第二十六回  高大節、九江城にて憤死し、

         呉三桂、松磁布へ親征する。

 

 さて、岳東軍が目を覚ましてみると、四方の山林の中に周軍の旌旗が翩翻と翻っていた。
「さては、周軍は既に到着していたのか!」
 兵卒達は魂を消し飛ばし、その脳裏に螺子山の恐怖が甦った。軍中の誰もが、高大節の名前を知っており、恐れを抱いて互いに顔を見合わせた。
 岳東は即座に、軍中へ伝令を飛ばした。
「急いで新昌へ入るのだ!」
 と、突然、鬨の声が耳を劈いた。高軍は岳東の陣を目がけて、十数路から一斉に襲いかかった。各路は人馬で満ちあふれ、その兵力の大小も判らない。
 岳東の兵卒達は戦うどころではなく、算を乱して逃げ散った。
 岳東が制止しても、兵卒の逃散は止まらない。それでも岳東は何とか軍を鎮めようと、軍中へ号令を掛けた。だが、そこへ高大節率いる精鋭兵が突撃してきた。
 高大節は、選び抜いた精鋭百騎を自ら率い、前鋒となって岳東の本陣へ飛び出してきたのだ。勇猛果敢な荒武者揃い。当たるを幸い薙ぎ散らす。岳東はとても支えきれず、ついに退却を命じた。
 将軍が退却するのを見て、兵卒達の潰走には更に拍車がかかった。
 さて、高大節が二路に別れて進んだのは、元来波状攻撃を掛けるつもりだったのだ。だが、こうして潰走した岳軍の陣容を見れば、嵩に掛かって一気に攻め潰すべきだと考え、全軍へ総攻撃を命じた。
 追撃中、彼は思った。
「岳東軍は必ず新昌へ逃げる。南昌との通路を確保し、菫衛国と連合するつもりだ。」
 そこで、二千の部下を高奇へ預け、自らの旗を渡すと、間道を通って新昌へ先回りするよう命じた。
 一方、敗退した岳東は包囲を抜け出すのに必死だった。追撃する敵も無視できない。戦いつつ退いていった。その傍ら、明阿へ五千の兵を預け、まず新昌を確保させて椅角の備えとし、併せて南昌への通路も護ろうと考えたのだ。
 高大節も又、彼の真意を読んでいた。そこで、包囲の一方を開き、岳東の兵卒を逃げ出させた。ただ、追撃は行い、岳東と兵卒達を分離させた。
 高大節は、或いは戦い、或いは降伏を勧告したので、岳東の兵卒は、ますます離散して行く。岳東は大いに憤怒し、小山へ逃げ込んだ。ここの地形を利用して陣を造り、再び高軍へ戦いを挑む為だ。
 ところが、その時流星馬が飛んできた。
「凶報!新昌へ逃げ込もうとした明阿都統が、高大節の別働隊に攻撃されました。明阿都統は戦死。五千人の兵卒は、高軍へ降伏しました。」
 それを聞いた岳東は、心胆共に裂け、不覚にも嘆息してしまった。
「高大節居る限り、我が心は安まらぬ!」
 まさにその時、高大節は百騎を率いて攻め寄せてきた。
 岳東の配下には、二千人の吉林馬陣が残っていた。そこで、岳東は彼等へ言った。
「連中は漢人だ。お前達が降伏しても助けてはくれぬ。命がけで戦うしかない!」
 これを聞いて吉林馬陣は一斉に奮起し、矢や石を雨霰と散らせた。高大節は進軍できず、その軍勢も、やや削がれた。そこで岳東は白兵戦へ移ろうとしたが、高軍の部下が続々と結集してきた。岳東は遂に支えきれず、敗走した。
 高大節は更に二十余里追撃を掛けたが、日暮れ時になってきたので、遂に兵を収めた。
 この戦いで、岳東軍はズタズタに分断され、多くの死傷者を出してしまった。岳東は、軍を立て直すことが出来ず、南昌まで敗走したのだった。
 岳東の敗北を聞いた菫衛国は、手勢を率いて救援に駆けつけ、同じく南昌城へ入った。
 これに対して高大節は、援軍の来た相手へ無理に追撃を掛けようともせず、新昌城へ入城した。そして、胡国柱と夏国相へ戦勝を報告し、又、夏国相へ進軍を請うた。
 夏国相は既に高大節の行動を予測して、蒲郷を出立して南昌へ進軍を開始していた。高大節は、その消息を聞くと、夏国相と日時を合わせて南昌城を攻撃するよう取り決めた。
 岳東は敗残の将とはいえ、まだ万余の兵が残っていた。菫衛国の手勢は二万人。しかしながら、高大節に二回も叩きのめされ、兵卒の志気は落ち込んでいた。
 南昌城内の民は、次々と逃げ出していた。噂が乱れ飛んでいたのだ。
「高大節軍が来れば、南昌は陥落するぞ。」と。
 菫衛国は言った。
「昔日、勝ちに乗じて一気に湖南へ攻め込まなかったのは失策だった。今、我が軍の志気は萎えている。これでは戦えん。南昌を棄て、どこかへ逃げるべきかな。」
「簡親王は、大軍を擁しながら、戦況を観望して進軍しておりません。ただ徒に兵卒を疲労させ兵糧を消耗しただけで寸毫の手柄も建てておりませんから、命を捨ててでもこれまでの恥を雪ごうと思っているでしょう。
 我々は完全な状態でも高大節にしてやられましたのに、今は敗残の卒。兵卒に闘志はなく、援軍も期待できない。これで高大節と夏国相の挟撃へ対し、どうして戦えましょうか?」
 そこで、協議は一致し、彼等は南昌を放棄した。
 夏国相が既に江西へ進軍したので、高大節は側近へ言った。
「岳東と菫衛国は孤城を守っているが、これでは挟撃を支えきれない。必ずや城を棄てて逃げ出すに決まっている!追撃を掛け、再起させるな!」
 そして追撃の準備を急がせたところ、報告が入った。
「岳東軍、南昌城を棄てて逃げ出しました。」
 それを聞いて、高大節は嘆息した。
「素早い!これでは追撃しても間に合わん!大魚を逸したか!」
 すると、呉用華が言った。
「岳東など、こちらに派遣されてから一勝もしておらぬではありませんか。我々は二度も撃ち破っているのです。逃げ出したとて、恐れるに足りません。それなのに、何で嘆息なさるのですか?」
「いや、そうではない!岳東は確かに能将ではないが、その性は勇毅。例え敗れても慌てず、連敗したのに気力の緩みもない。今回は確かに勝てたが、次回攻め寄せられたら、勝てるかどうか判らぬ。簡親王ラフやキジコ将軍など、私から見たら赤子のようなものだ。」
 敵を敗っても侮らない。この言葉に、側近達は嘆息した。
 さて、この時胡国梁は一軍を率いて新昌へ入城していた。高大節は、暫く彼を新昌へ留め、自身は南昌にて夏国相と合流し、今後の進路を考えたかった。すると、夏国相から伝令が来た。
「高将軍には、九江城を攻略して貰いたい。そうやって、敵の防御線を切断するのだ。私は番陽湖を奪取し、造船所を確保しよう。渡江の準備の為だ。」
 この時、夏国相は耿王へ進軍を催促していた。水軍提督林挙珠と領内の水軍を派遣し、番陽湖にて合流しよう、と。そして、高大節にも、番陽湖を占領した暁には、共に渡江することを約束した。
 この命令を受けると、高大節は即座に九江目指して進軍した。

