第三十七回 羅森を困窮させて五将成都を取り、
  逼永、孤城を挙げて大敵と抗戦する。
 
 さて、楊嘉来は城を棄て、西へ向かって逃げ、雲陽城へ入城した。
「こうなったら、ここに據って固守する。そして成都へ援軍を乞い、反撃するのだ。」
 だが、左右の臣下は、皆、反対した。
「クイ州は四川の門戸。それが、敵は徐治都を派遣しただけで、我等万人の大軍が防戦できませんでした。今、残っている兵力は数千。前日の勢力には及ぶべくもなく、又、雲陽城は、クイ州城程堅固でもありません。険阻な守りもなく、兵糧も続かない。それで雲陽城を守ろうとしても、無理です。それにここは成都から離れすぎております。援軍が来るまで持ちません!」
 すると、楊嘉来は言った。
「四川の精鋭兵は陜西の敵に備えて出払っている。我は孤軍でクイ州を守っており、後続はない。我等がもしも退却すれば、徐治都はその後ろから進撃し、成都以東は全て敵に奪われてしまうぞ!援軍を待つことができぬのなら、せめて敗戦の報告だけでも飛ばし、成都の守りを固めて貰おう。」
 そうして、報告書を書いて流星馬を飛ばした。そして、今後の動向の協議に移ったが、その時、伝令兵が叫んだ。
「徐治都の大軍が来襲しました!」
 楊嘉来が点呼を取ると、部下の数はたかだか数千。これでは防ぎきれない。
「仕方がない。城を棄てて逃げよう。まずは重慶へ逃げてそこで募兵し、敵を防ぐのだ。」
 そうして、雲陽城を棄てて、昼夜を分かたず、重慶へ逃げ込んだ。そこで告知を出して募兵すると、官庫を開いて兵卒達へ分け与え、その志気を鼓舞したのだった。
 だが、周の勢力が日々衰えていることは誰の目にも明らかで、人心は既に周のもとから去っていた。数日経ったが、僅か三千余の兵卒しか集まらなかった。彼等は新兵で訓練もしていない。
 それに、重慶の官庫にも限りがある。成都の兵糧は、談洪、鄭蛟麟にも送らねばならず、力は既に尽きていた。楊嘉来へは、兵糧をなかなか遅れない。この逼迫した時に兵糧も不足して、軍心は更に離散した。
 その上、徐治都は行く先々で檄文をばらまいていた。それらは周の国運が尽きたことを宣伝し、速やかに降伏することを軍民へ勧めた。こうして、人心はますます動揺したのである。それに加えて、徐治都の大軍は着実に近づいてくる。遠近はパニック寸前だった。
 この時、徐治都が率いているのは一万人。しかし、彼はそれを四・五万人と宣伝していた。そうやって重慶目指して進軍すると、通過する州県は、次々と降伏してきた。
 楊嘉来は、心中大いに焦った。だが、彼に何ができただろうか?軍士を励まして、決死の覚悟で重慶を守り抜くことを誓うことが手一杯だった。しかし、既に兵糧さえ欠乏し始めた兵卒達は、その気になれなかった。彼等は、ヒソヒソと語り合った。
「食い物さえよこさないでよ、ただ命がけで戦えって命令ばかり。冗談じゃねえぜ。」
 こうして、兵卒達は心中の不満が怨みへ変わり始めた。
 楊嘉来も、兵卒の不満が判っていたので、噂を流した。
「成都から兵糧が運ばれている最中だ。やがて届くぞ。」
 だが、兵卒達は信じなかった。
 楊嘉来はとうとう、私財を擲って資財を整えた。それだけではなく、部将達からも万余金を借り受けて、兵卒達へ銀を渡したのである。新兵達は、この苦心に感激した。しかし、古くからの兵卒達は、常日頃の苛酷とも言える厳格な軍法に不満を鬱積させており、この程度では不満は解消されなかった。それに、これでは単なる一時しのぎに過ぎない。時が経つと、再び糧食が不足してきた。こうして、兵卒達の怨望は、再び燃え上がった。ただ、新兵と旧兵の間には、心情の違いが多々あった。
