第四十回 長囲を破って七将は雲南を平定し、
   戦功を賞して、朝廷は諭旨を頒する。
 
 さて、郭荘図軍は、思わぬ放火で大敗北を喫してしまった。
 頼塔は言った。
「この機を逃さず追撃しましょう。敵に再起の時間を与えて防御を固めさせてはなりません。そうなれば、チベットやビルマまで、奴等と連合して来るかも知れませんし、そうなればこの患は大きく成りすぎます。」
 そこで、諸将は一斉に進撃した。大砲の音が鳴り響くと、象はますます狂奔し、自軍を踏みにじって逃げて行く。その後から敵軍が攻めてくるのだ。どうしてこれと戦えようか? 郭荘図は、形勢利あらずと見て取った。しかし、ここで全軍が退却すれば、兵卒達は散り散りに逃げ散ってしまうかも知れない。そこで、各部将へは退却を命じたが、自身は中軍を率いて伏兵となり、敵を待ち受けた。
 この時、頼塔は勇んで追撃しようとしたが、傅宏烈は言った。
「既に深夜となっており申す。敵の退却が擬態か否かも判り申さん。もしも伏兵があれば、反撃を食らって痛い目に会い申す。ここは用心するべきでござる。」
 すると彰泰が言った。
「敵は既に大敗している。象軍から踏みつぶされたのだ。孫子や呉子が生き返ったところで、軍勢の建て直しは難しい。あれは真実の撤退だ。昔、公が楓木嶺を攻撃した時はなんとも勇壮だったが、今日は又、やけに怖じ気づいているな。」
「怖じ気づいたのではあり申さん!たとえこれが真実の撤退じゃとしても、伏兵が居ったら大打撃を蒙り申す。それを恐れているとです。これは防がねばなり申さん!」
 頼塔が言った。
「今、追撃しなければ、好機を逃すぞ。我等は大軍。なんで一人の郭荘図を恐れるのだ?」
 そして、傅宏烈を左陣、彰泰を右陣とし、自身は中軍を率い、三路に分かれて追撃した。 十里余りも追撃しただろうか。樹木が辺りの暗さに紛れ込んでいるのを見て、傅宏烈は早くも警戒した。彼が僅かに躊躇した時、突然軍鼓の音が鳴り響き、林の奥で炎が燃え立ち、一軍が殺到してきた。その先頭に立っているのは、これぞ誰あろう郭壮図!
 傅宏烈は、一瞬、心を浮き立たせたが、すぐに平静を取り戻し、兵卒達に落ち着くよう命じると、少しづつ前進しながら伏兵を防がせた。
 頼塔・彰泰は伏兵の出現を聞きつけると、慌てふためきながらも右軍の傅宏烈のもとへ救援に駆けつけた。そこで、郭荘図はゆっくりと退却した。
 郭荘図が突撃した時、本来ならば傅宏烈軍は大打撃を受けるところだった。だが、それを予期していた傅宏烈が冷静に対処したおかげで、両軍は混戦となり、郭荘図の軍略も十全には生かせなかった。そこへ援軍が駆けつけたので、敵わぬと見て退却したのだった。
 この時、傅宏烈の軍は少なからぬ打撃を受けていた。そして、頼塔と彰泰が伏兵に慌てて追撃を掛けなかったことは、郭荘図にとって不幸中の幸だった。
 こうして、郭荘図軍は退却することができたのだ。
 翌日、頼塔は諸将を集合させて協議した。
「『切羽詰まった敵を追い詰めてはならない。』とは、昔からよく言われている。傅宏烈は早くもこれを予見していたが、我がこれを信じず、大敗を喫してしまった。もしも郭荘図に予備の兵力があったなら、我等は壊滅していただろう。これ以上追撃したら、どれだけの被害を受けるか判らない。」
 すると、傅宏烈が言った。
「気弱な事を言われるな。昔、呉三桂は百万の兵力を擁しながら、北へ攻め込むことができなかったではござらぬか。ましてや今は、ちっぽけな一地方へ逃げ込んだに過ぎもうさん。奴等に何ができましょうか。ここは追撃あるのみでござる。
 ただ、雲南は奴等の本拠地ではござるによって、防備はもとより完備しておる筈。じゃよってに、我等は客体が連携を執り、期日を定めて一斉に進撃するべきかと心得申す。もし、軽々しく抜け駆けして敗北する隊が出れば、奴等は図に乗りもうすぞ。ここで詰めを誤れば、全軍の破綻まで繋がることもありもうす。」
