第七回 圓圓を争って呉三桂は兵を借り、
    李自成は呉襄を殺して抗戦する。

 

 さて、圓圓が略奪されたと聞いて呉三桂は怒りを爆発させた。
「賊徒達とは決して手を結ばんぞ!」
 彼は即座に各陣営へ伝令を飛ばした。
゛都へとって返し、賊徒達と雌雄を決する。゛
 集結した幹部達へ向かって、呉三桂は言った。
「賊徒は我々を欺いた!今、国が破れ家は亡ぶ。将軍達は一致団結し、上は国家の仇をすすぎ、下は家族の恨みを晴らせ。今こそ諸君達と共に大功を建てるのだ。ただ、進撃あるのみ!」
 すると、幹部達は言った。
「我々は前からそれを進言していたのです。あの時都へ向かって進撃すれば、今頃は李自成の首をあげていたでしょう。しかし、既に時間が経ちすぎました。敵には迎撃の準備も整い、時機を失って居ると思われます。ですが、主君は滅び家族が害された以上、命を捨ててでも恨みを晴らして見せます。何とぞ御下知を。我等は全力で従います。」
「先日のことは後悔している。ただ、風聞に依れば、賊徒は都を占領した後乱痴気騒ぎの連続で、軍務も政治も一切顧みていないそうだ。我々が全軍を挙げて進撃し、義憤に任せて暴れ回れば、必ず敵をうち破れる。まだ遅くない!」
 更に、兵卒の心を奮い立たせるために檄文を作り、祭壇を造って崇禎帝を祀った。こうして儀式を終えた後、彼等は出陣した。だが、しばらくも進まないうちに飛報が届いた。
「満州王が、二十万の大軍で遼河から東へ進軍しました。」
「な、なにっ!」
「中国の異変を聞きつけ、我等の動向を窺うための軍事行動と思われます。ただ、我等がこのまま進撃すれば、寧遠から山海関までは殆ど無防備。その隙に大軍が侵略すればどうなりましょうか?どうかご判断を。」
 呉三桂は大いに慌てた。
「満州の連中は馬術も弓も精鋭揃いで、実に悍敵だ。このままでは山海関以北を全て奪われるばかりか、その勢いに乗じられたら、賊軍を滅ぼす前に賊徒と満州軍から挟撃されてしまうぞ!」
 即座に幹部を集めて軍議を開いたが、その途中、洪承畴と祖大寿の使者と名乗る男が現れて、書簡を届けた。
 洪承畴は蘇遼総兵に任命された後、祖大寿を片腕として信任したが、今回松山の戦役で満州軍に大敗しその軍は壊滅した。この時、彼は満州へ降伏し、後、書状を送って祖大寿にも降伏を勧めた。こうして、祖大寿も満州国へ降伏したのだ。満州王は彼等を重く用い、皆、将軍となった。
 さて、呉三桂の勇名はつとに名高かったので、彼を部下とすることが満州王のかねてからの望みだった。今回、都は陥落し崇禎帝は自殺し李闖が都を占領した。明の滅亡は誰の目にも明白だったので、この機会に満州王は呉三桂へ降伏を勧告したのだ。
 呉三桂は軍議を中断すると、自分の幕舎へ戻り、まず洪承畴の文を開いた。

 呉長白将軍閣下。一別以来ご無沙汰しておりますが、お変わりありせんか?貴殿の勇名は日々鳴り渡り、噂を聞く度、私も喜びに耐えません。
 私は勅命を拝受して蘇遼提督となってから、貴殿と共に国境の軍備に就き、大小数十の戦闘を行いました。何事も御国の為。それは貴殿もご存知のことと思います。しかし、天はご加護を賜らず、松山の一戦にて私は大敗いたしました。単騎にて戦場から離脱したほどの惨状。これでは朝廷へ顔向けもできず、私は天下に身の置き所もありませんでした。生き恥を曝すのがつらいとはいえ、自殺したところで戦況を変えることはできません。その上、手柄の一つも後世に残せないことは武人としての無念やるかたございません。それを思い、虜囚の辱めを受けてまでオメオメと生を貪ってしまった次第でございます。
 しかしながら、俊豪は日々心を新たにして務めるもの。そして、『士は己を知る者の為に死す』とも申します。私の新しい主君は、私のことを少しも疑わずに大きな権限を与えられたのみならず爵位までくださいました。このように遇されたら、どうして臣下としての力を尽くさずにいられましょうか?
