呉三桂演議

 

第三回   田宛歌姫を献じて勇将と結び
      重鎮へ出て呉襄嫁を留める。

 

 さて、田宛からの招待状が呉三桂の元へ届くと、彼は首をひねった。
「はて?田宛殿とは今まで縁もゆかりもなかったが、いきなり慇懃になられたものだ。どういう風の吹き回しかな?ともあれ、相手は国舅。招待されたとあっては断る訳にはいくまい。」
 かくして、快諾の返事をしたが、更にあれこれ考えた。果たして何を求められるのだろうか?とつ、こおつ思いを巡らすうち、彼はハッと思い出した。
「そういえば、元姫を身請けしたのは、確か田宛殿だった筈!田宛殿は屋敷に大勢の女性を侍らせていると聞くし、もう一度元姫をかいま見ることができるかも知れない。」
 愛しい女を思い出した途端、彼は全ての想いを吹き飛ばしてしまった。こうして、呉三桂は、心を浮き立たせながら田宛の屋敷へ向かったのである。

 田宛は、自ら呉三桂を出迎えた。そして二人は、大勢の女性が立ち並ぶ中主客に分かれて席へ着いた。呉三桂は、田宛と談笑しながら、チラチラ周りの女性へ目を移しては陳圓圓の姿を探し求めた。しかし、彼女の姿は見つからない。がっかりである。
゛もしかしたら、私の想いを知っていて、元姫を隠したのではないだろうか。゛
 そんなことまで考えて、心此処にあらず、といった案配だ。
 田宛は、遼東の情勢だの、国政の心配だのの話をし、呉三桂がそれに受け答えているうちに宴席は進み、やがて煌びやかな舞姫達が踊り始めた。途端、呉三桂の心はパッと浮き立った。
゛そう、元姫は歌舞にも通じていた!きっとここで姿を見せてくれるに違いない。゛
 だが、その舞台にも元姫の姿はなかった。再びの落胆である。ところで、田宛は都一の大金持ちで、その彼が金に任せてかき集めた美女達なのだから、いずれも麗しい女性に違いない。しかし、その美女達さえも、呉三桂にとっては糞土に等しかったのである。