 このような時、敵軍が来襲したのである。
「徐治都の大軍が来たぞ!」
 これを聞いて、楊嘉来の古くからの部将さえ、数十名が逃げ出した。部将の張永言は激怒して、二人ほど斬り殺した。これによって、一罰百戒を狙ったのだ。しかし、この暴挙に、軍士達の怒りが爆発した。兵卒達はたちどころに張永言を斬り殺すと、大半が散り散りに逃げてしまった。
 楊嘉来にも、もう、行く末が見えた。嘆息した時、彼はハラハラと涙を零していた。そして、部将の李長輝へ言った。
「何の面目あって、成都へ戻れようか!主将の我は、もはや死なねばならぬ。だが、君は死んではならん。君は敗残兵を取りまとめ、成都へ戻って羅森殿へ事の次第を報告しろ。急げ!」
 李長輝は、涕泣して拝命した。楊嘉来はしばらく退出するよう李長輝へ命じ、首をくくって死んだ。
 退出を命じられた時、それが何を意味するか李長輝には判っていた。だが、どうしてそれを阻めようか。さほど時も経たないうちに、楊嘉来の側近達が、その死を告げに来た。李長輝は、思わず嘆息してしまった。そして、その屍を収容したのだった。
 楊嘉来は、遺書を残していた。
「兵糧が欠乏した咎は、全て自分の采配にある。軍士達に罪はない。」と。
 李長輝は、旧来の将兵達を好きな所へ去らせた。ただ、ここで新たに募集した兵卒達は、楊嘉来を慕っていたので、彼等四千人だけを率いて、李長輝は成都目指して落ち延びていった。
 二日後、徐治都の軍が到着し、重慶は抵抗もせずに開放された。徐治都はここで三日間兵を休めると、成都目指して進軍を続けた。 

 さて、話を談洪へ戻そう。
 彼は趙良棟を撃退した後、心中安堵した。
「趙良棟は、敵の精鋭を率いていた。それでさえ、この陽平関を陥せなかったのだ。ましてや、巴西と寧きょうは、ここよりも険阻。敵軍が攻略できるわけがない。」
 そこで、この戦勝を成都や他の軍へも告知し、各軍力を合わせて敵を防ぐよう呼びかけたのだった。
 だが、なんぞ知らん。巴西では、既に陳旺が降伏していたのだ。陳旺は部下の手に掛かって殺されたが、その部下達も敵を防ぐことはできず、王進宝は巴西を占領してしまっていた。
 その王進宝は、張勇と趙良棟が足踏みしていることを知り、彼等の援護をしようと、兵を西へ向け、寧きょうの背後へ出た。
 その頃、周将鄭蛟麟は、張勇と対峙していた。張勇は十余回も攻撃を掛けたが、その度に、鄭蛟麟から撃退された。だが、そこへ王進宝が駆けつけてきたのだ。
 王進宝は背後からこれを攻撃する。張勇も又、前方から力攻めに攻めた。鄭蛟麟は王進宝の背後からの攻撃を防ぎきれず、軍中は大いに乱れた。張勇はこれに乗じて攻めまくったので、とうとう鄭蛟麟は大敗してしまった。
 鄭蛟麟は手勢を纏めると、剣閣へ逃げ込んだ。ここを守るとともに、広元の要道を閉ざしたのである。そして、談洪と羅森へ流星馬を飛ばして巴西陥落を報告し、守りを固めた。 清軍は寧きょうを占領すると、張勇、王進宝協議のもと、まず趙良棟へ流星馬を飛ばした。
”王進宝は剣閣へ據った鄭蛟麟を牽制し、張勇は陽平関へ向かう。その時、前後呼応して談洪を攻撃しよう。”と。
 この時、趙良棟は談洪に敗北したばかり。なんとか進軍の妙手はないかと考えていたところへこの知らせを聞き、渡りに舟と喜んだ。
「なんとゆう幸運だ!腹背から敵を受けたら、談洪とて支え切れまい。これは、ただ陽平関を奪れるだけではないぞ。西川も吾が掌の中だ!」