 我が主君は、私のような不肖の者さえこのように遇してくださるのです。ましてや貴殿は武勇並ぶ者が無く、英名は世を覆っております。そして、我が君は貴殿を日頃から慕っておられたのです。朝廷も、藩王も、決して貴殿を裏切りますまい。
 今、既に明は滅亡し逆賊が天下に闊歩している有様。貴殿の両親も捕らわれ妻妾の身も案じられます。その上、陛下も黄泉へと旅立たれました。逆賊こそは不倶戴天の敵!僅かでも恥を知っていれば、その麾下へ馳せ参じることなど決してできません。
 その逆賊は大軍を擁して貴殿の行く手を阻み、又、我が君は大軍を以て貴殿の後方へ迫っております。貴殿は重大な岐路に立たされており、今判断を誤ると大軍を全滅させ名声まで地に墜ちてしまいます。ですから、ここが思案のしどころですぞ。
 どうか、天の時と人々の望みを考え、我が国へ降伏なさってください。そうすれば、藩王の地位が保証されるばかりではなく、主君の仇討ちも父親の復讐もできるのです。名声を挙げ恥をすすぐのはこの一挙にあります!どうか御熟慮ください。゛

 読み終えて、これだけでも呉三桂の心動いてしまった。更に又、祖大寿の文へ目を通したが、これも同様の内容だった。祖大寿は、呉三桂にとっては母方の叔父に当たるのだ。彼の信頼は更に篤い。ここで又、呉三桂は一思案してしまった。
゛このまま都へ攻め込んで賊軍と雌雄を決しても、勝ち目は五分五分か。満州へ降伏すれば、我が身は安泰で藩王の地位まで約束される。祖大寿殿が既に寵用されているのなら、あれこれ便宜を図ってくれようから、厄介な問題も起こるまい。゛
 思案は忽ち定まった。呉三桂は、軍使を手厚くもてなして返書を依頼したのである。

 返書を受け取った洪承畴は、馬上にて満州の九王爺と相談した。
 さて、この九王爺とは一体誰だろうか?彼こそは、満州国太祖皇帝の九男、つまり、現皇帝の叔父である。その名はドルゴン。その為人は聡明にして勇敢。洪承畴へ敬意を払い、呉三桂を欲しがったのもこの人である。洪承畴が呉三桂へ投降勧告の文書を書いたのも、もともとこのドルゴンの指図だったのだ。
 彼は呉三桂の文を呼んで大いに喜んだ。
「二十万の大軍をひっさげて明の国境を窺った時、気になる相手は呉三桂ただ一人だった。今、李闖が北京を占領し、奴には退路がなく俺と戦う戦力もない!だが、奴は優秀な将軍だ。もしも投降してくれるならそれこそ願ったり。御身はすぐに呉三桂と会談し、奴の望みを聞いてくれ。できる限りは叶えてやる。俺は吝嗇ではないぞ。」
「殿下は人材を愛して居られます。その意向を、決して無碍には致しません。」
 洪承畴は、祖大寿と共に会見したい旨を文書にし呉三桂へ届けた。
この文書は彼のもとへ密かに届けられた。と言うのは、幹部達の反対を呉三桂は恐れていたのだ。だから、文書を受け取った呉三桂は、まず幹部連中を集めて言った。
「李闖は既に都を占領した。賊軍は大軍で、容易くは勝てまい。その上、背後からは満州軍だ。腹背両面に敵を作るのは全くの下策。避けなければならない。だが、幸いにも満州軍の幕僚の中に我が叔父の祖大寿がおられる。いっそのこと彼を頼り、満州と和睦して兵を借りたらどうだろうか。
 昔、申包胥は、秦の朝廷で痛哭してその兵卒を借り、滅亡した楚を再興させたという。我々もこれに倣って満州の兵を借り、逆賊を滅ぼして主君の仇を討った後、明を再興しようではないか。」
 幹部達は呉三桂の本心を知らず、この策がもしも実施できたら一挙両得、とばかり、諸手を挙げて賛同した。
 呉三桂は大いに喜び、洪承畴・祖大寿の両名と会見した。