 田宛は呉三桂の心中も知らず、ただ慇懃に酒を勧めた。呉三桂は嫌いではなかったし、又心中の不快を紛らわそうとガバガバ呑んだので、三巡もしないうちに両者とも酒気を帯びてきた。
「いや、今や国家は多難な時代。それに人材は得難いもの。その中で、将軍の武勇は超絶し英名は世を覆い、朝廷からは柱石として恃まれているお方。国家の安泰は、将軍の双肩にかかっているようなものです。」
「過分なお言葉、痛み入ります。しかし、大丈夫が乱世に活きて行くからは、やはり大功を建てるべし、ですな。もしも朝廷の某への信任が変わらなければ、敵の侵入など、誓って蹴散らして見せましょう。」
「いや、頼もしいお言葉。この老いぼれでは戦場に立つこともできません。将軍、どうか御国の為に励んでくだされ。そして万が一の時には、この老いぼれの為に力添えもお願いしますぞ。」
「御国の為に働くのは、臣下の務め。国舅殿が御心配なさることはありません。ところで、私は戦陣の中で謀略三昧に明け暮れる毎日。国舅殿のように美女に囲まれるようなご身分にはありません。いや、あやかりたいものでございます。」
「からかってくださいますな。老いぼれの老境を慰めるために些の女性は近づけておりますが、そう露骨に言われますと恥ずかしい限りです。」
「いや、これは失言失言。ただ、国舅殿が多くの美人を抱えているとお聞きして、某は日頃から羨ましかったもので。ついつい酒に口が滑ったもの。気を悪くなさらないでください。」
「将軍はまだお若い。しかも軍事に明け暮れて暇もないとあらば、女性が恋しくもなりましょう。ここにはたいした女もおりませんが、お酌なりともさせましょうか。」
「そういえば、昔元姫という伎女が都中で評判でしたが、噂では国舅殿が身請けなさったとか。今はどうなさっておられますか?」
「将軍はどうしてそんな事をご存知なのですか。」
「いや、噂を耳にして慕っておったのですよ!一目だけでも見てみたかったのですが、不幸にも縁がありませんで。某の艶福は、国舅殿には遠く及びませんわ。ハハハハハ。」
「確かに仰せのように、元姫はこの屋敷におります。今は圓圓と改名させておりますが。」
「おお、それならなんとかご尊顔を拝見したいものですなあ。」
゛こいつ、圓圓に気があるのか?゛
 三千人の伎女を侍らせてはいるものの、陳圓圓だけは田宛にとって特別な女性である。呉三桂の心中を見透かして、田宛はムッとしたが、しかし何とか怒りを抑えた。何にしても、目の前にいる将軍は、味方にしたら誰よりも頼もしい男なのだ。そこで、声色を改めて言った。
「将軍は酔われましたか。」
「何のこれしきで!」
 呉三桂は思わず大声を出していた。
「大した量は呑んでおりません。もしも圓圓がひとたび舞ってくれるなら、一斗酒でも呑んで見せましょう。」
 田宛は弱り切ってしまった。相手は酔っている。はずみで何をされるか判らない。圓圓を連れて来たくはないが、しかしこれぱっかりの事で機嫌を損ねられるのも馬鹿らしい。しばし躊躇した挙げ句、彼は作り笑いを浮かべた。
「圓圓に舞を舞わせるなど、容易いこと。しかし、将軍は酔われておりますので、見事な舞を堪能することはできますまい。これは勿体ない話ですぞ。どうでしょう?明宵また宴会を開きますので、その折、まだ酔いが回る前にご披露させていただくというのでは?」
 それを聞いて、呉三桂は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「いや、有難い、忝ない。国舅の御厚情、感銘いたしました。明宵ですな?きっとですよ。」
「これしきのことで騙すわけがありません。」
 約束を取り付けると、呉三桂は大喜びで帰っていった。

 田宛は奥座敷に戻ると圓圓を呼んで、一部始終を語った。
「それで、どうなさったのですか?そのような事より、旦那様の不機嫌そうなことが、圓圓には気にかかります。」
「そ、それはそなたの為じゃ!呉将軍はそなたがここにいる事も知っておったし、そなたの近況も知りたがっておった。ありゃ、チと異常じゃぞ。」
「考え過ぎでございますよ。妾も昔はチョットは知られておりましたし、身請けしたいとの申し出も、タンとございました。ただ、旦那様が金に飽かせて身請けなさったのではありませんか。あの頃は都でも相当な噂でしたし、呉三桂殿が知っていても不思議ではございませんわ。単なる珍し物見たさでございましょう。」
「いいや、違う。彼奴、お前の事になると目の色が変わっておった。酔った弾みで何をされるか判らんから、明宵、酔いが回る前に舞を見せましょう、と答えたのだ。すると、奴はそれだけで大喜びして帰っていきおったわ。よいか?舞を見せる、と言ったそれだけで、じゃぞ。あいつは大喜びして帰っていったのだぞ!」
 圓圓は小首を傾げた。
「それは・・・チと異常ですわね。」
「だろうが!・・・ああ、約束してしまった以上、奴は明日も必ず来るじゃろう。そうすれば約束をやぶるわけにはいかん。困ったもんじゃ。」
「でも、上は国家の為、下は国舅様の安泰の為。それを思えば私の舞如き、惜しむほどのことではございませんでしょ?ましてや、既に約束をしたのでしたら、遂行しないことには旦那様の評判に傷がつきましてよ。」
「そりゃ判ってる。だがな、噂だけでああも狂人じみた男が、お前の美貌を目の当たりにして見ろ、どこまでトチ狂うか知れた物じゃない。『お前を欲しい』等と言い出したら、わしゃどうすればいいのかね?」
「そんなになるとは限りませんわよ。案外一目見るなり失望するかも知れませんし、それにそうなったらなったで、別に考えればよろしいではありませんか。」
 田宛はしばらく黙りこくったが、やがて言った。
「そうだな・・・。こんなことで約束を破ったら、わしゃ物笑いだ。」
 結局、田宛は明宵にも酒宴を開くとて、下男達に準備を命じた。