 その説に、頼塔や彰泰も、同意した。そこで、頼塔は、各地へ伝令を派遣し、蔡敏栄・穆占・キジコ・趙良棟等へ、その旨を伝えたのである。彼等は用心しながらも着実に進軍した。それは、奇襲に備えた、隙のない行軍だった。
 敗北した郭荘図は、曲靖の放棄を呉世蕃へ連絡すると、帰化寺の一帯まで撤退し、体勢の立て直しを謀った。 

 さて、馬宝と胡国柱は、既に雲南へ戻っっていた。この時、馬宝は呉世蕃へ謁見を求めると、叩頭流血して言った。
「御国の危機に際して、臣等は力を尽くして敵を防いでおりましたのに、陛下は何故召還なさっれたのでしょうか?」
 馬宝を貴州から呼び戻すと、蔡敏栄が即座に動き、夏国相がいなくなるや頼塔の動きも活発になったので、呉世蕃は心底後悔していた。そこで、まともに返答もできず、上辺を繕って言った。
「それは、他でもない。卿を曲靖の援軍として派遣したかったのだ。」
「それが陛下の本心とは思えません。臣は積年、黔・湘で戦ってきました。危急とはいえ、まだ蔡敏栄を防ぎきることはできたのです。そして、夏相国を郭ふ馬の援軍として派遣すれば、曲靖を固守することもできました。しかし、今回軽々しく動いたことで、二つながら失ってしまったのですぞ!これは、誰かが陛下へ讒言したに違いありません!そして陛下は臣を猜疑して、大局を誤ったのです!」
 呉世蕃が返答できずに黙っていると、馬宝は続けた。
「臣等は先帝と共に、何度も死線を潜ってきました。そして、我等は国の大恩を蒙ったのでございます。御国の為なら、肝脳を地にばらまこうとも、もとより本望。もしも臣等まで疑うのならば、他の誰を信じられるのですか!」
 すると、呉世蕃は言った。
「今はもう、卿を疑ってはおらぬ。どうか曲靖救援に向かってはくれぬか」
 その時、使者が駆け込み、曲靖の陥落を告げた。呉世蕃は顔色を変え、馬宝と胡国柱はただ涙を零すだけだった。
 呉世蕃は言った。
「何か善後策はないか?」
 すると、胡国柱が言った。
「藩屏を全て失いました。こうなれば、敵は都へ一直線。事ここに至っては、諸葛孔明が甦っても施す術などございますまい。」
 馬宝が言った。
「臣は、貴州が気がかりです。ここも陥落したのではないでしょうか。夏国相には才覚がありますが、交代したばかり。その状況で難敵相手に持ちこたえられるかどうか。」
 果たして、その言葉が終わらないうちに、別の伝令兵が駆け込んできた。
「夏国相、王会、高起隆軍、敗北。蔡敏栄軍は、雲南目指して進軍しております!」
 それを聞いて、呉世蕃は泣きじゃくった。
「馬宝、馬宝よ。卿には何か妙手はないのか?!」
 馬宝は答えた。
「この期に及んで、どんな策がありましょう!ただ、五華山の周囲を長城で囲み、一年分の兵糧と数万の兵卒で籠城すれば、少しは時間が稼げます。その間に、チベットへ使者を派遣するのです。腰を低くして、厚く賜を与え、起兵を促します。その条件として、四川を奪取し、中原を回復した後、四川・陜・雲南の割譲は覚悟いたしましょう。その傍らで、満州人がチベットを狙っていると脅しつけます。『お前達は、我等の先帝と同盟を結んでいたので、満州人は必ず報復に来るぞ。』と。そこまでやっても、奴等が起兵を拒んだら、仕方がありません、奴等の国内へ亡命いたしましょう。そこで再起を図るのです。」
 呉世蕃は言った。
「ビルマへ逃げた方が良くはないか?」
「いけません。ビルマはかつて明の属国でしたので、永歴帝はここへ亡命いたしました。その時、我が先帝が兵を動かして示威行為をしておりますので、我等へ対して好意を抱いておりません。それに、我等がビルマへ逃げ込んだとして、永歴帝のように引き渡されたらどういたします?彼等は、その為人として、義を知りません。恃むに足らぬ相手です。」
 胡国柱もその説に同意したので、呉世蕃も、馬宝の策を裁可した。
 この時、大学士林天拏、方光深、そして尚書の王緒が、連れ立って入ってきた。呉世蕃が目を遣ると、三人の顔は憂いに満たされている。
「何事か起ったのか?」
 すると、林天拏が言った。