 こうして、全力を挙げて進攻した。
 対して談洪は、連日堅固に怠りなかった。そんなある日、陳旺が投降しようとして部下から殺され、王進宝が巴西を占領したとの報告が入った。
 談洪は地団駄踏んで嘆息した。
「四川は終わりだ!」
 左右が訳を問うと、談洪は答えた。
「我が国は、陳旺を軽々しく扱ってはいなかったとゆうのに、こんな変節をしてしまった!これが一つ。
 巴西を陥した王進宝は寧きょうへ進軍する。そうして張勇と呼応したら、どうして鄭蛟麟が支えられようか!寧きょうが陥れば、次はここだ。そうなればこの陽平関も守りきれないぞ!この三路が頓挫したら、趙良棟、王進宝、張勇は同時に進軍する。そうなれば、四川は終わりだ!」
 言い終えるや、嘆息が止まらなかった。と、そこへ流星馬がかけこんだのである。
「趙良棟が大軍を率いて来襲しました。」
「来たか!それならばきっと、張勇や王進宝と呼応しているに違いない。こうなったら、ただ励むしかない!」
 そうして防戦の指揮を執ったが、そこへ急使が駆けつけた。
「敵将張勇が、大軍を率いて背後から来襲しました!」
 この時、兵卒達は震動していた。
”これでは、もう守ることはできない。”
 そう判断すると、談洪は自刎しようとしたが、左右が慌ててこれを止めた。
「将軍が死なれたら、それこそ四川は終わりです。丈夫が御国のために働くのですぞ!決して死んではなりません!」
 談洪は疲れ切っていた。その上、眼下にこの光景を見て大局の崩壊を予見した。そして、縄目の恥を受けることを嫌い、自刎しようとしたのだ。左右から止められてようやく自殺は止まったものの、戦局は挽回のしようもない。そこで手勢を率いると陽平関を棄てて逃げた。
 彼等は一晩中駆け続けて、綿竹までたどりついた。そこで敗残兵をかき集め、更に新兵を募集して訓練し、成都の声援となったのである。
 陽平関を占領した趙良棟は流れに従って進み、張勇、王進宝と合流した。
 今後の進軍について協議すると、張・王二将は成都へ直進したがった。それに対して趙良棟は、略陽から龍安へ赴き、談洪と成都との通行を遮断しようと言った。
張勇は思った。
”我が軍の主将は趙良棟だ。さて、今、成都を攻撃すれば、掌を返すように簡単に陥落できる。その功績は主将へ譲るべきではないか?”
 そこで、言った。
「どうか、将軍が成都を攻撃して下さい。我は手勢を率いて談洪と戦いましょう。」
 すると、趙良棟は言った。
「卿の好意はよく判る。しかし、これは全て公事である。一身の手柄など度外視して掛かるべきもの。我は談洪を牽制するので、卿と王進宝はまず鄭蛟麟を撃破し、そのまま成都へ向かえ。あそこを陥せば、敵軍は志気消沈する。」
 張勇は反論しなかった。
 趙良棟は、この戦勝を漢中へ報告し、孫思克の軍を寧きょうまで進軍させた。そして、近隣から兵糧を集めさせると、それを元手にして、大軍を以て南下を開始した。 

 張勇と王進宝は、左右二道から剣閣目指して進んだ。そして、その途上、彼等は人心の慰撫に務めた。これは、周の兵卒から戦意を喪失させるためである。また、このおかげで、人民からの抵抗を受けずに進軍することができた。こうして、彼等の軍はたちどころに広元と昭化へ到着した。
 この広元、昭化には、大した兵力がなかった。そこで、守将達は鄭蛟麟へ救援を求めていたのだが、張勇・王進宝の進軍は迅速で、彼等の救援軍がつく前に到着したのだ。二城の兵卒は蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、清軍は戦いもしないでこの二城を占領した。 彼等は、ここで暫く兵馬を休めた。そして、戦うに先立って、鄭蛟麟へ降伏を勧告したのである。