 翌日、呉三桂は一際めかし込んで田宛の屋敷を訪れた。田宛は昨日のように迎え出、二人は各々席へ就いた。
「さて、将軍。昨日のことを圓圓へ伝えましたのでな、あれも準備を整えております。」
「これは忝ない!いや、昨晩は酒の上で無礼をしたかと気に病んでおりましたが、国舅様からそのように気を遣っていただけるとは。どうやってお礼すればよいものか!」
 やがて、女性達が舞台へ登り華やかに歌い、主客は酒のやり取りを始めたが、呉三桂は気もそぞろ。その意を察して、田宛は圓圓の舞を早く始めるよう促した。ただそれだけで、呉三桂は魂まで吹きとばさんばかりだった。
 圓圓は、既に舞台衣装に着替えていたが、わざとじらしていたのだ。そして、舞台の陰から呉三桂を窺っていたが、いや、天晴れな武者姿だった。鎧甲のつくりの素晴らしさもさることながら、実に見事な面構え。圓圓は心中早くもドキマギしてしまった。
゛威風凛々。噂は伊達じゃなかったわ!゛
 惚れ惚れと見取れているうちに、フと彼の視線に目が止まった。どこか愁いを潜めて、何かを待っているようだ。と、その時、彼女は自分を呼ぶ田宛の声を聞いた。圓圓はシズシズと歩み出て、まず、呉三桂へ深々と一礼した。呉三桂は返礼し、一歩進んでシゲシゲと圓圓を眺めた。

 瞳は秋の湖のように澄み渡り、眉は春の山のように綺麗な八の字。
面は滑らかで、腰には柳のような風情あり。
衣を翻せば香風が馥郁と菫り、紅の唇からは嬌声が滴る。
ああ、落水の仙女が下降したのか、それとも巫山の女神だろうか。

 どんな艶名も、とてもその魅力を言い尽くしてはいないことを、呉三桂は改めて思い知らされた。田宛へ向かって、更なる芸を頼み込むと、田宛は圓圓へ一曲唱うよう命じた。気を利かせた侍女達が琵琶を弾き始めると、圓圓はそれに唱和した。

 貴方と会ったばっかりに、数年の別離が狂おしい。
夢では遼西へ通うけど、なんで関山を越えられましょう?
妾一人でぼんやりと外を見やれば、暮れの雲が遙か彼方を思わせる。
別離の愁いが胸を引き裂く。
かけ離れた身の上を思い知れば、今日徒に会えたことさえ、却って恨めしいのです。

