第四回 旧案を発して袁崇煥刑に遭い、
大事を謀って李自成起義する。
さて、呉襄は圓圓を都へ留めて自分の妻や妾達と同居させ、呉三桂は辺境の砦まで単身赴任するよう命じた。呉三桂の落胆は一通りではなかったが、その折りも折、彼に出征の命令が降ったのである。
゛辺境の軍事は緊急を要する。速やかに任地へ還って軍備に励め。゛
呉三桂はあれこれと理由を付けては出征を一日延ばしとしていたが、とうとう、呉襄が堪忍袋の緒を切らしてしまった。
「お前は国家の大任を担っているのだぞ!その上事は緊急を要しているというのに、何をぐずぐずしているのだ!それとも勅命に背くつもりか!それならば命がないぞ!」
父の叱咤には返す言葉もなく、彼はただうなだれるだけだった。翻って圓圓へ視線をやれば、彼女も義父の言葉に頷いている。
「私はようやくお前を手に入れたのだ。まだ離れたくない。だが、陛下と父の命令には背けないのだ。ほんとは官職も何もうち捨ててお前と二人で暮らしたいのだが、世間の誹りを思うとそれもできない。俺とて恥くらい知っている。佳人への想いに連綿として国家の大事を忘れるなど、できはせん。」
「これはもう、どうしようもありませんわね。妾は貴方を当代の英雄と慕い、惚れ込んでしまったのです。妾は何も望みません。ただ、貴方が青史に長く芳名を残し、妾もその縁に連なる一人と後々の人々の口の端にでも登るならば、それだけで十分です。どうか妾のことは気になさらないで。将軍は手柄を建てることだけ専念なさってください。」
「武将は、任地へ妻子を伴って行くことができん。それが本朝の法律だ。私は、何とか世間を誤魔化してお前と共に行きたかったのだが、父からこうまで言われては、もう手の打ちようもない。どうだ?一旦は出征するが、そのうち何かにかこつけて職務を辞任する。そしてすぐに帰って来るから・・・・。」
「将軍、見苦しいですよ!」
圓圓は思わず柳眉を逆立てた。
「今はしばしの別れに過ぎません。再会の時は必ず来ます!もしも国家の危難をうち捨てて顧みず、妾一人のために世捨て人になったりしては、天下の物笑いではありませんか!」
「その通りだ。」
妻の叱咤に、ようやく彼も奮い立った。
「許せ!新妻を迎えたばかりの突然の別離に、悲しみが先立っただけだ!」
「そう、思い切ってくださってこそ、圓圓の惚れ込んだ呉将軍でございます。」
圓圓はにっこと微笑んだ。
「それで、いつご出発に?」
「今日、出立の報告をしよう。そうすると、準備に三日は与えられるのがならわしだ。あと二夜。それ以上は遅延せぬ。」
圓圓は、呆れ返って目を見張った。
「二夜もございますのに、どうしてそう煩悶なさるのでございますか?」
呉三桂には返す言葉もなかった。
「それでは早々にご報告なさいませ。将軍は妾を得てから、世間のすげない言葉に曝されております。日を置かない方が宜しゅうございましょう。」
呉三桂は頷き、さっそく手続きをした。圓圓は酒や肴を整えると、出征までの三日間、精一杯彼へ尽くしたのである。
そして、三日の月日はあっと言う間に過ぎてしまった。今日が出立とゆうその日の朝、圓圓は餞別の酒席を設けて、呉三桂の手を執った。
「今度会えるのはいつの日やら・・・。どうかお仕事に励んで手柄を建てられてください。妾は縁が薄くてついて行くことがかないませぬ。どうか、将軍。お体にお気をつけて。」
彼女の瞳からは、涙が零れて止まらなかった。
「昔の人は巧いことを言っている。『青山は老いず、緑水は常にある、』と。この後、顔を合わせられぬ事を思い煩うな。お前がそんな顔をしたら切ないではないか。さあ、愁いを解いて笑顔を見せておくれ。」
圓圓は慌てて涙を拭った。
呉三桂は圓圓の手から杯を貰うと、一息に飲み干した。
「ここから任地までどれ程遠いことでしょうね?沼や山の険しい地形。どうかご用心を。」