”いたずらに百姓を傷つけてはならない。”と。
 だが、鄭蛟麟は激怒した。
「この俺に変節しろと言うのか!」
 彼は、勧告書をズダズダに引き裂くと、使者を追い返した。
「そうか。鄭蛟麟には降伏の意志がないのか。」
 張勇、王進宝は、剣閣目指して進軍を開始した。
 ところで、広元・昭化の二城は、剣閣の出城とも言うべきものだった。この両城を失うと、剣閣は孤立してしまう。
”これでは守り難い。”
 鄭蛟麟とてそれは判ったが、あくまでも険に依って固守しようと決意し、羅森へは兵糧を催促した。そのような折、報告が入った。
「張勇・王進宝の大軍が来襲しました!」
 鄭蛟麟は、各隊へ要道を守らせた。
 部将の呉応祺が言った。
「剣閣は既に孤立しております。ここは撤退して成都を守った方が宜しいかと。」
 すると、鄭蛟麟は言った。
「成都まで退却すると、ますます孤立してしまう。そこで敗北したら成都は陥落だぞ。
 敵は三路の軍勢を集めている。それに対して我が軍が一カ所に固まれば、益々敵から包囲されやすくなってしまうぞ。そうなれば、成都は外援から閉ざされてしまうではないか。それはとても、良策とは言えん。」
 まさにその時、部将の李本良がやって来た。
「兵糧が不足し、兵卒達が心変わりを起こしております。昨晩、末将が巡回しました折、兵卒達が恨み言を述べ合っているのを聞きました。」
 それを聞いて、鄭蛟麟はありったけの兵糧を開放した。そして、剣閣の富豪達から借財しようとしたが、これに応じる者は一人も居なかった。焦燥した鄭蛟麟は、立て札を立てて兵卒達へ告知した。
 その立て札には、四つのことが書いてあった。 

 一つ、成都から兵糧が到着した。
 二つ、これから何が起ころうとも、我は兵卒達と生死を共にし、甘苦を同じくすることを誓う。
 三つ、敵軍など畏れるに足りない。陳旺さえ裏切らなければ、奴等は手も足も出なかったではないか。
 四つ、敵軍は、投降した兵卒を虐待するぞ。牛馬のようにこき使われて、挙げ句の果ては、精根尽き果てて死んで行くのだ。 

 これによって、兵卒の心を一つにし、その志気を鼓舞しようと思ったのだ。実際、この立て札によって、兵卒の動揺は、すこしは落ち着いた。
 その頃、進軍する張勇・王進宝軍に、人々は恐れおののいていた。この大軍は、実数三万、号して七万。威風堂々進軍しながら、道々布告した。
「早めに投降した者は、過去の罪を問わぬばかりか、褒賞として銀を十両授けよう。しかしながら、蒙昧悟らず、我が行く手を阻む者が居れば、まずその家族を罰するぞ!」
 元来、鄭蛟麟麾下の兵卒達は、大半が広元、寧きょう出身だった。だから、この風聞が伝わるやいなや、兵卒達は家族を思って煩悶した。それに加えて、兵糧は欠乏する。
 翌日、成都から兵糧が届いたので、鄭蛟麟は、これを営中へ分配した。だが、人馬は多く、送られた兵糧は余りにも少なかった。鄭蛟麟は、関の武将達へ必死になって大義を説き、私財を擲って兵卒へ与えるよう命じた。こうして銭米をかき集めたが、それでも兵卒達の一月分の給与にしかならなかった。この時、鄭蛟麟の兵卒達は、二ヶ月分の俸禄が遅配されていたのだ。兵卒達は、当然怨んだ。これに対して、鄭蛟麟はただ、言葉を尽くしてなだめることしかできなかった。そして、この不穏な空気の中で、清軍が到着した。