 聞き終えて、呉三桂は夢うつつだった。そして、歌の台詞が自分への想いを仮託していると気がついた途端、全身が熱くなった。
「素晴らしい、素晴らしい!いや、田宛殿。羽衣を纏った天女もさこその艶やかさ。ああ、どうか今一度堪能させてください。後生です!」
「これしきのこと、何でケチりましょうか。」
 田宛は圓圓へ唱うよう再び命じた。この時になると、圓圓は呉三桂を注視して、側を離れ難く思っていたので、田宛の命令に大喜びで頷いた。琵琶が、再び奏でられる。
 圓圓は静やかに唱った。しっとりと聞かせる情愛歌。呉三桂は興奮を抑えきれず、酒も手伝って思わず嘆じた。
「ああ、もっと早く会えていたなら!」
 叫んでしまって、失言を恥じたが、それでも田宛へせがんだ。
「美声はもう十分に満喫いたしました。陳美人もここへ招いて、一緒に楽しもうではないですか。」
゛なんて奴だ!゛
 その狂妄の甚だしいこと。田宛は心中大不満だったが、怒りを爆発させるわけには行かない。
「圓圓。こちらへ来て、将軍へお酌を。」
 すると、春風が舞うように身を翻して着替えの為に退出した。呉三桂は立ち上がってその後ろ姿を眺めやった。
「将軍、圓圓は歌伎に過ぎません。なんで敬礼なんぞなさるのですか。」
「長年慕いながら、今まで垣間見ることさえできなかった。国舅殿、貴方は艶福家ですぞ。私など、今のこの時を夢に見ることもできませんでした。
 ところで、国舅殿は圓圓を陛下へ献上しようとなさったとか。これ程の美人と引き替えに、何を求められたのですか?」
「この老骨は、髪の毛一本に至るまで、全て陛下からの賜物。陛下が愁いに閉ざされておられたので、せめてもの慰めにと思い、佳人を献上じたまででございます。しかし、陛下には国事に忙しくあらせられまして、声色に耽るわけに行かない、と、受け取っていただけませんでした。」
「国舅は陛下へ連なる身の上。成る程、陛下と苦楽を共になさっておられるのですね。しかし、陛下は一人の佳人を納れなかったというのに、国舅殿は美姫歌伎を敷き詰めるほど囲っておられる。これでは田后が逝去なさったら、国舅殿の将来はどうなるでしょう。」
 田宛は、既に老齢に入っており、富貴も極めていた。それだけに、将来が不安であり、その一言は胸にズシンとこたえてしまい、返答ができなかった。
「ああ、陛下は美人を献上されても断り、この呉三桂は美人を渇望して得られない。何という違いだ。田宛殿、一言言いたいことがあるのですが、聞いてくださいますか。」
「将軍がご教授くださるのなら、拝聴いたします。」
「国舅の屋敷には大勢の美女がいますが、極めつけは圓圓殿。それに国舅はもうお年だ!この佳人とは釣り合いません。もしも圓圓をいただけるのなら、私の人生を全て国舅へ捧げても構いません。ええ、国舅の為なら死地へも赴くことを誓いましょう!」
 田宛は黙りこくって返答しなかった。
「国舅殿。聞かれてますか?」
「聞いておるよ。この老骨が、たかが伎女の為に将軍とのよしみを断ち切るとでも思うのかね?しかしな、圓圓の気持ちも知れぬ事。あれの想いを無視したくなかったので、返事できなかったのだ。」
「国舅殿さえ許されるなら、圓圓に否はありますまい!ただ、国舅殿は、圓圓と確かにご相談なさいますね?」
「将軍を何でたばかろうか。疑いますな。」
「国舅殿!何と感謝してよいものか!某は退散いたしますが、明日、きっと色好い返事を聞かせてください。なあに、圓圓はきっと断りませんよ。」
 呉三桂は大喜びで帰っていった。