 話は変わって、胡国柱軍。韓大任は既に敗北したが、彼の弟の韓元任は、依然として胡国柱の陣中にいた。この韓元任は、胡国梁の娘婿である。
 韓元任は、兄の敗北を聞き、激怒した。
「高大節が、九江へ直行したら、間に合ったのだ。それを新昌経由に固執しおって!兄を殺したのは高大節だ!」
 そこで、高大節のことを胡国柱へ、屡々讒訴した。
 それに加えて、今回の結果では、胡国梁も立腹していた。義寧へ先行させられた為、今回の手柄には預かれず、戦勝の殊勲は高大節が独占する形となってしまったからである。
 胡国梁も、部下達へ吹聴した。
「高大節めは、我を不用の地へばかり追いやっておる!もしも我が不用だったら、兵を預けたりせず、全軍を奴目が率いればよいのだ!それに、ここにダラダラと駐留させる位なら、九江へ直行させれば良かったではないか!そうすれば、韓大任を助けることもできたかもしれんのだ!」
 この時、岳東は度重なる不覚で、怒り心頭に発していた。そこで間諜を放って敵軍を調べさせたところ、はからずも、この不協和音が耳に入った。そこで、人を使って噂を流行らせた。
”高大節は、韓大任を見殺しにした。又、軍を義寧・新昌へ留めて岳東、菫衛国を追撃しなかった。あの二人は無傷のまま脱出できたが、最高の機会を逃した事だ!”
 この噂が江西一円に広まったので、胡国梁は胡国柱へ報告した。
 だが、前回失敗したばかりである。胡国柱はこの流説を妄信せずに聞き流した。しかし、韓元任は、常に彼の傍らにいた。そして、何度も吹聴したのである。更に、流説にも道理はあった。そうして胡国柱は、高大節を次第に疑うようになって行った。
 遂に、胡国柱は使者を派遣し、高大節を詰問した。一つは韓大任を救わなかったこと。二つは岳東を追撃しなかったこと。そして、これからは公の場に私憤を持ち込まぬよう厳命したのである。
 高大節にとっては、不本意な言いがかりである。
”又しても、讒言によって陥れられるのか!”
 憤りの余り発病し、床に伏せってしまった。
 だが、既に進軍中だった。将軍の発病の為退却したのでは、敵から追撃を受けてしまう。そこで側近達と評議した結果、病気を隠し、病を推して九江まで進軍することとした。
 この時、簡親王とキジコが九江城に入っていた。高大節の来襲を聞くと、彼等は城を棄てて逃げ出した。こうして高大節は九江城を占領し、彼の威名は益々轟いた。そして、近隣の州県が次々と降伏してきたのである。
 だが、当の高大節は、病状が益々悪化していた。医者も薬も効果がない。
 彼がもしも死んだなら、戦況が一変する。高大節自身、それを熟知していた。そこで彼は胡国柱のもとへ使者を派遣し、「指揮者を交代して病気の療養に専念させて欲しい」と申し出た。又、夏国相のもとへも使者を派遣して書状を届けた。