 彼等はまず、久闊を叙した後、呉三桂と祖大寿が一族の近況を語り合った。その後、洪承畴は降伏の件について提議し、これを呉三桂へ勧めたのだ。この時、呉三桂の心の中に少しばかりの観望があった。
゛満州兵を借りて逆賊を討つ。その後、矛を返して満州軍の侵略を拒めば、これこそ万世に亘る軍功だ。もしもそこまで行かなくても、満州国へ投降すれば我が一生は安泰というものだ。゛
 そこで、彼は洪承畴へ言った。
「貴殿の提言はなかなかのもの。喜んで従いましょう。後日藩王の地位を得ましたら、それこそ貴殿の賜です。ただ、我が故国は既に滅び、我が故主は命を落としました。その上、逆賊どもが我が同胞の民をいたぶることを看過するなど、なんでできましょうか。もしも九王殿下がその兵力を私へ貸してくださるならば、私はまず逆賊どもを討ち滅ぼし、その後貴国へ投降しましょう。この旨、どうか殿下へお伝えください。」
「忠義の言葉だ!」
 洪承畴は感激した。
「私ももとは明の臣民。感嘆に耐えません。それでは、九王殿下のもとへ出向き直々に請願されては如何でしょうか?その折りには、私も傍らにて助成いたします。」
 呉三桂は考えた。
゛九王と面会すれば先方の意向も判る。それに、断っては臆病者と譏られてしまう。よし、懐へ飛び込んで吉左右を見てやるか。゛
 僅かの間に、胆が決まった。
「私も又、九王殿下へお目通りしたかったところ。好都合です。しかし、今は逆賊が闊歩している状況。一刻をも争います。できれば今すぐにでも。」
「判りました。」
 こうして、彼等はそのまま満州軍の幕舎へ移動した。
 一行が九王の幕舎へ行き、洪承畴が名を告げると、彼等は即座に中へ通された。呉三桂が拱手して礼をすれば九王も返礼し、その後彼等は身分に応じて席へ就いた。
「将軍の名を耳にして久しい。ただ、互いに国が違い会うことさえできなかった。今日、閣下がここまで来られたのは実に光栄な事だ。」
「過分なお言葉、恥ずかしい限りです。今、我が国は多難の時。逆賊は都を破壊し勝手気ままにやり放題。故主は命を落とし私は家族さえ捕らわれてしまいました。にもかかわらず、国の仇を討つどころか家族さえも救えない。今の私は、まさしく生を貪っているようなもの。ただ、我が国と貴国とは、互いに相手の国難を見れば手出しを控える有様。和睦以来は友好な関係が続いております。そこで、その友誼に甘えてお願いいたします。どうか殿下の軍隊を、私に貸してはいただけませんでしょうか。私は、その軍を以て逆賊を滅ぼしましょう。そして事がなった暁には、殿下の忠実な部下として死ぬまで仕えさせていただきます。」
「我が国と貴国とは、長い間仇敵だった。だが、それは水に流しても良い。しかし、兵を動かすとなれば多くの兵が死に、金も掛かるものだ。それに対して、どのような報酬があるのかな?」
「援軍をくださるのなら、悲願成就の暁には蘇遼二郡を割譲いたしましょう。」
「成る程。しかし、余にとっては危険な話だ。悲願成就後、その盟約を翻さないとゆう保証はあるのか?」
「国が滅び、人民は逆賊によって塗炭の苦しみに喘いでおります。ここで貴国の力を借りて逆賊を一掃し明を復興することができましたら、全ての民が貴国の恩義に感謝いたします。なんで裏切ったりしましょうか。ご不審ならば、血判を押して誓いをも立てましょう。」
 九王は頷き、互いに血判を押した。立会人は、洪承畴と祖大寿である。
 誓約が済むと、呉三桂は言った。
「事は急を要します。どうか今すぐにでも兵をお貸しください。」
「今はまだ、出陣用の指揮系統さえ確定していないのだ。今すぐ準備を整え、両日中には出陣しよう。貴殿はすぐさまとって返し、合流の準備をするが良い。」