 田宛が怒りも収まらぬままに振り向くと、そこにはもう圓圓が来ていた。
「あの狂人めが!必ずこうなると思っておったわ。よりにもよって!」
「どうなさったのですか?」
「多くを聞くな。あの男、この儂の面前で、お前をよこせと言いおった。」
「えっ!」
 圓圓は実は全てを見ていたのだが、素知らぬふりで驚愕し、あまつさえワッと泣き伏した。
「妾は幸いにもご主人様に寵愛され、死ぬまで穏やかに暮らしてゆけると思っておりましたのに。はからずもあんな乱暴者がご主人様と妾の仲を引き裂いてしまうなんて。」
「何でそんなことを言うのだ?これは単なるあいつの独り善がり。従うも否も儂次第。うなべるも否もお前次第ではないか。悲しむことはないぞ。」
「ご無理なことを!今、国家の安否は将軍次第。ご主人様の人生とて同じです。ご主人様が妾を捨てまいと思われましても、なんで叶いましょうか!」
 田宛は不機嫌に黙り込んだが、圓圓の言葉は道理である。彼は静かに言った。
「その通りだ。しかし心配するでない。儂がなんとかしてみせる。花にも月にも劣らない佳人を、みすみす武人に奪われてたまるものか。」
「ご主人様。そこまでなさらなくても宜しゅうございます。昔、漢の皇帝は匈奴と和平する為に実の娘を嫁にやりました。国家の為には皇帝の娘でさえも愛惜を断ち切られたのでございます。ましてや妾の如き賤しい歌姫など、何で惜しむに足りましょう?今、国家には人材が乏しく敵の勢いは益々盛ん。呉将軍のみが頼みの綱です。ご主人様、国家の為、御身の為でございます。賤しい妾の為に計略を誤りなさいますな。」
「 お前は既に大義を知っている。儂がゴタゴタ言うこともあるまい。確かに私はお前を陛下へ献上しようとした。それは陛下のご機嫌をとるためだ。しかし、あの呉三桂など何者だ?なんでお前を譲られようか。」
「妾とて、ご主人様と離れたくありません。しかしこのご時勢です。ご主人様が妾の為に災いを被ろうとなさっておられる。何で妾が耐えられましょう。」
 圓圓は、また一際大声で嘘泣きをした。田宛はあれやこれやと慰める。
「ああ、ご主人様。そのように気遣っていただきまして、圓圓は嬉しゅうございます。妾は心を決めました。妾をここに留めたところで、ご主人様の何のお役に立てましょうか。どうか妾を将軍のもとへ贈ってください。そうすれば、将軍はきっとご主人様の為に働いてくださるでしょう。妾を捨てても、ご主人様の得る物はもっと大きいのです。どうかここをお考えください。」
「あいつは単なる好色漢だ!今はただお前を欲しがっているが、手にしてしまえば涼しい顔よ。後のご恩返しなどしてくれるものか!」
「いいえ、呉三桂殿は英雄です。人倫に背く事はなさいません。妾がここに留まれば、ご主人様の将来は不安です。どうか妾を棄てて家門の安泰をお謀りください。」
 田宛は圓圓の下心を知らず、ただ自分を気遣ってくれている物と信じ込んでいた。ただ、呉三桂への憤りから、満面に怒気を湛え黙りこんでしまった。
「ご主人様はお疑いなのですか?ですが、『子女の情は深く、英雄は気が短い』と、昔から申します。ご主人様、どうか妾なんぞの為に一生をお誤りなさいますな。」
 この時、田宛は怒りの余り声を荒らげた。
「お前は、本当はあの男と添い遂げたいだけではないか!わしはお前を棄てられんのに、お前は何でわしと離れられるのだ!」
「え?そ、そんな・・・・」
 一瞬言葉を詰まらせると、圓圓は声を限りに泣き崩れた。
「それはあんまりなお言葉でございます!」
゛ああ、これは言い過ぎた。゛
 もとより心にも思ってもなかっただけに、田宛はコロリと騙された。圓圓は親身に自分のために謀ってくれているのだ、と。それだけに彼女が愛おしく、益々ご三桂などに渡せるものかと、怒りがこみあがってくるのだ。だが・・・彼はフと考えた。
゛自分ももう年だ。一体、あとどれくらい圓圓と共にいれるのだろうか。そしてここに留めていた時、わしが死んでしまった後に、こいつはどうなるのだろうか。゛
 泣き崩れている圓圓を見下ろして、憐憫の想いが浮かび上がった。
「圓圓よ。」
 田宛は静かに聞いた。
「そんなに悲しまないで。それよりも一つ答えておくれ。もしもわしがお前を呉三桂に渡さなければ、お前はどうするね?又、渡したならばどうするね?」
「あ、・・・。は、はい・・・・。」
 圓圓は涙を拭いた。
「妾がここにいれば、ご主人様は呉三桂から怨まれ、何をされるか判りません。どうしてそれに耐えられましょう。もしもご主人様がどうあっても妾を将軍へ渡せないと言うのなら、圓圓は、死んで将軍の望みを絶ちましょう。ご主人様が、もしも妾を渡したならば、妾の体は呉三桂の側へ行きますが、妾の心はいつまでもご主人様をお慕い申し上げ、将軍がご主人様の為に尽力なさいますよう、陰に陽に心を配りましょう。そしてご主人様がお亡くなりになられましたら、もう圓圓もこの世の中に未練などありません。髪を下ろしてどこかの寺へ入り、ひっそりと生きて行きとうございます。」
 何と心を打つ言葉だろうか!そこまで言われて、田宛は、圓圓を呉三桂へ渡さなければならないのだと思い知った。しかし、未練は残る。元来、彼女は顔色麗しいだけではなかった。詞曲もうまく、書画に巧みで、文章に精通していた。田宛と歴史や教典について語り明かし、終日飽きなかったこともある。古来から大勢の佳人が讃えられたが、彼女ほどの女性が居ただろうか?田宛は、大きくため息をつくと、圓圓に別れを告げ、スゴスゴと退出して行った。結局、彼には最後まで思いもよらなかったのだ。実は、圓圓は呉三桂を英雄と慕い、その傍らに行きたかっただけなのだ、と。