「何、どんなに険しくとも、我が国だ。周りは皆、味方ばかり。あっちに着いてからの方が大変さ。だがな、幸いにして敵を撃退できたなら、すぐに上京の許可をいただいて、お前に会いに来るさ。」
「又そのような事を。将軍は大事の体。敵の勢いは益々盛ん。任地から気安く離れることなど、どうしてできましょうか。そのようなお考えですと、大事を誤りますわよ。」
「愛しいお前に会うためだ。敵陣へ駆け込んで獅子奮迅の働きをしてやる。着任したその日にでも敵を全滅させ、悠々と凱戦すれば、それからはお前と二人きりの暮らしができるじゃないか。ハハハハハ。」
「まあ、ホホホホホ。でもあまりの無謀はしないでくださいましな。ただ、お便りだけは度々くださいね。妾も毎日書いて将軍を慰めますから。そうすれば、将軍もいつでも妾を思い出すでしょうし。・・・妾のことを忘れちゃ嫌ですよ。」
「愛しいお前を忘れられるか。お前こそ俺が居ないからといって、変な気を起こすんじゃないぞ。」
「酷い!」
圓圓は柳眉を逆立てて呉三桂を睨み付けた。
「妾が将軍に惚れ込んで、国舅様の屋敷を飛び出したのですよ!妾の心は満たされました。それなのに、将軍は妾のことをそのように思われていたのですか!あんまりです!」
圓圓が声を上げて泣き出したので、呉三桂は慌てて抱き寄せた。
>「悪かった、冗談だ。口が滑った。」
この時、屋敷の前には随行員がほぼ集結していた。既に昼を過ぎている。それでも呉三桂が出てこないので、呉襄が人を遣って催促させた。
「あっ、ハイハイ。将軍、もう出立のお時間です。」
圓圓が促しても、呉三桂はなお後ろ髪引かれる想いで徘徊した。圓圓は涙を拭うと強いて微笑を浮かべ、再び杯を差し出した。
「千里先まで見送ったとて、結局は別れてしまうもの。この一杯を最後に、どうか思い切られてください。」
呉三桂は飲み干したが、なおも圓圓を注視した。言葉を探して見つからない。
「将軍、さあ!」
呉三桂は仕方なく、圓圓の手を執って別れを告げた。戸口まで送ろうと圓圓が立ち上がりかけると、呉三桂は慌ててそれを押しとどめた。
「お前を見ていると、後ろ髪引かれるのだ。このまま奥へ行ってくれ。」
「は、はい。」
圓圓は涙を抑えて自室へ戻り、呉三桂は外へ出た。見ると、既に日は西へ傾いている。
「何と、こんなに時が経っていたか!これじゃ今日中に都を出れないぞ。出立は明日に延ばそうか?」
「な、何を言う!」
呉襄が泡を食らった。
「既に御報告しているのだ。そんなことをしては陛下を欺くことになってしまうぞ。」
仕方なく、呉三桂は出立した。暫く行く程に、やがて都の門が目に入った。そこには、大宗伯や国舅が見送りに来ていた。呉三桂は下馬して挨拶を交わす。
「将軍、顔色が優れないようですな。」
「あ、これは国舅殿。連日のバタバタでご無沙汰いたしました。今回は出立に及んでこちらから出向くこともいたしませんで、申し訳ございません。」
呉三桂は、今度は菫宗伯へ向かって会釈した。
「先日は将軍へ差し出がましいことを申しましたが、ご容赦ください。」
「いえ、私こそ、宗伯殿の箴言、心に刻んでおります。気に障るなどとんでも無い!」
「この老いぼれは、ただ国家の行く末のみが気に掛かっておるのです。将軍は大事の体。将軍が誤れば、国家の将来まで誤ってしまいます。ですから、将軍が女色に溺れるかと思えば、黙っていられなかったのです。今、将軍が軍事に力を尽くしてくださる。これは国家の幸いです。どうか将軍、これからは国家の重責を思って励まれてください。」
「私の如き凡庸の徒が、国士として遇されました。なんで怠けられましょうか!宗伯殿も、どうか心を安らかに。」
その後、呉三桂は見送りに来てくれた人々と一人一人握手して別れを告げた。
こうして、呉三桂は出立したのだ。
さて、話は袁崇煥へ戻る。