「西北からの報告でございます。大将軍の談洪は、敗北の後、チベットへ援軍を求めようとしましたが、悉く趙良棟に邪魔されました。また、雲南へ撤退することも、趙良棟に阻まれております。そして、その趙良棟は、今や大軍を以て雲南へ進軍を始めました。」
「なに?それでは、チベットへは使者を派遣するさえ難しいのか?」
 傍らから、馬宝が言った。
「この時局では、滅亡寸前です。談洪は、大敵を防ぐ能力を持ち、国を輔けては忠貞、危難に臨んで心変わりもしませんでしたが、陳旺のせいで失敗しました。そうして、我等は四川を失ったのです。ですが、これはもはや誰の失策でもありません。今、敵は三方から進軍し、我等はこの片隅に追い詰められてしまった。外国の救援がなければ、この危難を乗り越えることはできません。こうなれば、何人もの使者を、別々の道からチベットへ派遣しましょう。たとえ、趙良棟が、その一人を捕らえたとしても、全てを捕らえることはできますまい。」
 呉世蕃は、この策に同意し、五つの道から使者を派遣した。また、ビルマは頼りにならぬとはいえ、一応、ビルマの酋長へも、使者を派遣して文書を渡した。
「雲南が滅亡したら、次は貴国の番ですぞ。『唇滅べば、歯寒し』というではありませんか。」云々。
 そうやって脅しつけて、救援軍の起兵を促したのである。
 これらの処置が終わると、呉世蕃は、馬宝と胡国柱へ向かって、言った。
「朕の不徳で、国事を誤った。卿等は、まことに国の功臣にして、忠貞の大臣である。どうか、朕の過ちを根に持たず、ただ、先帝陛下を想って、朕の為にこの危局を支えてくれ。これからは、国の為に必要な処置は、朕の同意を得ず、即座に実践してよろしい。」
 馬宝と胡国柱は、ただ叩頭流血するだけだった。
 もはや、全てが手遅れだと、彼等には判っていた。だが、それでも国難に殉じることを誓い、呉世蕃へ別れを告げた。
 涙を流しながら退出した後、馬宝は胡国柱と協議した。まずは、五華山を要害とすること。
 この五華山というのは、かつて、永歴帝の行宮だった。それを呉三桂が飾り立て、今では呉世蕃の行宮となっている。ここに、数万の人夫を動員して、長囲を築いた。これが、深溝と固塁とで、五華山の四隅を巡る。長囲の外の壕は、広さ一丈、深さは丈余。その更に外側には、弾避けの為に鉄の網を掛けた。又、壕には昆明池から水を引き、火攻めに備えた。この水は、城内へも引き込まれた。それだけではなく、井戸や池を数多く作り、渇水の備えとした。集めた兵馬は五万。これで五華山を守備し、かき集めた兵糧は二年分。更に、山裾に屯田させて、絶糧の患をも予防した。
 馬宝は、これだけの事をやり遂げて、「チベットからの救援を待つ、」と、宣伝した。
 もともと呉三桂は、チベットとの交流が篤かった。危難に及んでも、チベットは兵糧や兵器を四川へ供給し、支援してくれていた。だから、馬宝はチベットを一番の恃みとしていた。そこで、五華山の布陣が完了した後、兵卒の志気を高める為に、そのように布告したのだ。
 それでは、当時の民情はどうだっただろうか?
 夏国相・馬宝は平素から温情を旨として民を治めていたので、危機がここまで迫っても、雲南の民は心変わりをしなかった。雲南の民は、夏国相や馬宝の為に働くことを誇りとしていた。
 雲南は四方から急を告げている。財政は、とうの昔に破綻寸前。そこで、周軍は、民からの供出を行わざるを得なかった。しかし、馬宝の宣伝工作が巧く行っていた為、富豪や大商人は、多くの財貨を寄進した。こうして、兵糧も、兵器も充実したのである。
 この有様を見て、馬宝は胡国柱へ言った。
「これだけの難局に直面しながら、民心はかくの如し。充分、物の役に立つ。これで一路の援軍があれば、十分に連敗を覆せる。今、敵は大軍とはいえ、恐るべきは趙良棟、蔡敏栄、傅宏烈の三人のみ。頼塔などは、毛並みだけの無能な男。恐れるに足らん。事ここに至っても、いまだにチベットの動向が判らないのは、惜しい話だ!」
 だが、胡国柱は、チベットからの援軍が来ないことを危惧していた。それに、例え援軍が来たとしても、間に合わないのではないか?
