第二十二回  張勇、王屏藩と大いに戦い、

        鄭経、呉三桂へ使者を通じる。

 

 さて、清軍の諸将は、蔡敏栄を臆病者と罵りながらも籠城戦術に出た。
 対して馬宝は数路に分かれて進撃し、岳州城外まで進撃した。ここに及んで、清の諸将は再び出撃を請うたが、蔡敏栄は肯らない。諸将は言った。
「このまま数ヶ月戦わなければ、周へ帰順する省が続出し、我が国は瓦解いたします。」
「呉三桂の党類は、各省に広く散らばっている。その呉三桂党が周に帰順しただけだ。呉三桂と縁の無かった州は、今までも、そしてこれからも、自ら進んで帰順したりするまい。
 さて、我が軍は戦乱の後で疲れ切っている。とてものこと、呉三桂軍には対抗できない。だから、我は毎日兵卒を訓練して精鋭兵へ鍛え上げているのだ。今、敵は精鋭兵を率いて来襲した。しかも我軍は、水軍の敗北と荊州の陥落で、兵卒の心が動揺している。この状態で戦えば、必ず敗北する。今、我軍が固守して戦わなければ、敵は明日も戦いを挑む。しかし、それを繰り返せば、敵軍はだんだん油断してくるだろう。我軍はそれに乗じるのだ。
 今無理して戦って敗れたら、長江の諸省は一挙に呉三桂へ帰順するぞ。我等の勝負は長江の全ての省が注目しているのだ。どうして軽々しく戦えようか?
 昔、趙の廉頗将軍は二十万の大軍を持ちながらも、守備を固めて白起将軍の軍を防いだし、李牧将軍も数十万を擁しながら桓猗との戦いでは守備に徹した。廉頗も李牧も実に古の良将だが、守備を固めて勝ちを得たのだ。
 今、敵は勢い盛んで、我軍は兵卒が動揺している。しかし、状況の変化を鋭く掴んで対応すれば、必ず敵を撃退できる。その機を掴んだときこそ、戦いができるのだ。」
 諸将はようやく納得した。
 蔡敏栄は、三軍を率いて守備に徹した。又、彼は自ら城内を巡閲し、諸軍の防戦を監督したのである。
 馬宝は、連日岳州城を攻撃したが、なかなか陥とせない。弓や投石機も多用したが、敵も同様に石や矢を飛ばすので、両軍共に損傷した。
 この時、清の襄陽総兵楊嘉来が来援した。彼は岳州城援護の為、その背後に駐屯した。
 この楊嘉来は、李本深の姻戚であり、早くから周への帰順を呼びかけられていた。そこで、この岳州危急の際、彼は馬宝へ密使を放った。
 さて、蔡敏栄は、馬宝の軍が勢い鋭いので、これに対抗する為、精鋭兵を城の南へ回した。すると、北門から忽然と火災が起こった。蔡敏栄軍は大混乱となった。蔡敏栄は救援軍を送ろうとしたが、馬宝の猛攻で兵卒を裂くことができなかった。敵へ内応する者が出たかとも疑い、満都統バジフを派遣して消火に当たらせようと思ったが、その手配も終わらないうちに西門と北門が陥落したとの報告が入った。
 こうなると、もう打つ手もない。蔡敏栄は市街戦に突入しようとしたが、部下の多くは逃げ出している。
「逃げるな!戦え!」
 彼はたちどころに数人を斬り殺したが、そんなことでは逃走は止められなかった。と、そこに一群の人馬が現れた。翻る幟に記されているのは「楊嘉来」の三文字。
「おお、楊嘉来が救援に駆けつけたぞ!」
 だが、この軍団は味方に向かって矢や石を乱射した。此処にいたって、蔡敏栄はようやく気がついた。
「さては楊嘉来が造反したか!」
 既に兵卒に戦意はなく、しかもこの混乱ではもう戦えない。蔡敏栄は混乱する兵卒を纏めると、東北の門へ向かって退却した。すると、城門付近で楊嘉来と遭遇した。
「この裏切り者!朝廷の大恩を受けながら、何が不満で寝返った!」