 呉三桂はこの時まで、ただ兵を借りるだけのつもりだったが、図らずも九王ドルゴンは、満州軍を率いて進撃するというのだ。呉三桂は九王や洪承畴・祖大寿に別れを告げ、自陣へ戻って軍議にかけた。

「この進撃は、満州国から国境を窺われることなく逆賊どもを一掃できる。まさしく、一挙両得だ。」
「ですが閣下、その見返りとして蘇遼二郡を割譲なさるのですか?『唇亡べば歯寒し』と言うように、この二郡を取られては北京が危険になります。」
「この危急ではやむを得まい。後になって対処するしかない。」
 確かにその通りであり、幹部達も反論できなかった。かくして軍議は決定し、呉三桂軍は出陣の準備を始めた。その手始めは檄文である。

 逆賊李自成は、悪鬼の如く都を蹂躙し、妖気をまき散らしながら朝廷を踏みにじった。皇帝皇后両陛下は奴等に迫られて黄泉へと追いやられ、庶民は多量虐殺の憂き目にあった。この逆賊達には仁徳など欠片もなく、ただただ淫楽に耽るばかり。しかもあろう事か、帝位まで僭称しようとしている。明室代々の御霊の怨望はいかばかりだろうか。この世に神があるのなら、かかる暴挙を遂げさせる筈がない!
 我が軍は、長らく辺境に駐留していたが、本国にて起こった梟狼の残虐を見るに見かね、ここに義軍を起こすものである。烈火の如き義憤に燃えた精鋭を率い、縦横万里を駆け巡って賊徒どもを根絶やしにしてくれよう。国家の禄を喰んだ者よ、国家の厚沢深仁を知るならば我に呼応せよ!決起して窮淫極悪の賊徒どもを我と共に滅ぼしたなら、救国の英雄となれよう。
 国運はまだ尽きていない。積年に亘る国家の大恩を思い至誠の想いで戦うならば、順は良く逆に克つ。義声の届くところ、一騎を以て千騎に当たるだろう。古来より、仁義の心で手柄を建てた家柄は代々栄えていったのだ。゛

 檄文が近隣にばらまかれると、李自成は大いに恐れ、自ら十万の大軍を擁して進撃することを決議した。この時、まだ生きていた崇禎帝の息子と呉襄を連行した。それは万一敗戦した時人質として活用するためだ。更に、牛金星と劉宗敏を先行させ駐扎を確保させた。これらの行動は、間者の報告で呉三桂の耳にも入った。
「見ろ。俺の檄文が出回った途端、連中は進撃した。これは俺を恐れているのだ。この一戦で李闖を撃破すれば、九王の援助などいらん。」
 彼は即座に永平まで進撃した。
 さて、李自成は挙兵してから戦争の駆け引きなどやったことがなかった。ただ、城があればこれを攻め、敵が来れば戦う。それでも今まで何とかなってきたのだ。しかし、彼は呉三桂だけは恐れていた。そうゆう訳で、今回に限り牛金星と劉宗敏を先行させたのである。
 呉三桂軍は、賊軍に会うと、即座に攻撃した。大小で十数回の戦闘が起こったがどちらも決定的な勝利というものが無く、痛み分け、とゆうところ。呉三桂は確かに勇猛だったが敵方の方が兵力が多く、いつも混戦となってしまうのだ。

 ある時、いつも通り大乱戦となり呉三桂も奮闘していたが、遂に李自成が動いた。呉軍の背後へ回って兵糧の輸送路を遮断しようとしたのだ。呉三桂は慌てて全軍を退却させた。
 李自成は勝ちに乗った。
「敵は怯んだ。このまま進撃し再起の機会を与えるな。呉三桂さえやっつければ、他に敵はないぞ。」
 諸将も勇み立って戦い、とうとう呉三桂は山海関まで退却した。これに対して李自成軍は山海関を包囲し、更に別働隊に関の出城を攻めさせた。しかし、包囲された呉三桂軍には、打つ手がなかった。
