第十六回 勇者が刺客を捕らえて呉王を護り、

      兵権を忌んだ朝廷は、藩鎮の移封を企てる。

 

 さて、楊娥は呉三桂を暗殺しようと企てたが、天運拙く、今一歩の所で病死してしまった。呉三桂は彼女の本願を知らず、ただその容色と勇力を惜しむばかり。妾として可愛がることができぬのなら、せめてその才色だけても愛でようと、部下へ託して多くの供物を届けさせた。
 この事件はすぐに評判になった。楊娥の近所に住んでいる人々は、彼女の美貌と才能を惜しみ、愛慕の想いを深めたのである。こうして、多くの人々が彼女の手向けに参列した。ところが、町中の無頼漢達は、彼等とは全く違う想いでこれを見ていたのだ。
 もともと、楊娥には身寄りがなかった。その持ち物と言っても酒場が一つだけだったが、呉三桂や大勢の人々からの供物は山のように積まれた。それは、彼等から見れば宝の山に他ならず、深夜にこっそり盗んでやろうと考える者も多かった。
 ここに、李成とゆう無頼漢が居た。もともとは些かの武芸を身につけ、武術教授で身を立てていたが、女と博打に身を持ち崩し、無頼漢となってしまった男である。ある夜、彼は供物を盗もうと考え、楊娥の酒場へこっそりと忍び込んだ。しかし、酒甕の他には大した物がなかったので、彼は大胆にも死体が身につけている宝物を剥ぎ取ってやろうと考えた。
 無頼漢の盗人とはいっても、さすがに死体に触れる男は居なかったと見えて、両耳に付けているのは、大粒の真珠である。
「こいつぁ値打ち物だ。もっと他にねぇかな。」
 彼はますます大胆になり、死体の着物をはぎ始めた。その着物も、麗しさでは並びない。と、不意に彼は紙片を見つけた。
「なんだこりゃ?」
 広げてみると、どうも女の字に見える。
「楊娥の遺書かな?」
 そう想いながら、彼は目を通した。

゛亡国亡君の恨みが、妾の心を離さない。故君永歴帝、故主沐天波そして我が夫張氏、みんな逆賊呉三桂奴に殺された。あの逆賊さえ居なければ、国も滅亡しなかったものを!
 この恨みを、妾は心に刻み込んだ。報国の挙を、亡主亡夫の仇を、何で討たずに済ませようか!行きずりの男に媚びを売る酒屋稼業もその為に。あの逆賊が好色と聞き、近づく機会を造るためだった。そこまで巧くいきながら、あと一歩の所でこの病に罹るとは!
 ああ、天か、命か!そもそも、天はあの逆賊を長生きさせたいのか!国民を塗炭の苦しみへ追いやりたいのか!
 何を言っても、事は既に終わってしまった!せめて、せめて妾の志を継ぐ人がいてくれるなら、妾は笑って死んでゆけるものを!   
                                   楊娥記す゛

 読み終わって、李成は愕然とした。
「女にも、こんな烈婦が居たのか!それにひきかえ、男と生まれてこそ泥しかできぬ奴もいるなんぞ、情けなくって涙が出らあ。それに、あの逆賊奴は、確かに諸悪の根元だ。あいつを恨まない奴など、一人もおらん。よし、この楊娥に報国の心があるのなら、この俺にだってある筈だ。どうせ俺には身よりもないし、財産もない。生きてたってなーんも良いことないのだから、残りの人生、この志を引き継ぐってゆうのも面白いさね。もし幸運にも成就したら俺の名前は千年先まで語り継がれるし、失敗したところで、こそ泥の一生よっかは数倍ましじゃ。」
 思案が忽ち固まった。李成は楊娥の死体へ向かって丁寧に拝礼すると、秘密が漏れないように彼女の遺書を燃やした。
 そして暫く躊躇したが、やがて両耳の真珠だけはしっかりと握りしめた。
「こいつは刺客の以来料。有り難く頂戴しとくぜ。」
 死体へ向かってつぶやくと、彼はサッと逃げ去った。
 もちろん、それを売り飛ばすつもりはない。ただ、烈婦の形見を身につけていたかったのだ。
 さて、李成は自分の家へ帰って考え込んだ。
゛呉三桂を刺し殺すってぇと・・・やっぱり、近くへ寄らなきゃならねぇ。国王様なんぞただでさえ近づけねぇのに、彼奴は最近用心深くて滅多に出歩かなくなっちまった。゛
 とつこおつ考えているうち、ハッと閃いた。
「そうだ。俺の弟子だった張経が、今じゃ野園で庭師をしていたっけ。よし、俺も野園の庭師になれるよう、彼奴に推薦して貰おう。」
 考えてみればこれは名案。呉三桂は野園にいつでもやって来るし、庭師なら、根気よくやっていれば、いずれ近づく機会もあるだろう。李成はさっそく張経を尋ねた。
「どうにも金に困ってしまってね。庭師でも骨身を惜しまず働くから、どうか就職できるよう推薦してくれないか。」
 かつての師匠から困窮した姿で頭を下げて頼まれると、張経も師弟の情が甦り、断れたものではなかった。こうして、李成は野園の庭師となって、一遇の機会を狙い続けたのだ。