 翌日、果たして呉三桂はやって来た。そして、田宛を見るや土下座せんばかりに頭を下げ、
「圓圓の約束、どうなりましたでしょうか?」
 その場所に圓圓はいなかったが、田宛には昨夜の未練心が残っていた。それで、態度は憤然となってしまったが、それでも言った。
「御身がそこまでご執心なのに、けち臭いことなどできんよ。それに、わしはもう老齢だ。先々まで考えるなら、まだ若い将軍の方が、あれにも頼もしかろう。どうか、面倒を見てやってくれ。」
 呉三桂は飛び上がって喜び、何度も頭を下げて陳謝した。田宛が指図すると、圓圓はすぐに現れ、呉三桂と連れだって去って行った。圓圓は、心中大喜びだ。しかし、その表情に愁いを含ませ、未練たっぷりの芝居をすることは忘れなかった。田宛の心は未練の想いに引き裂かれそうだった。しかし、圓圓が悲しげにお辞儀をした後呉三桂と連れだって出て行くと、彼はただ嘆息することしかできなかった。

 この時、呉三桂はまだ上京したばかりだった。こうして圓圓を手にしたが、彼女は経国の麗人。側に置いてみると、急に住まいがみすぼらしく思えた。そこで、彼は豪勢な屋敷を新築し始めた。この新築によって、彼が圓圓を手に入れたことは都中に知れ渡ってしまった。巷に流れる噂はどこにでも広がって行く。そして、それは菫其昌の耳にも入ってしまった。彼は吃驚仰天で、即座に田宛のもとへ書状を書いた。
「呉三桂の職務は、国舅殿とは違います。彼には国家の為に大いに働いて貰わねばなりませんのに、女色の喜びを教えてその心を挫けさせるなど、とんでもないことです!」
 田宛は即座に返事を書いた。
「誤解なさいますな。私が彼に与えたのではありません。彼が将来を盾に脅迫し、圓圓を私から強引に奪い去ってしまったのです。」
 返事を得ると、彼は呉三桂へ書状を書いた。

