第二十四回 高大節、知略を使って安親王を撃破し、

      夏国相、醴陵県まで敗走する。

 

 さて、袁州へ向けて進軍を開始した安親王は、周軍は夏国相と高大節が二手に分かれて進撃しているので、孤軍ではおくれを取るかと慮り、簡親王のラフへ援軍を頼んだ。だが、この動向は、スパイがすぐに夏国相のもとへ報告した。
 この時、夏国相は既に南昌にて高大節と合流していたので、報告を受けるとすぐに高大節と評議した。
「我々が江西へ進撃した時には、岳東は我等の行軍を観望するだけで動かなかった。奴は我々を恐れているのだ。さて、我々は既に南昌を占領したが、ここは別に戦略上の要衝ではない。そこで、ここを棄ててでも、安親王と簡親王の両軍を撃破するべきだと考える。この二軍を撃破すれば、この近辺の諸軍閥は我等へ加担し、江西は我等のものとなるだろう。」
 すると、高大節は言った。
「私は武人ですので、ただ戦うのみ。戦略については要らぬ口出しをいたしますまい。ただ、一城を得たからと言ってそれに固執すれば、却って悪い結果となることもあります。今、敵は既に精鋭兵を続々繰り出しており、西は平涼から南は武漢までを制圧しておりますので、我が軍は西方との連携が取れません。もしも両王の軍を撃破し、江寧沿いに進軍したなら、武漢の敵は必ず退却するでしょう。そうなれば、我々は長躯敵領へ攻め込めます。それに対して南昌を固守すれば、持久戦に持ち込まれた時、我々の志気が衰えるかも知れません。それでは今までの功績が、一挙に覆りかねない。まさしく、夏国相の提言通り、ここを棄てて討って出るのは上策です。」
「うむ。そうなると将軍の驍勇は頼もしい。兵馬を率いて間道から袁州へ回ってくれ。私は南昌を固めよう。そうすると、両王は必ずここを攻めてくる。そこで私が南昌を棄てて退却すれば、奴等は追撃に出るだろう。その時、将軍は敵軍を背後から襲え。私も反撃して挟撃しよう。奴等は毛並みの良さだけで抜擢された連中だ。挟撃されたら慌てふためく。これを撃破するなど、掌を返すようなものだ。」
 高大節は承諾して退出した。
 さて、簡親王のラフは鎮江まで出張った時、未だ一度の合戦もしていなかった。そんな折り、安親王から合流を頼まれたので、断るわけにもいかずに、まず九江まで進軍した。しかし、それ以上は進まず、そこに逗留して戦況を観望するだけだった。安親王は、ラフ軍が到着し二軍合流して大兵力となる日を待っていたが、なかなか到着しない。そこで軍師を派遣して、何度も催促した。ラフはこれを無視することもできず、仕方なく進軍の振りだけは見せた。そうゆう訳で、その行軍は実に緩慢だった。
 この状況を見て、夏国相は側近に言った。
「敵を畏れる者ほど、手柄に貪欲になるものだ。もしも我等が南昌を棄てれば、奴はここを占領しようと急進するに決まっている。岳東が不審を抱いて観望しても、敵が二手に分かれれば、各個撃破するだけだ。」
 こうして、夏国相軍は南昌を棄て、蒲郷へ向かって退却した。
 岳東はこれを聞くと、すぐに簡親王へ連絡した。
「我々二軍が合流すると聞いて、敵は早々と南昌を棄て退却した。速やかに進撃せよ。そうでないと、この好機を逸してしまうぞ。」
 これを聞いて簡親王は思った。
「今、南昌は空城だ。もしこの機会に乗じて入城すれば、南昌奪還の大手柄ではないか!私は出陣以来、一つの手柄も立ててはいない。これを逃してなるものか!」