 そこで、胡国柱は民へ呼びかけて義勇軍を決起させることを提案した。馬宝はこれに同意し、各所の土司へ使者を派遣し、民間へも、積極的に協力を呼びかけた。
 その他、郭壮図には五華山の外に陣取らせて椅角の備えとし、敵軍の糧道を断つ為に、堅壁清野の計略を敢行した。
 こうして、満を持して敵を待ち受けたのである。 

 片や、清軍。
 大将軍蔡敏栄は、穆占・キジコと共に貴州を占領すると、ただちに夏相国へ追撃を掛けた。すると、貝子頼塔の軍と遭遇したので、彼等は合流して雲南へ向かった。
 趙良棟と王進宝の二軍は、談洪軍を追い詰めていた。
 談洪がかき集めた数千の敗残兵は、更に追撃を掛けられて、チベットへ向かうこともできなかった。そこで談洪は、雲南へ向かって落ち延びた。この時、彼が率いる軍勢は、わずか千人そこそこだった。
 これを追撃する趙良棟と王進宝も、当然軍を雲南へ向けた。この二軍は、永善から魯旬に沿って、海司へ進んだ。
 その時、彼は蔡敏栄と頼塔からの書状を受け取ったのだ。期日を合わせて雲南へ向かう、と。
 趙良棟は言った。
「知謀の士は、同じように判じるのだな。蔡敏栄殿の考えは、我の策と同じだ。」
 そして、返書をしたためた。
”手間取ってはなりません。夏国相には謀略があり、馬宝は知恵者。郭荘図、談洪、胡国柱は勇者です。彼等がビルマ・チベットの援軍を受けて、これと合流すると、かなり手を焼きますぞ。”
 蔡敏栄等は、それを読んで頷いた。
 この時、図海は既に長沙まで進軍していた。それで、蔡敏栄には後顧の憂いがなくなった。
 時まさに、康煕二十年、三月。大軍は三路から、雲南へ向かってヒタヒタと押し寄せて行った。頼塔・彰泰と傅宏烈は既に嘉利へ到着し、蔡敏栄とキジコ・穆占は嵩明へ進駐し、趙良棟と王進宝は富民まで進軍していた。その勢いは、正に破竹。そして、そのまま雲南府まで進軍を続けた。
 これに対して、夏国相・馬宝及び胡国柱は、日夜軍略を練っていた。
 敵の兵力が強大なので、まともに戦うことはできない。そこで、雲南府城へ引きこもった。その傍ら、四方へ使者を派遣して、後方攪乱の術も行った。
 それにより、一旦は降伏していた馬承萌が、再び広西の柳城にて決起し、頼塔の後方を掻き乱した。談洪の部将鼓時亨は、川東にて決起し、趙良棟の後方を攪乱した。しかしながら、川中には十分な兵力が駐留していた為、鼓時亨は十分な戦果を収めることはできなかった。
 馬承萌が決起すると、広西の全省が震駭した。
 だが、幸いにも図海が既に長沙まで進駐していた。図海は、兵を分けて桂林へ派遣した。又、馬承萌決起の報を受けた頼塔は傅宏烈を派遣し、どうにか広西を鎮定できた。
 馬承萌は泗城まで逃げた。後顧の憂いがなくなった頼塔は、当初の予定通り、蔡敏栄・趙良棟等と呼応しながら雲南目指して進軍を再開した。
 気がつけば、四月になっていた。孟夏の盛り。陽炎がたちのぼるほどの酷暑だった。北方の人間にとって、慣れないこの気候は、辛いものがあった。又、南方は伝染病も多く、水も土も体に合わない。将軍の穆占は、しっかり暑さにやられてしまった。
「こう暑くてはたまらない。どこかへ移動して避暑しなければ。呉世蕃もここまで追い詰められては再起もできまい。秋の涼しい候まで待ってから再び攻撃すればよいさ。」
 だが、蔡敏栄は言った。
「ならん!我等がここに至るまで、どれだけの苦労をしたことか。そうして、ようやく敵を追い詰めたのに、どうして再起の時間を与えられようか?事の得失成敗は、この一戦にこそあるのだ!ましてや、呉世蕃は既に夏国相・馬宝を重用していると聞く。この二人が居る限り、時を与えるわけにはいかん!」
 そうして、進軍を命じた。
 キジコが穆占へ言った。
「漢人の蔡敏栄が、あれだけの決意なのだ。ましてや我々が進軍せぬ訳にはいかんだろう。」
 穆占は納得し、進軍を続けた。
 趙良棟・王進宝・頼塔・彰泰も、それぞれ四路から進軍を続けた。 