 この報告を受けて、満州の九王ドルゴンが遂に動いた。今こそ合流して李自成軍を撃破するべき時である。満州兵は山海関へ向かって続々と進撃してくる。
 一方、呉三桂軍は窮余の籠城。幹部達はジリジリ焦り始めた。
「閣下。そもそも李自成が都を攻めた時に我々が間に合えば、このような事態にはならなかったのです。今、既に北京は占拠され、人心は瓦解し、敵兵力は数十万を数えました。実に容易ならざる相手です。しかも我々は、座してこの城に包囲されました。これでは死地ではありませんか。」
「確かにこれは、私の采配の失敗だ。かくなる上は、九王ドルゴンの援軍のみが頼みの綱だ。しかし、望みは棄てるな。九王殿下は決して我々を裏気らんぞ。」
 と、その時、報告が入った。
「満州軍の援軍です!遂に進撃を始めました。しかし、その行軍速度は緩慢なもの。我等の危急に間に合うかどうか疑問です。」
「遂に動いたか!なに、城中の兵力は健在で兵糧もたっぷりある。援軍が到着するのをゆっくりと待ってから一気に攻撃する。さすれば必勝疑い無しだ。その折りには手を休めずに追撃せよ!賊徒を殲滅して君父の恨みをそそぐのだ!」
 諸将は俄に活気づいた。しかしながら、この時呉三桂は心中の不安を押し隠していたのだ。゛九王の援軍が緩慢なのは、こちらを疑っているのではないか・・・゛と。
 やがて、九王の援軍が到着した。この時、呉三桂は、幹部達にもばれないよう、密かに弁髪(満州族の伝統的な髪型。長髪を編み上げて後ろへ垂らす。)したのである。そして会見の時、呉三桂の出で立ちを見て全員が驚愕した。呉三桂はすかさず言った。
「逆賊は、首領の李闖自らが数十万の兵を率いて来寇しました。我等は山海関まで追い詰められた有様。しかし、今、幸いにも殿下の援軍を迎え九死に一生を得た思い。この呉三桂、殿下の大恩義に感謝の意を表し、一生この出で立ちで過ごす所存でございます。」
「おお!御身の真心、しかと感じた。しかし、御身一人がそうだとて、御身の部下は数多い。皆が皆、そのように帰順してくれるのか?」
「私は長年辺域にて従軍し、部下の心を掴んでおります。否も応も、私の一存次第です。今、私は殿下の恩に報いるために弁髪しました。何を疑われますのか?」
「素晴らしい!御身の為に、余は必ず逆賊を滅ぼそう。御身も今こそ仇を討て!」
 呉三桂は山海関へ帰って、全軍に命じた。
「全員弁髪!従わぬ者は軍法を以て処罰する。」
 幹部達は驚愕して口々に言った。
「閣下。閣下は満州の兵を借りると仰られたではありませんか。しかし、これでは満州の臣下になってしまいます。明に背くおつもりですか!我等の使命は、ただ逆賊を滅ぼすだけではありません。その後に明を復興する仕事が残っております。どうかこの点を熟慮なさってください。」
「判っておる。」
 呉三桂は声を潜めた。
「しかし、ここまでやらなければ信頼を得られまい。単なる演技だ。」
 呉三桂が既に降伏の密約をしていることは幹部達の誰も知らず、皆はこの言葉を真に受けてしまった。此処に於いて、全軍が弁髪した。戦機が迫っていることとて、中には髪が伸びきらないで弁髪できない者もいたが、彼等は頭に白い布を巻いた。弁髪完了の旨、呉三桂が九王へ報告すると、九王はすぐに戦闘日を決め併せて呉三桂を先鋒に命じた。満州の本隊は後詰めとなり、又、別働隊を組織して同時に突撃する。
 九王は、豫王と英王を左右両翼の将軍とし、李自成襲撃を命じた。布陣が定まると、呉三桂が先頭立って突撃した。満州軍は大軍である。呉三桂の心は奮い立ち、全軍を挙げて進撃した。これを真っ先に阻むのは劉宗敏。だが、この時後詰めの満州軍が左右に分かれ、一斉に矢を放った!