 側近達も頷いた。
「ただ南昌へ入城するだけでは、手柄を独占できない。岳東を出し抜くのだ!」
 ラフの号令で、簡親王軍は異常に盛り上がった。彼等は鎧を解かず、馬を休めずに駆け続け、昼夜兼行で南昌へ向かって驀進した。その結果、岳東よりも数日早く、ラフ軍は南昌へ到着した。
「俺の手柄を盗みおって!」
 岳東は憤慨し、詰問に行こうとしたが、それより先にラフの方から文書が届いた。
「南昌は既に占領した。安親王殿下は、蒲郷の夏国相を追撃してください。」
 岳東麾下の部将、伊坦布が言った。
「奴目は空き城へ駆け込んで、我等の手柄を盗んだ。しかも、我等には蒲郷の夏国相追撃まで命じやがった。俺達は苦労するだけで、美味い汁は奴目に全部吸われっちまうのか!それにしても殿下、夏国相はここまで快進撃しながら、一戦もしないで退却しました。これは罠かもしれません。むやみと追撃はできませんぞ。」
「いや、それはないだろう。」
 岳東は答えた。
「奴に狡策があるのなら、昼夜兼行している時のラフ軍を狙う筈だ。ラフ軍は既に南昌へ入城したし、我が軍もここまで来た。結局、南昌城は奪還されたではないか。奴の退却は、多分、武漢で馬宝が敗北したせいだ。噂では、蔡敏栄との大小十数回の戦闘で、馬宝はじり貧だそうだ。
 さて、確かに腹は立つが、大局に立った場合、我等は追撃するべきか否か?」
「我々が進撃したとしても、簡親王は南昌から動きますまい。してみると、孤軍での追撃。反撃を受けた時にどうなるでしょうか?」
 岳東も思わず躊躇してしまった。と、その時、袁州から流星馬が駆けつけた。
「伝令!周将高大節、数万の兵を率いて我が州を襲撃せんと進軍中です。」
「なにっ!」
 岳東が慌てふためくと、伊坦布が言った。
「袁州が落ちれば、夏国相と高大節に前後から挟撃されます。ここは急いで退却するべきです。」
「うむ。」
「簡親王への怨みは、私憤に過ぎません。今は国家の大事。事情を伝え、南昌をしっかりと固守して貰いましょう。もし南昌が落ちれば、江西全土を失います。」
 岳東はこれにも同意し、簡親王に事情を伝え、急いで退却した。
 簡親王は、敵襲と聞いて吃驚仰天。魂を消し飛ばしてしまった。始めは、手柄だけ棚ぼたで手に入ると思っていたら、一転して危険が迫ったのだ。どうして畏れずにいられようか?彼は全軍を南昌へ引き籠もらせ、城門を固く閉ざしてしまった。
 さて、高大節だが、彼は数万の軍を公称していながら、実は八千しか率いていなかった。しかしながら、彼は少数で多数にぶつかる時ほど心が燃えるとゆう驍勇な性格だったので、袁州の背後へ回れば岳東が援軍に駆けつける事まで予測しての行動だった。
「岳東とラフが合流したら、ちょっとやそっとじゃ手が出せなかったが、ラフは南昌へ逃げ込んで動かない。これで各個撃破できる。その上、岳東が南昌へ向かう時、江西の備えが手薄になった。これは奴の失策だ。今、岳東軍は夜を日に継いでこちらへ向かっているだろう。これで策にはめることができる。韓大任!」
「哈っ!」っと応じた韓大任は、高大節の副将である。
「此処から数十里離れた所に螺子山がある。巻き貝の形をして樹木の繁った山だ。その上、山の下には平原が少なく、渓谷が縦横に走っている。お前は千人の兵を率いて山の上へ兵を伏せろ。岳東は必ずその経路を通るから、弓や弩で攻撃するのだ。奴等は支え切れまい。それに、連中の恃みの西洋大砲も、仰角は小さいと聞く。負けるわけがない!」
