第十二回  平西王、雲南城まで進撃し、

       永歴帝は夜、永昌府へ逃げる。

 

「旌旗が揺れている。」
 油断無く保寧城を見張っていた王復臣は、真っ先にその異変に気がついた。
「劉将軍、呉三桂が出撃する。全軍に警戒を呼びかけよう。」
「何を証拠に?」
「奴が退却するつもりなら、こんな孤立した小城に籠城する訳がない。大体、あの悍将が十万の兵を率いて長躯来寇したのだ。初戦の頓挫くらいで逃げ出すものか。奴がここで守備を固めたのは、我等の隙を窺い、反撃するつもりなのだ。俺はそれを慮って、常に心に留めていた。今、物見櫓に登ってみたら、城内の旌旗が揺れていた。攻撃の準備以外に考えられん。」
「成る程、実に的確だ。しかし、我等も戦いに来たもの。奴が襲撃してくるのなら迎撃してやる。望むところだ。」
「だが、張璧光の軍は気になる。あいつは勇敢だが無謀。それに、敵を軽く見ている。油断増長が蔓延すれば必ず負ける。あの一角が破れれば、総崩れの可能性も出てくる。」
「確かに。あれは勇敢だが、それだけに他人を軽く見る。よし、俺が今すぐ行って戒めよう。」
 だが、彼が動こうとした時、西南から大音声が聞こえた。精騎数千が、城内から討って出たのだ。率いる大将は胡国柱。張璧光の本陣へ向かって脇目もふらずに突撃してくる。対して、張軍は全く警戒していなかった。張璧光が敗残の兵と侮っていたのだ。この油断を衝かれて、張軍は完全に混乱した。
 このような混乱の中では、兵卒達は戦うことより逃げることを考える。彼等は期せずして東へ向かった。東門の劉文秀軍と合流しようと無意識のうちに動きが揃ったのだ。胡国柱は、勝ちに乗じて追撃した。
 劉文秀は、張軍の壊走を知った。そこで一軍を東門からの襲撃に備えさせながら残る一軍を張璧光への援軍に回そうとしたが、呉三桂の動きの方が早かった。彼は胡国柱が東へ向かって敵を追撃してくると見るや、即座に東門から討って出たのだ。
 前方からは敗走する味方が押し寄せ、後方から敵が突撃してくる。劉軍は完全にパニックに陥った。王復臣の軍も、味方が邪魔になって陣を造ることができなかった。
「いかん。一時撤退し、陣を立て直して再度戦う。」
 だが、折りもおり、この時上流の山から鉄砲水が押し寄せてきて、劉軍の混乱は極みに達した。もはや劉文秀も王復臣も支えきれなかった。呉三桂は先の味方と合流し、かさにかかって攻め寄せた。
 こうなってくると、逃亡兵が続出する。王復臣は自ら剣を抜き、逃げる部下を数人斬り殺したが、そんなものでは止められなかった。既に、呉三桂は彼等を幾重にも包囲している。此処に到って、王復臣は怒号した。
「揚州のことを思い出せ。降伏しても殺されるだけだぞ!生き延びたいなら戦え!」
 この言葉に、兵卒達はようやく奮い立った。王復臣も又自ら奮戦し、敵兵十余人を斬り殺した。その姿に劉軍はますます奮起し、必死の逆襲が始まった。呉軍の兵卒が次々と殺されて行く。
「いかん。敵は必死だ。このままでは被害が大きい。一旦城内へ撤退するか。」
 呉三桂がそう言うと、夏国相が言った。
「今回逃げ帰ったなら、兵卒の心は阻喪しきってしまいます。もう、保寧城でも支えきれません。勝敗はこの一挙にあります。将軍、気弱になりますな!」
 呉三桂はたちまち悟り、軍鼓を鳴らして兵卒を鼓舞するよう命じた。
 激戦が続いた。やがて、王復臣の兵卒達は次第に疲れを感じ始めた。しかも、包囲はまだ突破できない。遂に、王復臣も死期を悟った。
「あの小僧っ子が俺の策に従わなかったことが恨めしい!逆賊を生け捕りにできず、祖国再興ができぬのとあっては漢の恥!その上辱めまで受けられるか!」
 遂に、剣を逆さまにし、己の首を刎ねて自殺した。