 この時、遠近から無責任な噂が流れてきた。
「談洪は既に没したそうだ。」
「成都もついに陥落したと!」
 軍民は、一日に何度も驚く有様。だから、張・王二軍の姿を見ると、民は逃げ散り、兵卒は闘志をなくした。
 張・王二軍は剣閣の前に陣を張った。これに対して鄭蛟麟は、一気に勝負をかけようとしたが、何度号令を掛けても、兵卒は前へ進まなかった。それでも鄭蛟麟は、呉応祺を先鋒に任じ、出撃を命じた。兵卒達は命令を聞かない。呉応祺は激怒し、たちどころに数名を斬り殺した。だが、この程度では軍士を押さえることはできず、兵卒達は勢いに乗って喧噪を挙げた。諸将もこれを止められない。遂に、兵卒達は逃散した。
 この時、張・王二軍が攻撃を開始した。この風景を見て、鄭蛟麟は嘆息した。もはや形勢の挽回などできない。ハラハラと涙を零すと、剣を抜いて自刎した。
 鄭蛟麟は、積年呉三桂に付き従い、建てた手柄は数知れなかった。大局に危機が迫るに及んで剣閣まで退いたが、それでも死力を振り絞り、危局を挽回しようとこれ務め、遂には自らの剣にて身を終える。ああ、呉三桂へ忠を尽くしたと言えるだろう。だが、呉氏の天時人事は既に尽きていた。一人の鄭蛟麟に、一体何ができただろうか?
 鄭蛟麟が自刎すると、部将もやりようが無く、その部下と共に逃散した。ただ、呉応祺のみ、敗残兵をかき集めると、剣閣を棄てて、成都へ逃げたのである。
 こうして、張勇・王進宝は剣閣を占領した。同時に、趙良棟も、兵を率いて綿竹へ赴いた。 

 剣閣陥落の報は、談洪のもとへも届けられた。
「こんなにも、敵兵が神速だとは!これでは、綿竹も守り切れぬぞ。」
 そうして、彼は祟慶の一帯まで撤退した。
 祟慶というのは、成都の下流に当たる。だから趙良棟は、祟慶よりも成都を先に攻略するべきだと判断した。そうすれば、羅森も談洪も拠点を失い、四川は一鼓で占領できる。そこで、張勇・王進宝と合流し、成都へ向かった。この堂々たる大軍で、一気に成都を陥落させる腹づもりである。
 さて、繰り返すようだが、四川は呉三桂の本拠地である。だから図海は、その勢力が絶大であると危惧していた。生半可ではこれを陥せない、そう思って、彼は孫思克にも出陣を命じた。孫思克は、三千騎を漢中に留め、寧きょうから四川へ入って、張勇の声援となった。
 一方、重慶府を占領した徐治都は、勢いに乗って前進した。沿線の民が次々と降伏した為、彼等は抵抗も受けずに宝陽まで進軍したのだ。
”ここまで来たら、成都陥落の功績は、諸将で分かち合うべきだ。”
 そう判断した趙良棟は、張勇・王進宝・孫思克と共に、四路から成都へ向かった。
 羅森のもとへは相継いで敗報が届いていた。陳旺の寝返り、談洪・鄭蛟麟・楊嘉来の敗北。それを聞く度、彼の心胆は張り裂けた。
 楊嘉来の陣没を聞き、重慶へ派兵しようと思った矢先に、鄭蛟麟の凶報が届き、遂には五路から敵軍が迫る。人々はパニックを起こし、羅森は幕僚を召集して軍議を開いた。
 この時、尚書の王緒は成都へ向かっていた。その経緯を少し述べよう。
 呉三桂が死ぬと、皇位を継承した王世蕃は、王緒を大学士に任命した。やがて、王屏藩が死ぬと、夏相国は、敵軍が必ず四川へ集中すると判断し、四川へ入るよう王緒へ命じたのである。
 王緒が成都へ到着した時、談洪等は既に敗北していた。そこで彼は、成都を棄てて嘉定へ逃げ、貴州との連絡を保つよう進言した。すると、羅森は言った。