「承知!」
「呉用華!」
「哈っ!」
「お前にも千人の部下を与える。螺子山から十数里離れた林木の深い所へ伏兵となり、韓大任軍が大砲を撃った時、それを合図に討って出よ。」
「承りぬ!」
「李雄飛!」
「哈っ!」
「岳東は軍事を知らぬボンボンだが、部下に有能な奴が居れば、螺子山の地形を見て伏兵と勘ぐるだろう。お前は千人を率いて螺子山の前面十余里の場所に陣を布け。敵は伏兵と見て攻撃してくる筈だ。そしたら、おまえはすぐに退却しろ。、敵は伏兵を蹴散らしたと油断するだろう。陣を布く時には、地形の険阻な場所を選べ。西洋大砲だけは、まともに使わせてはならんぞ。」
「哈っ!」
 又、韓大任には、清軍到着時に大砲を撃って、味方へ知らせるよう命じた。
 その他の武将達には、各々千から数百の部下を与えて遊撃隊となし、高大節自身は中軍を率いて袁州へ留まった。そして九江へ出撃すると公言したが、その実螺子山の戦闘へ備えたのである。
 そうとも知らず岳東軍は螺子山まで退却してきた。すると、伊坦布が言った。
「螺子山は左には山嶺が迫り、右に渓河、地形は実に険阻です。ここに伏兵が有れば、大打撃を受けるは必定。ご用心を。」
「いや、高大節は全軍を以て九江方面へ向かっている。九江は数省の喉元に当たり、四方へ攻め込める要衝だ。戦略的価値も大きい。こんな所に兵を伏せる暇はあるまい。」
 と、その時、斥候兵が戻ってきた。
「報告!前方に伏兵有り。ただ、旌旗を見るに、少数の模様。」
 岳東は頷いた。
「そうれ見ろ。少数の伏兵など恐れるに足りん。蹴散らしてやれ。前軍進撃。砲兵を前方へ。」
 岳東軍が攻め掛かると、李雄飛が迎え撃ったが、小一時間ほどの戦闘の後、逃げ出した。兵卒達は勝ちに乗って追撃しようとしたが、岳東はこれを止めた。
「敵は既に逃げた。調子づいて追撃すれば、罠があるかもしれん。それよりも、早く螺子山を越えることだ。あれを過ぎれば恐れるものはないぞ。」
 こうして岳東は部下を督促して螺子山へ向かったが、夜になると急に怖じ気づいた。
「この険阻さは聞きしにまさる。ここで宿営し、夜が明けてから進んではどうかな?」
 すると、伊坦布が言った。
「ここで宿営する方が危険です!三軍がここまで来た以上、速やかに通過するべきです。もしも宿営すれば、兵卒の心が緩みます。伏兵が有れば、大打撃を受けます。」
 岳東は深く頷いた。ここまで来た以上、他に手はない。部下達に松明を持たせると、夜をおして急行した。すると、明け方近い頃、突然、山頂で号砲が轟いた。岳東軍はおっかな吃驚行軍していた所へこの轟音だ。兵卒達は魂を消し飛ばし、為す術も知らずにどよめいた。岳東は静まらせようとしたが、その号令は喧噪の中にうち消された。しかも、あちこちから矢が飛んできた。反撃しようにも、敵の在処さえ判らない。これに対して高大節軍は、山の上から松明を目がけて矢や石を投げ落とした。
「いかん、退け、退けっ!」
 だが、伊坦布が叫んだ。
「ここから引き返しても、後方に伏兵がないとは限りません!伏兵が前方に現れたことこそ、後方へ誘導する罠に違い有りません!前進!前進こそ上策!」
 伏兵は前方か、後方か?岳東には判断がつかず、二手に分けて前進と後退を命じた。