彼は毛文龍を殺してから、皮島に師団を置かず、砦は廃墟となった。敵が常時隙を窺うので、兵糧の運搬はままならない。朝廷は国庫の枯渇を理由になかなか兵糧を支給しない。そこで袁崇煥は各省から兵糧を徴収したが、その費えは年間に数百万を要した。戦闘の膠着状態が続くと、この莫大な負担に各省は耐えられず、兵糧の供給も滞りがちとなったので、前線では物資が欠乏し、遂に兵卒達の間に不満が鬱積し始めた。
かつて毛文龍が在りし時は、東は旅順から西は登莱に至るまで自由に通商させていた。それで商業が栄え、物資は豊富だったし商売に税をかけることで軍資金もできていたのだ。兵馬が肥え士気旺盛で、敵軍が恐れていた理由はそこにあった。まして毛帥の頃は兵力も今に数倍していた。それでさえ兵糧が豊富だったのだ。今は兵卒が少ないのに、却って物資が乏しい。そこで、幾人かの将校達が、毛文龍時代の軍法へ戻すよう、連名で上書した。
「馬鹿な!昔、毛文龍は商人から略奪をしていたのだぞ!それに倣えと申すのか!」
袁崇煥は激怒して、進言した将校達を処罰した。将校達の怨嗟は益々募った。
「昔、毛帥在りし頃は、皮島を鎮守し、毎日巡邏があったものだ。軍律は厳しかったが、なお、我々と苦楽を共にしてくれていたぞ。毛帥が商売を許さなかったのは、上納金を誤魔化した商人だけ。だから島民に恨みの声はなかった。今、袁帥は兵糧を十分には送ってくれないで我々は飢えに苦しんでいる。にもかかわらず、上辺だけ仁恕を示して『毛帥は略奪をしていた』だと?我等が奴等の生活を壊したとでも言うのか!この上は陛下へ直訴するしかないぞ!」
評議はたちまち一致して、数人が密かに上京したのである。
この頃、都では一大事件が起こっていた。崇禎帝が、遂に魏忠賢の党類を処罰したのだ。 即位してから十分な時間をかけていただけに、その党類へ対する調査も十分に進んでおり、彼等と親交のあった者は皆恐々としていた。袁崇煥は清廉を尊んでいたのでその連中とはつき合いがなかったが、潔癖すぎた。そこで、多くの同僚から恨みを買っていた。この状況で、彼を弾劾しようと配下の将校達がやって来たのだ。
袁崇煥批判は朝廷に蔓延した。常日頃の恨みと、絶対安全な状況に対する嫉妬と、何にも増して、天子の目を魏忠賢から逸らすためのスケープゴードとして。
「私意を以て毛文龍を殺した。」
「部下達を虐げている。」
「兵糧の調達もできずに、前線の士気を低下させた。」
数々の罪状が、一気に彼の名前に冠されたのだ。
これによって、都の風聞は沸騰し、無責任な噂があちこちで流れた。
「袁崇煥は魏忠賢と裏取引をしていたのだ。最初に蘇遼総督を解任されて都へ戻ってきた時、地位回復の為に詫びを入れて、彼の党類に成り下がったのさ。今回蘇遼総督に返り咲いたのは、そりゃ確かに陛下の意向だが、事がスムーズに運んだのは魏忠賢一派が裏で手を回したからだ。」
この噂を聞いて崇禎帝は激怒し、ただちに真偽の糾明を命じたのだ。
袁崇煥は正しすぎた為、朝廷内の官吏達と親交がほとんどなかった。ただ、大司馬の洪承畴と大宗伯の菫其昌のみが彼の才能を認めて敬愛していた。しかし折悪しく洪承畴は湖広方面の反乱平定に出征していたので、ただ菫其昌のみが彼を擁護したのである。
「袁崇煥が毛文龍を殺したのは、如何にもやりすぎではありますが、しかし彼とても不可欠の人材なのです。もしも彼を処罰したら、もう我が国は両腕をもがれたような物です。既に毛文龍を失い、今度は袁崇煥まで亡くすおつもりですか。」
崇禎帝は菫其昌を呼び付けた。
「毛文龍に将才があると言って擁護していたのは卿ではなかったか。それが今度は一変して袁崇煥を擁護するのか。」
「事情が変わったのでございます。今又袁崇煥まで処罰したら、辺境統治の人材が本当に居なくなってしまいます。それに、罪の軽重もございましょう。袁崇煥を処罰すれば、国の法律が過酷に過ぎてしまいます。どうか陛下ここをお考えください」