゛将軍が美姫を手に入れられたとうかがいました。お祝いするべきなのでしょうが、しかし、将軍は間違っておられます!今まさに将軍が手柄を建てる時。優秀な将軍を得たと、国家を挙げて慶べばこそ、将軍に兵権を与え重鎮を委ね、朝廷も将軍を重んじているのです。将軍が遼の警護をしてからと言うもの、敵を威圧して領土を保っておりますが、これから先どうなるかまだ予断を許しません。このような時に、どうして将軍は美姫にうつつを抜かされますのか。よくお考えください。今は女色に溺れて良い時でしょうか。周の霊王は褒以のせいで国を滅ぼし、項羽は虞姫の為に命を落としました。子女の情は長く英雄の気は短い。これ故、私は将軍の為に憂うのです。
 圓圓はたんなる妓女に過ぎません。これを身近に置いておくだけでも将軍を辱めるのですぞ。かつて田宛が陛下へ彼女を献上した時、陛下は国家多難の時期に色事もないものだと突き返しました。ましてや将軍は国家の重鎮。どうか瞬時の暇さえ惜しんで国家存続の為の謀略を巡らされてください。そうすれば将軍の名前は青史に燦然と輝き、芳名は千歳の後まで香るでしょう。そうでなければ、鋭気も次第に挫けて行くもの。結局は項羽と同様の末路を辿ってしまいましょう。それは将軍一人の不幸ではありません。国家の危機でもあるのです。どうか速やかに圓圓を国舅殿のお屋敷へ返し、頑迷から覚めてください。

 呉三桂は、元々菫其昌に心服していたので、この手紙を読んで考え込んでしまった。しかし、圓圓を棄てようにも未練は断ち切れない。

「圓圓よ。私は長年夢に見ていた幸せを、ようやく掴むことができた。これからは、生死をお前と共にしたい。だが、我が良友が私を想って憂えているのだ。お前を国舅殿のもとへ帰した方がよいのだろうか。」
 圓圓は大いに慌てた。
「そんなことはございません。きっとそのお友達は、妾を手に入れた将軍のことをやっかんでいるのですわ。」
「それは違う。菫其昌殿は親身になって私を気遣ってくれているのだ。つまらないやっかみでこんな事を言われるお方ではない。」
「でも、どんな人にも内助の功は大切でございましょ?妾は愚昧ではありますが、将軍の妻として役不足でございますか?妾が将軍から見初められましたのは、確かに天幸でございます。ですが、その喜びを噛みしめもしないうちに、掌を返すように妾をお棄てになってしまわれるおつもりですか?妾になんの咎がございました?やむを得ないと仰られても、妾は今更、どの面下げて国舅殿の屋敷へ帰られましょうか。そうなっては、もう妾は死ぬより他にございません。」
 言うやいなや、圓圓は大声で泣き出してしまった。呉三桂は慌ててそれを抱きしめた。
「あっ。圓圓。心配するな。冗談だよ。どうしてお前を棄てられようか。ただ、菫其昌殿は私のことを本気で心配しておられる。だから、どうすれば良いかとまどっているのだ。」
 圓圓は涙を収めた。
「それでしたら、妾が代筆して返事をお書きしましょう。」
「それは良い!文才ではとてもお前に敵わないからな。何とか説得してくれて、菫其昌殿の愁いを解きほぐしてくれ。」
「かしこまりました。」
涙を拭いた顔でにっこりと笑うと、彼女は筆を執った。

゛前回の書状にて懇々と諭していただきました。君子の人を愛する想いとはこのようなことを申すのでしょう。感激の想いの中で、今、筆を執り、二・三の申し開きをさせていただきます。
 丈夫は大望を成し遂げる事のみを尊びます。通常の人間へ対する態度で接しては、彼等の機嫌を損ねることになります。気をつけなければなりません。
 それに、古来から大業を成し遂げた英雄達には、内助を尽くした女性がおりました。斉の桓公には六人の愛妾がいましたが斉国の国威を高揚させましたし、晋の文公も亡命中に女性をつれまわりましたがその覇業を成し遂げることができました。これでも、女性が英雄の志を腐らせると仰られるのですか?
 それとも、圓圓が単なる芸者だから、古来の賢婦人と同列に並べられないと仰られるのでしょうか?しかしながら梁氏の妻の紅玉は、韓王の麾下に追われた時に、軍鼓を鳴らして部下を激励し、戦果の助力となりました。圓圓が紅玉に劣ると仰られるのなら、それは筋違いです。彼女は、昼は書史を談じ、夜は文翰に親しんでおります。物の道理も弁えない田舎娘などではないのです。
 好色の戒めなど、武夫にとっては些細なこと。英雄は色を好むと相場は決まっております。それに、音色が人を惑わすのではありません。人が、自ら惑うのです。閨房を重んじて国家を軽んじるなど、私はそんな腑抜けではありません。この数年来の辺境での戦闘は、全てただ国家の為。私は家族も顧みずに励んだのです。
 まことに、私の如き愚昧者へ対し、陛下は国士を以て遇してくださいました。その大恩を思えば、何で励まずにいられましょうか。
 書状を以て諭してくださいました御厚恩には感激言葉もございません。なにとぞご理解を賜りたく、謹んで私の思いを述べさせていただきました。
 それでは大伯様にも御自愛の程を。御健勝、お祈りもうしております。゛