 さて、下から上を攻撃することは難しい。周将韓大任は地の利を活かして一斉攻撃に出たので、岳軍は大打撃を受けてしまった。岳東は、ただ兵卒を督促して前進させる。逃亡を試みる兵卒は、右側の渓河へ飛び込んだ。しかし、韓大任は河面まで矢を射させたので、逃亡した岳東の兵卒達は、大半が傷を負い、泳ぐこともできずに溺死してしまった。
 岳東は逃亡兵が続出するのを目の当たりにしていたが、自身が逃げ出すのに手一杯で、止めることもできなかった。伊坦布は既に戦死した。岳東も身に数カ所の傷を負った。
 そんな状態で、しかしどうにか螺子山を逃げ出したかとゆう時、岳東軍の諸兵卒達はホッと安堵の溜息をついた。ところが、その時号砲と共に呉用華の軍が出現した。
「敵襲だ!」
 だが、既に岳東軍は疲れ切っていた。馬も傷つきまともには進めない。兵卒が心を奮わせて進もうとしても、怖じ気付いた馬は絶対に進まないのだ。岳東は叫んだ。
「一時の油断で敵の奸計に陥ったか!この上は死ぬまで戦うのみ!我は皇族の一員にして、三軍も又八旗の人間。断じて降伏はするまいぞ!」
 だが、諸将は言った。
「全軍が逃げ出した時、輜重は大半投げ捨てました。頼みの西洋大砲さえ、道の半ばに捨ててきたのです。徒手空拳でどうして勝てましょうか?」
゛これでは犬死にか!゛
 岳東は歯ぎしりして四方を見回したが、その時ハッと閃いた。
「全員であの渓河を埋め立てろ!渓河も、ここでは狭くて浅い。我軍はなお、一万を越える。荷物でも石でもとにかく放り込んで逃げ道を作れ!散り散りに逃げて、番陽湖まで落ち延びよ!あそこにはまだ水軍もいる。兵力回復も造作ないぞ!それに、袁州は既に高大節に占領され、九江への通路も、この状態では開けない!他に手はない!」
 諸将は頷き、全兵卒は渓河へ荷物を投げ込んだ。幸いにして河が浅かった為、渓河はたちまち埋め立てられた。
 呉用華は、敵が進撃しないのを見て、突撃してきた。そして後方からは韓大任と李雄飛の軍勢が追撃してくる。岳東は逃亡の号令を掛け、全兵卒が逃げ出した。周の三将は、彼等へ向かって一斉射撃。岳東軍はここでも大打撃を受けたが、しかし兵卒達は必死で逃げているのと、荷物を捨てて身軽になっていたこととで、追撃をしても引き離される一方だった。そこで、とうとう周軍は追撃を止め、陣を立て直した。
 この敗戦で、岳東軍の兵卒達は生きた心地がしなかった。総兵や副都統の死傷者数名。将校の死傷者は数十名。降伏した者、逃げた者は、全て韓大任が収容した。周軍は、屍に土を掛け、西洋大砲数門の他膨大な器械兵糧を戦利品として、堂々の凱旋を遂げたのである。
 高大節は大いに喜んだ。
「こいつで敵は肝を冷やしたろう。」
 かくして、論功行賞となった。敵の大旗二面を奪取し、総兵両名・都統一名を殺した呉用華が戦功第一とされ、金吾衛大将に抜擢された。だが、これに韓大任は不服だった。
「夜半の戦闘で、矢石が乱れ飛び、槍や大砲が唸りをあげる中、敵将を殺したのどうのと一々確認できるものか。俺が山中で指揮を執り多くの敵将を傷つけたのだ。後に戦場を点検しても、死骸が一番多かったのは螺子山じゃなかったか。それに、螺子山で大敗した敵だからこそ、呉用華もあれだけの手柄を建てられたのだ。もしも無傷の敵と当たって見ろ、呉用華の奴は却って大敗を喫していたぞ。」
 癇に据えかねた韓大任は、側近へ向かって連日怨言をまき散らした。ある者がこれを高大節密告すると、高大節は言った。