 王復臣の死後、兵卒の大半は投降し、呉三桂は彼等を一々招納した。張璧光が破れ、王復臣は自刎。それを見届けた劉文秀は、囲みを解いて撤退した。この時、呉三桂が追撃を命じなかったので、夏国相が言った。
「劉文秀は、部下の兵卒から慕われています。彼が再起したら大敵ですぞ。この機に乗じて追撃し、後難を絶って下さい。」
「そう言うな。俺は数十年戦陣で暮らしたが、これ程危なかったことはない。勝敗はまさしく紙一重。王復臣の献策が容れられたなら、我等は負けていた!」
 遂に、兵卒へ休息を与え、追撃を命じなかった。
 劉文秀は成都へ向かって落ち延びていったが、四・五十里程行ったところで、孫可望の軍勢と出会った。 劉文秀が敗北の次第を告げると、孫可望は嘆息した。
「あと一日早ければ、こうはならなかったものを。王復臣まで失ったか。片腕をもがれたようだ。」
「私が四川へ入ってから、人心がなついております。しかし、今この大敗を喫しましたので、それもどうなるか。善後策は速やかに行わなければ。」
「今、貴君と合流した。再戦を挑んではどうだ?」
「大敗の後で、兵卒の意志が阻喪しております。戦闘は難しいかと。」
「呉三桂は追撃して来るか?」
「いえ、それはありません。奴は勝ったとはいえ、単なる僥倖。我等を恐れております。追撃はありません。」
「ではどうすれば良いかな?」
「元帥は、傷痍兵を介護し、人馬を訓練し、敗残兵を呼び集めて下さい。成都は堅固な土地。呉三桂とて征服することは困難です。」
「俺は貴州へ赴こうと思っているが。その方が永歴帝陛下の在所に近い。」
「それは滅亡の道です。貴州は土地が痩せており、これを得ても役に立ちません。成都は肥沃な上に天険の地。どうしてこれを棄てるのですか?我等が一心同体となって抗戦すれば確保できます。今我々が貴州へ移動すれば、呉三桂は手に唾して四川を手に入れてしまいます。貴州では自立する基盤になりません。」
 孫可望はしばらく躊躇した。しかし、この一戦で叙州を失ったのだ。呉三桂が長躯四川を衝くことが恐い。貴州へ入って永歴帝と合流して共同戦線を張るべきだと考えた。
「何にしても、俺は永歴帝から招納されたのだ。両広・雲南は広い。俺がその傍らの貴州に割拠して援護すれば、堅固なものではないか。もし成都に固執すれば、我々は孤立し、呉三桂に各個撃破されてしまうぞ。」
 遂に劉文秀の献策を容れず、貴州へ移動した。
 間諜からその報告を受けて、呉三桂は大いに笑った。
「孫可望も剽悍な将だ。張献忠亡き後、奴は永歴帝の傘下に入り『正義の心を取り戻した』などと標榜しているが、その宣伝によって人心が奴に靡き、侮れん兵力まで膨れ上がった。その上、劉文秀は兵卒の心を掴める男だ。この二人が同心協力したら、四川は容易くは破れなかった。奴は何をとち狂って四川を棄てて貴州などへ入ったのか。」
 呉三桂は、即座に成都へ進撃した。孫可望の精鋭兵は全て劉文秀と王復臣が率いていたので四川には弱兵士しかおらず、とても応戦できる兵力ではない。呉三桂軍が殺到すると彼等は風に靡くように降伏し、数ヶ月も経たないうちに四川は呉三桂に占領されてしまった。

 さて、話は永歴帝へ移る。
 永歴帝は肇慶で即位したが、その朝廷にはろくな人間が居なかった。派閥争いに明け暮れ互いに足を引っ張り合う有様は、かつての明と同様だった。ただ、閣臣に攫式棺、陳子壮という二人の忠臣がいるだけで、それ以外は明の復興など考えもせず、私利私欲のみを追求するような輩ばかりだった。
