第三十六回   趙良棟、陽平関にて大いに戦い、

        楊嘉来、くい州府へ敗走する。

 

 図海の抜擢により、趙良棟は、張勇、王進宝と共に四川攻略へ向かうことになった。
 ところで、趙良棟が天津総兵だった頃、張勇も王進宝も既に総督だった。つまり、この二人は、もともと趙良棟よりも位が高かった。それが今回、趙良棟は突然大将となって、この二人の上に立つことになったのだ。これでは、張勇も王進宝も収まりがつかないだろう。
 図海はそれに思い当たり、再び奏上して、趙良棟へ定遠侯の、張勇へ靖逆侯の、王進宝へは平遠侯の爵位を賜下して貰った。こうして、三人とも同列となった。張勇も王進宝も、趙良棟の節制を受ける必要はなくなったのである。ただ、戦うにしても守るにしても、三人協議して連携を取るように訓諭した。
 さて、訓諭を受けた三人は、進軍について協議した。漢中から、どの道を経由して四川へ入ればよいか?
 趙良棟は言った。
「やはり、三道に分かれて進軍するべきだ。もしも一団となって進めば、敵も集結して我等を防ぐことができる。」
 張、王もこれに同意した。そして、張勇は褒城から寧きょうへ向かい、王進宝は直逾山から巴西へ向かい、趙良棟は略陽から平陽関へ向かうことになった。
 趙良棟は、図海へ報告した。
「四川は広大な土地です。我が軍が敵国深く攻め込むのは、危険が大きゅうございます。それに、四川は呉三桂の根拠地。誠、簡単に勝たせてはくれますまい。この兵力では心許ない事です。どうか、特別に援軍を派遣し、又、一軍を川東にて暴れ回らせ、我等の声援となって下さい。」
 図海は、もっともな話と納得し、左右へ言った。
「趙良棟は慎重に事を進めている。必ずや四川を攻略するに違いない!これは助けぬ訳にはいかん!」
 そこで、湖広提督の徐治へ一万人の兵を与え、宜昌から西進して、くい州を襲撃し、趙良棟等の東顧の憂をなくすよう命じた。更に、図海は四路から大軍を発し、都合六・七万の大軍が、成都目指して一斉に進軍した。

 一方成都では、呉三桂が死んだ後、談洪、羅森、鄭蛟麟の三人が中心となって動いていた。ようやく傷が癒えた談洪は、王屏藩と呉之茂の戦死と漢中陥落を知り、このままでは図海が遠からず進軍してくると考え、羅森等と協議した。
 羅森は、もともと四川の正撫だった。呉三桂が入川した時、城を挙げて降伏したので、上柱国大学士に任命された男で、呉三桂の出兵や王屏藩の軍へ、兵糧を欠かさずに送り続けていた。機略に富んだ為人で、今回談洪から協議されて、まず答えた。
「秦から入蜀する道は、険阻だ。守るのも容易い。ただ、敵が湖北の通路を通って攻め込むのが恐ろしい。ここは守りにくい!それに、敗戦の直後だから、民衆の心も動揺している。辺域で守戦していると、国内で動乱が起こるかも知れない。これだけは防がなければならない。」
 すると、鄭蛟麟が言った。
「今のところ、まず出征と留守の両軍に分け、別に能将を選んでくい州の要道を押さえさせて湖北からの侵略に備える。これで万全でしょう。」
 談洪は、その計略に同意した。そこで、羅森を成都へ留め、各々の砦へは防備を厳重にするよう伝令を飛ばした。すると、辺境の官吏から、たちまち流星馬が飛んできた。
「図海は、既に三路に別れて秦から蜀へ入っております。趙良棟は陽平関から、張勇は寧きょうから、王進宝は巴西から。この三軍とも、兵力は判りませんが、勢力は甚大です。至急、救援を派遣して下さい。」
 幾ばくも経たないうちに、各路から同様の急使が駆けつけてきた。
 談洪は言った。