「これは造反ではない。お前こそ富貴さえ与えてくれれば、平気で国を棄てられるのか!その理屈で言うなら、俺が受けたのは清の恩ではなく将軍の私恩だ。ともあれ、今までのよしみもある。退却するのなら見逃してやるぞ。」
 蔡敏栄は激怒して弓を射ようとしたが、その時、ドッ、と鬨の声が挙がった。馬宝軍が城内へなだれ込んだのだ。
「蔡敏栄を探せ!奴を逃がすな!」
 その叫び声を耳にして、蔡敏栄は「長居無用」と踵を返し、血路を開いて逃げ出した。楊嘉来が約束通り見逃してくれたので、蔡敏栄軍はどうにか脱出し、そのまま武昌へ向かって落ち延びて行った。
 こうして、馬宝は岳州を占領した。彼はすぐに消火を命じ、更に全軍の将兵を篤く賞した。又、楊嘉来の功績を上表し、彼を中路大総管に任命した。
 馬宝は楊嘉来へ言った。
「岳州を陥とし、我が軍の威勢は大いに高まった。これも皆、将軍の功績だ。ただ、蔡敏栄を取り逃がしたことだけは残念だな。禍の種を残したか。今後あいつに出会ったら、その時こそ逃がすまいぞ。」
 そう言われて楊嘉来は、自分が蔡敏栄を見逃してやったことを喋れなかった。ともあれ、彼は襄陽もろとも呉三桂軍へ帰順したのだ。
 考えてみればこの戦いで、荊州、岳州、そして襄陽が周の版図に入った。呉三桂の威名は益々全国を震わせた。ただ、連日の戦闘で軍卒が疲弊しきっていた為、馬宝は暫日の休息を命じた。こうして、長江渡河にしばらくの余裕が生まれたのだ。
 一方、武昌へ逃げ込んだ蔡敏栄は、城門を閉ざし敗残兵を点呼したところ、既に一万人を割っていた。後、湖南提督の桑額と巡撫の虞宸が前後して武昌へ逃げ込んできた。
 蔡敏栄は言った。
「戦時には姿を見せずに、逃亡先にノコノコ現れおって。湖南が陥落してからお前達はどうしていたのだ?」
「逆賊呉三桂は衡陽にて帝位を潜称し、敵軍は湖南へありったけの水軍を派遣しました。これではとても敵うものではなく、一旦彝陵まで逃げました。すると図らずも荊州が陥落し、岳州への行く手が阻まれ、本日ようやく合流できた次第でございます。」
 蔡敏栄は事情を理解し、一応朝廷へ報告を入れて置いた。又、その傍らで図海へ使者を派遣し、敗残兵を指揮して再び防戦の陣を布いた。
 さて、馬宝は兵卒に休養を取らせた後、勝ちに乗じて漢陽、武昌まで攻め込もうと考えたが、斥候が「蔡敏栄に援軍有り。」の報告をもたらした。
 もともと、図海が催戦をした時、馬宝を防ぐ為に一軍を裂かなければ進攻できないと考え、旗兵二万人、馬陣二千人を派遣していたのだ。その軍が今、武昌にて蔡敏栄と合流した。ここで清軍が勢いを盛り返したため、馬宝は武昌進攻よりも、守備を固めることとした。まず、岳州城外に三重の壕を巡らし、落とし穴や逆茂木を植えて守備を堅固にした。そして、洞庭口には杭を打ち、敵船の運航を妨げ制海権を確保した。更に、豊州、石首、華容、松滋等に砦を築いて兵を派遣した。又、洞庭湖では軍艦を造らせ、水軍の補強とした。
 布陣がほぼ完了すると、馬宝は襲賛龍へ九江攻略を命じた。長江渡河の拠点を造ると共に、敵を分散させるためである。馬宝の得た情報では、清朝は尚善を定遠大将軍に任命して、承郡王を助けて岳州を攻略させ、安親王岳東を遠安大将軍に任命して、九江へ進撃させ、簡親王ラフを揚威大将軍に任命して、長江一帯を鎮圧して武昌と呼応させようとしていた。清朝の反撃が開始されたのだ。