「それはまずい。成都は四川の首都。ここを棄てるとゆうことは、四川全土を失うとゆうことだ。それにしても、成都を棄てて進取するというのなら、まだ話は判る。だが、その計略は、単なる撤退に過ぎない。その上、嘉定では、いつまで守れるかも判らない。もしも敵軍が成都を占領したならば、ここを根城にして更に進軍するに決まっている!」
 言い終えて羅森は、成都の死守を改めて心へ誓った。
 そのような折、敵軍は進撃してきた。趙良棟を始めとする諸将が、四方から成都へ群がり寄ってきたのだ。
 羅森は人馬を率いて城壁へ登った。しかし、羅森一人蛮勇を奮っても、将校や軍士は「成都は終わりだ」と噂し合っていた。そこで、呉応祺が羅森へ言った。
「籠城とゆうのは、古来から、援軍が期待できるときに行ったものですぞ!今、談洪を始めとする諸軍は敗北しております。どうして援軍が望めましょうか!にもかかわらず籠城して、敵が撤退するのを待とうなど、そんな道理などございません。況や、敵軍は既に寧きょう、剣閣の通路を開いて成都へ進軍しているのです。その軍は精鋭、しかも大軍です。この状態で成都を固守するなど、自殺行為です!」
 聞いて、羅森は激怒した。
「お前は、我が軍の志気を乱すつもりか!たとえ賊と差し違えようとも、我はこの城をすてはせぬぞ!」
 すると、王緒が言った。
「既にここまで追い詰められております。この上は、雲南から援軍を連れてくるしかありません。某が決死隊を率いて、城を抜け出しましょう。」
 羅森は頷き、王緒へ千人の兵卒を与えて、雲南へ赴かせた。
 この時、趙良棟は成都を包囲しながら、松南路だけは開放していた。逃げ道を一カ所だけ開けておけば、羅森等はそこから逃げ出す。そうやって敵軍が逃げ出した後に、成都を占領するつもりだった。そうゆう訳で、王緒は松南路から脱出することができた。
 彼等はそのまま雲南へ向かったが、途中、談洪が祟慶に布陣していることを知り、一隊をそちらへ差し向けて、成都救援を要請した。
 それ以来、羅森は決死の覚悟を益々固めた。だが、敵方は五陣揃って、南懐仁の新式大砲を装備していた。この西洋砲が一度うなれば、城壁は忽ち吹っ飛ぶ。周軍必死の防戦も虚しく、両日の戦いのうちに、外城は陥落してしまった。
 趙良棟は諸将を率い、勝ちに乗じて内城を攻撃した。羅森は兵を率いてこれを死守する。この時、城内の民は恐々としていた。「談洪が援軍に駆けつける。」と、羅森が宣伝していたが、その姿はいっかな見えない。それに、兵糧の備蓄は見る見る減って行く。城内の兵卒達の心境は、次第に変わっていった。
 羅森は、ただ成都城を死守することだけを考えていた。敵軍は、派手に大砲をぶっ放し、外城が陥落した時、大勢の周兵が死傷した。そしてとうとう、内城から抜け出して趙良棟のもとへ降伏しに駆けつける兵隊が続出した。
 当時、趙良棟は敵の援軍が駆けつけることを危惧していた。だから、降伏勧告の文書を造ると、矢文に巻いて城内へ多数射込んだのだ。そうゆう訳で、羅森の部下は降伏しやすかった。
 ところが、ここに至っても、羅森はまだ、状況の変化に気がついていなかった。兵卒の指揮は益々厳しい。兵卒の怨みは鬱積した。
 そんな中で、趙良棟は内城の攻撃を開始した。するとその時、北門を守備する兵卒達が叫び声を挙げると、一斉に城門を開いて、趙良棟軍を迎え入れたのである。
 突然の開門に、張勇が真っ先に入城した。そして、諸将がこれに続き、成都は遂に陥落したのである。続いて、徐治都が東門を破り、入城した。
 羅森は、西門を巡視していた時、これを知った。