「俺と韓大任は大将・副将として共に軍権を執っているのではないか。共に部下を励まさねばならぬ男が、なんで部下と手柄を争うのだ?それに、韓大任は夜半に山の上から敵を襲った。これはあいつが敵を襲っただけで、敵から反撃を受けはしない。呉用華は敵の進路を阻んでその将を斬り軍旗を奪ったのだ。論功第一も当然ではないか!」
 それで、高大節は韓大任の不満を受け流し、知らぬ振りをして従来どおり共に軍議を凝らした。しかし、韓大任は釈然とせず、高大節を陥れる機会を窺うようになってしまった。

 その頃、呉三桂の娘婿胡国柱は、長沙へ進駐していた。
 長沙は四方に開けた要衝である。岳州、荊州、江西の各方面への押さえになる為、夏国相が出征した後、呉三桂は頼りになる人間にここを鎮守させようと、胡国柱に白羽の矢を立てたのだ。
 韓大任は、胡国柱の甥である。そして、胡国柱は常々韓大任の驍勇を頼もしく思っていた。その胡国柱が長沙へ進軍したと聞き、韓大任は言った。
「俺の鬱屈を晴らすには、高大節に取って代わるしかない。」
 そうして、彼は讒言の書を胡国柱へ送ったのである。
゛螺子山の一戦は、本来なら岳東を虜にできた筈。ところが、高大節は、各路の遊撃隊を中途で撤回し、又、自身は兵卒を率いたままで出撃しなかった。こうして岳東めを取り逃がしたのだ。噂では、高大節は岳東と内通していた由。既に、侯爵に封じられる密約も成立していると聞く。今、高大節は大軍を擁しながら袁州から動かず、事態を観望している。これこそ動かぬ証拠である。゛
 胡国柱は納得し、一面では夏国相へ江西進撃を催促し、又、高大節には長沙へ戻った後、岳州の援軍に行くよう命じた。そして袁州鎮守の後任を、韓大任に命じた。高大節は命令を受けて仰天し、すぐに返事をよこした。
「ここから江南へ進撃することこそ上策です。岳州には馬宝殿が居り、兵力に不足はありません。援軍は無用です。」
 胡国柱は激怒し、内通の噂を益々信じ込んでしまった。そこで、高大節の陣へ流星馬を出し、即時交代を命じた。高大節はなおも「戦機を逃す」とクドクド恨み言を述べたので、使者は言った。
「将軍、目を覚まして下さい。韓将軍は胡国柱の子分ですぞ。胡国柱は才略には長じていますが、性格が偏狭で独善が強うございます。今回、韓将軍の讒言が、先に胡国柱の耳に入って先入観ができてしまったのです。たとえ将軍の口が百あったとしても、何で聞き分けられましょうか?」
 この時になって始めて、高大節は韓大任に売られたことを知った。
「ああ、今は国家の大事だとゆうのに、こんな奴等の手に掛かったか!」
 嘆息した後、彼は韓大任を呼び出し、言った。
「胡国柱殿の命令で、本日より軍権を将軍へ譲る。我と将軍は、今まで一致協力して行動し、共に大功を建てた。今、我は勝ながらも咎を得たが、全く濡れ衣だ。確かに遅々として進軍しなかったが、それは夏丞相が南昌まで進撃していたので、後方が固まるのを待っていたに過ぎない。そちらのけりが着き次第、渡江して長躯進撃する筈だったのに。まあ、それは置いておこう。
 九江は数省の喉元に当たる四戦の地。戦うも守も容易なことではないぞ。将軍はこの職務に励んでくれ。」
 韓大任は恥じる色を出し、一言も喋れなかった。
 こうして引継は完了し、高大節は手勢を率いて長沙へ向かった。韓大任は高大節に代わって全軍を指揮し、直ちに九江へ向かった。そこから長江を渡江しようというのだ。胡国柱への進言の手前、ぐずつくこともできず、夏国相の兵が到着するのも待たずに出陣した。