 さて、雲南は、肥沃な土地ではない。むしろ、痩せていると言った方が適切だろう。そして、積年の戦争で、兵糧も底を尽きてきた。住民は夏国相や馬宝を慕っていたが、これでは何ができただろうか?そうゆう訳で、臨安・水順・姚安・大理などの郡県は、次々と降伏した。蔡敏栄は勢いに乗り、雲南府めざして直進した。
 ここで、清軍は再び協議した。その結果、キジコと王進宝には、雲南の諸郡を鎮圧させ、他の軍が、雲南府を包囲することとなった。
 夏国相は、馬宝と協議した。
「今、五華山の布陣は完璧だ。だが、ここで籠城して、敵の撤退を待とうとしても、それは余りにも現実離れしている。四方に討って出て、敵を攪乱してこそ、雲南府も堅固になるのだ。」
 諸将がこれに賛成したため、外征軍が組織された。そして、夏国相・談洪・高起隆等は各々人馬を率いて川省へ攻め込んだ。すると、濾・叙・建昌・永寧・馬湖の諸郡が、前後して降伏した。
 夏国相は、かねてから考えていた。
”雲南を二つ占領するよりも、四川一省を占領した方がよい。ただ地形が険阻なだけではなく、チベットとの交流にも便がよいのだ。”
 だから、夏国相が四川へ出征すると、趙良棟はこれを慮った。そこで、張勇・孫思克へ、これと抗戦するよう命じた。だが、自身はそのまま進軍した。まず、雲南を陥落すること。本拠地さえ落とせば、四川へ侵入した夏国相は単なる流軍と成り果てる。掃討するのも、いと容易い!
 こうして、雲南府攻撃は、ますます激しさを加えた。呉周が頼みとするのは、ただ馬宝や郭荘図の奮戦のみだった。 

 ところで、貝子頼塔は、出軍以来、その手柄はいつも傅宏烈に及ばなかったので、最後の戦だけは、今までの恥を雪ごうと思い詰めていた。そうして、勇を奮って攻め立てたのである。
 これに対して、郭荘図は百般手を尽くして防戦に務めた。頼塔軍は甚大な被害を受けたが、それでも彼等は怯まなかった。そして、一ヶ月の城攻めにより、とうとう外塁を陥したのである。
 頼塔は左におり、彰泰は右におり、両軍揃って更に攻撃を続ける。だが、外塁は、雲南城からけっこう離れた場所に造られていた。だから、外塁が落ちても、城垣までは、戦火が及ばなかった。
 頼塔が外塁を破ったのを知ると、趙良棟は、蔡敏栄と共に、軍鼓を鳴らして進軍した。だが、馬宝も一歩も退かず、依然としてよく守っていた。
 こうして戦線が膠着したまま、図らずも数ヶ月が経ったが、城中では、兵糧も水も欠乏する気配がない。趙良棟は手を出しあぐね、蔡敏栄へ書簡を出した。
「敵は、命をなげうっています。しかも水も兵糧も十分に準備しておりますので、これを打ち砕くのは困難です!今、数ヶ月に渡る攻撃で、我軍も数千の兵卒を失いましたが、これを見ても、敵の手強さが判ります。このまま時を移して、敵方に援軍が来れば、ますます事態は悪くなります。ここは一気呵成に攻め落とすしかありません!」
 こうして、清軍の攻撃は、ますます苛烈を極めた。その猛攻を受け、呉周では王会が、趙良棟軍との交戦中に戦死した。十月中旬のことである。
 呉世蕃は、大いに慌てた。趙良棟と蔡敏栄は、既に長囲を破って城垣へ迫っているのだ。そこで、馬宝と協議し、チベットへ使者を派遣し、援軍を催促することとした。
 だが、その使者は、趙良棟に捕らえられた。呉世蕃はますます切羽詰まり、遂に、夏国相等の軍へ撤収を命じた。
 雲南府の危急を聞き、夏国相も、四川平定が間に合わなかったことを悟った。そこで、涙を零しながら、戦死を誓って雲南へ戻ったのである。
 雲南府近くまで戻ると、夏国相は高起隆と協議した。
「趙良棟軍を、背後から襲撃する。そうやって、雲南城の危急を救うのだ。」