 一方、呉三桂。平西親王となってからは、永歴帝の行宮を藩府とし、又、かつての沐府の建物も大いに利用した。尤も、野園が完成してからは遊びに耽って政務など執らなくなったのだが。既に南面して王と名乗り、位は人臣を究め、富貴も極まった。平生の宿願も成就したとゆうものだ。ただ、それでも自己嫌悪は免れなかった。
 外国の軍隊を国内へ導いたのは彼だ。明を根こそぎ滅ぼした悪人として、世間は彼を譏っている。その上ビルマへ出征し、故君を捕らえ、殺戮した。これによって明皇室の血統まで絶えさせようとしたのである。これでは千歳の後に至るまで、極悪人の代名詞になってしまうではないか。既に悪評は免れない。後悔するのも尤もである。
 これを以て考え直すと、彼は全国民から恨みの的となっているのだ。暗殺を怖れるのも道理だった。外出する時には必ず頑丈な鎧を着込んだし、護衛の兵士も忘れなかった。藩府や各所の庭園にも、護衛兵を常置した。そして武芸達者な者の噂を聞くと、金に糸目を付けずに雇ったのである。
 そんな時、保住とゆう武芸者が評判となった。三十余歳で剛力無双。体は小さいが、猿のように敏捷。歩く時に足音も立てないので、盗みの腕も鶏鳴狗盗にひけは取るまい。噂を聞いた呉三桂は、さっそく千金で召し抱えた。
 ある時、大勢の客が集まった席で、呉三桂は保住に武芸を披露させた。すると保住は、まず、高さ一丈(約3メートル)余の幕を庭へ垂らさせた。彼はただの一飛びで幕の中から飛び出し、そのまま身を翻すと屋根へ飛び上がった。足音一つ立てないで瓦の上を走り回り、パッと建物の裏へ隠れたかと思うとすぐに姿を現して戻ってくる。その時、彼の腕の中には呉三桂の愛妾の鏡箱が抱えられていた。客は思わず賞嘆し、呉三桂も絶技と誉めた。これによって、保住は棒給を加増された。また、護衛役として常時呉三桂に付き従うようになったのだ。
 さて、李成は既に暗殺を企てていたが、保住の武芸は聞いていた。
「こりゃ、呉三桂を殺す前に、あの男を何とかせにゃあならんな。」
 彼の自慢は、弓である。一度に二発の矢を射ることができる。その二本の矢で保住と呉三桂を同時に傷つけることができれば、・・・。
「傷つけるだけでも彼奴の能力を落とすことはできるだろう。両矢の連発あるのみだ。」
 方策は決まった。以後、彼は好機を窺っていた。