 さて、夏国相は、醴陵まで退却した所で、高大節の勝報を聞き、更にラフとキジコが功績を争って南昌へ入ったことも知った。螺子山の一戦では岳東軍はほぼ壊滅状態と知り、夏国相は大いに喜んだ。
「こうなれば江西一帯は我等のものだ。」
 この時、夏国相はまだ高大節の左遷を知らず、醴陵から蒲郷経由で南昌へ向かって進撃した。
 対して、ラフとキジコは岳東が大敗を喫したと知り、城を捨てて逃げ出した。こうして、夏国相は一戦もしないで南昌を回復した。夏国相は、この戦果を高大節に知らせると共に、九江から進撃させる為、すぐに使者を派遣した。自身は番陽湖へ出て清の水軍の応援を遮断すると共に岳東の息の根を止め、更に耿精忠には浙江への出陣を督促した。今が勝機と見て、三面作戦を展開したかったのだ。長江の三カ所から一気に渡江する。と、そこへ急報が入った。
「高大節は長沙へ呼び戻され、後任の韓大任はすでに全軍を率いて九江を出陣しました。」
 夏国相は愕然とした。
「韓大任は勇猛だが、無謀だ。副将ならともかく、大将の能力はない!それが、今、軽々しく進撃している。単独渡江?これでは敗北に決まっている。一体、誰が高大節を撤回した!何でこうなったのだ!」
 と、そこへ高大節の使者が書状を届けて来た。

゛私こと高大節は一介の武人に過ぎませんのに、相国から大任を任されました。また、大周皇帝陛下の御恩を思えば、戦死こそ本懐。それが、はからずも、勝利しながら辱めを受けてしまいました。私と韓大任は、共に一致協力して戦いました。螺子山の一戦では、呉用華の戦功を賞しましたが、何ぞ知らん、それによって韓大任の逆恨みを受けたのです。彼は胡国柱に讒言し、胡国柱はその偽りも知らず、私を撤回いたしました。これを拒めば、軍法を以て罰されたでしょう。どうして拒めましょうか?
 今、韓大任は九江を出陣したと聞きます。しかし、清将の楊捷は、戦慣れした老獪な将軍。韓大任では勝てますまい。それに、岳東も、敗れたりとはいえなお数万の兵を擁し、その配下には吉林馬陣もおります。侮れません。その岳東は番陽湖へ退却し、水軍を併せて勢力を盛り返しました。私の見るところ、江西はまだ平定されて居らぬのです。
 相国の軍勢が未だ南昌を回復して居らぬとしたら、岳東は韓大任の背後を難なくおそえます。楊捷も又、その前方から襲撃します。これでは韓大任は挟撃されて大敗します。相国には深謀遠慮が有られること。何とぞ国家大局のため、善後策を御思案下さい。
 今、謹んでこの書を送り、ご賢察を願います。
                          罪将 高大節 頓首゛

 夏国相は嘆息した。
「高大節はまさしく大将の器だ!我は決して武夫と蔑視したりしないぞ。ともあれ、この局面では番陽湖まで出張らずばなるまい。早急に袁州を出立し、韓大任の救援に向かう!」
 こうして、夏国相軍も動いた。

 一方、こちらは岳東。彼は敗北の後、番陽湖まで退却していた。すると、間もなくラフとキジコも逃げてきた。二人とも、岳東を見ていたたまれない顔をした。
「お二方が此処へ来たとゆうことは、南昌は陥落したのか?」
 ラフが答えられなかったので、岳東は続けた。
「我と君達は、清の皇族の一員だ。天下大局がこうなった以上、一致団結して対処しなければならない。過ぎたことはクドクド言うまい。ただ、善後策を謀るだけだ。」
 そう言われて、ラフは首をうなだれ前非を謝した。
