったので、有名な文人とは努めて交友を求めていた。ましてや王仁龍は親友の息子なので、彼が面会に来たと聞くや洪承畴は即座に彼を招き入れた。
 久闊の挨拶を型通り済ませた後、王仁龍は言った。
「ところでおじさん。本日の行軍は何のためです?」
「いや、呉軍をねぎらいにな。」 その言葉は、いやに歯切れが悪い。王仁龍はしたり顔で頷いた。
「ははあ。呉三桂の造反を畏れた九王が、先手を打って籠絡するのですね。これで北京は安泰・・・か。」
 洪承畴は黙り込んで答えない。すると、王仁龍は笑い飛ばした。
「ああ、そんなに警戒しないでも。国家の大事には、こんな学者風情の出る幕はありませんよ。それより今日私が来たのは、これこれ、この話だ。」
 言いながら、彼は懐から文を取り出した。
「手慰みに書いてみたのですが、結構気に入ってるんです。おじさんに進呈したいのですが、批評してくれませんか?忌憚ない所を聞かせてください。」
 洪承畴は緊張を解いて笑った。
「ああ、風流か。しかし、わしも暫くその道から離れたからなあ。」
「それでは私が朗読しましょう。おじさんはそれを聞いて批評してください。」
「うん、それは良い。」
「それでは・・・。」
 王仁龍はゆっくりと息を整えると、朗々と朗読を始めた。崇禎帝御製の哀悼文。
 洪承畴の武勇を嘉し、功績を賞し、忠誠を愛で、憤死を悼み、悲運に涙す。
 変節の老将は愕然として言葉を無くし、その面には汗が雨のように流れた。王仁龍はその慚姿には目も遣らないで朗読を続けた。張りのある、よく通る声で。
 詠みながら、彼の瞳からも涙が零れた。
「・・・・・累々たる忠臣の屍は柱石と化して本朝を支える。朕、いずくんぞ励まざるを得んや。その遺児を抜養し、万民を慰撫し、暴虐を除き良民を安んじ、天下に喜楽を満たさしめ、以てその忠に報いん。
 力及ばざる時は、朕は必ず不徳を以て身を責めん。何ぞ君を指して才足らずと貶めさんや。」
 朗読を終えた時、彼の胸を、熱いものが突き上げた。
「自分が節義を無くしたとて、他人を巻き添えになさいますな!呉三桂が寝返ったなら、この国が滅びます!」
 一声叫ぶと慟哭し、王仁龍は後をも見ないで走り去って行った。
 洪承畴の心に躊躇いが生まれた。良心や羞恥心と九王への畏怖で、進むことを憚り、引き返すこともできず、ただ宿屋の一室に閉じこもって泣き暮らすばかりだった。だが、しばらくすると、九王の使者がやって来た。
「某は孟拱文と申します。閣下が余り動かないので、九王殿下は某を副使に任命されたのです。まさかお役目を中途で放棄なさるおつもりではありますまいな?」
 洪承畴は不承不承、旅を続けた。

゛九王が呉三桂を平西王に封じる。゛
 その噂は呉三桂の耳にも入った。彼はその地位に薬指が動いたが、この頃、別の風聞も流布していた。
゛江南で、元官僚の史可法が決起した。彼は福王を擁立し、明の正統を標榜している。゛
 明を復興させるなら、当然こちらに加担するべきだ。呉三桂は二者択一に迷っていた。 そんな時に、洪承畴が九王の使者としてやって来たのだ。呉三桂はすぐに本営へ通した。
 九王の命令に従って、洪承畴は、王へ封じる詔とその証たる冠帯、そして褒美の金や絹を呉三桂へ渡し、呉三桂はそれらを一々拝受した。
 それきり、洪承畴は黙り込んだ。と、その時、孟拱文がしゃしゃり出てきた。
「閣下は李自成追撃を中途で放棄し軍を北京へ向けて居られますが、まさか九王殿下と雌雄を決するおつもりではありませんか?それならとんだ愚か者ですぞ。将軍の麾下にも大勢の満州兵が居るのですから。九王殿下へ鉾を向ければ軍が忽ち二分して相争ってしまいます。これでは閣下と言えども戦はできますまい。更に、既に山海関を占領した以上、満州本国は九王へいくらでも援軍を送れるのですぞ。それに対して、閣下には後ろ盾もありますまい。福王が南京で即位したとはいえ、たかが田舎の一軍閥。その勢力など、お話にもなりません。明は既に亡んだのです。今更亡霊に忠義だてしても何になります?苦労に苦労を重ねても、とても王になることなどできますまい。我が国は、閣下のことをこれだけ手厚く遇しております。その上、閣下は我が国にとっても開国の元勲。北京が平定された暁には晋王にだって当然なれます。この機会をどうかお見逃し無く。」
 呉三桂は心が動いた。「王」の称号も欲しいし、九王も恐ろしい。そして、万一九王を破っても、その後には満州国との泥沼の戦いが待っている。そこまで思い至った時、彼は意を決し再拝して賜を受け取った。その間、洪承畴は遂に一言も喋らなかった。
 さて、公務がこれで完了したので、呉三桂は宴席を設けて洪承畴を歓待した。この席で彼は洪承畴へ言った。
「某は、『逆賊を討ち明を復興した後、ただ蘇・燕の二州を割譲する』と九王殿下にお約束したのです。しかし、今、殿下は北京を占領し、中国全土を平呑しようとして居られる。某は同胞にどう顔向けすればよいのでしょうか?どうかお教え下さい。」
「今、私は微妙な立場なのですよ。軽々しいことを言えば九王から疑われてしまう。たちまち首が飛ぶでしょう。しかし、先程の誤りだけは指摘できます。そもそも蘇・燕二州を割譲すれば、連中はすぐにでも北京を攻略できたのですよ。ですから、閣下が現状を指して九王を非難するのは筋違いです。」
「聞くところでは、九王は摂政で、いずれ満州王が北京へ入城すれば改元して帝位に即くそうです。これは中国の滅亡ではありませんか。今、福王が南京で即位して居られますが、彼等の将来はどうなるでしょうか?」
「あの政権では、史可法一人が忠臣です。他の閣僚は、ただ私腹を肥やすことしか考えておりません。」
 呉三桂は黙り込んだ。その心中で、大明復興の志がすっかり崩れてしまった。この時、彼は満州王への忠勤を決意した。
 翌日、洪承畴は帰っていった。程良いところまで送っていった呉三桂が本営へ帰ってみると、忽ち伝令兵がやってきた。
「南京の福王殿下の使者がお見えです。」
「なに?」
 九王が北京を占領したと聞いた福王は、大員の左恋第を使者として九王の元へ派遣した。金や絹を九王へ贈り、崇禎帝の墓に詣らせるためである。その左恋第が、北京へ行く前に呉三桂のもとへ立ち寄ったのだ。もちろん、彼の真意を探る為である。あわよくば、彼には南朝へ駆けつけて欲しかった。その暁には平西伯の爵位を与えることも、あらかじめ承諾されていたのだ。
 呉三桂は、南朝の使者には会いたくなかった。かといって明確に拒絶するわけにもいかない。彼はハタと考え込んだ。