後梁
 
 後梁の宣帝は倹素な性格で、酒色を好まなかった。猜忌心が強かったけれども、将士はよく慰撫した。
 後梁は、領土が狭く、都は荒れ果てていた。それに加えて戦争が続くこともあり、宣帝はいつも鬱々としていた。その心労が高じて背中にできものができ、それがもとで崩御した。
 平陵へ葬る。廟号は、中宗。
 太子が即位した。これが明帝である。天保と改元する。 

 太建二年(570年)、七月。陳の司空章昭達が、後梁を攻撃した。梁主は周の総管陸騰と共に防戦する。
 北周軍は、峽口の南口に城を築き、安蜀城と名付けた。また、川の上に大きな綱を張り、葦を編んで橋として兵糧を運んだ。章昭達は長戟でこれを断ち切った。
 梁主は周の襄州長官衛公直へ、急を告げた。衛公は大将軍李遷哲へ救援を命じた。李遷哲の攻撃で、陳軍は多大な被害を受ける。
 章昭達は、夜、安蜀城へ梯子を掛けて侵入しようとしたが、李遷哲と陸騰が力戦して撃退した。
 次に章昭達は寧朔堤を決壊して江陵を水攻めにしようとしたが、陸騰が出てきて戦った。章昭達は分が悪くなり、ついに退却した。 

 十三年、隋の文帝が立ち、北周は滅んだ。
 隋の文帝の梁主への恩礼はかなり厚かった。
 十四年、文帝は後梁主の娘を自分の子息の晋王(後の煬帝)の妃とした。また、蘭陵公主を後梁主の子息へ娶らせた。これによって江陵総管を廃止して、後梁主が自分の国を専制できるようになった。 

 至徳三年(585年)、明帝が崩御した。廟号は世宗。世宗は孝行で慈愛に溢れ倹約家だったので、境内は安定していた。太子のソウ(「王/宗」)が立った。
 この歳、後梁の大将軍戚听が陳の公安を攻撃したが、勝てずに帰った。
 隋の文帝は、後梁主の叔父の太尉呉王岑を入朝させ、懐義公に封じた。そして、そのまま隋に留めて後梁へは返さなかった。また、江陵総管を復活させて、後梁を監督させた。 

 禎明元年(587年)、八月。隋の文帝は後梁の皇帝を呼び寄せた。後梁帝は群臣二百人を率いて江陵を出発した。庚申、長安へ到着する。
 これによって、後梁国内には、主が不在になった。そこで隋の文帝は、崔弘度へ兵を与えて江陵を守る為に派遣した。この軍が都州まで来ると、後梁亭の叔父の太傅安平王巖と、弟の荊州刺史義興王献は、崔弘度が後梁を攻撃するのではないかと恐れ、陳へ降伏を申し入れた。都官尚書沈君公と荊州刺史の恵紀を、使者として派遣する。
 九月、恵紀は兵を率いて江陵城下へ戻ってきた。義興王等は、文武の官吏及び男女十万人を率いて陳へ降伏した。
 文帝は、これを聞くと後梁国を廃止した。尚書左僕射の潁を派遣して、遺民を集め安撫する。後梁の中宗と世宗の為には、各々十家を与えて墓守とした。後梁帝は上柱国として、呂(「草/呂」)公へ封じた。 

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