第十回 呉三桂は逆賊を掃討して領地を貰い、
    圓姫は宿願を果たして尼となる。

 

 さて、山西で大敗した李自成は、呉三桂軍の追撃を受けて両河を放棄し、更に追撃をかわしながら逃げ続けた。その間、敗残兵を少しづつ収容しながら、ようやく四川へと逃げ込んだ。ここで関を閉ざし堅固に守りを固める傍ら、陜西の残党へ激を飛ばして敗残兵収容に力を注いだ。
 この時、兵力は尚数万あった。ただ、敗戦の直後のこととて兵卒は疲れきり軍馬も足りない。そこで、北方へ使者を派遣して軍馬を買い付けさせた。しかし、北方の藩王達は既に賊軍の敗戦を知っていたので、金だけは受け取ったけれども買い付け人は捕らえて呉三桂軍へ引き渡したのである。
 これによって、呉三桂は敵軍に馬が不足していることを知った。そこで、騎馬軍を主体とし機動力で攪乱させる戦法を取ることとした。
 この時、李自成は病に伏せっていた。
「李岩の計略を採用すれば、此処まではならなかったものを。」
 嘆くことしきり。と、その時、丞相の牛金星の来訪が告げられた。彼等の政権では、牛金星が丞相、李岩が軍師に任命されていた。ついでに言うなら、副軍師は宋献策という男である。
 牛金星は、平陽での戦争で自説を固持し、結局大敗してしまったので、心中忸怩たるものがあり、その反動で李岩を逆恨みしていた。
 さて、今回牛金星が見舞いに来ると、李自成は床に伏せって溜息ばかり。
「俺達にはまだ十万の兵が居るし、勝敗は戦争の常。そう悩むことはありませんぜ。」
「朕は挙兵以来破竹の進撃を続け、北京を落とし、向かうところ靡かぬ者はなかった。ただ、入京の後、李軍師の献策を却下し続けたばかりに落ちぶれ果ててこの様だ。既に大勢は去ってしまった。これでは軍師に顔向けできぬ。」
「それはない。陛下は挙兵以来、軍師を優遇していたでしょうが。それよりも、かつて圓圓を釈放して呉三桂と同盟するよう勧めた軍師の策を、陛下は却下しました。それ以来、どうも彼の様子がおかしかありませんかね?山海関で敗北した後も、まだ挽回はできた筈ですぜ。なのに奴は何も献策しなかったじゃねえですか。先の策が却下された以上、大敗しなければ自分の面子が立たないと考えたのかもしれませんぜ?あれから先の献策は、どうも陛下の為にやっているとは思えねえ。それに近頃、奴の側近が呉三桂軍へしきりと出入りしている様子。これだけは断じて防がにゃなりませんぜ。」
「なに、そんなことをしていたのか!朕が病床にあると思って!」
「ああ、興奮したら病に触りますぜ。それに、李岩の為に動く人間は多く、どこで見られているか聞かれているか油断できねえ。奴にばれれば逆手を取られる。こりゃ隠密にやるしかねえ。実は、平陽で大敗した時、軍師は手を打って大喜びしだ。それで、これだけは兄貴の耳に入れにゃならんと思ったわけで。」
「あん畜生!」
「まあまあまあ。」
 怒り狂う李自成を、牛金星はなだめすかした。
「とにかく、また報告に来ますから。」
 そう言って牛金星が退出しようとした時、宋献策が入室して来た。彼はまず病状を見舞ってから言った。
「とにかく陛下、ここに留まっているのは上策ではありません。このままでは兵卒に厭戦気分が蔓延します。軍師とも相談しましたが、陛下には荊・襄地方へ行幸していただくのが上策かと。四川をしっかりと確保しましょう。ここを基盤に英気を養うのです。それで、陛下のお考えは?」
 李自成は答えなかった。そればかりか目が怒りに燃えている。そこで、宋献策は返事を後日にと言って退出した。
「こいつぁ軍師の策謀だ。兄貴の様子を探りに来たに違いねぇ。彼奴が自分の策に自信があるのなら、自分で来りゃあいいじゃねぇか。なんで宋献策をよこすんだ?こりゃ、軍師の怨みは相当根が深いぞ。」
「朕もそう思う。しばらく目を離すな。」
「判りやした。」