 馬宝は夏国相と協議の上、降伏したばかりの将達を使うこととした。元の貴州巡撫曹申吉と元の雲南提督張国柱に兵を与え、岳州への援軍とした。これによって両軍の勢力は再び拮抗し、膠着状態となった。

 話は変わって、王屏藩。
 彼が呉之茂と挙兵した後、四川の呉三桂は新たな命令を下した。
「呉世麒は兵を率いて秦へ進撃し、王屏藩らと協力して行動せよ。」
 そこで、王屏藩達は三路に分かれて晋・べん地方まで進撃しようと計画したが、この時新たな情報が入った。清朝廷は、図海を征陜大将軍に任命し、皇族までも彼の指揮下に入れた。そして、この命令を受けた図海は、軍を整えて秦へ進撃してきたのだ。
 図海は、入秦に先だって、陜西の官兵達へ王屏藩迎撃を命じた。王屏藩が造反してから、陜西の官兵達は既に逃げ腰になっていたが、その中でただ一人、張勇率いる一軍だけは図海の命令に応じ、涼州まで進軍して、ここで厳重に陣を布いた。王屏藩と決戦する為である。
 王屏藩は呉之茂に言った。
「張勇か。あいつは関隴に駐屯してから久しい。地形は熟知しているだろう。しかし、奴は今、孤立した状況でも敢然と戦いを挑んでくる。あの一軍は、皆が決死の軍隊だ。我々がこれを無視して秦を離れれば、必ずや後顧の憂いとなってしまう。これを先にやっつけなければなるまい。」
「ですが、我軍が秦を出なければ、地方割拠にすぎず、結局はジリ貧ですぞ。それに図海も既にこちらへ向かっているとの情報です。張勇を撃破する前に図海の軍が到着すれば、我々は挟撃されてしまいます。しかし、晋・べん地方まで進軍しておれば、籠から出た鳥も同然です。奴等が我等を防ごうとしてもできますまい。」
「それも確かに一理ある。しかし、やはり後顧に憂いを残すのはまずい。張勇めはきっと後方を攪乱するだろう。そうなれば進軍にも支障を来す。王輔臣へ任せられたらそれが一番なのだが、今、奴の消息は不明だしな・・・。
 よし、やはり張勇を最初に撃破しよう。なに、我々の三軍が力を合わせて攻撃するのだ。すぐにでも撃破できるさ。後顧に憂いは残せない。」
 結局、王屏藩は西進に先だって涼州攻撃を決定した。
 さて、清の張勇提督は応戦の準備を整えていた。すると、そこへ王進宝提督の軍隊がやって来た。彼は順承郡王から陜西の援護を命じられたのだ。張勇は王進宝と協議し、二軍に分かれて涼州城を守ることに決定した。
 王進宝軍には、朱芬とゆう怪力無双の部将がいた。彼の父親は朱国治、かつて雲南の巡撫だった。呉三桂が挙兵した時、朱国治は偽って彼に帰順したが、逃亡の機会を常に窺っていた。だが、それがばれて、郭壮図に殺されてしまったのである。今回朱芬が王進宝へ従軍したのは、父の復讐の為である。彼は勇み立って先鋒を請うた。
「その意気や良し!三千の兵を与える。」
 王進宝は即座に許諾した。又、部将の夏応雄には三千の兵を与えて涼州城を守らせた。
 王進宝と張勇は、進軍して、城から十余里離れた場所に陣を布き、敵を待ち受けた。ちなみに、張勇軍の先鋒は総兵の趙良練である。
 王屏藩軍は、涼州内まで進軍した所で、斥候から報告を受けた。
「敵は既に城外にて陣を張っています。」
 王屏藩は大いに喜んだ。
「時間稼ぎの籠城へ出られるのが恐かったが、出陣しているのか。望むところだ。」
 すると、呉之茂が言った。
「敵が城外で待ち受けているのは、遠征した我等の疲れを討つつもりですぞ。戦場へ急いで駆けつけては不覚をとります。兵卒を疲れさせないよう、徐々に進撃するべきです。」
「もっともだ。敵陣は?」
「はっ。涼州城外十余里でございます。」