「事態は急を告げた!我々も急いで出陣せねば!私と鄭蛟麟とで、趙良棟と張勇へ当たろう。西は険阻な地形だから、王進宝の防戦は現地へ任せられるだろう。」
 羅森はこれに同意し、談洪へ二万の兵を与えると陽平関へ急行させ、鄭蛟麟には一万の兵を与えて寧きよう方面を撫守させた。又、総兵の陳旺へ、三千の兵を与えて言った。
「巴西へ急行せよ。巴西は、険阻な地形だ。軽々しく戦ってはならない。険阻な地形で守り抜けば、王進宝も退却するしかあるまい。」
 こうして、周も三軍が出発した。又、くい州は湖北からの入り口に当たる。そこで、ここの守りに総兵の楊嘉来を起用した。彼は、湖南が陥落した後、四川へ移動していたのだ。 派兵の手配が済むと、羅森は兵糧の手配と補給に勤しんだ。そして、人馬を募集して、日々訓練に余念無かった。

 話は変わって。趙良棟、王進宝、張勇が三路から進軍し、その声勢は甚だ盛ん。皆は風に靡くように服属した。
 談洪が出陣すると、その途上にも辺官からの警報が次々と届いた。談洪は事態の急を知り、昼夜を分かたず急行し、陽平関へ到着すると、即座に守備を固めさせた。そして、部隊を派遣して、要所要所へ布陣させた。それらは山に依り、川に依り、しかも各営毎に連携を密に取らせた。又、水陸の糧道が絶たれたときに備え、各地に井戸を掘らせて、水を確保した。二千人の兵に屯田させて、持久戦の備えも宣伝したのである。ただ、これによって、陽平関の守備は手薄になってしまった。
 部将の胡念恩が進言した。
「我等は陽平関の守備に来たのに、将軍は大半の兵を関の外へ布陣してしまいました。その意図が飲み込めません。もしも将軍が戦うつもりなら、井戸や屯田は兵力を損耗させるだけではありませんか!将軍のこの策は、一体どうゆう事でしようか?」
「城ではなく、険阻な地形で守る。関にしても、又、同様だ。もしも我等が全兵力を陽平関へ結集すれば、敵は攻撃を掛けては来るまい。しかし、じっくりと時間を掛けられれば、どんな要害も陥落する。展龍関や楓木嶺がそうではないか?胡国柱や呉国賓といった能将さえ、遂に守りきれなかった。もし、我等が籠城に出れば、敵は百方手を尽くして我等を困窮させる。だから、我々は守備を主力としながらも、敵を攻撃する気構えを見せるのだ。」
 それを聞いて、胡念恩は感服した。
 布陣が完了すると、談洪はその布陣を鄭・王二将へ伝えた。彼等もそれに倣って布陣し、命を懸けて守り抜くことを誓い合った。
 さて、趙良棟の一軍は、略陽から進軍していた。
「陽平関が守備を固めてしまっては、ちょっと手が出せん。この行軍は急ぐぞ!」
 こうして、彼等は急行した。
 陽平関の手前五十里で斥候を放つと、彼等は帰ってきて報告した。
「既に守備が固められています。守将は談洪。」
 聞いて、趙良棟は憂慮した。
「談洪は、王屏藩の前軍だったな。驍勇で名高い猛将だ。その行軍も、何と素早いことか。堅固な陽平関へ勇将の談洪が入れば、撃破するのに、相当な被害を被るぞ。」
 そこで、諸将を集めて協議した。
「談洪は、関を守らずに、険阻な地形へ守備を固めた。兵法の要をついている。それに、敵の各塁にしても、理に適って分布している。だが、感心ばかりもしていられない。吾はこれから、談洪の中営を攻撃する。敵の応戦を見て、後の計略を決めよう。」
 そこで、全軍を五隊に分けた。そのうちの一陣で大営を固守する。二陣で談洪と戦う。残る二陣は左右翼に別れて、敵の襲撃を防ぐ。談洪が十数に別れて屯営しているので、両軍が戦っている時に、横合いから攻撃されることを恐れたのである。