 そうこうするうちに、長江水軍提督の楊捷から書状が届いた。
゛敵軍では、高大節に代わって韓大任が将となり、渡江を開始した。これなら撃破できる。ただ、夏国相がこれを知ると、必ず袁州と九江一帯の兵力を集結し、援護するだろう。これは伏兵で撃破すればよい。゛
 岳東は頷いた。
 当時、清朝方では、菫衛国を江西総督として、五万の兵力で南昌へ赴かせていた。岳東は菫衛国と協議して、まず彼を南昌へ差し向け、夏国相の進軍を阻むよう命じた。そして岳東はラフ、キジコと共に袁州へ入った。
 対して夏国相は、敵方に菫衛国の援軍が入ったことを知らず、南昌省城には、僅か二千の留守兵を留めていただけだった。行軍の途中、岳東始めとする三将が袁州まで進軍したと聞き、大いに慌てた。
「ラフは臆病者。岳東は敗残の余兵。それが袁州まで出張ったのは、ひょっとして敵に援軍が来たのではないか?」
 この時、従軍部将の郭荘謀(郭荘図の弟)が言った。
「南昌の守りは手薄です。敵の援軍が来たら守れません。」
「その通りだ。こうなったら番陽湖まで進軍して占領するしかない。」
「それも一策です。ですがそれですと、蹉跌が起これば韓大任も我々も敗北してしまいます!」
 夏国相は忌々しげに舌打ちした。
「あいつが軽々しく動かなければ、我は必ず耿精忠を引っぱり出して見せたのに。」
 そこへ、伝令が入った。
「敵方は、菫衛国を江西総督として派兵しました。菫衛国は五万の兵力で南昌を直撃!」
 夏国相は愕然とした。
「何と素早い動きだ。ラフなどとは比べ物にならん。南昌を陥したのなら、次は蒲郷へ出て我が軍の退路を遮断するだろう。そしてそこを陥したら、次は湖南。大局が激動するぞ!いかん、撤退だ!」
 彼は即座に撤退の命令を下した。
 この転進は、すぐに袁州の岳東の耳に入った。
「夏国相は、敵中の能将。この失策こそ千載一遇の好機だ!、キジコお前はここに留まり、韓大任の背後を衝け。ラフ殿は我と共に夏国相の追撃を!」
 配備はすぐに定まり、岳東軍も逆襲に転じた。敗北の軍は、前恥を雪ごうと猛然戦うことがある。夏国相は、今の岳東軍こそそれと慮り、又、菫衛国も恐ろしく、蒲郷目指して急行した。
 だが、ここに幸運が起こった。
 もともと、菫衛国は蒲郷を直撃するつもりだった。しかし、南昌こそ夏国相の拠点と思い、又、僅か二千の兵しかいなかったので、手に唾して陥落できると侮って、南昌を攻撃したのだ。だが、はからずもここで数日の手間を掛けてしまった。夏国相麾下の部将、呉元祥が、二千の部下を駆使して、南昌城を死守したのだ。
 そうこうするうち、夏国相が蒲郷へ到来したと聞き、菫衛国は南昌を放棄して撤退した。 こうして、夏国相は蒲郷へ入軍し、南昌の兵も無事に合流することができた。呉元祥から報告を受け、彼は大いに喜んだ。
「貴殿が南昌を死守しなければ、我が軍は壊滅の危機に陥っていたぞ!
 さて、菫衛国は必ずここを襲撃する。両面から敵を受けては支えきれん。よって、醴陵・湖南まで撤退するべきだ。しかし、蒲郷を棄てて全軍移動すれば、岳東も菫衛国も長躯進撃してしまう。誰か、ここを守る者はおらぬか?そうしたら、我には菫衛国を防御する策がある。」
 すると、一人の部将が名乗りを挙げた。
「謀がここを死守いたします。」
 これこそ誰有ろう、郭荘謀。夏国相は大いに喜ぶと、郭荘謀と呉元祥に蒲郷を任せ、自身は醴陵まで撤退した。