「すると、このままでは明日当たり戦場へ着くな。よし、今のうちに兵卒を休ませよう。」
 こうして、王屏藩は全軍へ休息を命じた。そして翌日、朝食の後ゆっくりと行軍し、昼も過ぎる頃、ようやく敵陣からほど遠くない所までやって来た。
 王屏藩は言った。
「張勇は俺の旧知だ。まず招撫してみよう。奴が蹴ったなら、その時戦っても遅くはあるまい。」
 こうして、彼はまず書状を書いて張勇へ届けさせた。

゛将軍とは一別以来、はや十年が過ぎた。各々多忙な折から疎遠とはなっているが、それでもこうして旌旗を並べて相対すると、胸に忍びないものがある。将軍を思えば、共に北朝の為に戦場を駆け巡った日々も、鮮やかに甦ってくる。
 しかし、今にして思えば、あの頃の俺は単なる武人にすぎなかった。大義に暗く狂気に惑い、国を滅ぼす為に敵の手先となって働いていたのだ。今、首を巡らせて山河を見遣れば、これ全て敵の物。なんと悲しいではないか!
 この十年を心静かに振り返ってみると、拠り所を失った心の虚しさに、夜通し胸が痛んでしまう。この苦しみは、人の心どころか体まで老け込ませてしまう。今、髪にも白い物が交じり始めたとゆうのに、将軍はまだ迷いから覚めないのか?一日の栄華を極めた以上、千年の責めから逃れられない。将軍も、俺と同病なのだ。
 今、将軍が北朝の命令で出陣したので、その心が昔のままだと判った。だが、それで宜しいのか?李自成が造反して北京を陥落した時、忠義の士は胸をかきむしった。だから、満州族へ援軍を頼んだが、その結果、国が略奪されてしまった。以来二十年、かつての忠義の士達は悔恨を呑んで生きてきたのではないか。
 大周の天子は、過去の汚点を洗い流すべく挙兵した。その結果、見よ、僅か数ヶ月の間に藩王から提督鎮撫に至るまで、先を争って帰順したではないか!彼等も又迷いから醒めたのだ。将軍一人、いつまで無明の闇に彷徨っているのか?
 それに、もう一つ考えてみよ。三藩の功績は大きいのに、平和になった途端、撤藩の政策が採られた。『狡兔尽きて走狗煮られる』とはこの事だ。将軍も、今回手柄を建てたなら、その末路は今の三藩と同じなのだ。ここを熟慮しても、将軍は未だ惑われるか?
 かの潘美は周末の能臣だったが、志を翻して宋朝建国を助けた。劉基も元の進士だったが、国に背いて明建国の功臣となった。この二者のいさしおは、青史に燦然と輝いている。彼等も二君にまみえる恥辱を知らなかったわけではない。しかし、暗を棄て明に投じた。国家の大義の為に自滅を避けたのだ。
 周朝は寛大。罪は努めて軽きに従い、功は努めて重く報いる。帰順した者には過去を問わず、投降を広く呼びかけている。故に尚之信、耿精忠、孫延齢の輩は王に封じられ、李本深、鄭蛟麟、楊嘉来、呉之茂の輩は将軍となった。だからこそ、多くの策士や兵卒が、周のもとへ群がり集まるのだ。
 将軍が物の道理をよく考えて答えを出し、俺を老いぼれと侮らずに手を結んでくれれば、承順王も蔡敏栄も物の数ではない。天の時に応じ、古の栄耀を復興できる人物が現れたのだ。国運を任せようではないか。
 将軍は老練な人間だ。上は天心の変化を察し、下は人事を測って事を定められる筈なのに、今回に限ってぐずついているのはなんとも奇怪な話ではないか。今、夏国相と馬宝は北伐の成果を挙げ、俺は三路に分かれて東征を開始した。天と人と呼応した我が軍に、誰が敵うとゆうのだ?このままでは二十年も輝いた将軍の威名が、一朝にして地にまみれてしまう。実に惜しむべき事だ!