「その言葉にも一理ある。ただ、毛文龍在りし頃の数年間は、辺域の守りは安泰だった。それが袁崇煥に変わってから、もうずいぶんと月日が経つのに敵は未だに我が国境を窺っておるのだ。その昔、朕が彼に宝剣を与えたのは、その権威で号令を掛けさせるためだった。それを、奴は殺人の道具とした。それに、毛文龍は大勢の部下を率いながら、兵糧もなんとかやりくっておった。それが、袁崇煥は僅かの兵を養うこともできん。その上部下からは怨嗟の声まで挙がっているとゆうのなら、どうして彼が功績を建てられると言うのか?それでも卿は奴めを弁護するのか!」
「毛文龍は死罪となるべき罪がありました。ただ時期が悪かっただけでございます。袁崇煥は臨機応変の術に欠けておりましたが、私情で行動したわけではありません。今、辺境を委任できる官吏といえば、彼を置いて他におりません。もしも彼を更迭すれば、辺境の戦禍は更に著しくなりましょう。今は彼以外人がおりません。」
崇禎帝はしばらく考えてから口を開いた。
「とにかく卿は退出しろ。この件については、朕もじっくり考慮する。」
菫其昌が退出すると、新たな報告が届いた。洪承畴が反乱軍を平定したという勝報だ。
諸大臣は、洪承畴なら蘇遼総督の任務をこなせると口々に言い立て、崇禎帝もこれに頷いた。袁崇煥を洪承畴に変えたなら、きっと大功を建てるだろう。その希望的憶測が朝廷の意見を占め、菫其昌の意見は顧みられなくなってしまった。
崇禎帝はさっそく洪承畴を都へ召集した。詳しい事情も知らずに還ってきた洪承畴に、崇禎帝は辺境警備の策略を尋ねたところ、彼はたちどころに十の策を作って献上した。崇禎帝は大いに喜び、さっそく洪承畴を蘇遼総督に任命し、袁崇煥を捕らえて都へ護送するよう命じたのである。
洪承畴は仰天してしまった。彼は即座に菫其昌のもとへ出向き、共に助命嘆願しようと誘ったが、菫其昌はこの件で心労の余り床へ着いており、起きあがることさえできない状態だった。
仕方なく、洪承畴は単独で崇禎帝へ進言した。
「臣の献策は、袁崇煥を更迭する為ではありません。彼には確かに、清濁併せ呑む大きな度量こそありません。しかし、彼は術策に優れ、事に当たっては果断に行動できる人間です。もっと時間を与えてやれば、必ず功を為すでしょう。今、臣と彼の後任にするという仰せですが、臣の能力は、彼よりも劣ります。」
これを聞いて、崇禎帝は、又、考えてしまった。しかし、この時既に袁崇煥捕縛の使者が都を出ていたのだ。綸言は汗の如し。遂に洪承畴にも蘇遼総督任命の勅書を下した。こうして、洪承畴は蘇遼総督として下向したのである。
都へ送られた袁崇煥は、即座に獄へ下された。菫其昌は、既に憤懣の余り官職を返上して隠居している。その上洪承畴もいない。朝廷の中には、袁崇煥へ同情する者は居なかった。
崇禎帝は、三法司へ袁崇煥の糾明を命じた。そこで、銭龍錫が袁崇煥を詰問した。
「凡そ裁判をする場合には、その罪の軽重を十分に吟味せねばならん。そして、処罰せねばならぬ場合も、功績があればこれで罪を贖わせる。更に、贖いきれぬ程の重罪の場合も、功績があれば罪一等は減じられるものである。君も読書人だから、ここの理は知っておるだろう。
さて、例の毛文龍だが、君は彼の罪状を二十ヶ条羅列した。それはまあ、真実かもしれんが、しかし彼は数年間敵の侵略を防ぎ、敵から畏れられていた。その戦功は多いのに、君が敢えて功績を無視し、罪状ばかりを論ったのはどうしてかね?」
袁崇煥は答えられなかった。
「答えられんのは判っていたよ。君は、毛文龍を絶対に殺してやろうと思っていた。だから、わざと彼の功績には言及しないで、結局、国家の名将を一人、殺したのだ。そうだね。」
「その言い方では、まるで私が私意で以て毛文龍を殺したように聞こえるぞ!私がそんな男だったら、天から殺されても怨みに思わん。」
「そんな誓いなど無用だ。何にしても、かつて毛文龍が居た頃は、敵は逃げ回っていたのだし、君が赴任してからは、敵は屡々国境を窺い、しかも兵卒は怨み軍心はバラバラだ。『毛文龍に軍功がなかった』などと、君の口から言えるかね。
