呉王恪 

  

 貞観十一年(637年)正月辛卯、呉王恪を安州都督、晋王治を并州都督、紀王慎を秦州都督とする。赴任するにあたって、上は書を賜って戒めた。
「我は汝が珍奇を捨てることを望み、ますます驕奢になることを恐れる。言いたいことは、ただそれだけだ。」 

 呉王恪は任地にて屡々狩猟に出たが、それが住民へ多くの被害を与えたので、侍御史柳範がこの件を弾劾した。
 十月丁丑、恪は有罪となり、免官のうえ封戸が三百戸削られた。
 上は言った。
「長史権萬紀は我が子に仕えながら矯正できなかった。死罪にあたるぞ。」
 すると、柳範は言った。
「房玄齢が陛下に仕えながらも、なお、陛下の狩猟を止めさせられませんでした。なんで萬紀一人が有罪となりましょうか!」
 上は大いに怒り、衣を払って退出した。やがて、範ひとりを呼び入れて言った。
「何で我を面折したのか!」
 対して、範は答えた、
「陛下が仁明ですから、臣は敢えて愚忠を尽くさずにはいられないのです。」
 上は悦んだ。 

 十七年、四月。皇太子承乾の造反が発覚した。皇子治が皇太子に立てられた。詳細は、「皇太子の乱」へ記載する。
 上は、太子が仁弱ではないかと疑い、密かに長孫無忌へ言った。
「公が、雉奴(治の幼名)を立てるよう、我へ勧めたのだ。雉奴は臆病者。社稷を守れないかも知れぬ。どうするのか!呉王恪は英雄果断で我に似ている。これを立てたいのだが、どうだ?」
 無忌は不可として、固く争った。上は言う。
「恪は、公の甥ではないから太子に推さないのではないか?」
「太子は仁厚。まさしく、守文の良主です。儲副は重大なこと、どうして何度も変えて良いものでしょうか!どうか陛下、これを熟慮してください。」
 上は、思い止まった。
 十二月、壬子、上は呉王恪へ言った。
「親子は一番近い仲だが、罪を犯したら天下の法を私情で曲げることは出来ない。漢代、昭帝を立てた後、燕王旦が服さずに密かに不軌を謀り、霍光から誅殺された。人が臣子となったら、戒めなければならないぞ!」 

 二十三年六月、太宗皇帝が崩御し、高宗皇帝が立った。 

 散騎常侍房遺愛は太宗の娘の高陽公主を娶っていた。公主は非常に驕慢で勝手気儘な女だった。
 房玄齢が卒すると、公主は遺愛へ、兄の遺直と財産を分離するよう勧め、その後、遺直を讒言した。遺直が自ら申し開くと、太宗は公主を深く責め、これ以来寵愛が衰えた。公主は怏々として楽しまなかった。
 御史が盗賊を弾劾した時、僧侶弁機の宝枕を入手したが、弁機は、これは公主から贈られたものだと言った。公主と弁機は姦通しており、彼への賜は億を数え、更に二女子を遺愛へ侍らせていた。太宗は怒り、弁機を腰斬にして奴婢十余人を殺した。公主は益々怨望する。太宗が崩御しても、全く悲しまなかった。
 高宗が即位すると、公主は再び遺愛と遺直へ訴訟を起こさせた。遺愛は有罪となって房州刺史へ左遷され、遺直はシツ州刺史となった。
 また、僧侶智助(「日/助」)等数人が私的に公主へ侍った。公主は、庭令陳玄運へ宮省の機密を探らせた。
 ところで話は前後するが、房遺愛はフバ都尉の薛萬徹と昵懇の仲だった。やがて薛萬徹は罪を犯して寧州刺史に左遷されたが、入朝した時、彼は遺愛へ対して朝廷への恨み辛みを述べ、かつ、言った。
「今、我は足に病があるが、それでも京師に坐っているだけで、鼠輩は敢えて動こうとはするまい。」 
 そして、遺愛と謀った。
「もし、国家に変事があれば、司徒の荊王元景を主に推戴しよう。」
 元景の娘は、遺愛の弟の遺則へ嫁いでおり、以来、遺愛と往来する仲になった。元景は、ある時、「日月を手に取る夢を見た」と自ら言った。
 フバ都尉の柴令武は、紹の子息である。(柴紹は、高祖の娘平陽公主を娶っていた。)太宗の娘の巴陵公主を娶っている。衞州刺史に任命されたが、「陛下が病気なので医者を探したい」とゆう口実で京師に留まり、遺愛等の謀議と結託した。
 永徽三年(652年)、高陽公主は、遺直を黜してその封爵を奪おうと謀り、「遺直が自分に無礼である。」と、人を使って誣告した。すると遺直は再び遺愛と公主の罪を言い立て、言った。
「罪は満ち溢れ、悪は稔る。臣の私門へまで累が及んでしまうのが恐ろしいのです。」
 上は、長孫無忌へ調べさせた。すると、遺愛と公主の造反の有様まで判ってしまった。
 司空、安州都督呉王恪の母は、隋の煬帝の娘である。恪には文武の才があり、太宗は自分に似ていると思い、いつも太子に立てたがっていた。しかし、長孫無忌が固く争ったので、実現しなかった。以来、恪は無忌と仲が悪くなった。
 恪の名望はもともと高く、事あれば推戴されそうな物情があったので、無忌はこれを深く忌み、何かにかこつけて恪を誅殺し、衆望を絶とうと欲していた。
 遺愛はこれを知ったので、乞干承基の時のように死罪を免れること(貞観十七年、参照)を冀い、恪も同類だと言い立てた。
 四年二月甲申。遺愛、萬徹、令武を皆斬り、元景、恪、高陽、巴陵公主は自殺させるよう詔が降りた。上は、泣いて侍臣へ言った。
「荊王は朕の叔父、呉王は朕の兄、殺したくないが、出来ないのか?」
 兵部尚書崔敦礼が不可としたので、彼等も殺した。
 萬徹は刑に臨んで大言した。
「薛萬徹は大健児だ。留めて国家の為に死力を尽くさせれば、何と素晴らしいではないか。それを房遺愛の連座などで殺すのか!」
 呉王恪は、死ぬ時に罵った。
「長孫無忌は権威を弄んで良善を殺害した。宗社に霊があるならば、遠からず一族誅殺されるぞ!」
 乙酉、侍中兼太子・事宇文節、太常卿江夏王道宗、左驍衞大将軍フバ都尉執失思力は、皆、房遺愛と交流があったとして、連座で嶺表へ流罪となった。
 節と遺愛は非常に親密で、遺愛が下獄された時、節はあれこれとこれを助けた。江夏王道宗はもともと長孫無忌、猪遂良と仲が悪かった。だから罪に落とされたのである。
 戊子、恪の同母弟蜀王音(「心/音」)を廃して庶民とし、巴州へ住ませた。房遺直は春州銅陵尉へ左遷した。萬徹の弟萬備は交州へ流された。また、房玄齢の配饗が廃止された。 

  

(訳者、曰く) 

 呉王の件を読むと、長孫無忌の専横としか思えない。無忌は、高宗を立てるように強く推した。擁立したとゆう思い上がりがあったのだろうか?
 後、高宗は武后の言いなりになり、自分の恩人である無忌を誅殺するが、この一件を考えると、無理もないように思える。
 もしも則天武后がいなければ、長孫無忌が唐朝に禍を為したかも知れない。
 それでなくても、もしも呉王が重んじられていたならば、則天武后があそこまで専横を尽くせただろうか?長孫無忌を殺したのは、他ならぬ自分自身なのだ。 

  

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