 その日、呉三桂は保住を護衛に野園の中の列翠軒へやって来て、宴会を開く為に愛妾達を呼び集めに行かせた。この時、呉三桂の護衛達は軒の外に集まっており、軒の中には呉三桂と保住しかいなかった。そして、李成は列翠軒の向かい側にある淬剣亭にいたのだ。淬剣亭の上には藤棚があり、彼はそこへ身を伏せていたが、幸い誰にも気づかれなかった。
゛しめた。今日こそ逆賊の命日だ。゛
 彼は静かに弓を取り出し二本の矢をつがえ、両人へしっかりと狙いを定めて、ヒョウと射た。
「アッ!」
 たちまちあがった驚声は呉三桂と保住のものだ。一本は、保住の左肩に刺さった。そしてもう一本は、呉三桂の小腹へ当たった。だが、図らずもこの日呉三桂の着物の下には頑丈な鎧が着込まれており、李成の矢は彼の体へ届かなかった。だが、さすがに彼は老獪である。矢を受けた途端、崩れ落ちるように地へ伏せた。後続の矢の標的にならぬよう、致命傷を受けた振りをしたのだ。そして、倒れたままで叫んだ。
「刺客だ!」
 保住の方は、矢を受けても怯まず、すぐに軒の外へ飛び出した。
「賊徒!逃げられると思うな!」
 だが、背後で人が倒れる音。ハッと振り向けば、呉三桂は地に伏している。彼は思わず軒へとって返して呉三桂を抱きかかえた。その隙に、李成は第二撃の準備を終えた。
゛逆賊は殺った!後は保住だ!゛
 とっさの思案で放った矢は、二本とも保住の胸へ当たった。
 と、その時、呉三桂は小声で言った。
「賊の二の矢から免れる為に、重症の振りをしているだけだ。俺のことは構わんから、お前は速やかに賊を捕らえよ。」
 保住は了解するや、身を翻して立ち上がった。
「衛兵、衛兵!賊だ!刺客だ!速やかに集まれ!」
゛あれでまだ動き回れるとは、あいつ化け物か!゛
 李成は愕然としながらも三撃めの矢をつがえたが、その時既に保住は淬剣亭の下まで駆けつけていた。
「矢はここから射られた。賊徒は此処だ!」
 だが、さすがの保住も、動き回ってこそいたが、既に目が霞んでおり、李成の姿が見えなかった。
 一方、李成は駆けつけてくる大勢の足音を聞いた。
゛へっ。これじゃ逃げれねぇ。俺の命もこれまでだ!゛
 だが、もとよりそれは覚悟の上、冥土の道連れとばかり、三度保住へ矢を放った。ワラワラワラと駆けつけてきた衛兵達は、この時こそ刺客の姿をハッキリと捕らえた。
「お前が刺客か!」
 衛兵達は、叫ぶのももどかしげに、藤棚向かって矢を乱射した。李成の体は針鼠。逃げようとて逃げられない。死期を悟って、彼は身を翻し、藤棚から飛び降りた。
「おまえか!よくもやりおったな!」
 目前に現れた刺客へ向かって、保住は大怒して斬りかかった。だが、彼も既に重症である。身に受けた矢の激痛と、怒りに任せた力の込め過ぎとで目測を誤り、彼の振り下ろした剣は、李成の剣を砕いたに過ぎなかった。そしてそのまま、彼は地面へ倒れ伏したのだ。 そこへ衛兵達が駆けつけてきた。彼等は半死半生の李成を切り刻んだ。
「刺客をしとめたぞー!」
 勝ち鬨を聞いて、呉三桂はようやく立ち上がった。
「あっ、平西王。ご無事でしたか。」
「うむ。今日はお前達に射撃比べをさせるつもりで鎧を着込んできたが、運の良かったことだ。そうでなかったら殺されていた。」
 ようやく呉三桂は安堵したが、ハッとして軒を飛び出し、保住のもとへ駆けつけた。しかし、抱き起こしていた衛兵は、静かに首を振った。
「駄目です・・・。」
 呉三桂は悲嘆に耐えず、人目を憚らず号泣した。ようやく気が落ち着くと、保住を手厚く埋葬するよう命じ、併せて彼の遺族にも莫大な恩賞を与えた。この事件以来、野園へ出入りする者は、衛兵を除いて武器の携行を禁じられたのである。
 元来、呉三桂は射撃が巧く、衛兵達にも閑ある度に射撃の練習をさせていた。これは、敵が外から攻めてくることを想定してのことである。今回、意外にも賊は身近な所に潜んでいた。この李成の事件以後、彼は野園の雇用人を有無を言わさず全員解雇し、腹心の子弟から厳選した人間だけをここでの服務へ充てた。かつ、彼等には重い棒給を与え、異心を起こさないよう気を配った。更に、必要に迫られて外出する時には馬を使わず、必ず頑丈な車に乗り、更に同様の車を数台連ね、どれに乗っているのかも知られないようにした。彼は、そこまで用心深くなったのだ。
 李成へ対しては、追及の手が厳しかった。彼を推薦したのが庭師の張経だと判ると、すぐに捕り手を差し向けた。だが、張経は李成の一件を聞いた途端、身の危険を感じて遁走した。だから、捕り手が出向いた時は既にもぬけの空であり、呉三桂は更に激怒した。
「雲隠れした以上、奴が李成の一味であることは明白だ。大逆の罪は七族に及ぶぞ!」
 張経には懸賞金が掛けられ、彼の家族は全員捕まって処刑場で首を斬られた。この処刑の時、見物人達は全員嘆息したと言われている。
 それだけのことをやっても、まだ呉三桂の憤懣は収まらなかった。不機嫌な顔をしていると、その折り、彼はバッタリと陳圓圓に会ってしまった。
「王様?何かあったのでございますか?」
 圓圓から心配そうに尋ねられ、呉三桂は李成の事件を発端から張経一族の皆殺しまで一部始終語った。
「・・・と、そうゆう訳だ。それにしても、わしは天下を縦横に駆け回り、数多の英雄豪傑をこの手に掛けてきた男なのだ。その俺に向かって李成のような匹夫野人が大それた真似をしおって!実に憎むべき奴だ!」
「でも王様。お気をつけて下さいましね。李成のような真似をする男が、李成一人とは限りませんわよ。」
「なに、不意を衝かれたから慌てただけだ。どぶ鼠共が例え命を懸けたとて、この平西王を殺せるものかね?」
「いいえ!それは間違っています!厳しいことを言うようですが、天下の人々に尋ねてみましょうか?王様を愛する者と、王様を憎む者はどちらが多いと思います?」
 呉三桂は言葉に詰まった。
 実に無礼な質問である。その上、彼自身それはハッキリ判っているのだ。明を滅ぼしたのは誰か。中国人の誇りを潰したのは誰か。そして恩を仇で返した男が愛されるか?
 他の者が言ったなら、悪くすれば打ち首ものだ。しかし、相手は圓圓である。例えどのような地位にあっても、彼にとって圓圓は圓圓なのだ。そして、その圓圓は彼を気遣って言っているのだ。
 返答できない呉三桂を後目に、圓圓は続けた。
「昔、楚の霊王は近隣諸国を次々滅ぼし、その威名は天下に轟きました。しかし、その霊王が死んだ時、軍中の兵士達は一人も悲しまなかったとゆうではありませんか。怨まれ過ぎていたためです。今、王様は清の朝廷にこそ大功がありますが、天下の人々はその徳を慕っておりません。王様、どうか惨めな末路にならぬよう、これから努力を重ねて下さい。もし、一時の威勢に心驕らせ殺戮を繰り返されたなら、敵が増えて行く一方です。きっと良いことはありません。」
 呉三桂は押し黙ったまま一言も喋らなかったが、心の中は釈然としなかった。結局、彼は藩府の役人を端役に至るまで徹底的に腹心で固めてしまった。