 その最中、広州の唐王が皇帝位を僭称し、蘇観生を宰相とした。この時陳子壮は外征の最中だったが、すぐに攫式棺と手紙をやり取りして協議した。その結果、永歴帝は唐王を叱責する詔を出し、帝位を撤回するよう命じたが、唐王はこれに従わず、逆に永歴帝討伐軍を組織した。総大将は陳泰。しかし、この時清では終養甲と李成棟を大将に唐王討伐軍を派遣していたのだ。それでも、唐王は永歴帝との確執を優先させた。こうして、主力の陳泰が出払っている間に、清は易々と広州を滅ぼし唐王を捕虜とした。
 こうして広州が滅亡すると、永歴帝も窮地に立たされた。「唇亡べば歯寒し」というやつだ。そこで、永歴帝は桂林への遷都を考えた。この時、攫式棺は陳泰との戦いに出向いていた。外征先で遷都の話を聞きつけた彼は、すぐに文書を書いて諫めたが、聴かれなかった。
 この遷都事件の首謀者は丁魁楚という男である。
 彼は永歴帝の信任が篤く、いい加減好き放題やっていたが、広州陥落を聞くや否や、肇慶も危ないとばかり清将の李成棟へ内応の密書を送った。だから、永歴帝へ対しては桂林への御幸を急がせていたが、自分の出立は遅々として進めなかった。財産の整理がつかないことを名目としていたが、実は李成棟からの返事を待っていたのだ。しかし、何の音沙汰もなかったので、とうとう彼は諦め岑渓へ向かって逃げ出した。この時、彼は四十艘の舟に宝物を満載していた。それらは全て賄賂によって得た物だった。
 永歴帝は既に桂林へ避難を済ませたが、丁魁楚は岑渓でぐずついている。すると、その彼のもとへ李成棟からの使者がやって来て言った。
「李成棟将軍は、両広の総督を貴殿に任せるつもりです。」
 丁魁楚は大喜びで妻や四人の妾、五人の子供達を引き連れて李成棟のもとへ向かった。この時、妾の一人が真意を知って入水自殺をした。
 彼等が使者の案内に従って舟を動かしていると、真夜中、いきなり川の両岸にぎっしりと松明が灯った。しかも川面には無数の舟が浮かび、その全てが兵卒を満載している。それらは、李成棟の舟だった。
「私一人を迎えるために、こんなに大勢の兵卒をよこしたのか?」
 丁魁楚カが驚愕していると、彼等はいきなり丁魁楚へ襲いかかり、家族全員を引っ捕らえて李成棟のもとへ連行した。
 永歴帝が桂林へ逃げたことを知った李成棟は、全軍を挙げて密かに吾州へ向かっていたのだ。行きがけの駄賃に丁魁楚を捕まえた李成棟は、この愚かな裏切り者を嘲笑した。
「お前はあの宝物をどうやって手に入れた?どうせ賄賂や汚職など阿漕な手段で手に入れたのだろうが。そんな男を総督に任命して見ろ。両広の民はたちまち一揆を起こすわ。」
 全てを悟った丁魁楚は涙を零して哀願した。
「私の罪は、逃れられるものではありませんが、せめて子供の一人だけは見逃して下さい。血統を伝えることができれば、子々孫々貴方のことを拝ませますから。」
「お前はこの期に及んでまで自分のことしか考えないのか!ええい、こいつの目の前で子供を全て殺してしまえ!こいつの処刑はその後だ!」
 部下はたちまち丁魁楚の子供達を斬り殺し、その首を丁魁楚の目の前に並べた。
「お前の子孫はこれで全部だ。お前が子供を愛しているのなら、一緒にあの世へ送ってやるぞ。」
「持参した金銀宝物は全部差し上げますから、命ばかりはお助け下さい。」
「なに、お前が渡さなくても奪い取れるさ。」
 李成棟は財宝を運び出すよう部下へ命じた。こうして賄賂の塊は、その持ち主の目の前ですっかり全部奪われたのだ。丁魁楚は悲嘆に耐えなかった。
「ああ、陛下は桂林へ御幸なさる時、引っ越し料の銀四十万を私へ無心なさった。あれを許諾して一緒に行っていれば、今頃は桂林。こんな憂き目に会わなかったものを。」
「今更遅い!」
 李成棟は、財宝をすっかり運び出した後も、更に隠し戸棚がないか舟中を探しまわり、その後で丁魁楚とその妻妾を殺した。