 俺の情誼はまだ廃れていない。もしもこの想いを受け入れてくれるなら、この十里を出迎えてくれ。そうすれば、将軍は必ず藩王となれる。どうか自愛してくれ。゛

 書状を受け取った張勇は、一読した後側近達へ言った。
「帰順を求めて来おった。兵力の損傷も避けたいだろう。それに、我軍の兵力も欲しいだろうさ。」
「それで、将軍はどうなさるおつもりですか?」
「降伏勧告など、我には不要だ。だが、奴等も書状を出した以上は、我が方の返書を得るまで攻撃はするまい。今、図海公が進軍している。だから我々は返事を引き延ばして時間を稼ごう。開戦の折り、図海公の軍が間に合うようにな。」
 すると、総兵の趙良棟が言った。
「時間稼ぎの策では気づかれませんか?むしろ、帰順を装っておびき寄せ、一気に勝敗を決するべきかと思いますが?」
「いや、王屏藩とて歴戦の名将だ。偽装帰順の方が却ってばれるだろう。それよりも、この勧告を逆手に取ってやる。藩王の保証を求めれば、それで時間稼ぎになるさ。」
 諸将がこれに従ったので、張勇は返事を書いた。
 返書を受け取った王屏藩は、諸将を集めて協議した。
「王号の詔が来れば投降すると言ってきた。」
「それは計略です。」
 キッパリと断言したのは呉之茂だ。
「時間稼ぎに決まっている。図海の軍が到着するまで開戦したくないのだ。そんな約束を真に受けていると大事を誤ります。」
「その通りだ。既に降伏した将軍達は全て王侯に封じられているのに、張勇はどうして不安なのか?しかし、あいつは朴直な男だった。もしも本気で降伏する気があるのなら、奴等を攻撃すれば、我等が降伏勧告を餌に欺いたことになる。そうなれば今後降伏する者が居なくなってしまうぞ。」
「なにを馬鹿な!既に図海公は迫っています。今周帝陛下へお伺いを立てれば、返事が来より先に敵軍が来ます。それは奴にも判るはず。もしも本気で帰順するつもりなら、この状況でこのような条件を付けますか?これは絶対に計略です!もしも元帥が攻撃しないのなら、我が手勢だけででも攻撃を開始しますぞ!」
 王屏藩は、遂に総攻撃の号令を下した。呉之茂軍は、先鋒となって王進宝の軍へ責め掛かる。王屏藩は、雲南土司の陸道清に五千の兵を与えて涼州占領を命じ、残りは自らが率いて張勇軍へ襲いかかった。先鋒は鄭蛟麟。
 張勇は、軍中にて敵襲の報告を聞いた。
「しまった!計略を看破されたか!」
 すぐに迎撃の命令を下したが、敵襲の方が早かった。完全に虚を衝かれた形だ。
 呉之茂軍は王進宝軍を直撃した。
「諸君は既に周帝陛下から御厚恩を賜った。これが我等の戦始め。各々奮戦努力せよ!功績を建てれば恩賞は篤いぞ!」
 呉之茂の号令に、兵卒達は勇み立って突撃した。彼等が飛ばす石や矢が、雨霰となって王進宝軍へ降り注ぐ。王進宝軍は支えきれず、雪崩を打って退却した。王進宝軍は、陣の前に長壕を築いていたが、呉之茂軍がこれを乗り越えた時には、既に陣中はもぬけの空になっていた。
「王進宝軍、撤退!」
 報告を受けた張勇は、一軍を裂いて援軍へ出そうとしたが、そこへ流星馬が飛んできた。
「涼州が、陸道清軍に蹂躙されております!至急援軍を!」
「なにっ!」
 張勇は少なからず慌てたが、翻って見ると既に王屏藩軍が目前に迫っていた。先鋒の趙良棟が奮戦して防いでいる。王屏藩軍は、一夜の休養で遠征の疲れを癒していた。それに加えて呉之茂軍の快進撃に兵卒の心は奮い立ったのだ。その敵軍を相手にして、趙良棟もよく戦っていた。互いに損傷を出しながら、がっぷり四つの戦いである。
