第二十九回  江西を棄て、国相兵を退き、

        広東へ走って尚王命を落とす。

 

 さて、王屏藩軍は嵩に掛かって攻め立てる。清軍がどうして支え切れようか?ただ、逃げまどうばかり。それを周軍が追撃する。これを見て図海は、平涼を攻略されることを恐れた。そこで、王進宝に殿を任せ、呉之茂を防がせた。そして自らは王屏藩の一隊を防ぎ、その隙に張勇へ、平涼へ急行するよう命じた。
「王屏藩が何度も戦いを続けてきたのは、平涼を攻略する為だ。平涼以外の慶陽、正寧一帯の守将達の大半は王屏藩の党類である。平涼が陥落すれば、各路が連合して東へ向かう。こうなれば、秦・趙は完全に奪われてしまうぞ。だから将軍、平涼を何としても死守してくれ。」
「はっ。ところで、西安を守る貝子顎洞が孤立しております。某はこれが気がかりです。」
「固原は西南の片隅。王屏藩の力もそこまでは及ばん。」
「既に漢中が周の勢力に入って久しゅうございます。ここからなら、西安を攻めるのも容易です。それに、武功・扶風の各所へ周兵が駐屯して居るとも聞きます。ここは西安にとって喉元の地。彼等が連合して西安を攻撃すれば、危険です。
 今、我が軍の受けた打撃は、尋常ではなく、このままでは勢力回復はままなりません。その上顎洞の軍まで敗れては、我が国の秦隴の勢力は喪失してしまいます!ここは寧ろ西安を棄て、顎洞の軍だけでも保全するべきでございます。そうすれば、まだ、再起の縁が残ります。」
「上策だ!確かに、西安は既に死地。これを保全しても戦略的な価値は全くない。これは棄てるべきだ。」
 そこで、さっそく顎洞のもとへ伝令を飛ばした。
”急いで西安を撤退し、長安へ移動せよ。そこで我等を声援し、凰翔を確保するのだ。”
 その後、全軍に命令し、戦いつつ逃げた。
 味方が防戦している間に、張勇は平涼へ入城すべく軍を急がせた。すると、城北に土埃が舞い上がっている。遠望すれば、人馬の一隊が駆けつけてくる。早くも、流星馬が報告に来た。
「鎮源は既に陥落。敵軍の勢いが鋭すぎ、とても防御できません。あの一隊を率いるのは、敵将馬雄図。」
 聞いて、張勇は部将達へ言った。
「休養は後回しだ。急いで城内へ入れ。」
 だが、その時既に馬雄図軍は間近に駆けつけ、槍をふるって張勇軍を襲撃した。清軍は更に混乱した。
 馬雄図の率いる兵は、皆、川・陜の健児だった。山歩きならお手の物。鎮源を陥すや否や、彼等は飛ぶように移動したのだ。これに対して張勇は敗残の余兵。どうして太刀打ちできようか?
 結果、清兵は城から二里も離れたところで、散り散りに逃げ散ってしまった。馬雄図は、軍を二手に分けると、一隊には張勇を追撃させ、残る一隊で城と争った。そこへ、王屏藩と呉之茂が追いついてきた。
 図海は進退窮まっていた。兵卒達が叫び声を挙げ、無為に逃げまどうのを、ただ手を拱いて見ているだけ。
”これではとても平涼を守れぬ。”
 そこで命令を変更し、平涼を棄てて長武へ逃げるよう指示した。
 図海軍の混乱を見た王屏藩は、必ず退却に移ると見て、呉之茂と馬雄図へ三路から追撃するよう命じた。
「図海は、能将として清軍に名高い。我等が平涼を陥し、我等が王輔臣を降伏させ、猛虎のような勢いがあった。今、この虎を平地にて陥れた。速やかにその死命を制せ。もしも山へ返したなら、この虎は再び人を襲うぞ!全軍の兵士よ。積年の仇を雪ぎ、不世の勲功を建てよ!もし図海を殺したならば、王公に封じられるのも夢ではないぞ!」