 こうして、時代の奸臣は粛正された。思えば彼も、数奇な人生を送ったものである。
 丁魁楚は、もともと南京の馬士英の力添えで、弘光帝のもとで両広総督に任命された。その時、靖江王と私的に交際して、彼を帝位に即けようと共謀していた。ところが、途中で拝隆帝を即位させようと心変わりしたため、靖江王が使者として派遣した二人の腹心を役人へ引き渡してその陰謀を暴露した。その後、今度は永歴帝を擁立したのである。自分では国家の重臣と思っていたが、その実、単なる反覆の小人に過ぎなかった。職にある時には賄賂を貪り金銀を山のように蓄えたが、永歴帝が遷都の時に借款を頼んでも毛ほども出さなかった。そればかりか李成棟と内通し、投降を願い出たのである。その奸臣も、遂には非業の死を遂げ、家族全員を巻き添えにしてしまった。金銀も全て奪い取られた。主君を食い物にした報いは反面教師としなければならない。

 さて、本題へ戻ろう。
 永歴帝が桂林へ遷都した時、攫式棺はまだ吾州にいて防御に専念していた。
 頼りになる将軍は身近にいない。その上、明の復興も早く果たしたい。そこで永歴帝は、人心を鼓舞しようと爵位を乱発してしまった。甚だしきは、単なる盗賊の曹志建や王朝俊にさえ、勲五等の爵位を与えた。盗賊達の人数さえ兵卒の数に入れ、さも国威が震っているように見えたが、盗賊達が他人の為に命がけで戦う筈もない。連中が命知らずになるのは自分の為に略奪をする時だけなのだ。そうゆう訳で、さほど時が経たないうちに武岡にて大敗を喫してしまった。
 永歴帝は、又しても夜逃げである。桂林を棄てて逃げ出した。この凋落の旅の中で二人の皇子の行方も知れなくなり、帝駕を見捨てて逃げ出した廷臣も後を絶たなかった。
 ただ、攫式棺だけは大いに気を揉んだ。永歴帝が桂林を棄てた以上、清軍はすぐにでもこれを占領するだろう。そうなれば吾州を確保していても意味がない。そこで軍を桂林まで移動して清軍の襲撃に備える傍ら、使者を派遣して永歴帝を諫めた。
「陛下が動き回るのは良くありません。桂林に戻って人々を安心させて下さい。」
 だが、永歴帝は孫可望を頼りとすることに決めていた。大軍を擁し、地形も堅固。結局、永歴帝は攫式棺の諫言を無視して雲南へ逃げ込んでしまった。
 すると、ここに意外なことが起こった。李成棟将軍は広東平定の功績で清朝から羊城総鎮に任命されたのだが、いきなり「正義へ帰る。」と宣言し、永歴帝へ臣従したのだ。両広の土地は悉く永歴帝へ献上したことにし、「大明の土地」と称した。その上、洪天曜、潘増緯、李綺の三将軍を派遣して、肇慶へ戻るよう永歴帝へ請願したのだ。
 話は一年ほどさかのぼるが、広州を占領した李成棟は、その役所で公式文書に使われる各種の印璽を押収した。この時、総制の印璽だけは、彼は個人的に秘蔵してしまった。
 さて、彼には愛妾が居た。名を珠圓と言う。その寵愛ぶりは尋常ではなく、出征する時も傍らから離さない程だった。この珠圓というのは奇妙な女で、李成棟が清に加担することを喜ばず、常日頃から明への忠誠心を取り戻すよう吹き込んでいたのだが、さすがにこれだけは李成棟も聞き流していた。その彼女が、ある日李成棟秘蔵の印璽を見つけたのだ。
「これは明朝の印璽ではありませんか?どうしてこんな所にあるのでしょうね?これをお持ちになっているのなら、明朝の広州総制におなりにならなければ意味がないではありませんか。」
 李成棟が返事に窮したので、珠圓は身を乗り出した。
「そりゃ、どちらも同じ役職ではございますが、試みにお尋ねいたします。明の広州総制と清の広州総制と、貴賤に違いがございましょうか?例えば、片方は後世へ芳香を流すとかもう片方は悪臭を遺す、とか。これは難しい問題ですわね。」