 この戦闘はいつ果つともなく続いたが、黄昏時に大雨が降り、両軍共に兵を退いた。
゛旗色が悪い。負傷した将校も五十人を越え、兵卒の損傷は二千余人。衆寡敵せずか・・。それにこのままでは兵卒の戦意喪失も恐い。゛
 そう判断した張勇は、王進宝と協議した。
「こうなったら、涼州城へ立て籠もり、図海公の到着を待つ以外有るまい。勿論、一軍は城の外へ布陣して椅角の備えはして置くが」
 諸将もこれに賛同した。そこで、朱芬と趙良棟が城へ籠もり、王進宝と張勇が東西に分かれて城外へ布陣することとなった。軍毎に大営を築き、これに数十の小営が連携して堅塁を造る。城外には深く広い長壕が、ぐるりを取り巻く。彼等はこの要塞に籠城する傍ら、図海公の軍へ催促の使者を放った。
 片や、王屏藩は呉之茂に言った。
「大雨がなければ、敵を破っていたものを!だが、この戦いで、奴等は肝を冷やしただろうよ。ところで、平涼一帯で土人達が決起したと聞く。かなりの大人数だが、遠大な志がないそうだ。そいつ等と連合できれば、十余万の兵力になる。これで東征すれば、誰が防げようか。」
「ええ。それなら平涼と通行できるよう、涼州城を尚更早急に陥さねばなりません。今の任務はそれだけです!」
 翌日、呉之茂は再び城攻めを主張した。そこで、王屏藩は全軍を前軍後軍の二軍に編成し直した。それが済むと、彼は高らかに言った。
「城攻めの要点は、一気呵成に攻め落とすことにある。時間を掛ければ、我々の志気は衰え、敵に鋭気を養わせることになる。手を緩めるな!平涼への道が開ければ、最早我等に憂いはないぞ!」
 遂に、城攻めが始まった。呉之茂軍は陸道清と合流して涼州城を攻め、王屏藩は鄭蛟麟と合流して張勇の営塁を攻める。第一日目は前軍が攻撃した。そして、第二日目は後軍が入れ替わって攻撃する。前軍行軍車輪のように回転し、攻撃の手を休めない。三軍の軍卒は鼓騒に会わせて進軍し、全力を挙げて攻め戦った。
 しかし、張勇もよく防いだ。それに加えて堅塁である。なかなか攻め落とせない。そこで王屏藩は張勇を引っぱり出し撃破しようと考え、部下へ命じて挑発させた。だが、張勇は出撃しなかった。周兵は「卑怯者よ臆病者よ」と口を極めて罵ったが、張勇は聞き流す。諸将の中には、屈辱に耐えきれず出撃を請う者も居たが、張勇はキッパリと拒絶した。
「図海公が到着するまで、出撃を口にする者は斬る!ただ、防御に徹せよ!」
 王屏藩と呉之茂の猛攻は三日続いたが、城は陥ちなかった。王屏藩に焦りが生じる。その折、斥候が叫んだ。
「大将軍図海が襲来しました!」
「何?早すぎる!」
 驚くのも道理。張勇の放った間者が図海公の本陣へ到着した時、その陣は、まだ涼州から百里以上も離れていたのだ。だが、涼州の危機を知った図海公は、強行軍を決意した。彼は大急ぎで吉林馬陣の三千騎を揃えると、后陣を置き去りにして駆けつけた。そして、到着するや否や呉之茂軍へ襲いかかったのである。
 援軍の早すぎる到着に、呉之茂は少なからず慌ててしまい、その多寡を見定める余裕を無くしてしまった。敵陣の混乱を見るや、城内から石や矢が次々と打ち出された。そして、城門が開くと、朱芬軍が討って出たのだ。三軍が揉み合って混戦となり、遂に呉之茂軍は撤退した。これに対して図海公は、部下の疲労を考えて追撃を留めた。その代わり、図海公は地形を見て、一夜のうちに砦を築いたのである。