 密議が定まり退出すると、牛金星は腹心を集めた。党類は、将軍の孫昴、史定、聞人訓、方也仙、洪用光、馬元龍、劉伯清。いずれも、決起以来の親分達だ。李岩粛正の陰謀を牛金星が彼等へ語ると、聞人訓は言った。
「大王の病状は重い。ここは李岩を粛正し、丞相が帝位に即くべきだ。」
 聞いて牛金星は大いに喜び、一座は手を打って賛同した。
「俺は庶民から身を起こし、宰輔まで成り上がった。皇帝までは階段一つだ。既に宰相までなったんだから、皇帝に成れないってぇ法はねぇぜ。お前達が手を貸してくれるなら、必ず成れる。とにかく、邪魔者は李岩と宋献策の二人だ。どう処理する?」
 聞人訓は言った。
「まず、この急場で大王が重病だから、牛丞相を代理皇帝とするよう李岩と相談しましょう。それで奴が賛同したら、俺達の一党に引き込めるし、却下したなら粛正する。」
 孫昴が言った。
「いや、あいつは学があると思って偉そうにしていやがる。大王でさえ君主の才に欠けると不満を持つくらいだから、何で丞相の腹心になれるかね?相談の必要はない。まず、バッサリとやっちまおう。」
「それがいいな。李岩なんぞ腐れ儒者。天命を受け人心を掴んだこの俺様と、なんで比較になるものか。変に相談すれば露見するかもしれない。大王の許可も貰ったし、まず、殺しちまおう。」
「いい術がありますぜ。」
 史定が言った。
「李岩を殺しちまえば、万々歳。しかし、もしも失敗したなら、大王の命令って事にすればいい。そうすりゃ俺達はお咎め無しだ。」
「そりゃあいい!それでいこう。なに、李岩一人殺しゃあ、宋献策なんぞ、一人じゃ何もできねぇ。」
 更に協議した結果、宴会に呼び寄せて殺すことに決め、李岩と彼の弟の李牟を招待した。
 招待を受けたが、李岩は気が進まない。そこで李牟と相談した。
「どうも牛丞相とは反りが合わない。宴会に誘われたが、好意ではないだろう。行かない方が良いな?」
「それもありますが、せっかくの招待を断っては、ますます溝が深まりますよ。今、大王に従ってこの境遇。生きるも死ぬも天命です!例えここから逃げ出したところで、一人では官軍に見つかって処刑されるのが落ち。どうせ逃げられないのですから、大派閥の牛金星に逆らっても自滅するようなものです。とにかく上辺は仲良くやり、良い計略を模索しましょう。」
「始めから誤りだったなあ。もう、抜けようにも抜けられん。いずれはどこかで野垂れ死ぬ末路か。牛金星と手を執ろうにも、奴が受け入れてくれるかどうか。小人と共に事を起こすと、何と厄介なことか!」
「とりあえず、宴会へ臨席し、あちらさんの出方を見ましょう。」
 とりあえずはそれが良さそうだった。こうして、李岩は李牟と共に宴席へ出向いた。
 片や、牛金星は武装した二百名を屋敷に隠し、宴会の準備を終わらせていた。十分打ち合わせが住んだ頃、李岩兄弟の来訪が知らされた。牛金星は衣冠を整えて出迎え、礼儀正しく宴席へと誘った。この時、李岩はそのよそよそしさに疑惑を感じた。改めて宴席を見回すと、臨席している面々は、皆、牛金星の党類ではないか。しかも、彼等兄弟を見る目つきが違う!李岩はハッキリと命の危険を感じた。だが、最早逃げ出せない。ただ牛金星や諸将へ向かって友好を願うだけだった。
 異様な雰囲気の中で、宴会が始まった。酒のやり取りが起こる。三回ほど杯が巡った時、牛金星が合図をした。すると、孫昴がサッと立ち上がった。
「今、大王は重病で、政務が執れない。このままでは滅亡だ!翻って思えば、我等が入京した時、大王は目が眩んだとゆう。これは大王に天命が降らなかった証である。今、丞相は寛大な人柄で、人心を掌握している。我等は丞相を推戴して大事を謀るべきである。反対するものは殺せ!」
 その言葉が終わらないうちに、武装した兵卒がドッと繰り出してきた。鬨の声が挙がる中、牛金星が杯を擲てば、それを合図に彼等は李岩兄弟へ殺到し、有無を言わさずミンチの様に切り裂いてしまった。
 牛金星は、意気揚々と反り返った。