 兵卒達は、この言葉に奮い立ち、猛然と追撃を開始し、万の槍が一斉に繰り出された。
 王屏藩は更に言った。
「降る者は殺さぬ!」
 これを聞いた清の兵卒は、続々と投降してきた。王屏藩は彼等を招納しながらも、追撃の手を休めない。兵卒達を指揮しつつ、敗残兵を追い詰めて行った。
 一方、図海は、逃げ回っている最中、彼の馬に弾丸が命中し、地面に放り出された。その時側にいた清将の王振標が、慌てて彼を抱き上げると自分の馬を譲った。そこへ王進宝が駆けつけて来た。彼は図海を救出しつつ、言った。
「こうなったら逃げるだけです。ただ、我等に救援がない以上、我等の逃亡は敵方も予測し、追撃するに決まってます。元帥は全軍の要。どうか速やかにお逃げ下さい。」
 そして、驍騎数百をかき集め、吉林馬陣を補けとして、図海を守りつつ重囲へ突入した。
 彼等の奮戦で、図海はどうにか死地を脱出した。
 王屏藩は、屍を踏み潰して追撃したが、一日走っても追いつけない。しかも、長武へ近づきすぎた為、遂に追撃を撤収した。
 勇猛果敢な周兵は、図海を取り逃がしはしたものの、大勢の清兵が降伏し、清兵の屍は野山を覆い尽くした。清軍では、万余の兵卒が降伏し、更に万余の兵卒が戦死した。そして、死傷した将校も数知れなかった。
 この完全勝利を、王屏藩は呉三桂へ報告した。そして、呉之茂を核にして十余人の部将に平涼を守らせた。又、馬雄図は、城外に駐屯させ、交通の要所を制圧させた。その後、盛大な宴会を催して、将兵の奮戦を労ったのである。
 やがて、戦後の作業が一段落したので、王屏藩は諸将へ言った。
「我は長いこと秦・隴で暮らしたので、この辺りの地形は知り尽くしている。部下には健将揃いで、兵卒も多い。長年に亘る転戦で、ようやく平涼を獲得したが、これによって清軍は防御の拠点を失った。これから後は容易だぞ。これを周帝へ伝えたところ、大いに喜ばれたそうだ。諸君等にも必ず重賞が賜下される。
 さて、図海だが、奴は必ず長武に籠もり、援軍を乞うて再起を図るに違いない。だから、清軍の力を尽きさせ、援軍を出せない状況へ追いやらねばならぬ。これについても、我に方策がある。」
  王屏藩は、漢中の軍隊へ、鳳翔へ出て、岐山・扶風・武功一帯を荒らし回りながら西安へ迫るよう命じた。談洪へは固原を固めつつ、近隣各軍を招撫するよう命じた。そして、馬雄図へは、北上して慶陽一帯を荒らし回り、長武を孤立させるよう命じた。
 この手配が済んだ後、各郡県へ檄文を飛ばして招来を計った。激戦に関わった兵卒達には休養を取らせ、その後に進攻する腹づもりだった。
 一方、図海。
 敗残兵をかき集めつつ、長武へ逃げ込むと、敵方は追撃を諦めた様子。一安心して左右へ言った。
「軍人になってからこの方、こんなに狼狽したのは初めてだ。今、我が軍は兵力の七・八割を喪い、再起は難しい。」
 言い終えると、大哭に泣いた。諸将から慰められ、図海は続けた。
「今回の敗戦は、全て我の失策だ。王屏藩の総出撃へ対して、備えが全く出来ておらず、後手後手に回ってしまった。
 しかし、『勝っても喜ぶに足らず、敗れても憂うるには足りない。』とはよく言ったものだ。昔は、王輔臣が健在で、王屏藩も現在の兵力を持っていた。この時に、我は王輔臣を撃退して降伏させ、王屏藩を牽制していたのだ。今、敵方は王輔臣の兵力を失った。それなのに、却って我は敵に敗れた。王輔臣を敗った後、我が軍は驕ったのだ!