 さて、戦況が落ち着くと、図海公は張勇へ言った。
「『衆寡敵せず』と言うが、将軍の死力があればこそ、なんとか持ちこたえられたのだ。」
 そして、即座に功を賞した。張勇、王進宝の功績は早馬で朝廷へ連絡し、趙良棟は提督へ昇進させた。
 この後、両軍は何度か戦ったが、互いに勝敗があった。王屏藩も智恵を巡らせたが、良策はなかなか得られない。遂に、周軍は固原まで撤退し、ここを固守した。こうして、戦線は膠着した。

 さて、呉三桂は成都に腰を落ち着けた後、次々と帰順してくる軍閥達を各地へ派兵していた。だが、岳州の馬宝や夏国相達は、なかなか武昌を陥とせず、呉三桂は次第に焦燥にかられ始めた。と、そこへ夏国相からの上奏文が届いた。その趣旨は、真州の精鋭兵を岳州へ回し、北伐を更に強行することであった。
゛真州を棄てて北伐を採れ、とゆうことか・・・。゛
 一理ある。だが、真州は彼が十余年に渡って王として統治していた土地であり、捨て去るには忍びない。とつこおつ思いを巡らすうち、ハッと閃いた。
「そうだ!何も岳州からの一路にこだわる必要はないぞ。越浙から江蘇を抜け、両淮を陥とせば、北京は目前ではないか。してみると、鍵を握るのは耿精忠。奴は帰順したばかりでまだ動いていないが・・・台湾の鄭経だ!これと同盟を結んで耿精忠と共に江蘇地方を攻略させよう。」
 思案がまとまると、すぐに夏国相へ返事を書いた。
「岳州が敵の大軍と対峙している間に、手薄になった江蘇地方から北京へ攻め込む。」
 それは、夏国相の期待した返事ではなかったが、策としては面白い。
「成る程、これも上策だ。そうなると、我々が真州から援軍を貰っても、大勢に影響は殆どないな。確かに、真州を棄てる等二次的なこと。
 今、最も大切なのは鄭経との同盟である・・・か。その通りだ。」
 夏国相は勅諭に納得すると、すぐに人選に掛かり、尚書の王緒を使者に選んだ。
 さて、台湾の鄭経とは誰だろうか?彼こそは、鄭成功の息子である。
 かつて、鄭芝龍とゆう男が居た。東シナ海を暴れ回る海賊達の中でも、特に威勢を振るった頭領である。この鄭芝龍は明を見限り清へ帰順した。鄭成功はこの鄭芝龍の息子である。母は、日本人の田川氏の女性。幼い時は長崎で暮らしていた。父が清へ帰順するに及び、鄭成功は憤慨した。
「国家の大義に背いている!」
 そこで、家族の情を断ち切って台湾へ渡り、明の皇族を擁立して台湾一円を征服してしまった。
 鄭成功が死去した後、息子の鄭経が後を継ぎ、清を相手に苦しい戦いを続けていたのである。互いに清と戦う者同志。呉三桂が同盟を結びたがった所以である。
 さて、夏国相から使者に選ばれた王緒は、任務の重さを自覚し、精力的に動いた。まず、彼は越へ向かい、耿精忠へ謁見した。
「岳州の一戦では、馬宝都督が大勝利だったそうだな。それで?それ以来陜中で何か軍報でもあったのか?」
「はっ。正にそのことで耿王殿下のもとへ参ったのでございます。
 岳州を陥とされた清朝は、近隣の兵を武漢へ総動員しました。今、陜中の戦線は膠着状態でございます。しかし、敵は兵卒をかき集めたとゆうのに、馬宝提督を敗れません。奴等の程度が知れるとゆうもの。それよりも、敵が武漢へ兵力を集中させた為、江淮地方が手薄となっております。今、大王が大軍で蘇州を攻略すれば、誰が防げましょうか?