”私は再登庸されてから江西にて戦い、幸いにも御国の威光に護られ、向かうところ勝ち続けました。岳東を追い払い、九江城を占領しましたが、図らずも、胡ふ馬から詰問されました。「公事に勉め、私憤を持ち込むな。」と。
 ですが、韓大任が渡江する時には、気が逸っており、先に九江へ向かっても無駄でした。それに、まず岳東を撃破しなければ、南昌への通路が塞がれてしまいます。私はここを思って、まず新昌へ向かったのです!それに、私は敵を軽んじてもおりませんので、簡王が健在な以上、兵を二手に分けて牽制しなければなりませんでした。これにも他意はありません。
 ふ馬の譴責を受け、敵を撃とうにも、二豎は逃げ去って形すら見えません。これによって病に伏せってしまいました。もしも私の病気にて軍情が乱れれば、これは大きな罪でございます。それを思い、既に交代要員を、ふ馬へ要請いたしました。私は暫く職を退いて、養生に勉めさせていただきます。病が癒えましたら、再び戦場を駆け巡る所存でございます。
 閣下にだけは私の想いを伝えたく、かくの如く、筆を執った次第でございます。”

 書状を読んで、夏国相は高大節の病気の原因を知り、深く嘆息した。
 以来、高大節の病状は次第に重くなり、やがて起きあがることさえ出来なくなった。そこで、彼は軍権を副将の胡国梁へ委任した。その翌日、吐血が止まず、遂に彼は陣中にて没した。
 高大節が死んでから、江西では一波乱起こるのだが、それはひとまず置いておこう。

 さて、場面変わって、ここは陜西。
 王屏藩は固原まで退却したが、王輔臣は莫洛を敗ってから、屏藩と椅角の勢いを作った。そして、平涼攻略の第一歩としてまず西安へ向かった。
 すると、将軍は城を棄てて逃げ、王輔臣は遂に西安を占領し、彼の威名は轟いた。呉三桂は褒美として、まず白銀二十万を与え、次いで王輔臣を王に封じた。これによって、王輔臣は益々力を尽くしたのである。
 この時、屏藩は、図海と戦って屡々苦戦に陥っていたので、王輔臣は、彼と共同で図海を攻撃しようと考えた。屏藩と図海は睨み合ってから大小百余の戦闘を行ったが、互いに勝敗があり、決着がつかなかったのだ。
 一年余りも対峙したのに平涼の路を越えることが出来なかったので、屏藩は諦め、平涼から引き上げて別のルートで鳳翔へ向かおうと考えた。すると、王輔臣の方から合力の申し出があったので、二人して協議した。
 王輔臣は言った。
「将軍が年余に亘って図海と対峙して下さったおかげで、連中も疲れ切っておるだろう。ここに私の援軍が加われば、きっと図海を虜に出来る。奴さえ破れば、後は問題にならんよ。」
「その通りだ。ただ、図海は老獪な将軍だけに、戦況が不利になっても部下に死力を尽くさせ、守りきってしまうだろう。それに、奴の幕下には、張勇、王進宝、趙良棟等の驍勇が居る。奴が守りに専念したら、我等が二軍を合わせたとて、厄介だぞ。」
 すると、傍らから呉之茂が言った。
「一年がかりでも図海を撃破できず、兵卒の気力も緩んでおります。この志気で戦ってもいい結果は出ないでしょう。それよりも、一隊を分けて敵の背後をすり抜け、東進したら如何でしょうか?我等が山西へ赴けば、図海軍はきっと逃げ出すでしょう。」
 すると、王輔臣が言った。
「一隊を分けて山西を占領するのは、良い計略にも見える。しかし、その兵力が少なければ役に立たんし、大兵力を率いればここが手薄になる。そうすると、せっかく占領した領土を手放すことにもなりかねんぞ。
 それより、陛下は以前李本深を陜西へ派遣して下さったが、彼は発病して軍を返した。そして、以後は援軍が派遣されないままだ。今、陛下に援軍を打診してみよう。後は其の結果次第だ。」
 王屏藩も賛成したので、二人連名で、呉三桂へ上奏した。