 戦陣が整うと、さっそく出発した。片や談洪も、趙良棟が攻撃を仕掛けてきたのに気がつき、各営へ守備を固めるよう命じた。趙良棟が退却する時、その背後を衝く為である。そして、談洪も、外に兵塁を築いて固守を図った。
 こうして、趙良棟の大軍が来たが、周軍は出撃しなかった。趙軍が攻撃を掛けても、矢も弾も周の兵塁には届かず、周兵は、ドッと笑った。趙良棟の兵卒達は激怒して勇を振るって進軍した。しかし、少しでも周塁へ近づくと、談洪は槍を投げつけさせたので、趙軍の兵卒は、いたずらに負傷するだけだった。
 趙良棟は全軍を撤収すると、うち案じた。
”談洪の兵卒は、大半が関の外に出て、険阻な地形を利用して塁を築いている。これでは、我が軍は陽平関へ近づくことさえできない。これは談軍を撃破するのは難しいぞ。ましてや、陽平関を陥すなど、尚更容易ではないことだ。”
 そこで、穆占が展龍関を破った戦法に学ぶことにした。つまり、軍士を散らして小路を探させたのである。だが、どの方面の小路も、周兵が、或いは二・三百人、あるいは四・五百人で守備していた。道が探せなかっただけではなく、探索に出た兵卒達は、事毎に周兵の攻撃を受けて害されてしまった。
 こうして数日が経った頃、部将の米光元が言った。
「各小路を守る敵兵は、たかだか数百に過ぎません。我等が大軍で力攻めすれば、敵を皆殺しにして進むことができますぞ。」
「いや、あの小路を守る敵兵達は、孤立していない。我等が大軍で攻撃したら、回りから忽ち援軍が駆けつけて、敵兵は結集してしまう。それに、敵は険阻な地形を利している。実に、寡を以て衆を防げる布陣だ。少数を派遣したら全滅するし、小路へ大軍を派遣したら、却って動きが執れず、大きな痛手を蒙りかねない。」
 すると、総兵の何進忠が言った。
「それでは、一路を攻撃するふりをしましょう。もしも談洪が救援に向かわなければ、そのまま、小路から関の背後へ回り込めばよいのです。そして談洪が救援に向かったなら、我等は大軍で関の前へ攻め寄せましょう。この時、談洪が軍を返したら、我々は逃げるふりをして誘き寄せ、決戦を挑みますし、談洪が軍を返さなければ、そのまま関を攻め落としましょう。」
「それは善い!」
 そこで、趙良棟は、全軍を四つの大隊に分けた。第一隊は、五千人。これで大営を守り、敵の襲撃を防ぐ。第二隊も五千人。彼等は、関の背後へ繋がる小道を進む陽動隊である。第三隊は、一万人。彼等は、談洪の軍が動くのを待つ。第四陣も一万人。談洪が小道の救援へ赴くのを待つ。彼等は、本軍が関を攻撃したと聞けば必ず軍を返すだろうから、その時に、談延の軍と一戦交えるのである。
 配置が既に決まった後、趙良棟は諸将へ言った。
「今回の作戦では、談洪がどう動くかが鍵になる。もし、天の御加護で談洪が吾が計略へ陥るのなら、三つの形がある。
 第一は、談洪が救援に赴かなかった場合。この時は、勢いに乗って小道を通過する。
 第二は、談洪が小道の救援に行きっ放しの場合。この時は、談洪の不在のうちに、関を落とす。
 第三は、救援から戻ってきた談洪と戦って、これを撃破する場合。談洪さえ撃破すれば、陽平関などすぐにでも落とせる。
 それでは、諸君。各々持ち場に従って奮戦せよ。短期決戦ができず持久戦に持ち込まれたなら、我々は談洪に苦しめられることとなるだろう!」
 こうして、趙軍は勇んで出陣した。
 さて、談洪は小道毎に小隊を駐屯させていたが、果たして趙良棟が思ったように、各隊の連携は密に取っていた。その日、談洪が営中で軍議を凝らしていると、突然伝令兵が飛び込んできた。