結局、君は毛文龍を殺す為に、その功績を握りつぶしたのだ。」
「毛文龍は、遼の庶民を殺して勝利を虚報しました。これは功績とは言いません。上は朝廷を欺いて勝利を粉飾し、下は商人から略奪して兵糧に充てる。そのような真似は、この袁崇煥にはできません。今日、私が罪を得るのは、実にその為なのです。ここをご理解してください!」
「君とは同期だから、理解したくはあるよ。(科挙に合格した者同志には連帯感がある)しかし、君の罪は大きすぎて、どうにもならんのだ。
君は軍略があると嘯いていたが、今のこの現状が、毛文龍の頃よりもましだと言いたいのかね?」
「朝廷が私の能力を疑うのならば、もうしばらくの時間と兵糧を与えてくれ。そうすればこうはならなかった。」
「この期に及んで、まだ復職を願っているのか!」
銭龍錫の論点が微妙にずれていた上にこの強引な返答だ。自分を助ける意向など、彼には欠片もないという事を感じ取り、袁崇煥は大きくため息をついた。銭龍錫はこの問答を崇禎帝へ上奏し、極刑に処するよう申し添えた。
この銭龍錫は、元来、実直であるという袁崇煥の評判が面白くなかった。それに、彼が有罪であるという先入観もあったので、なんとか罪を成立させて、彼の名声を地に落としてやろうと考えていたのだ。だから、この審議の間、詰問のみで、彼を擁護する言葉は一つもなかったのである。
この件は重大事件なので、慣例に従って再審されたが、罪状は追加されるばかりだった。崇禎帝は審議書を呼んで激怒し、袁崇煥に死刑を命じた。併せて、毛文龍の名誉を回復したのである。
袁崇煥が毛文龍を殺したのは確かに時勢も謀らず、越権行為でもあった。しかし、今はまた、袁崇煥を殺して良い時でもなかったのだ。哀れむべし、袁崇煥は一員の大将を殺したせいで、自分も又殺されてしまった。かつて洪承畴から口添えされた時には崇禎帝も考え直したが、しかしその洪承畴は今は居らず、菫其昌も重病だった。袁崇煥には、助けてくれる者が居なかったのだ。
三法司から糾明された時、袁崇煥は対遼政策に関して自説を蕩々と述べ、更に毛文龍の罪状についても譲らなかった。大学士の銭龍錫はこれに反ぱくした。
「君の言っている二十ヶ条は、全て当時の弾劾文ではないか。実地に検分したのかね?」
「毛文龍が商人から略奪していること、遼の庶民を殺していること、全て実地での検分済みです。ですから彼を処刑した時、大勢の民が快哉を叫んだのです。」
「まあ、それが事実としても、敵の商人から略奪し、敵の民を殺すことが、有罪になるのかな。道義的な罪は置いても、少なくとも法には触れないぞ。」
「ですから、彼が死んだ時に大勢の民が快哉を叫んだのです。無この民が被害を受けていたことを雄弁に語って居るではないですか。」
「それならば、あの時大勢の兵卒が逃走したのは何故だね?しかも、彼等は今、君を弾劾しているのだよ。」
袁崇煥は一瞬言葉に詰まったが、やがて言い返した。
「奴等は、毛文龍と生死を賭けた党類なのだ!」
「それだけ多くの部下から慕われているのだ。その人心掌握の能力が判る。お前は、毛文龍に個人的な恨みでもあったのではないか?」
「私的な恨みがなかったからこそ、彼を誅殺したあと、慰霊したのです。恨みがあったのなら、何でそんなことをするものですか?」
「慰霊など、見せかけだろう。人々の心を掴む為に、やむを得ず行ったように繕ったのだ!それとも、毛文龍には辺境鎮護の役職が務まらないとでも言うのか?」
「私に他意はありません。ただ、毛文龍に大罪があり、私的感情で寛恕するわけにはいかなかっただけです。」
「強情な奴だ。ところで、毛文龍を殺した後、皮島の後任を要請しなかったのは何故だ?」
「あそこに師団を設置する必要がないと考えたのです。私が直接兼務できますので。国家の出費を省くための処置。それ以外にはありません。」
「それならば、今更どうして頻繁に警鐘を告げるのか。君は権限を拡大したかっただけだ!そんな思いで国家の計略を誤った。重大な罪科だぞ!」