 この頃、清の朝廷では猜疑心が生まれていた。
 地方の督撫は事件が起これば必ず朝廷へ報告するようになっていたが、雲南だけは、呉王の検閲を受けた後でなければ報告を許されなかった。もしも、呉三桂が不都合と判断したら、報告されなかったのだ。それ故、雲南省からの報告は極めて少なかった。特に、租税の収支決算だけは、朝廷へ絶対知らせなかった。
「平西王の称号は、戦功によって与えたに過ぎない。しかし、既に与えてしまったのだ。 もしも奴が王号を盾にとって清からの自立を図ったら、それこそ『枝が大きすぎて幹を痛める』ことになってしまうぞ。実に憂うべき事態に陥ってしまった。」
 こうして、呉三桂の処遇が朝臣達の大きな議題となった。できれば、彼から兵権を奪いたかったのだ。
 その最中に、清では高帝が崩御し、皇太子が即位した。これが康煕帝である。彼は、幼少ではあったが、聡明な人柄。この時に及んで、群臣を集めていった。
「本朝の建国には、呉三桂と耿王、尚王三人の力に負うところが大きい。しかし、既に天下は統一され、泰平の世の中となったのだ。この時代に、多額の俸禄を徒に喰ませるのは宜しくない。それに、この三名を藩王として遇し、いつまでも兵権を与えておれば、何をしでかすか判らない。彼等に安楽な老後を送って貰う為にも、一生遊び暮らせるだけの十分な恩賞を各藩王へ与えた上で、全ての藩を取りつぶすべきだと考える。これに関して、諸卿達はどう考えるか?」
 そう言われても、誰も何も言わなかった。
 大体、全ての藩を取りつぶすなど、却って三藩へ反乱を起こさせるようなものではないか。だが、皇帝の提議へ否を唱えるのは難しい。こうして、返答がなかったのだ。そこで、康煕帝は言った。
「今、各藩は臣下としての礼節をわきまえている。だが、それがいつまで続くか知れたものではない。今、姑息な手段を採ってしまえば、結局は大きな禍を育てるようなものだ。断固行うしかない!」
 朝臣達はその言葉を正しいとは思ったが、遂に賛成する者は居なかった。
 だが、この情景を見て康煕帝は思った。
゛皆が道理に納得したのなら、艱難を物ともしない人間が必ず加担してくれるはずだ。゛
 そこで、とりあえず地方巡視の瞑目で呉三桂を監視することを提案してみた。諸臣達は、これには諸手を挙げて賛成した。
 この時、呉三桂の息子は都に居た。彼は独自の情報網から、全ての藩を取りつぶすという朝廷の意志を掴むと、慌てて呉三桂へ連絡した。
 これこそ、゛藩王の跋扈は、皇帝から猜疑される。゛と申すもの。さて、これからいかがなりますでしょうか。