「西山の小道へ、敵軍来襲!兵力は五千を下らず!現在、我が軍は険に據りて交戦中。至急救援を乞う!遅れれば陥落の懼れ在り!」
 談洪は言った。
「救援は出す。だが、趙良棟軍は三万を下らない筈。それが今回の出撃は僅か五千。その上後続の気配もない。その軍は囮だ。我等が大軍で救援へ向かうよう誘いを掛けているのだ。その隙に陽平関を奪う計略と見た!それならば、策にはまったふりをして、小道へ救援へ向かおう。そして、大軍を伏兵として設けておくのだ。」
 そして、部将の胡念恩へ三千の部下と自分の旗印を与え、西山の小道を救援に行かせた。そして、部将の談延年に五千の兵を与え、胡念恩軍を援護するよう命じた。
 ところで、諸君は韓大任を覚えているだろうか?彼は九江で敗北した後、長沙へ逃げ帰った。やがて、胡国柱は彼を四川へ派遣し、今では談洪の軍中にいた。談洪は韓大任へ五千の兵を与え、遊撃隊とした。それとは別に部将の張明へ三千人を与え、趙良棟を誘い込む為の偽装工作として営を守らせた。談洪自身は一万の兵を率い、地の利を選んで伏兵となった。そして、それ以外の兵には、陽平関を守らせた。
 布陣が終わった頃、趙良棟も報告を受けていた。
「談洪は既に兵を率いて西山小道へ向かいました。大営を守るのは僅かに三・四千人に過ぎません。」
「談洪の兵力は三万余。たとえ援軍を派遣したとて、大営の守りが三・四千とは少なすぎる。何か奇策でも弄したか?」
 すると、米光元が言った。
「談洪は勇気だけの猪武者。なんで策を弄しましょう?我等が小道から迂回することを懼れ、全軍を挙げて救援に向かっただけ。なんの不思議がありましょうか?」
 趙良棟も頷き、米光元へ談洪の大営攻撃を命じた。又、何進忠へ兵を与え、引き返してくる談洪軍に備えさせた。そして、自身は米光元の後詰めとなって、談洪の大営を攻撃する。手筈が決まると、彼等は軍鼓を鳴らしながら進んだ。
 米光元が兵を率いて襲いかかると、張明は営を棄てて逃げた。米光元は談洪の大営を占領すると、勢いに乗って追撃を掛けた。
 趙良棟が言った。
「奴等は戦わずに逃げた。策があるぞ!」
 すると、傍らにいた副将の張占標が言った。
「奴等は、我等が大挙して押し寄せるとは思わなかったから、西山小道へ援軍を送り、ここには少数しか留めなかったのです。衆寡敵せず。敵将の張明が逃げるのは適宜な戦術。今、追撃を掛けなければ、機会を失います!」
 趙良棟は半信半疑だったが、兵卒達は躍り上がって猛進撃を始め、収拾がつかなかった。そうやって趙軍が十里ほど追撃していると、鬨の声がドッと挙がり、四路の伏兵が一斉に蜂起した。その敵陣に翻る旗印は、談洪のものだ!趙良棟は大いに慌てた。
「いかん!敵の罠にはまった!」
 そして、急いで撤退を命じた。
 だが、談軍は一気に殺到してきた。韓大任の軍も、東路から襲撃し、万槍が空を飛び交う。趙軍は大打撃を受けた。ただ、幸いにも趙軍は良く訓練されていたので、戦いつつ退却することができた。
 ここで、趙良棟は、自ら大軍を率い、「進むを以て退く」とばかり、却って談洪の軍へ攻撃を仕掛けた。
 この時、談洪は趙良棟と戦っていたので、韓大任だけが趙軍を追撃した。
 趙良棟と談洪が戦っているところへ、急使が駆けつけてきた。
「何進忠の軍が、敵将談延年に襲撃されました。西山小道を襲撃した一軍も、敵将胡念恩に乗じられ、両軍共に敗北しました!」
 これを聞いて、趙良棟は作戦失敗を覚り、心胆張り裂けそうな想いの中で、撤退を命じた。