「今、逆臣李岩は粛正した!次は大王の処遇だ。」
 聞人訓が言う。
「手を休めずに畳み込め。このまま大王の元へ赴き、譲位を願う。従う者はついてこい。従わない者は殺す!」
 一斉に鬨の声が挙がると、彼等は剣を帯びたまま、李自成のもとへ進撃した。
 この時、李自成は床についていたが、突然宋献策が駆け込んできた。
「丞相が軍師を殺しました!一大事です!陛下はどう処理なさいますか?」
 だが、これは李自成にとっては牛金星と協議済みの事だったので、意にも止めなかった。しかし、丞相が武装兵を率いて蜂起したとの報告が入り、大いに慌てた。そして、その真意を測りかねているうちに、当の牛金星が入室してきた。
「逆臣の李岩兄弟は、大王に代わって粛正した。今、大敵が迫っているのに、大王は病床。これでどう敵対するおつもりか!このままでは全滅だ。どうか大王、賢者への譲位をお願いいたす。」
 すると、将軍達が一斉に言った。
「我等は今日より、牛丞相に従いたい!」
 宋献策が激怒した。
「逆臣共!軍師を殺しただけでは飽きたらず、皇帝位まで略奪する気か!」
 牛金星もカッとなり、剣で宋献策を指さした。
「ここにも李岩の残党がいたぞ!粛正しろ!」
 宋献策はたちまち殺された。
「こいつ、逆賊はお前だったか!」
 李自成は病床で叫んだが、牛金星は答えもしない。諸将に命じて、李自成を殺害した。
 この時、牛金星は得意の絶頂だった。
「後は吉日を選んで即位するだけだ。」
 だが、折りもおり、正にこの時、呉三桂軍の襲撃が伝えられた。牛金星は泡を喰らって諸将へ応戦の命令を下した。しかし、呉三桂軍は精鋭である。しかも勝ちに乗じて怒濤の如く攻めまくる。対して賊軍には節制がなく、しかも内乱直後で兵卒達は動揺していた。どうして撃退することができようか?殺された屍が野原を覆い流された血は川を為す程の惨状で、賊軍は蹴散らされてしまった。
 壊滅した賊徒達は四散した。牛金星も諸将軍も、命一つで逃げ出す有様。呉三桂は牛金星を追撃し、遂に小山の上へ追い詰めた。この時、牛金星の周りには数百人の歩兵だけしかいなかった。それでも、なんとか包囲を突き破ろうと試みたが、兵卒達には不満が充満していた。
「俺達ぁ、もともと李大王に従っていたんだ。そりゃ、屡々大敗したが、まだ多くの仲間がいたじゃないか。それがどうだ?あの野郎は軍師と大王を殺し、挙げ句の果てには軍団は壊滅。ここは死地だぞ。とにかく、命だけでも助かりたいやね。」
 一人が言えば百人が応じ、遂に彼等は暴動を起こして牛金星の幕舎へ殺到した。牛金星が、どうして数百人の兵卒と戦えようか?兵卒達は牛金星の首級を挙げ、投降したのである。呉三桂は、彼等の罪を許した。
 この他の将軍達も、あるいは殺され、あるいは自刎した。兵卒達は、討たれる者もあり、逃げる者もあったが、まだ余党が二・三万人は残っていた。丁度この頃、即位した福王は何騰蛟を抜擢して預州一帯を治めさせていたので、彼等は何騰蛟の元へ投降した。
 こうして、李自成は亡んだ。だが、ここにもう一つ大きな賊徒が残っていた。張献忠である。彼は、北京攻略直後に李自成軍の別働隊として南下したのだが、その後転戦し、今では四川に強固な基盤を作っていた。そして今回の戦役でも、李自成の残党が多数彼の元へ逃げ込んだのだ。
 ともあれ、呉三桂はこの戦果を北京の摂政王へ報告した。摂政王ドルゴンは大いに喜び、雲南地方を平西王呉三桂へ領土として与え、藩国設立を許可した。

 この時、北京の大臣達は、福王討伐を呉三桂に命じるよう進言していが、摂政王はこれには賛同しなかった。呉三桂とて、もともと明の臣である。江南と戦わせたら、却って帰順するのではないかと疑ったのだ。そこで、呉三桂には雲南へ帰ってゆっくりと休むよう命じた。
 今、動乱は正に最中。李自成こそ亡んだものの、江南には福王、四川には張献忠、その他、浙江では明王室の魯王が自立し、自ら「監国」(代理皇帝、本来は皇帝不在時の皇太子へ与えられた)と名乗っていた。