「そんな思いはなかった!今、敵の侵略が激しくなったので頻繁に警鐘を告げている。状況が変わったのだ。私は年来肝胆凝らして職務に務めた。無罪である!」
「その努力でも、かつての失敗を補えなかったのだ。もう一度聞くぞ。毛文龍の時は多くの軍卒が居て、兵糧にも事欠かなかった。今は兵も少なく君が統治している各省からの援助もありながら、兵糧は屡々欠如し士卒には怨みの声がある。何故か?」
「私は略奪をしないからだ。各省からの援助があるといってもそんなに多くはない。兵糧が不足したのは、略奪をさせないからだ。」
「それならば、毛文龍の行った略奪は、敵から兵糧を奪う軍事行動の一環ではないか。彼は私腹を肥やした訳ではなかった。死刑にすることか?お前が文龍を殺したのは越権行為だ。
それにしても、君が後を巧く納められたならまだ言い訳も立っただろうが、戦況は日々悪化している。この件について申し開きは?」
袁崇煥は、逃れられないことを悟り、口をつぐんだ。こうして死刑は決定したのだ。この処刑に対しては、多くの人々が冤罪として彼の為に涙を零した。
袁崇煥の死が伝わると、辺境の将軍はみな畏れた。彼の死の一番の原因は、援護してくれる人間が一人も居なかったこと。それは明白だった。これ以後、派閥に属していない者は、地方へ降ることを嫌がるようになった。
さて、洪承畴へ話を移そう。彼は蘇遼総督として赴任して、形勢劣悪と見て取った。そこで、配下の猛将達の助けを必要とした。こうして、祖大寿、祖大東などは重鎮を任せられた。遼の軍事行動が激しい折りとて、彼等は出陣が多かった。実際、毛文龍以来の師団以外、頼りになる部隊がなかったのだ。
しかし、彼等だけを鼓舞しても、限界がある。前線暮らしが長引くほどに士卒の士気は低下し、屯田の土地も痩せて行く。鎮守の兵が疲弊したことを知り、敵の侵入は益々頻繁になってしまった。
そういう訳で、各陣営へ対して十分な兵糧を供給しなければならなかったので、蘇遼管内の各省からは、租税を厳しく徴発しなければならなくなった。
こうして、民の生活は日々困窮し、怨嗟は広まっていったのである。
悪いことに、この当時、河北・河南地方で凶作が続いた。飢饉は屡々起こり、民衆は生きる喜びを失った。にも関わらず、蘇遼地方の戦況が緊迫していた為、地方の官吏達は租税を軽くできなかった。
此処に至って、土地を棄てて逃げ出す民が続出した。浮浪者となった挙げ句道端で餓死した死体もあちこちに見られた。それでも、官庫を開いて施しをすることはできない。富戸でさえも蓄えを徐々に食いつぶして行った。ましてや貧民達は、飢えや寒さに耐えきれず、盗賊に身を落とすしかなくなった。結局、燕、斉、晋、秦の各地方で、盗賊が蜂起し始めた。
始めは生活に追われた男達が山林へ逃げ込んでいたのが、仲間が増えると盗賊となり、そうゆう盗賊同士が時には数十と集まると、砦を構えた本格的な山賊となる。
彼等は力を蓄えると、「富豪打倒、貧民救済。」を旗印として近隣の村を荒らし回る。そして大勢の民がその被害を蒙ったのである。
そのような盗賊達の中で、一人、古今未曾有の勢力を振るった男が居た。その凶悪さは、唐末の黄巣もかくやと思われるばかり。
その名は、李闖。別名李自成と言った。
元々、彼は陜西省延安府米脂県の住民で、父の名は李十戈、母は石氏である。
この二人には、長いこと子供がなかった。それが、李十戈が五十を過ぎて、ようやく石氏が懐妊したのである。李十戈は大喜びだった。だが、十ヶ月を過ぎても出産する気配がない。李十戈の喜びは焦りに変わった。これはひょっとしたら悪い病気ではないだろうか?そう思うと居ても立っても居られず、お祓いをしたり神に祈ったり、いろいろとやってみたが良くならない。ただ、石氏の顔色が、病気にはとても見えない事だけが救いだった。