 これから、諸将は我が咎を見れば直言して矯正してくれ。そうすれば、同じ轍を二度とは踏むまい。もしもそれができなければ、平涼どころか、この中国全土を呉三桂に奪われてしまうぞ!」
 すると、王進宝が言った。
「現在、敵患は既に深くなっております。これに対する方策は?」
「顎洞の一軍は、未だ無傷だ。彼の兵力を借りて再起したい。ただ、我が懼れるのは、呉三桂が再び出陣してくることだ。これについて、顎洞と合流した後に協議しよう。」
 敗残兵を検分し、精鋭を選抜してみると、なんとか一万ほどが物の役に立ちそうだった。そこで、張勇・王進宝・趙良棟へ三千騎ずつ与えて要害に分駐させ、図海自身は長武を守った。
 翌日、貝子顎洞の軍が到着し、全軍は二万を越えた。この二軍が合流し、清軍は再び勢力を盛り返した。
「この兵力で、平涼の恥を雪ぎましょう。」
 そう申し出たのは趙良棟。だが、
「まだ、その時ではない。」
 図海は、ゆっくりと方策を語った。
「まず、敵軍を秦・晋の出口から東進させてはならぬ。その為に、順承王へ二万の援軍をお願いしよう。そして、最も恐ろしいのは、呉三桂の北進である。これを防ぐ為には、蔡敏栄と岳東に長沙を攻撃して貰おう。そうすれば、呉三桂は北征どころではなくなる。」
 そうして、彼は順承王へ使者を派遣した。

 この時清朝廷では、西路の一軍がなかなか軍功を建てない為、重点を南東へ置くべきだとの意見も出ていた。それに、長沙・衡州は、呉三桂のお膝元でもある。その意味でも、岳東へ対して長沙攻撃が命令された。
 岳東は諸将へ言った。
「江西一帯は、得失を屡々繰り返し、兵力を大いに浪費した。ただ、敵はここを占領して、福建の耿王と連携を取りたいのだ。だから、ここは敵にとって必争の地である。今、蔡敏栄は岳州を奪還したばかり。だから、敵軍は長沙を顧みている。もしも敵軍が精鋭を長沙へ結集するなら、蔡敏栄一軍の手に余るだろう。我軍も、長沙へ急行せねばならん。」
 すると、菫衛国が言った。
「殿下の言うように、我等が長沙を目指して湖南へ入れば、確かに兵力は厚くなります。しかし、もしも敵の夏国相が江西へ出て福建と連携を取り、湖南の胡国柱と呼応すれば、我々は腹背に敵を受けてしまいます。ここは江に沿って西進し、湖南を窺いながら敵を牽制するべきです。」
 岳東は頷き、江に沿って進み、湖南へ入ることを朝廷へ上奏した。
 簡親王ラフとキジコ将軍は、湖南へ直行し、蔡敏栄を大いに活気づけた。岳東は水軍提督の楊捷に長江を守らせ、敵を防ぎながら川を渡り、自ら大軍を率いた。菫衛国を先鋒とし、まず南へ向かって南康を陥し、そのまま瑞州・臨江へと進んだ。
 まず南昌へ赴き、呉三桂と福建との連絡を遮断するのが、岳東の構想だった。だが、菫衛国は言った。
「福建については、顧慮する必要はありません。耿王が呉三桂に加担して既に数年が経つのに、未だに出兵の気配さえありません。奴の志が判ります!他の連中も、復明の想いに駆られて呉三桂へ同意したので、呉三桂が即位したのを見て興ざめしたのです。しかしながら、既に本朝へ対して反旗を翻した以上、後には退けないのでしょう。もし、我等が威圧すると、却って呉三桂へ追いやることになってしまいます。南昌を制圧しても、あそこは守りやすい城ではありません。このまま湖南へ入りましょう。」
 岳東も得心し、彼等は袁州へ向かい、蒲郷へ直行した。
 この時夏国相は、既に馬宝の報告を受けていた。
”岳州を放棄して長沙へ向かいます。”
 この報告を受け、夏国相は嘆息した。
「我が国は、将といい兵力といい、けっして敵にひけは取らない。それが今、荊州と岳州を失った。このままでは長沙がどうなるかも判らない。万一の事態になれば、我一軍が江西に居ても、何の意味が在ろうか?これは、退却して湖南を確保する方がよい。その後に再び進取の計略を練るべきだ。」
 議論している間に、流星馬が到着した。
「岳東が大軍を率いて南下しております。」
 夏国相は大いに慌てた。
「岳東がこちらへ向かうとゆうことは、既に湖南攻略の目算が立っているとゆうことか?これでは退却しない訳にはいかん!」
 そこで、すぐに郭荘謀、胡国梁へ撤退の命令を出し、陸続として湖南へ入った。
 周軍が長沙に集結すると、馬宝は胡国柱や夏国相と協議して言った。