 正面からは、呉三桂軍が錐のように突撃し左右には雨霰と矢が飛び交う。これでは何で堪ろうか。劉宗敏は矢に当たり、落馬して戦死。この機を逃さず呉三桂軍は更に暴れ回り、遂に李自成軍は後退した。
 退く兵卒が遠目に見ると、敵兵は皆、弁髪である。
「満州兵だ!呉三桂は満州軍と手を結んだぞ!」
 これでますますパニックとなった。更にその混乱の中で、英王と豫王の率いる軍隊が左右から突撃してきた。此処にいたって、李自成軍は壊走したのだ。
 だが、呉三桂は容赦しない。
「この機を逃さず追撃せよ!逆賊は既に敗れた。完膚無きまでに叩きのめし、再起のメドも踏みつぶせ!国の仇を討ち、逆賊を滅ぼすは、この一挙にあるぞ!」
 麾下の兵卒達は、明皇室の大恩を思っていた。この命令に奮い立たない者はなく、息もつかずに永平まで追撃した。
「関を閉じろ!此処に籠もって反撃するのだ!」
 だが、追撃の足が速く、後尾では乱戦の中に敵と味方が入り乱れている。李自成は軍を立て直すこともできずに永平を棄てて更に逃げた。呉三桂は前軍と後軍とを入れ替え、戦疲れしていない新兵を率いてなおも追撃した。
 すると、李自成軍から軍使が一騎やってきて文を届けた。

゛将軍が外国の兵を借りたのは、上策ではない。朕を破ったとしても、どうやって明を復興するのか?それに、明皇室の二人の王と御身の父が、今、我が陣中に居る。このまま追撃するのは石と玉を共に砕くようなもの。主君や父を殺すのか?それでは将軍は明に対して不忠の臣、父へ対して不幸の子息となってしまうぞ。将軍、これを考慮してくれ。゛

 呉三桂は文をなげうつと、即座に軍使を斬り殺した。その有様に驚いたのは幹部達。
「お怒りはごもっとも。しかし、二人の殿下が敵の陣中に居られます。このまま追撃するのは、高価な器を鼠へ投げつけるようなものですぞ。」
「既に陛下は害されたのだ!二人の殿下がなにするものぞ!我はただ忠を尽くすのみ。たとえ孝を尽くすことができなくとも、父の命は天命だ!」
 呉三桂は、狂ったように追撃を命じた。
 まさにこの時、兵卒は鎧甲を脱がず軍馬は鞍を離さず、昼夜の別無く追撃し都まで迫ったのである。しかし、さすがにこの時には、李自成は都城の門を閉め、しっかりとした布陣で守備を固めてしまっていた。
「御身達は四方に別れて都を包囲しろ。満州軍が追いついてきたら一斉に攻撃する。」
 この時、李自成はわずか三百の兵卒に守られて都へ逃げ込んだのだ。追いつけなかった部下達は城外に陣営するしかなかった。彼等は十二の陣に別れ、呉三桂を防ごうとした。だが、呉三桂軍は勝ちに乗じてこれを攻め、瞬く間に八つの陣を蹂躙し敵兵二万の首を切ったのである。
 李自成は、呉三桂が都へ突入することが何よりも怖かった。だから、城外で味方が次々と殺されながらも城門を開こうとしなかった。その結果、城外の兵に逃亡が相次いだ。此処にいたって、李自成もようやくそれに気がついた。そこで、降将の唐通に兵を与え、出撃して併せて敗残兵を収容するよう命じた。唐通は人馬を整えて出陣し呉三桂と対峙した。