そうこうするうちに、懐妊して十三ヶ月が経った。ある日、石氏は一人の武人を夢に見た。威風凛々、長槍を手に執り、立派な馬に乗り、殺気をまき散らしながら、門へ向かって駆けていた。夢の中で驚いたひょうしに、彼女は出産したのだ。騎馬が門へ向かっている夢を見て産まれた子供。それで名前を「闖」と名付けた。
夢で兆しを見た途端に生まれた。李夫妻は、この子供はきっと大物になると喜んで、宝物のように育てた。もともと彼等夫妻は小金持ちだったので、溺愛すること甚だしく、少しでも彼の機嫌を損ねまいと、兢々と育てたのである。その為、彼はしっかり我儘になってしまった。
彼が七つ八つになって、両親は学問を習わせようとしたが、李闖は大人しく勉強するような子供ではなかった。十回に七八回は塾をさぼるし、先生から何か言われたら反抗する。こうして、一年経っても、結局一文字も覚えなかった。
十五才の頃は、いっぱしの不良になってしまった。村人達は、「触らぬ神にたたり無し」とばかり、素知らぬ顔を決め込んでいる。それから数年経って両親が死んでしまうと、彼はもう、やりたい放題し放題。だが、遊び呆けた日を送るうち、僅かばかりの田畑は、たちまち人手に渡って行った。常日頃村人達から毛嫌いされていたため、一旦落ちぶれると構ってくれる人も居ない。彼はたちまち食事にも事欠き、乞食同然の生活へ落ちぶれてしまった。
さて、ここに登士良という男が居た。彼は平素、李十戈と親交が篤かった。ある日、彼は李闖のこの有様を見て、思わず哀れをもよおした。
「お前の父親にはちょっとした財産があったのだが、なにもかも無くしちまったか。しかし、まあ、過ぎたことは言うまい。それより、これからどうするつもりかね。」
「思えば馬鹿をやっていたもんです。金がなくなると、誰も相手にしてくれない。何か心当てがあるのなら、どうか教えていただけませんか。そうすれば再生の恩、一生忘れませんから。」
「そうさな。わしの家はそんな裕福ではないからお前を養ってやるとゆうわけにはいかんが、暫くは面倒見てやるから、家へ来い。探せば職も見つかるだろう。」
李闖は雪の中で炭を見つけたような心地がし、二つ返事で頷いた。
登士良の里へ来ると、ちょうど良いことに、人手を探している者が居た。周清という鍛冶屋で、妻は趙氏。ずっと真面目に働いてきた老人で小金も溜まったが、子供がなかった。気が付いてみればもう結構な歳になり、後継者が欲しくなったのだ。
登士良はさっそく李闖を推薦した。周老人が会ってみると、立派な体格。気力も十分そうな若者だったので、大喜びで内弟子として引き取った。こうして、李闖は周夫妻の元で働くこととなった。
さて、周夫妻の元で働いてみると、彼等老夫妻には身寄りが無く、しかも小金を蓄えていたので、李闖にとっては垂涎の環境だった。そこで、彼は鍛冶屋の仕事に一生懸命励み、老夫妻から少しでも気に入られようと努力した。その結果老夫妻は、李闖を実直で働き者とたいそう可愛がることとなった。
そんなある日のこと、周老人は、ふと子供が居ないことを悲しんだ。自分が死んだ後、誰か菩提を弔ってくれるだろうか。そう話すと、趙氏も思わず嘆息してしまった。老夫婦が嘆いている光景を側から見て、李闖が理由を質すと、周清は実を答えた。
「なるほど。」
李闖はもっともらしく頷いた。
「生きている間は何とかできても、死んだ後に自分の菩提を弔うことはできません。しかし、゛灯台もと暗し゛とはこの事ですよ。その時には私が欠かさずに線香をあげ、丁寧に祀ってあげましょう。今までお世話になったご恩を思えば、親父さんを無縁仏なんぞにさせられますか!」
「そりゃ願ってもないこった!儂の死んだ後に欠かさずに奉養してくれると言うんなら、これまで以上に可愛がってやる。それについて、厚かましいようだが、一つ頼みがあるんだが。」
李闖には大体想像が付いたが、素知らぬ顔で聞き返した。
「何ですかい?親父さんは親も同然。遠慮なく言っておくんなさい。」