「このような時機に休養せよ、とは。さては疑われているのだろうか?」
 呉三桂の心中は穏やかではなかった。と、その頃、満州国王が北京へ入京し、即位するとの噂が流れた。
゛よし、祝賀にかこつけて上京し、様子を探ってやろう。゛
 だが、そう考えている矢先、「上京無用」の通知が届いた。呉三桂はますます穏やかではなくなった。何とかして功績を建て、北京の猜疑を解かなければならない。そこでまず、長男を皇帝のもとへ送ることにした。近習として仕官させる。それが名目だが、実質は人質である。そして、息子を通じて北京の実状を探らせる為でもあった。又、藩国へ入ってからは軽挙妄動を慎み、張献忠の余党の侵略を防ぐことのみに専念した。
 この時、呉三桂の眷属の中で、圓圓一人、同行を願わなかった。
「妾は閣下から過分なご加護をいただきました。そもそも、妾は田国舅から受けたご恩に報いる為に、閣下のお力をお借りして田家を守ろうと致しましたもの。又、閣下のことを若年なれど英雄とお見受けし、将来必ずや大功を建てると思ったのでございます。閣下の勇名に付随して千歳まで名を残すことができれば、妾の如き卑賤な者には望外の幸せではありませんか。今、閣下は志を果たされました。妾の本懐も遂げました。」
 呉三桂は圓圓の本心を知った。何と痛烈な皮肉だろうか。
「このような境遇に至ったのは、決して俺の本意ではない!」
 叫んだ後、彼は大きく溜息をついた。
「でも閣下。閣下は既に藩国まで開いたのですよ。それでもまだ足りませんの?妾がかつて賊軍の手に落ちた時、我が身の潔白を示したい一心で生き抜きました。今、幸いにも賊軍は殲滅し、閣下は功名を建てられました。どうか閣下、妾の我が儘をお許し下さい。妾はこれから尼となり、残りの人生を心静かに送りとうございます。」
「何でそんなことを言うんだ!俺達の幸せはこれから始まるのではないか!」
「李自成が生きていた頃は、妾は去れませんでしたわ。逆賊の女になったとの誹りが怖かったのです。でも、もう逆賊は滅びましたし、閣下は手柄を建てられました。王と称せるご身分ではありませんか。歌姫だって大勢手に入ります。妾如き者、取るに足りますまい?」
「お前の望みは、何でも叶える。側にいてくれ。去るなど二度と言わないでくれ!」
「閣下の心は嬉しゅうございます。でも、これ以上閣下に従いますと、妾の名前は、千代先まで非難の的となってしまいます!」
「何でそんなことを言うのだ?」
「妾は田国舅様に身請けされましたが、そこで一生を終えることができませんでした。皇帝陛下へ献上されかけて断られ、閣下のもとへ行ったかと思えば、賊軍に拉致され更に又閣下の元へ戻る。そもそも婦人は一人の殿方にお仕えする者なのに、こうも大勢の殿方達の間で流転に流転を重ねてしまったのです。まるで無節操な尻軽女と罵られても、どう言い訳ができましょうか?妾が閣下の許を去りたいのはそれ故でございます。」
 呉三桂は言葉に詰まった。「一婦は二夫にまみえず。」それを以て揶揄しているのだ。「忠臣は二君に仕えず」と。
 暫く躊躇した後、呉三桂は言った。
「お前の揶揄することは判ったよ。だが、俺の本心は明かせない。しかし、もう暫く待ってくれ。必ず俺の心が判るはずだ。」
 その言葉に、圓圓は泣き崩れた。
「何で揶揄など致しましょうか。誤解なさらないで下さいましな。ただ、妾の望みが判っていただけたなら幸いでございます。」
 呉三桂は圓圓を抱き寄せた。
「お前の心が堅いなら、雲南へ着いたときお前の修養の為の部屋を作ろう。こんな所にお前を棄てて行けない。」
 圓圓は拝謝した。
「国難に遭うほどの不幸はない。どんなに力を尽くしても、願わざる所へ流される。ただ、今の私は紅粉の女子にも恥ずかしい。」
 呉三桂のその術懐には、圓圓はうつむいたままで答えなかった。