 李成棟は、結局黙り通した。
 その夜、珠圓は宴席に侍っていたが、再び、李成棟へ挑んだ。とうとう、李成棟は言い返した。
「そりゃ、その想いはある。だが、お前の家族がどうなるか考えてみろ。」
 珠圓は、一瞬愕然とした。
「それじゃ元帥は妾の為に一生を棒に振ったのでございますか!昔、元帥の兄上、李成梁様は三辺を守って御国のために尽くされました。今、元帥はたかが一人の女のために、志を曲げて堕落なされたのですね?それならば、クドクド申すこともありません。元帥が志を遂げられますよう、この妾が、そのご心配を取り除いて見せます。」
 言うや否や、彼女は佩刀を取り出すと、自らの喉を貫いてしまった。李成棟は大いに慌てたが、既に手遅れ。彼は、愛妾の屍を抱いて慟哭した。
「女でさえこれか!」
 彼は同席した部下達を見返った。
「我等は男だ。それが女の識見にも劣るのか?長い間人生を誤っていた。今こそ迷いを解き、正道へ帰ろう。」
 この事件を目の当たりに見ていた男達は、一斉に応えた。
「元帥のお心のままに!」
 李成棟は大いに喜んだ。
 ここにおいて彼は、秘蔵していた明の官服で正装し、四方を拝んだ後、珠圓の死体を葬った。そして例の印璽を取り出し、永歴帝へ帰心する旨、文書を送ったのである。
 永歴帝のもとにこの話が伝わると、朝廷は歓喜でわき返った。
「ああ、朕が攫式棺の諫言に従って桂林に留まって居れば、肇慶へ帰るのも楽だったろうになあ。」
 すると、閣臣の厳起恒が進み出た。
「これは確かに嘉すべきことでございます。しかし、彼は二度寝返ったことになります。三度心変わりしないと言い切れましょうか。ですから、まずは李成棟を慰諭し、彼の軍隊を広州から江西へ出撃させ、しばらく様子を窺ってから肇慶へ帰っても遅くはありますまい。」
 永歴帝は同意した。だが、この話を聞きつけた攫式棺は、即座に諫書を書くと流星馬に持たせた。
゛李成棟は立派な人格を持った忠臣とは確かに言えません。しかし、そのようなやり方は、嫌疑を掛けていると露骨に示すようなものではありませんか。ここは今すぐ肇慶へ戻り、彼からの信頼を勝ち取るべきでございます。゛
 そこで、永歴帝は肇慶へ使者を派遣して、かつての宮殿を修復させた。又、李成棟のもとへも使者を派遣し、彼を大将に任命し、宮殿修復が終了次第肇慶へ御幸することを伝えさせた。
 大将を拝受した李成棟は、使者へ言った。
「私が何をするかが大切なのだ。出世できるかどうかではない。私は愛妾が自刎したことを忘れられない。せめて、死ぬ時に悔いを残したくない。今の望みは、ただそれだけだ。」
 使者が帰って一部始終を報告すると、永歴帝は死んだ珠圓へ「忠烈夫人」の称号を贈った。
 江西出征の勅命を受けた李成棟は、永歴帝へ上表した。
「南雄以下のことは、皆様方にお任せしますが、関より外に関しては、臣にお任せ下さい。」
 そして、即座に二十万の精兵を率いて南雄めざして進撃した。
 更に、江西で金声桓が決起した。彼は、南昌を本拠地として自ら「光復軍」と称し、李成棟との連絡を保った。こうして、明の威勢が大いに奮ったのである。
 しかしながら李成棟が出征した途端、朝廷ではいくつもの派閥が生まれてしまった。李綺や潘増緯などは李成棟の一派としてその武力を後ろ盾とし、永歴帝に従って南寧まで行った厳起桓や王化澄などは自ら功労者と名乗ったし、その他如呉環や丁時魁等のように明の時代からの旧臣達もあちこちから集まってきた。彼等は忠誠心など欠片もなく、ただ自分の派閥の利益のみを考え互いに足を引っ張り合った。李成棟が帰心したことによって、彼等はすぐにでも明の天下がよみがえるような気になり、将来に備えて権力争いを始めたのだ。