 返書を得て、菫其昌は深くため息をついた。呉三桂に圓圓を手放すつもりなど欠片もないと判ったからだ。
「この手紙は、隅から隅まで圓圓を庇っておる。多分、呉三桂の筆ではなく、圓圓の代筆だろう。あいつはこの老いぼれに対して、いつでも敬意を表してくれたものだ。それが、『英雄色を好む』などと開き直った言葉を書いてよこすなど。女狐に誑かされては、先が見えるというものだ。」
 そこで、菫其昌は、今度は呉襄へ対して手紙を書いた。
「圓圓を奪い取るなどとんでもない。まだ外敵を滅ぼしてもいないのだ。女性に溺れていられる時節ではない」と、力説し、呉襄から呉三桂を戒めて貰おうと思ったのだ。

 菫其昌の手紙を読むや、呉襄は即座に呉三桂を呼びつけた。
「お前は国家の重責を担った身の上だぞ!そのうえ国家危難の時節。女に溺れている場合か!今、世間がとやかく言うだけでなく、大宗伯様まで心を煩わせておられるのだ!それをお前は聞き流すつもりか!」
「いいえ、父上。実際の話、私が圓圓を奪い取ったのではありません。圓圓は国舅様からいただいたもの。私も、国舅様へお返ししようと思ったこともありますが、圓圓が承知しないのです。『ようやく将軍様のお側に仕えられたと言いますのに、叩き出されるなどあまりに情けのうございます。わが身を顧みずに励みますので、どうか将軍様が功績を建てられる手助けをさせてくださいませ』と。このように言われましたので、さすがに不憫で棄てられないのです。」
「あれは単なる芸者だろうが。そんな奇特な心などあるものか。そこまで言うのなら、その女を此処へ連れてこい。わしが直々に検分してやる。その上で、まあ、本当にそこまで思い詰めている女だったなら・・・そりゃ、無碍に反対もできんがな・・・。」
 呉三桂は断りきれず、圓圓と子細を打ち合わせた上で父へ引き合わせた。圓圓は呉襄のもとへ赴くと、儀礼に則って挨拶した。その圓圓を一目見て、呉襄は思わず目を見張ってしまった。
゛「あまりの絶品は目の前に置いてはならぬ」と言ったのは、楚の庄王だったか・・・。この娘は美しすぎる。息子が手放せないのも無理はない。゛
 呉襄は、国家の存亡が呉三桂の双肩に掛かっていることを切々と説いた。だが、圓圓も、実にそこに惹かれていたのだし、呉三桂へ内助の功を尽くしたいとゆう彼女の想いに偽りもなかった。その上、彼女は女と思えないほど気宇壮大であり、却って呉襄は大喜びをしてしまった。
 だが、どうしても一つだけ不安が残った。それは、圓圓が美しすぎると言うことだ。このような美貌の女性が傍らにいては、どのように心が迷うか判らない。そこで、呉襄は、次回の呉三桂の出征時には、圓圓を都に残したまま単身で赴任させなければならないと考えたのである。

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