晋、五軍を作りて狄を防ぐ
 
(春秋左氏伝) 

「晋侯、三行を造る」参照  

  

(東莱博議) 

 善行を行って至らないところがあったとしても、何もしないよりはマシである。過失を改めて完全ではないとしても、改めようともしない人間よりも余程ましである。
 堯や舜のように完全な善行は、一日でできるものではない。ケツや紂のような大悪人なら、一日で全ての悪行を改めることはできない。百善のうちのたった一つしか行わなくても、一歩だけでも堯や舜へ近づいたのである。百過のうちたった一つしか改めなくても、一歩だけでもケツや紂から離れられたのである。
 だが、この両者は同じではない。
 善行を行って完全ではない者へ対して、君子は矜みてこれを勧め、寛大な想いで彼を待ち受け、徐々に彼を誘う。だが、過失を改める者へ対しては、君子は必ず明察な態度でこれに接する。それというのも、過失を改めて、まだ尽くしきらない者だからこそ、君子は彼を恕するのである。もしも彼が、過失を中途半端にしか改めない人間だったなら、君子は彼を誅するのである。 

 生まれたての善端は、まだ確固たる意志もなく、弱々しいものだ。既に染み込んでしまった悪習は、根強くて除き難い。そのような人間を、「過失を改めて、尽くしきれない者」と言うのだ。つまり、善に目覚めたけれどもまだまだ力不足な者である。
 これに対して、山のような悪弊を覆い隠す言い訳の為に毫末のような小さいことを改める人間、衆人の非難を口塞ぐ為に一つ二つを改めてスケープゴードとする人間。このような輩を、「過失を中途半端にしか改めない人間」と言うのだ。これは、誠意が足りない人間である。
 力及ばない人間は、精進を続ければ、やがて旧悪を立ちきることができるだろう。だが、誠意が足りない人間は、旧悪をすっかり捨て去ってもいないうちに、もう新たな偽りを行っているのである。これでは、過失を増やしているだけだ。これでどうして「過失を改める」と言えるだろうか。それならばいっそ改めない方が、偽りがないだけマシである。
 目が眩むような強い薬は二度も三度も与えるものではない。背水の陣とゆうものは、何度も行うものではない。強い薬を与えなければ、重病とは言ってもやがて癒えるかも知れない。乾坤一擲の大戦を討たなければ、危国とは言ってもまだ立て直せるかも知れない。しかし、これらのものを一度使って効果がなければ、もう、すっかりおしまいなのだ。
 過失を犯して改めない者は、実に大悪人である。しかしながら、それでも君子は軽々に見放すには忍びない。それは何故だろうか?過失に気がついた時には、これを改める可能性が残されているからだ。だが、過失を改めても中途半端で、これだけで十分だと自分を許した上に他人まで欺く。これでは、過失に気がついても効果がないとハッキリしたのである。これ以上どんな可能性が残っているだろうか。 

 夜がどっぷりと更けゆけば、夜明けも近い。遮蔽が厚くなるほど開通は近づく。そして、混迷が深くなる程、悟りへ近づいている。人心とは不思議なもので、混迷で過失を改めようともしない人間でも、長い間道理を閉ざしていればやがては開き、鬱屈が続けばやがては啓蒙されるものだ。
 過失を続けている人間は、ただ改めていなかっただけである。もしも改めたなら氾濫した黄河のように、押しとどめることができないだろう。楚の荘王は即位して三年間遊び続けたが、その間に精神は密かに養われていた。だからこそ、一旦奮起したら旧弊が一掃されたのである。
 しかし、既に過失を改めなければならないことに気がつきながら、却って些細なことを挙げて公衆を欺き、そんな姑息な手段で過失を改めるとゆう名声だけを盗む。これは、不誠実な心が暴露されたのに過ぎない。その心に誠意がなければ、善端がいつになったら発揮されるのか。
 もともと暮れてもいなかったのだから、夜明けが来る筈がない。遮蔽されていなかったのだから開通する筈がない。混迷していなかったのだから、悟る筈がないのだ。
 これを以て私は、過失を改めるといいながら上辺だけを取り繕っている人間は、遂に過失を改められないことを知るのである。 

 周の制度では、諸侯は三軍を設置することになっていたが、晋の文公は三軍の他に三行を造って、晋の軍隊を実質的に六軍とした。それまで六軍を持つ者は天子だけだったのだから、彼は天子を模倣したのである。だが、数年と経たないうちにあまりにも傲慢僭越が過ぎたことに気がつき、一軍を減らして五軍とした。
 しかし、晋の文公がもしも本当に其の過失に気がついたのならば、速やかに命令を下して、他の諸侯達と同等の三軍まで減らすべきだったのである。それなのに、過失を改めるべき時に上辺だけを繕った。五軍を制定して、天子よりも少なくはしたものの、他の諸侯達よりも上を行っている。
 晋の文公は、その過失を明確に知っているのに、徹底して改めることができなかった。外面は謙譲の格好を執っているが、その実奢侈を享受している。そのやり口は巧妙であり、謀略は険しい。
 このように巧妙でこのように険しいのは、そもそも良心かそれとも偽心か。良心に巧妙などあり得ない。巧妙である以上偽心である。良心は険しくない。険しい以上は偽心である。軍隊の数は一つ減ったけれども、偽りはいくつ増えたか判らない。
 ああ、変えるのならば、変えてしまえ。変えないのならばそのままにせよ。変える物と変えない物を混然とさせるなど、あってはならない。
 天下の分は、主君でない者は臣下なのだ。天下の風俗は、夷でなければ華なのだ。天下の事は、善でなければ悪なのだ。天下の説は、正でなければ邪なのだ。臣下でなくなれば主君になり、夷でなくなれば華になり、善でなくなれば悪になり、正でなくなれば邪になる。これでなくなったのにあれにならないとゆうことが、どうしてあり得ようか。
 晋の文公は、心を煩わせながら、ますます稚拙になってしまった。 

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