「それ、その事よ。同じ奉養されるのならば、弟子からではなく、息子からして貰いたいものだが、儂には息子が居ない。儂の養子になって儂の先祖代々の供養も欠かさずにやって貰いたいのだが・・・。」
やっぱり!李闖は大喜びで答えた。
「本当ですかい?有り難い仰せです。これからは息子として孝行させて貰います。」
周夫妻は大いに喜んだ。今まで子供がなかったのに、急に立派な子供ができたのだ。積年の憂いが一度に晴れて、喜びが極まった。それに、李闖は従順で気が利いていた。鍛冶の腕もみるみる挙がり、いつしか周清に引けを取らなくなってきた。
その翌年、周老人が病死した。この時の李闖は孝行息子そのままで、趙氏と変わりばんこに周老人の看病をした。老人が死んだときには大声で哭き、すっかり窶れきってしまった。残された趙氏は、もうすっかり李闖へ頼り切りである。それこそ、゛老いては子に従え゛という奴だ。
こうして、鍛冶屋を自由に切り盛りできるようになると、李闖は、昔の仲間と好を戻し始めた。折に触れては酒を並べ、肉を盛っての大酒盛。
始めの頃、その連中は無頼漢ばかりだったが、次第に知識人も顔を出すようになった。口過ぎの為に李闖と好を結んだのだ。もともと武芸では誰にも負けなかった李闖は、ここにいたって少しばかりの知識も囓り、ますます傲慢になって自ら゛無双゛と呼び名した。
そんなある日、村で訓蒙先生と呼ばれている文人がやって来て言った。
「君たちは文人を気取っている。どうだ?私が一句出すから、それに対句をつけてみないかね。」
皆が大喜びで承諾すると、訓蒙先生は言った。
雨過月明。頃刻頓分境界 雨が上がって月明るく、暫くあたりを照らす。
皆が対句を考えていると、李闖が言った。
煙迷谷暗。須 難弁江山 煙は谷間にたなびき、河の姿を隠している。
皆は吃驚してしまった。
この一件により、李闖が文学を理解していると評判になった。以後、ひとかどの人物まで彼の元へ出入りするようになったのである。
さて、この頃天下は乱れ始めた。秦、晋の一帯で盗賊達が暴れている。そのような時に李闖のもとへ大勢の男達が集まり始めたので、彼の野心が頭をもたげ始めた。
彼は、平日は里にあって鉄を鍛えていたが、何人かの知人にこっそりとうち明けた。
「世の中がこんなに乱れてしまっては、もう駄目さ。この国が滅んで、素性も知らぬ男が皇帝になったとて、何の不思議もありゃしない。そして、それが俺でないとどうして言い切れる?」
聞いた男達は皆、手を打って喜んだ。
「よし、暫くはじっくりと準備しよう。時期を待つのだ。」
さて、ここに牛金星という男が居た。彼は言った。
「兄貴の言い分にゃ賛成だが、どんな準備をするんです?」
「巧いことに、俺は鍛冶屋だ。昼間は普通に仕事をして、夜はこっそりと武器を作るのさ。武器さえ揃えば、機会があればすぐにでも暴れられるぜ。」
「大事を謀るんなら、多量の武器が必要ですぜ。それだけの資本はありますか?」
「大丈夫だ。若干の金はある。こいつを使えば、かなりの武器が作れるぞ。」
皆は大いに喜んだ。
更に具合がよいことに、趙氏も死んでしまい、財産全部を、李闖が自由に裁量できるようになった。彼は大勢の仲間を呼び寄せて、武器造りに勤しんだので、程なく多量の武器が揃った。
「さて、武器はできた。あとの問題は兵糧だな。それと、頼りになる軍師も欲しい。」
すると牛金星が言った。
「この近辺に秀才が居ます。兄貴の一族に当たる、李岩という男です。読書人で、智恵は泉のように沸き、しかも資産家だと。奴が味方になってくれれば我等の成功疑い無しです。」
「李岩か!その名前は聞いていた。ただ面識が無くてな。それに、無頼の徒に仲間入りしてくれるだろうか。良い方法を考えなければ。」
「それが、今、面白いことになっております。どうも県令といさかいを起こしたらしくて。暫く様子を見て、何かあったらお知らせしましょう。」
「そうか、それでは頼む。」
さて、これからどうなりますか、次の話をお聞きください。