「お前は唐通か。明の禄を喰みながら、賊へ寝返った裏切り者!よくオメオメと顔を出せたな!」
「俺は確かに賊軍へ降った。しかし、お前はどうだ?野蛮人共をこの中国へ引き入れたではないか。それで恥知らずにも俺を罵るなど、厚かましいにも程があるぞ!」
 呉三桂は大いに怒った。
「馬有威!あの逆賊奴を捻り潰せ!」
 呼ばれて馬有威、哈っ、と応えて駆け出した。唐通は応戦したが、敗戦の後で気力も萎えていた部下達は、勢いに乗った呉三桂軍を防ぐことができず、たちまち壊走した。呉三桂軍はこれを追撃し、更に三千の首級を挙げたのだ。
 李自成はますます恐れ、和睦の使者を派遣した。
「陛下は、和睦を求めて居られます。元帥閣下を皇帝と認め、この中国を二分して差し上げる所存。」
「和睦などできる状況か!まあ、両殿下を引き渡してくれるなら、考える余地はあるがな。帰ってそう伝えるが良い。」
 返事を聞いて軍議を開くと、李岩が言った。
「二人の殿下を人質としておりますので、呉三桂も思い切った手が討てないのです。ここで両殿下を引き渡したら、今以上に強硬な攻撃を受けるでしょう。」
「その通りだ。しかし、このままでは和睦もできん。どうすればよいか?」
 すると、牛金星が口を開いた。
「どうせあの野郎は両殿下の顔など知りゃしないさ。よく似た男を身代わりとして引き渡せばいい。」
 李自成は手を打って喜び、さっそく両殿下に似た男達を探し出し、金を与えて替え玉とした。その傍ら、使者を派遣して和睦を求めたのだ。
 両殿下を返還すると聞いた呉三桂は、部下に命じた。
「張成、范王、お前達は各々一隊を率いて左右に伏兵となれ。馬有威、耿士良、お前達は一隊を率い、戦闘が始まったらこれに呼応せよ。よいか、この戦いは、両殿下の奪還が最優先だ。判ったな。」
 程なく、李自成軍が両殿下を護送して城から出てきた。と、その両脇からドッと鬨の声があがると伏兵が一斉に襲ってきた。驚く李自成軍の隙をついて、彼等は真っ先に両殿下の輿へ迫り、アッとゆう間にこれを奪った。それを合図に、今度は前方から呉三桂軍が襲いかかり李自成軍は又も大敗を喫したのだ。だが、せっかく奪還した両殿下は偽物だった。呉三桂は大怒して更に城攻めを協議した。

 この時、城内にはなお数十万の兵卒が居た。だが、李自成が臆病風に吹かれてしまい、城内の守護を固めるばかりで討って出ることを許さなかった。援護がまったくなかった為、城外の兵卒は戦意を無くし逃げ出す者が続出した。これを知った呉三桂は、部下達へ宣伝を命じた。
「降伏する者に手出しはしないぞ!」
 この一声で、李自成軍の兵卒は雪崩を打って逃げ出した。
 だが、ここに一人の兵卒が居た。
 彼は逃げだそうとする同僚達を次々と斬り殺した。しかし、仲間は次々と逃げて行く。とうとう彼は力つき、自らの刀を首に当てると一声叫んで自殺した。
「野蛮人に降伏するくらいなら、死んだ方がよっぽどましだ!」
 彼の他は、皆、逃げた。逃亡したか、降伏したか。こうして城外の兵卒は一掃され、呉三桂は本格的に城攻めを始めた。