 さて、江西へ攻め込んだ李成棟の軍隊は、破竹の勢いで章州城下まで攻め込んだ。その夜、李成棟が眠っていると、叫び声が何度も聞こえた。
「菫大成!」
 李成棟は夢から覚め、いぶかしがった。
「菫大成というのは、我が中軍の将だ。まさか奴が謀反を起こしたのではあるまいか?」
 彼は急に怖じ気づくと、軽装を着込んで、単騎で望梅関まで逃げていった。
 この時、二十万の大軍は十の陣営に分散していたが、李成棟はこれを棄てて逃げ出したのだ。十の軍団には、その理由を知る者が居ない。兵卒達は不安がって総退却してしまった。
 南安城まで逃げて、李成棟はようやく正気を取り戻した。
「馬鹿なことをした!」
 気がつけば、部下達も逃げてきている。
「何でお前達まで逃げてきたのだ!」
 だが、彼等は言った。
「元帥が逃げ出したのですから、我々も退かざるを得ません。」
 李成棟は激怒してたちどころに剣を抜くと、愛将の揚国光を斬り殺してしまった。
 この怪異な事件で、李成棟軍は、二十万の大軍の軍備を、全て章州城下へ棄ててきてしまったのだ。これではあまりに面目なくて、肇慶まで帰れない。そこで李成棟は広州へ引き返し、再起を図った。
 この頃になると、清の首脳部にも李成棟の造反が知れ渡った。明の遺臣達が次々と李成棟に倣って造反することが、彼等にとってもっとも恐ろしかった。そこで、定南王の孔有徳と平南王の尚可喜を広州へ派遣した。又、永歴帝を雲南へ逃げ込ませない為に、呉三桂には四川経由で雲南へ入るよう命じ、それと同時に洪承畴には、貴州から出征し雲南にて呉三桂と落ち合うよう命じた。清の動きも、急に慌ただしくなったのだ。
 李成棟が章州から逃げ帰ったと聞いて、永歴帝は大いに恐れた。しかし、派閥争いに明け暮れていた李元允と袁彭年は、李成棟の凶報を気にもとめなかった。
「陛下、金声桓も我々に帰心いたしました。孫可望や李成棟が破れたとて、まだまだ再挙は叶うこと。この中国全土を我が明朝が奪還するときも間近でしょう。そのように思い悩みなさいますな。」
 永歴帝は憮然として答えなかった。
 しかしながら、この二人は例外と言うべきだろう。大半の廷臣達は、やはり怖じ気づいてしまった。これによって、派閥争いも少しはなりを潜めた。その代わり、遷都問題が三度浮上した。聖駕が南寧へ着いた時帰順する者が続出したが、肇慶へ戻った途端李成棟が理由も無しに敗れ去った。ここは縁起が悪い土地柄だ、と。
 当時永歴帝は、ただ任命をするだけで諸問題は群臣が協議して決めていた。だから、李成棟には再起を命じながら、その傍らで雲南遷都も議論されていたのだ。
 各大臣は、李成棟が遷都に反対することを恐れ、彼には知らせなかった。李成棟が再び出征した後、彼の友人の杜永和に両広の留守を任せようと考えていた。そして、吉日を選んで出立とまで、この話は進んだ。雲南は、以前にも御幸したので設備が整っている。そして、そこはビルマにも近い。ビルマは、ずっと明に藩属していた、いわば明の外臣である、と考えたのだ。
 その折り、呉三桂と洪承畴が雲南へ向かっているとの報告が入った。朝臣達は慌てたが、さらに清国の礼王と粛王が広西へ向かい、広州へは孔有徳と尚可喜が向かっているとの報告も入った。これなら、どこへ逃げても同じである。結局、ビルマへ援軍を求めやすいとゆうことで、彼等は当初の計画通り雲南遷都と決まった。
 そうなると、邪魔なのは李綺と潘増緯。この二人は李成棟の腹心なので、この計画は知らされていなかった。彼等に知らせれば必ず邪魔をするだろう。そこで、袁彭年が詔をでっち上げて、李綺と潘増緯へ広州へ赴くよう命じた。この二人を追い出した後、雲南遷都は実行された。