「我が軍がここに集結していると、敵も一丸となって攻撃してきます。ここは何道かに別れて進駐しましょう。湖南の兵糧なら、向こう一年は大丈夫です。その傍ら、周帝へ出陣を請い、員陽から樊城一帯へ出張って貰うのです。そうすれば、蔡敏栄への牽制になりますし、こちらは岳東へ専念できます。」
 夏国相は言った。
「挙兵以来、数年が経ち、兵糧がそろそろ心許なくなってきた。今から持久戦へ持ち込むとしたら、某には三つの方策がある。
 一つは、両広・川・湘・雲・貴の塩の販売を拡大し、金を集める。
 二つには、工人をかき集め、真州の鉄を増産して銭を鋳造し、後日の蓄えとする。
 三つめは、奥州と尚之信へ使者を派遣して、魚塩の利を拡大し、後援とする。
 財力が満ちれば、軍卒の志気は自ずから高まり、今日の失意など憂うるに足りん。それに、将来的な財力の枯渇は大患。それも回避できるではないか。」
 胡国柱が言った。
「夏公の三策は、すぐにでも実行しよう。それにしても、我等が起兵してよりこの方、数多くの戦闘があったが、耿精忠と鄭経は、帰順の名前こそあるが、その実一兵も出して居らぬ。だから、敵方は江淮の一帯では一矢の打撃も受けぬのだ。何とも嘆かわしいことだ。」
 すると、馬宝が言った。
「胡ふ馬は国の至親。その貴公がそのような事を言われては、兵卒の志気に関わります。古来より、開創に艱難はつきもの。歴代の開祖達は、それを乗り越えて国を築いてこられたのです。今日の僅かばかりの蹉跌など、何で意に介することがありますか。天下は、人任せではなく、自分自身で切り開くもの。耿精忠と鄭経が助力するのしないのなどとは、二度と口になさいますな。今大切なのは、夏公の三策に従って国力を充実させることですぞ。」
 ここにおいて、夏国相は一隊を率い、渕陽・醴陵へ出向いた。馬宝と胡国柱は長沙の要道を守り、郭荘謀は長沙の西北を守って荊州からの攻撃に備えた。胡国梁には、衡・永を守らせ、根本を固めた。そして、この情勢を成都へ伝え、呉三桂の出陣を請願した。又、夏国相の三策に従って、経済行動も起こしたのである。

 ここで、話は尚之信へと移る。
 尚之信は呉三桂へ帰順した当初は、彼を援護して共に新王朝を築こうと、意欲満々だった。しかし、孫延齢が殺された時、呉三桂が軽々しく盟友の処罰を命じたと知り、心中失望してしまったのである。
 そこで、耿精忠や鄭経と共に越・広の諸州と連合して北上しようと考えた。だが、耿精忠も鄭経も動かない。そうゆう訳で、戦況を観望するに留まっていた。
 この時、呉三桂は既に湘・韓に蟠踞しており、福建や台湾も造反していた。そこで清朝廷は、両広へ思慮を巡らせ、尚之信の造反の罪を赦免することにした。そうなれば、両広の後患が無くなるばかりか、耿精忠も容易には動けなくなるし、彼と呉三桂の同盟を切り裂くのも容易となる。実に、一挙両得の策である。
 こうして、清朝廷は使者を派遣し、尚之信の罪を赦免して宣議将軍に封じた。
 尚之信とて、清朝への帰順を思わないではなかった。ただ、既に造反した以上、懲罰を免れないと考え、二の足を踏んでいたのだ。そこへ宣撫の使者が来て、前罪を赦免すると告げられ、遂に彼は宣議将軍の地位を拝受した。
 だが、積極的に呉三桂を討伐することにも躊躇われていた。そんな中、周の使者として王緒がやって来たのだ。尚之信が、王緒を礼遇すると、王緒は来意を説明した。そこで、尚之信は言った。
「孫延齢は、馬雄に陥れられたのだ。彼は呉氏へ帰順してから、何の落ち度もなかった筈。それなのに、忽ち誅殺されてしまった。これでは、降伏を呼びかけたとて、誰が応じるだろうか?」
「いえいえ、孫延齢は刺客に殺されたと聞きます。苗族の兵卒が不意に飛び出して殺してしまっただけです!まあ、それは呉世賓殿の警備が甘かったとは言えましょうが、周帝陛下の落ち度とは言えません。ですから、呉世賓殿はこれを悔やまれ、孫延齢を哀悼したのではありませんか!大王の心には、何が引っかかるのですか?私には理解できません。」
「うむ。それでは、もう一つ聞こう。周帝が挙兵する時、明の復興を唱えていたが、衡陽まで進軍すると、即位して皇帝になってしまった。明復興の志はあるのか?」
 王緒も、これは正論だと考えていた。だが、立場上、反論しないわけにはいかない。
「周帝も、当初は明の末裔を捜していたのですが、その人を得なかったのです。しかし、国には主君が必要です。そこで、仮にその地位に即き、将来変更しようとしたまで。今、我等の大事は成就さえしていないのに、大王は早手回しにそのようなことを言われる。それは大王様ご自身の御為にならないかと考えます。」