 談洪と韓大任は、二道から追撃した。だが、趙良棟もよく軍を指揮し、戦いつつ退いた。談洪は二十余里程追撃し、兵を収めた。
 談洪の、完全な大勝だった。清軍は趙良棟が築いた塁を二十余り占拠したが、談洪はここに居座らず、諸塁を壊して、元の配置へ戻った。
 その途中、韓大任は尋ねた。
「この勝利に乗じて敵の塁を占領し、ここを根城に更に進軍するべきなのに、将軍は退却なさる?どうゆう訳ですか?」
「趙良棟の部下は、三・四万。今回の敗北では、それ程の痛手ではない。まだまだ侮れんぞ。それに、今は我が国にとって進取の時期ではない。我々が険に據って守りを固めている限り、敵は一歩も進めない。そうやって持久戦に持ち込めば、敵は自ずと壊走する。」
 韓大任は、黙り込んだ。
 一方、敗北した趙良棟。人馬を点呼すると、七千余人を失っていた。奪われた器械類は数え切れない。趙良棟は、これを図海へ報告すると、自ら降格を求めた。その傍ら、軍を再編成し、士卒の鋭気を回復させてから、再び進軍した。談洪も険を固守して隙を見せない。陽平関は、しばらく睨み合いとなった。

 話は変わって、張勇。彼は兵を率いて寧きょうから進軍した。これを阻む周将は鄭蛟麟。張勇は、攻撃を掛けようにも妙手がなかった。そこで、別道を採ろうと南下を試みたが、これを察知した鄭蛟麟に阻まれ、成す事もなく時だけが過ぎて行った。
 そして、最後の通路巴西を守る周将は陳旺。彼は、もと王屏藩の部将。驍勇でつとに名高かった。そして巴西は、陽平関や寧きょう以上に険阻な地形。「一将関を守れば、万夫敵さず。」とまで称されている難所である。
 ここへ陳旺を配すれば、例え手勢は僅かでも、必ず敵を防いでくれる。そう判断した羅森の読み通り、王進宝はこれを攻略できないでいた。そこで、かれこれの兵力も考え合わせ、王進宝は反間を使うこにした。
 もともと、呉三桂が起兵する前、陳旺は参将で、固原に住んでいた。この時、張勇は提督で、二人は最も意気投合した友人同士だった。
 王進宝は、陳旺のもとへ使者を派遣して、降伏勧告書を渡した。だが、陳旺はこれを拒否し、使者へ言った。
「某と王将軍とは、昔は確かに私的な交遊があった。しかし、今では敵味方だ。私的な書簡をやり取りするのは宜しくない。それよりも王将軍へ伝えてくれ。卿はただ、力を尽くして攻撃せよ。我は精一杯防御に務める、と。」
 使者は、王進宝へ、ありのままを復命した。
”降伏してはくれぬか・・・。”
 王進宝は憂慮したが、フと思った。
”待てよ。口先だけで降伏を勧めても、受諾しないのは当然だ。情勢を諭し、官職をチラつかせなければ。”
 そこで、再び書状を書いた。

”呉周の行く末は危ない。昔日の威勢の良いときでさえ、なお、大事を成し遂げられなかったのだ。ましてや今日の情勢でどうなろうか?もしも投降しなければ、徒に捕虜の辱めを受けるだけだぞ!それに、王屏藩の威光を以ても、一敗地にまみれたのだ。況や卿では尚更ではないか?今、卿の国の将来はジリ貧だ。明日にでも滅びかねない。某は卿とのかつての友好を想い、座視するに忍びないのだ。もしも投降して来たら、必ずや陛下へ奏上し、総督か総兵の職は確保しようではないか。

 この書状を読んで、陳旺の心は乱れた。
”確かに、呉三桂殿の威光を以ても、ここまで追い詰められてしまった。しかも、今や呉三桂は居ない。兵威は振るわず、領土は日々に削られている。兵糧も器械も備蓄は少なく、壮士は零落し、これでどうして大事が成就しようか!このままでは、捕虜となって身を終えてしまうぞ。”