”もはや、打つ手はない。”
 彼は、本当は逃げ出して、談洪のもとへ駆け込みたかった。しかし、諸将の意見を無視して死守に固執し、このような事態に陥られたのは、彼である。いまさらどの面下げて他人と相対すればよいのか?恥を畏れる余り、剣を抜くと、羅森は自刎した。
 羅森が自殺すると、その指揮下にあった将軍以下の官百余員が投降した。趙良棟は彼等を慰撫し、併せて兵卒達も招降した。更に、民への暴行略奪を禁じ、成都を占領した。そして、この戦勝を朝廷と図海へ報告したのである。 

 成都陥落の報を受け、北京政府は沸き上がった。
「この際、勢いに乗って雲南まで進撃するべきだ。」
 閣僚達の意見は一気にまとまり、新たな作戦と人事が下された。
 張勇は、成都を占領・鎮守すると共に、真州へ進軍する諸軍の為に糧道を確保する。徐治都は四川の各郡県を収撫する。孫思克の一軍は、成都付近に逗留し、四川鎮圧の助けとなると共に、談洪の再起を防ぐ。そして、趙良棟を雲南総督に任命し、兵を率いて入雲させた。王進宝は平南将軍に任命し、同じく雲南へ向かわせた。
 又、趙良棟、王進宝、張勇は成都奪還の功績で侯爵へ進封され、孫思克、徐治都は伯爵に封じられ、彼等の志気を鼓舞させた。
 嗚呼、「一将功成りて、万骨枯る」とは、まさにこの事か!
 趙良棟が兵を率いて成都へ入城した時、軍陣は黒白を分かたずに数万人を殺した。又、呉三桂の宮殿へ火をはなった為、多くの民家が類焼した。この火事で焼け死んだ男女は数百人に及び、兵卒に殺された住民に至っては数え切れなかった。男となく女となく、老となく幼となく、無差別の虐殺。逃げまどう民の悲鳴は、天に轟き地を揺るがせた。
 趙良棟が暴行略奪禁止の軍令を下し、ようやくこの暴挙に終止符が打たれ、民も安堵を取り戻した。
 それからすぐ、趙良棟は雲南へ向かった。補佐する王進宝が迅速を主張した為だ。
「兵は神速を貴びます。今回の敵の挫折につけ込んで、一気呵成に攻め立てるのです。敵に元気を回復させてはなりません。夏国相と言い、胡国柱と言い、馬宝と言い、皆、仰天動地の才覚の持ち主。再起したなら手が打てません。もしも時間を掛けたなら、勝敗が判らなくなりますぞ。」
 趙良棟もこれに同意し、即座に起兵すると、南下を開始した。
 ところで、談洪はどうしていただろうか?
 成都の危機を聞きつけるや、彼はすぐに兵を動かして救援に向かったが、成都へ到着した時には、既に陥落していた。そこで、急いで洪雅まで撤退し、ここに駐屯したのである。
 こうして、四川の大半は鎮定された。周軍は雲、貴両省へ撤退した。
 浙江・福建に至っては、耿王は帰順してしまったのだ。呉三桂の領有していた浙江・福建の勢力は、全て失ってしまった。残存していた余党は、清軍の度重なる討伐で一掃され、平定されてしまった。
 ここにおいて、四川を攻略した趙良棟・張勇・王進宝、湖省の大将軍蔡敏栄・将軍占穆・キジコ、広西の貝子塔頼及び巡撫傅烈等は、こぞってその軍を雲・貴方面へ向けた。 

 では、ここで雲・貴方面の周軍へ目を向けよう。
 展龍関、楓木嶺が相継いで陥落してから、周の馬宝・胡国柱は貴州へ撤退した。
 胡国柱は言った。
「前軍は利を失い、兵卒には闘志がない。その上、四川の消息も分からない。ここは、貴陽まで撤退してここを守り、兵卒の志気を養わせるのが一番だ。」
 すると、馬宝が言った。