 尚之信は納得し、密室へ王緒を招くと、二人きりで軍略を協議した。その席で、尚之信は今までの事情を逐一述べ、朝廷から宣撫されたことまで、隠さずに語り、言った。
「今、清朝は、将軍の莽依図を江西から江東へと動かしている。これは孤を監視しているのだ。前日、莽依図から書状が届いた。孤を江西へ連れ出すつもりだ。これに従うかどうか、去就を決めかねておるのだ。」
「莽依図が大王を討伐軍に加えたがっているのなら、従えば宜しい。隙をついて莽依図を殺し、その軍を破るのです。」
 尚之信は同意し、王緒と密約を交わした。そして、王緒を国外へ追い出すとゆう名目で共に進み、その道中にて細かく相談を進めた。
 数日後、莽依図が到着した。彼は尚之信の心中も知らず、清朝廷の恩徳を述べ、平南王へ復帰させるとの旨を伝え、尚之信へ従軍を要請した。尚之信は、慨然としてこれを受諾した。
 当時、江西には周将の馬承萌が進駐していた。尚之信は、まず馬承萌へ事情を説明してから、進軍した。莽依図は、それに全く気がつかなかった。
 さて、尚之信の藩国には、張伯全、張士選とゆう臣下が居たが、彼等は元々尚之孝(尚之信の弟)の党類で、尚之信の為人を快く思っていなかった。尚之信は、この二人の口から機密が漏洩することを危惧し、軍議にかこつけてこの二人を衙中へ呼び寄せて、捕らえて処刑しようと考えた。ところが、二張も尚之信を疑っていたので、召集された時に恐れ、莽依図の陣へ逃げ込むと、尚之信を告発した。
 これを聞いて、莽依図は二張へ言った。
「尚之信に動乱の心があったのなら、もうとっくに出兵していた筈だ。奴は一度も出兵していない。造反を表明したのが一時の気の迷いだったことは明白だ。それ以来、誅されることを恐れて去就を決めかねていたのだろう。今、ようやく疑念が晴れて正道に立ち返り、朝廷からの称号も拝受した。それなのに、お前達はどうして主人を讒するのか!」
 とうとう、莽依図は、二張の言葉を信じなかった。そこで二張は、ここに居ては危ないとばかり、都へ上って変事を告げた。
 莽依図は、尚之信と共に起兵すると、広西へ進んだ。
 ところで、尚之信には、三人の寵臣がいた。
 王国棟は、旗人(満州軍親衛隊)を嫌って逃げ出して来た人間で、尚之信はこれを愛し、腹心とも恃み、都統としていた。沈上達は江西の俊英で、尚之信は彼を寵用し、藩府の家事を全て掌握させていた。又、王府護衛の張貞詳も、尚之信のお気に入りだった。
 この三人は、当初は一党を為していた。だが次第に、王国棟が都統として傍若無人に振る舞い初め、沈・張の二人を凌虐するようになった。張貞詳は大いに憤り、沈上達と共に王国棟を攻めようとまで考えた。しかし、王国棟はそれを知り、早手回しに沈上達へ言った。
「張貞詳は、藩府家政の権力を奪おうと企てている。」
 これによって、沈上達は張貞詳を疎んじた。孤立した張貞詳は、益々王国棟を怨んだ。
 丁度その頃、尚之孝は、平南王となる野心を抱き、兄の尚之信を陥れようと考えていた。そこで、密かに張貞詳と連絡を取り、張貞詳は、彼の一味に加担した。
 そんな折、王国棟と沈上達は一人の麗人を奪い合い、結局、王国棟がものにした。沈上達は王国棟を怨み、張貞詳と手を結ぶことにした。こうして、彼も又尚之孝の党類となった。
 さて、京へ逃げ込んだ張伯全と張士選の告発により、清朝廷は侍郎の宣昌阿を奥州へ派遣して、調査させた。王国棟は大いに懼れ、金を派手にばらまいて奥州巡撫の金秀と好を結んだ。金秀は尚之信の党類ではなかったので、罪に陥る心配がなかったのだ。そうゆう訳で、尚之信が江西へ出立した後、奥州の人間は、しっかり変節してしまった。
 尚之信が江西へ入ると、幕下の李天植が言った。
「撫公の金秀は、上辺こそ大王と親交がありますが、尚之孝とも頻繁に行き来しております。大王へ禍を招くと思いますが。」
「王国棟が藩兵を押さえて居るではないか。心配いらんよ。」
「王国棟は小人。恃むに足りませんぞ。」
「いいや、わしは日頃から奴に目をかけていたし、あれは善良だから、決してわしに背くまい。」
 尚之信は一向意に介さなかった。
 さて、尚之信は江西へ着くと、馬承萌と戦う前に莽依図を殺そうと謀ったが、馬承萌の到着が遅れ、まごまごしている間に莽依図に見抜かれてしまった。計画の漏洩を知った尚之信は、江東へ戻って金秀を殺してから起兵しようと考え、戦線を離脱した。