 そして遂に、彼は降伏を決意し、王進宝へ提督の地位を求めた。もちろん、王進宝はこれを承諾した。こうして、陳旺は王進宝へ巴西の占拠を譲ったのである。
 ところが、陳旺の部下は、全員、もとは王屏藩の部下だった。彼等は皆、屏藩の死を胸に抱き、命を捨ててでも国へ報いようと決意していた。そんな中で、陳旺が退却を命じたので、彼等は皆驚愕した。訳も判らずに命令に従うと、王進宝軍がたちまち前進してきた。これに対して陳旺は迎撃も命じない。ここに至って、兵卒達は陳旺の裏切りを悟り、一気に暴動が起こった。
「売国奴!陳旺を殺せ!」
 一人が叫ぶと、数十人が追従し、嵐のような叫び声の中、兵卒達はドッと陳旺の帳へ向かって殺到した。「国賊!」の叫び声の中、陳旺は抵抗さえできず、アッと言う間にミンチのようにズタズタに切り裂かれてしまった。
 だが、こうやって鬱憤を晴らしたものの、王進宝の軍は既に四面から攻め込んでおり、迎撃するには遅すぎた。周の兵卒達は、散り散りに逃げ出すしかなかった。
 こうして、王進宝は巴西を占拠し、進軍の道々、民を招納して行った。
 又、この時趙良棟も張勇も、まだ進軍することができなかったので、王進宝は寧きょうの背後へ回って、趙良棟と張勇の援護となった。

 さて、話を楊嘉来へ移そう。
 楊嘉来は、羅森からクイ州の防御を命じられた。このクイ州は、成都からかなり離れており、湖北から四川へ入る為の門戸とも言うべき、堅固な地形である。楊嘉来はここへ来てから、完全な守備隊形を整えた。
 ところで、この楊嘉来は、もともと襄陽の総兵だったが、前述したように、蔡敏栄を裏切って呉三桂へ投降したのである。彼の部下の兵卒達は、大半がべん・がく地方の人間だった。そこで、清将の徐治都は、檄文をばらまいた。楊嘉来の兵卒達の心を掴む為である。
 図らずも、楊嘉来は、日頃から厳しすぎた。兵卒達は皆、内心、楊嘉来へ怨みを抱いていた。そこへ持ってきて、この檄文。しかも、周の国勢が日に日に衰えている。大勢の兵卒達が心変わりを起こした。
 徐治都の軍が来襲すると、楊嘉来は守りを固めたかったが、部将の張祺が言った。
「我が兵力は一万。小勢ではありません。もしも守備一方で戦わなければ、敵を絶対に負けない立場へ上げることになります。それに、クイ州の険とはいえ、不落ではありません。もしも守り切れなければ、その時悔いても追いつきませんぞ。ここは、まず一戦を。もしも戦って負ければ、それから守りを固めても遅くありません。」
 楊嘉来も同意した。そこで、まず二千の兵を選んで城を守らせ、その他は全て出陣し、城外二十里の所に陣を構えて敵を待ち受けた。
 対する徐治都の兵力は一万五千。楊嘉来が戦いを挑んでいると知るや、五千の兵を別働隊とし、間道からクイ州城へ向かわせ、自身は一万の兵で楊嘉来の陣へ向かった。
 徐治都が軍鼓を鳴らしながら進軍すると、楊嘉来も軍を率いて近づいて来る。そして、戦闘が始まった。
 徐治都は戦いつつ進む。それに対して楊嘉来軍の兵卒は戦意がない。楊嘉来は憤り、先陣切って奮闘した。すると、楊嘉来の後軍が、敵も居ないのに、にわかに乱れた。
”しまった!変事が起こったか!”
 もはや、楊嘉来も敗戦を覚り、中営二千人を率いて囲みを破って逃げ出した。徐治都は勝ちに乗じて攻め立てた。楊嘉来軍は大敗し、兵卒の大半は降伏した。
 楊嘉来は敗残兵を纏めるとクイ州城へ向かい、ここで固守しようとした。しかし、その時既にクイ州城は、別働隊の攻撃を受け、守備兵達は城門を開いて降伏していたのだ。
 楊嘉来はどうすることもできず、城を棄てて逃げ出した。