 今、殿下は周へ帰順したとはいうものの、未だ出兵なさっておられません。清朝では、既に殿下を罪人扱いしているとゆうのに、今のままでは周朝からもその去就を疑われてしまいますぞ。ここは、手を拱いて罪を得るより、奮戦して功績を建てるべきかと心得ます。」
「成る程。此処へ来て日和見扱いされるのも、余の本意ではない。それで出陣するとして、期日については何か考えがあるか?他の軍との連携は?」
「はい。私はこれから、鄭経と同盟を結ぶために台湾へ行きます。大王は一軍を率いて浙江に沿って北上なさって下さい。私は何としてでも鄭経を動かし、蘇杭から北上させます。」
 耿王は承諾し、又、自分の部下も一人、王緒に同行させた。
 さて、台湾の鄭経は父に倣って清と戦っていたが、戦況は一進一退。そんな中で呉三桂の挙兵を聞いたので、これを機会に今一度清と戦おうと考え準備を整えていた。そこへ王緒等がやって来たので、鄭経は彼等を礼遇したが、しかし同盟を結ぶか否かは容易に決められることではない。
 いよいよ謁見と言う時、座が定まった後、鄭経は言った。
「呉三桂は明を滅ぼした張本人だ。今、復明を唱えてはいるが、自ら帝位へ即いてしまった。これは一体どうゆう事だ?」
 王緒はいきなり詰られてしまったが、胸を張って言い返した。
「陛下が大周皇帝と成られたのは暫定的な処置に過ぎません。既に決起した以上、主君が居なければまとまりがつかないのです。明裔は散逸し、たとえ見つけだしたとて英明とは限りません。そこで、苦肉の策として即位したに過ぎないのです。その証拠に、帝位にこそ即きましたが、世継ぎを決めておられないではありませんか。」
「成る程。」
 鄭経は単なる言い逃れと看破したが、敢えて追求しなかった代わりに、静かに言った。
「我々は二世代に亘って台湾を統治して来た。それでも帝号は名乗らない。明室を忘れない為だ。それはさておき、今回、卿がやって来たのは、何が目的かな?」
「はい。昔、延平王(鄭成功)殿下は台湾に虎踞し、越・浙を転戦して淮・揚まで攻め込み、威勢は大いに振るいました。ただ惜しむらくは、当時の人々は戦争に倦み、清朝も全力を挙げて抗戦した為、結局は事を成し遂げることができませんでした。
 今、大王は壮年で王位に即かれ、国民からは主君と仰がれておられます。さてこそ、先代を越える威勢を振るい明室復興の大業を成就為されるかと思いきや、意外にも国内には軍旗がはためかず、国外からも鉦鼓の音が聞こえません。もしや滅亡を座して待たれるおつもりでございますか?
 今、大周は既に決起しており、清軍は奔命に疲れ果てております。もしも大王が数万の精鋭を率いて淮・揚へ攻め込まれましたら、耿王は必ず後方から援護いたします。そうすれば、天下は忽ち平定されますぞ。
 事が成就すれば、殿下は藩王の位を保てるどころか、忠孝両全の英雄として、千載万世に至るまで、讃えられましょう。殿下、どうかここをお考え下さい。」
「いかにも尤もな話だ。」
 鄭経はゆっくりと頷き、部下へ命じた。
「王緒卿を最上の礼でもてなすように。」
 王緒を退出させると、鄭経はすぐに百官へ問いかけた。
「周の呉三桂から、同盟の申し入れ。この件、どう思う?」
 とたん、臣下達は歓声を挙げた。
 もともと、鄭経の心は動いていた。それに加えて群臣の賛同を得、評議は忽ち決定した。彼等は重臣の施継を使者周へ派遣し、期日を定めて出兵することを約束したのである。