 この時、呉世蕃は夏国相のもとへ密偵を放った。だが、その密偵は、王進宝の手の者に捕まってしまった。王進宝はその密偵を斬り殺すと、その書類を奪った。そして、自分の密偵を彼に装わせて、夏国相のもとへ行かせたのだ。夏国相は、呉世蕃からの書状を届けられたので、これに気がつかず、主君からの使者と思って機密を知らせた。そうゆう訳で、夏国相の軍事計画は、王進宝に洩れてしまったのだ。
 王進宝からこれを聞いた趙良棟は、夏国相の進路へ伏兵を設けて待ち受けた。果たして、夏国相は趙・王二軍の伏兵によって大敗北を喫してしまった。
”もはやこれまで。”
 夏国相は、覚悟を決めて自刎しかけたが、死ぬ前にもう一度呉世蕃に会いたくなり、敗残兵を取りまとめて雲南城へ向かった。この時、彼の率いる兵力は、わずか数千に過ぎなかった。
 この大敗北を見て、高起隆は変心した。彼は、ひそかに趙良棟へ内応を申し込んだのである。そこで趙良棟は、彼に夏国相の謀殺を命じた。高起隆はこれに乗り、夜半、軍を率いて夏国相軍を襲った。
 さて、夏国相は、常日頃から人の心を掴んでいた。それで、この夜、高起隆が兵を率いて夏国相の軍営へ攻め込んだ時、夏国相の護衛の兵は声を限りに怒鳴りつけてしまった。
「夏公は、忠義一途。それに、恩愛の心で人と接しているお方ではないか!それなのに、お前達は、夏公を裏切って賊の手下に成り下がるつもりか!」
 その言葉が終わらないうちに、高起隆が率いていた兵卒達は、散り散りに逃げてしまった。
 高起隆は怒り狂い、自ら先頭立って夏国相の陣営へ躍り込んだが、護衛の兵卒達が一斉に襲いかかり、ミンチ肉のように切り刻んでしまった。
 夏国相は嘆いて言った。
「国が滅亡する時には、こんなことは起こるものだ。しかし、高起隆も、どうせ死ぬのなら、御国の為に討ち死にすれば、芳名を千歳へ流せたものを。それはさておき、高起隆が単軍で我を襲ったとは思えない。もしも敵方へ寝返っていたのなら、グズグズしておれないぞ。」
 高起隆に従った二・三の近習達を問いただすと、果たして趙良棟との密約が判明したので、夏国相はただちに軍を返し、雲南城へ急がせた。
 これを、趙良棟と王進宝が追撃する。夏国相は、戦わずに逃げた。趙良棟が勢いに乗って攻撃しようとした時、談洪の軍が出撃し、夏国相を救出した。
 だが、雲南城の外城は、既に十余丈も陥ちていた。趙良棟は、その勢いをそのままに、城内へ躍り込もうと突撃を命じた。これに対し、談洪軍も決死の覚悟で抗戦した。激しい揉み合いはしばらく続いたが、やがて、趙良棟軍は攻撃を断念して退却していった。しかし、この戦いで、談洪は数カ所の深手を負って、命を落としたのである。
 談洪の戦死の後、人々の心は益々怖じ気ついた。 

 ところで、民衆の不安には、もう一つの原因があった。そもそも、雲南城には多くの兵糧を運び込んでいたが、城内は大勢の住民がいたのだ。そして、長い間包囲されているので、彼等の食糧が不足してきたのである。馬宝はやむをえず、軍糧を民間へ放出して、彼等を救済した。
 こうして、どうにか民心は落ち着きを取り戻したが、軍糧は心許なくなってしまった。以来、将官がボツボツ逃亡し始めた。また、何度も使者を放ったというのに、チベットからの援軍は、待てど暮らせど現れない。こうして、兵卒達はますます恐れた。
 そうなると、軍営では怨言が生まれた。
「これというのも、陛下が馬宝を召還なさったせいだ。その結果がこの有様。これでは、国の滅亡も間近がはないか。」
 この怨言が呉世蕃の耳へ入ると、彼は恐れおののいた。
”兵卒がこの有様では、不測の事態が起こるかも知れない。”
 そこで、呉世蕃は、自身の護衛の為に郭壮図を入英させた。だが、郭壮図は、一方面を指揮していたのだ。胡国柱は、この移動を思いとどまるよう上奏したが、呉世蕃は聞き入れない。胡国柱は、憤りが極まり、喀血して卒した。
 既に、王会と高起隆は城外で死に、城内にては談洪と胡国柱が死んだ。ここにおいて、頼みの人材は、夏国相・馬宝・郭壮図の三人となってしまった。彼等は皆、知勇兼備の忠臣ではあるが、ここに至って何ができるだろうか?