 李自成は諸将へ拒戦を命じたが、大敗の直後だけに軍卒は怖じ気づき、隙あらば逃げてやろうとゆう心が見え見えだった。このままてはジリ貧だ。李自成は諸将と協議した結果、呉襄を城壁の上へ引き出した。
「将軍、ここまで追い詰めなくても良いではないか。今、将軍の父君は我が手中にあるのだぞ。愛惜の情はないのか?もしも兵を退いてくれるなら父君を返そうではないか。そうでなければ、ここで煮殺してしまうぞ。」
「昔、項羽が劉邦へ同じ事を言ったな。すると劉邦は答えたぞ。『もしも煮殺すのなら、俺にもスープを分けてくれ。』とな。俺がお前を攻めるのは国家の為。私情は挟めん。」
 更に、呉三桂は父親へ向かって言った。
「父上。辺境へ出陣してから久しい間孝養を尽くせませんでした。今、ようやく対面できたというのに、図らずも貴方は捕虜になってしまっているとは!悲しみの極みです!しかし、御国の為に家族を忘れてこそ真の男。私事にかまけて公事を蔑ろにすることなど、どうしてできましょうか?それに父君が賊徒に殺されたとしたら、これは御国の為に命を捨てたとゆうことです。私は見事に笑って見せましょう。どうか、父君。私の不幸をお許しください。私が甲冑を身につけた以上、父君を顧みることができないのです。」
 言い終えると、呉三桂は攻撃の号令を懸けた。
 李自成は怒り心頭に発し即座に呉襄を殺そうとしたが、大敗の直後のこととて呉三桂を激怒させることも恐ろしく、実行できなかった。そこで、呉三桂を説得するよう呉襄へ命じた。呉襄はやむを得ず呉三桂へ向かって叫んだ。
「息子よ!お前がもしも明皇室を再興できるというのなら思う存分励むが良い。だが、もしもそれが叶わぬのなら考え直せ。この李自成を真皇帝と認めても、我等と同じ中国人ではないか。野蛮人の臣下になるのとどちらがましか?そこの道理もわきまえず短兵急に攻め立ておる。この父がどうなっても構わないのか!」
 叫んでいるうちに涙まで零れてしまった。しかし、それでも呉三桂は聞き流した。

 攻撃はますます激しくなる。仕方なく李自成は呉襄を連れて城内へ戻り、呉三桂へ再び書状を書いた。今度こそ、両殿下と父君を返還しよう、と。
 ところが、書状を読んだ呉三桂は軍使を斬り殺そうとした。幹部連が慌てて止めた。
「まず、この軍使を人質に取りましょう。そして本当に両殿下と父君が返ってきたら、その後城を攻めても遅くはありません。」
「愚か者!既に一度騙されているのだ!奴等に信義なんぞあるものか!再び同じ手に引っかかったら、俺は天下の笑い者だぞ!」
 答えるや否や、呉三桂は軍使を斬り殺し文書をズタズタに引き裂いた。
「手を休めるな!賊徒共を皆殺しにしろ!」
 ここまで追い詰められて、李自成はパニック寸前。憂さ晴らしに呉襄を斬り殺そうとしたので幹部連が慌てて止めたが、李自成は言った。
「奴目は圓圓を愛しているのだ。それに、俺が家族を殺せるわけがないとタカを括っている。だから、こいつを殺して俺の本気を見せつけてやる。その上で圓圓を引き出して駆け引きをする。どうだ?この手は?」
 有無を言わさず、李自成は呉襄を再び城壁の上へ引き出させた。