「敵が侵攻しているのに、我々は四川への援軍さえ出せないのですぞ!この状況で、志気を養えますか?我が軍が撤退すれば、敵を無傷で進軍させるだけではありませんか!こうなったら、今守っているところを全て棄て、全軍を挙げて進軍するべきです。もし、それで一勝すれば、兵卒の心を鼓舞させることもできましょう。それに、近来の頓挫は、全て守りを失ったことから来ており、戦って負けた訳ではありません。我が軍は戦争が巧く、守備が苦手なのです。これは、起事以来、一貫してそうです。ですから、守りを捨てて戦うべきです。ここで守りを固めても、困窮して行くのを座視するに過ぎません。それならば、戦うべきではありませんか!」
 すると、諸将の大半がこれに賛同したので、胡国柱も反論しなかった。
 こうして、馬宝は進軍を決断した。この時、周軍は清渓、鎮遠、龍泉一帯に逗留していた。馬宝はこれらの人馬を率い、胡国柱を後軍として、龍泉から進軍した。まずは、印江沿いに南進し、永綏まで進む。ここから百里程先には、既に清軍が進駐していた。
 この土地は湖南の僻地ではあったが、貴州・四川・湖北へと繋がる交通の要衝。そこで、清軍はかなりの兵力でここを押さえていた。都統の伊里布、副都統の哈克山が城外に陣を布き、前鋒統領の硯岱は城内へ屯営していた。その兵力は三万を越えた。これは、顎・川・湘・黔各州への援軍も睨んでの兵力である。
 しかし、清軍は勝ち戦が続いている限り、援軍の出番はない。展龍関、楓木嶺の戦勝以来、彼等の志気はしっかり緩みきっていた。
「この敗北だ。奴等が進軍する筈がない。」と。
 そこへ、敵襲の報告である。硯岱はこれを一笑に付した。
「一度ならず二度までも、周軍は大敗を喫して貴州まで撤退したのだ。それが湖南へ攻め込んだだと?何でそんなことをするものか!」
 だが、一、二日の間に続報が次々と入って来た。硯岱は、慌てて諸将を集めると軍議を開いた。そして結局、都統の伊里布、副都統の哈克山が城外に陣を布き、前鋒統領の硯岱は城内へ屯営することとなったのである。その傍ら、長沙と辰州へ急使を飛ばし、救援を求めた。
 翌日、馬宝と胡国柱が到着した。彼等は、軍鼓を鳴らして清軍する。人馬数万。鬨の声は遠近を震わせた。
 胡国柱は、まず都統伊里布の諸営へ攻撃を掛けた。対して、伊里布と哈克山が一斉に出撃し、明け方から昼に掛けて混戦状態となった。
 そこへ、忽然として馬宝が攻め込んだ。彼は、伊里布軍の横合いへ突撃する。この時伊里布軍の兵卒達は、一つには戦闘に疲れ果てており、二つには衆寡敵せず、三つには横合いに攻撃を受けたこととて、一支えもできずに潰れ去った。こうなると哈克山も支えきれず、両軍共に潰走してしまった。
 伊里布がまず、乱戦の中で戦死した。その部下は、散り散りに逃げ去った。馬宝と胡国柱は勢いに乗って攻撃し、哈克山は、後ろを向いて逃げまくった。この時、兵卒達の大半が負傷し、多くは馬宝軍へ降伏した。
 馬宝は、城内から討って出られることを畏れ、城の間近まで兵を進めて威圧した。それで、哈克山は城内へ逃げ込むことができず、城を捨てて逃げ出した。すると、そこへ胡国柱軍が襲いかかってきた。そして、哈克山は胡国柱の槍に倒されたのである。
 主将を一時に失って、清軍は全兵卒が散り散りに逃げた。馬宝と胡国柱は勢いに乗って城を攻撃したのである。
 この時、簡親王は長沙に居たが、救援を求められても赴こうとしなかった。辰州の穆占も、敢えて動かない。馬宝は遂に永綏を包囲した。硯岱は、ただ城を死守するだけだった。
 これこそ将に危急の時。だが、どうしたことだろうか?馬・胡両軍は、わずか二日包囲しただけで、撤退してしまった。