 趙良棟を始めとするしん各軍団は、日夜攻撃を続け、ますます城下へ迫ってくる。
 両軍は、数ヶ月に亘って消耗戦を続けると、周軍はますます疲弊した。
 やがて、翌年の夏になると、兵糧にも事欠き始めた。それに、帰化寺方面は、郭荘図が召還されてからは総大将を欠き、守備に統制を欠いていた。そしてとうとう、貝子頼塔、彰泰の攻撃の前に陥落したのである。 

 この年の七月。傅宏烈が、柳城にて馬承萌を斬り、桂州の騒乱は完全に鎮圧された。そこで、傅宏烈も兵を率いて雲南へ進軍し、帰化寺方面を攻撃した。
 五華山は完全に孤立した。それに加えて、趙良棟と蔡敏栄は攻撃の手を緩めない。
 十月、城内の兵糧が尽きた。そして、南門を守備している一隊が、密かに蔡敏栄へ内通し、蔡敏栄軍を城内へ導き入れてしまった。
 清軍は一斉に城内へなだれ込んだ。
 南門陥落の報を受け、呉世蕃と郭荘図は自害した。
 夏国相と馬宝は、腹心の部下を率いて出陣した。この上は、せめて二・三の敵兵を殺してから自害しようと思ったのだ。
 だが、蔡敏栄が降伏を呼びかけると、大勢の兵卒が投降してしまった。馬宝の部将張棋が激怒して、たちどころに降兵を二人ほど斬り殺したが、それによって兵卒達は怒りを爆発させ、かえって造反へ踏み切った。彼等は、刀を振り立てて、将官へ向かう。
 それを見透かしたように、蔡敏栄は言った。
「夏国相か馬宝を殺した者には、万金の賞金を与えるぞ!」
 その一言に、蔡敏栄の兵卒達も士気を奮い、万槍が一斉に繰り出された。
 この有様に、馬宝は、捕らわれることを恐れて自刎した。
 夏国相は、急いで親兵を率いると西を目指して落ち延びた。だが、その眼前に敵兵が出現。率いているのは趙良棟!
 号令一下、槍や弾丸が、雨霰と降り注ぎ、夏国相は全身に傷を負って戦死した。
 同じ頃、大学士の方光深も敵兵に殺された。
 趙良棟と蔡敏栄は、降伏した周兵を取りまとめると、五華山目指して進軍した。途中、護衛の兵卒達が、次々と投降してくる。これらを全て受け入れながら、彼等は五華山の宮殿へ向かった。
 程なく、貝子頼塔の軍もやってきた。そこで、彼等は合流して、共に入宮した。すると、宮殿では、一人の人間が慟哭していた。
 それを見て、趙良棟は一喝した。
「大軍が来たのに、まだ降伏せぬ男が居るのか!」
 男は、振り向き様、趙良棟へ手裏剣を投げつけると、自刎した。趙良棟はその手裏剣をはね飛ばし、親兵を率いて男のもとへ駆けつけたが、彼は既に果てていた。
 この男、そも誰?と、素性を確かめれば、大学士の林天拏だった。呉世蕃が自害した後、林天拏は、その屍を抱いて入宮し、埋葬しようとした。敵に奪われて辱めを受けさせない為である。そして哭の儀式を行っている時に、敵兵が乱入してきたのだ。こうして、遂に、呉世蕃の埋葬は間に合わなかった。
 趙良棟の親兵達は、林天拏の屍へ飛びかかると、肉泥になるまで切り刻み、呉世蕃の屍は、その首級を切り取って北京への献上品とした。
 蔡敏栄と頼塔が、庭園へ出てみると、その樹木では、大勢の女官達が首をくくっていた。その他にも、井戸へ身を投じた者がおり、服毒自殺した者がおり、男女の屍が、後宮に満ちあふれていた。
 これを見て、趙良棟は嘆じて言った。
「婦人や子供まで国に殉じた。王宮内で投降した者が一人も居なかったことを見ても、人心が我等へ従わなかったことが判る。なるほど、孤立した雲南を落とす為に、一年以上も掛かったわけだ。もしも呉三桂親子が統治に励み、勇躍進取したならば、天下がどうなったか知れたものではない。ここまで強く人の心を掴みながら、それを転用することを知らず、安逸に安んじて自ら敗亡を取る。なんとも惜しむべき事だ!」
 ひとしきり慨嘆すると、彼は、後宮内の屍を全て手厚く葬るよう命じた。又、雲南の民が、連年の戦乱で疲弊しきっていることを見て救済の手だてを講じた。
 夏国相と馬宝は、その首級を挙げると北京へ送り、併せて戦勝も報告した。そして、兵卒を雲南へ留め、鎮撫の手筈も整えた。
 雲南平定の報告を受けた朝廷は、五百万の幣を発行して兵卒を賞するよう戸部へ命じた。そして、その功績をはかり、次のように賞した。
 図海、趙良棟、蔡敏栄、王進宝、張勇は、上賞。
 孫思克、李之芳、傅宏烈、頼塔、穆占、キジコ、碩袋、彰泰、徐治都、楊捷、姚啓顕、施琅、呉挙祚は次賞として、上賞と共に賞した。
 又、起兵以来、多大な被害も受けたが、これについては厳罰で臨んだ。
 詔に曰わく、 

 呉三桂が造反した当初、満漢の精鋭を選んで順承郡王勒弥錦に統治させたが、荊州へ到着するまで、三ヶ月も掛かった。その為、賊軍が遠征した疲労を衝けなかったばかりか、奴等に守備を固める時間まで与えてしまった。この初戦での手違いの為、賊軍は湖南へ蟠踞し、我が軍は兵力を分散させることとなってしまった。挙げ句の果て、耿精忠、孫延齢、楊嘉来が相継いで造反し、数年間も軍団を進駐させながら寸尺の功績も建てられなかった。
 又、簡親王ラフは江右に数年間虚しく逗留し、貝子顎洞は陜西で不覚をとった。
 水軍に力を入れて岳州を奪り、そこから長沙を伝って図海を平涼へ進駐させるとゆう方策を、朕が定めたからこそ、挽回が利いたが、そうでなければ勝敗の行く末は判らなかった。
 戦期を長引かせてしまえば、国庫や国民へ多大な打撃を与える。その罪状は大きいのだ。それは、他の人間であっても、赦すことはできない。ましてや、親王や貝勒は国家の至戚ではないか。
 よって、順承郡王勒弥錦、簡親王ラフ、貝子顎洞を大臣へ引き渡す。太祖太宗の軍法に従って、厳しく詮議せよ。” 

 この詔が下り、親王達は、爵位剥奪・財産没収の上、各々拘禁された。
 その他、岳州陥落の時の都統球満、太平街失陥の時の前鋒統領伊勒都、敵が撤退したのを、戦勝と粉飾報告した都統ハジフ、岳州の敵が潰走した時に追撃しなかった輔国公温斉、又、軍を持ちながら積極的に戦わなかった者、戦って負けた者など、それぞれにその罪状を糾明した。
 数年に及ぶ内乱で消耗した軍費については、塩課その他の増税で補填した。
 今回の内乱で、通信の不備が問題となったので、伝令制度も整備された。四百里事に詰め所を設けることで、甘粛からの報告は九日、荊州、西安からは五日、浙江からは四日で北京へ届くようになった。
 この後、呉三桂と交流のあったチベットと戦端を構えることとなるのだが、それは後の話である。この書には記さない。呉周の滅亡を以て、この物語はひとまず終わろう。