第三十五回  康親王、兵を合わせてびん浙を平らげ、

      趙良棟、命を奉じて成都を取る。

 

 さて、傅宏烈は、桂林を出発した。
 広西一帯は霊川から湖南へ至るまで山麓が多く、なかなかの難路が続くので、兵卒達の顔には畏れる色があった。すると、傅宏烈は憤然として言った。
「虎穴に入らずんば、虎児を得ず!登(「登/里」)艾が、陰平を通って蜀を滅ぼしたのを知らんのか!今、道は険しくとも、陰平ほどではない。この程度で怖じ気ついて戦えるか!
 敵は多分、我等の動きを知らん。この奇襲は必ず成功する。もしも失敗したなら、我も諸君等と共に死ぬだけだ。我は長官となった以上、諸君等の命も我が命と同様。分け隔てせぬ。
 今、進む者は功と認め、退く者は斬る!汝等、決して命令に背くな!」
 これを聞いた三軍の兵卒達は、力を振り絞って進軍した。林を穿ち草を抜き、葛によじ登って進む。この地形では、馬は進めない。そこで、馬上の将官達は下馬し、兵卒達へ馬を牽かせた。進軍するうち、山道は更に険しくなっていったが、周の守備兵はどこにもいなかった。だから、傅宏烈の人馬は、なんとか進むことができた。
 山を登り切った時、後ろを振り返って傅宏烈は慨嘆した。
「なんと、難関だったわい。もしも、敵兵の千人でもここで守っておったなら、我等はここまで来れなかったじゃろうて!幸い、敵はここまで気を回さなかった。この一戦、我等の勝利と決まったわ!」
 その一言で、清軍の志気は高まった。
 山麓を通過してしまうと、城歩から程遠くなかった。傅宏烈は諸軍へ向かって言った。
「城歩は、武岡の背後にある。敵は前方にのみ気を取られ、背後の守備はガラ空きぞ!疾風のように駆けつけて、ここを占領するのだ!もしも敵兵に気取られたら、城歩から援軍が派遣され、我が軍進退窮まるぞ。ここで犬死してもよいのか!」
 さて、城歩地方は単なる兵糧運送の拠点に過ぎず、千余の周兵しか居なかった。しかも、傅宏烈の大軍が近づくことに気がつかず、備え一つしていなかった。その為、傅宏烈が一声叫ぶと、清兵はたちまち城兵を蹴散らし、城歩を抜いてしまった。
 呉国賓と郭壮謀は、全力を挙げてキジコと対峙していた。ここで守りきったなら、キジコは嶺を越すことができない。そう考えていたのに、意外や意外、城歩の守兵達が散り散りになって逃げ込んできた。呉国賓が原因を調べると、傅宏烈が背後を襲撃したことが判った。
 呉国賓は郭壮謀へ言った。
「腹背に敵を受けてしまった。こうなった以上、術は一つしかない。生きるか死ぬかだ。」
「どうするつもりだ?」
「軍を二手に分け、その一隊にキジコを防御させながら、残る一隊で傅宏烈を阻むのだ。」
「それは良い。ただ、既に傅宏烈は我が背後を断った。軍心の瓦解が心配だ。」
「いや、傅宏烈の軍は、霊川経由で侵入した。輜重を運べた筈がない。もしも、十分な兵糧を携行していれば、あの険路を越えられるはずがないのでな。持久戦に持ち込めば、奴等は両月と持つまいよ。」
 郭壮謀は得心した。そして、郭壮謀は傅宏烈と、呉国賓はキジコと対峙し、各々分担を決めたのだった。
 城歩を占領した傅宏列は、そのまま進軍して楓木嶺の背後を衝くよう命じた。これに対して軍兵達は暫くの休息を求めたが、傅宏烈は言った。
「いかん!我が軍の兵糧は少なく、その補給もままならぬ。今、敵の不意を衝いてこそ軍功も建つ。そうでなければ全滅ぞ!」
 と、その折も折、斥候兵が駆け込んできた。
「敵は、我が軍が城歩を占領したことに感づきました!敵将郭壮謀が、一隊を率いて進軍しております!」
 傅宏烈は大いに慌て、城池の守備を固めさせると共に、一隊を城外へ出して陣を布かせた。
「我が軍は疲れて居る。今戦うのは良策ではない。まずは守備を固めるのじゃ。」
 かくして、一万の部下のうち、半数は郭壮謀と対峙し、半数は守備を固めた。
 郭壮謀は、到着するや、すぐに城歩を攻撃しようとしたが、その時、傅宏烈は拒戦の為の布陣を終えていた。
「我が軍は既にここまで来た。退けば死ぬだけだ!奮励努力せよ!」
 死地に追い詰められた兵卒達は、必死の勢いで迎撃した。
 片や郭壮謀軍は、背後を襲撃されたことで浮き足立っていた。奮励と怯懦。両軍の戦意には雲泥の差があり、郭壮謀軍が大軍とはいえ、形勢は不利だった。
 郭壮謀軍は二万。だが、なかなか城歩へは進めない。その有様を見て、傅宏烈はやや安堵した。そこで、軍を更に四つに分け、各地へ派遣して周軍の補給線を分断した。
 周軍の輜重は、貴州からの転送に依るところが多かった。その供給を絶ち、運送物資を略奪したのだ。こうして、傅宏烈軍の兵糧はたちまち満ち足りた。逆に、周軍は糧食の面からも追い詰められて、軍心は益々乱れたのである。
 これを聞いて、呉国賓は嘆息した。
「これを一番畏れていた。郭壮謀は、まず傅宏烈軍の糧道を断ち、敵を封じ込めて我が軍の糧道を確保するべきだったのだ。そうすれば、城歩を攻撃するまでもなく、敵軍を全滅できたものを!何であのような術に出たのだ!だが、既に我等の糧道は絶たれた。ここに至って、どうしろと言うのだ?」
 言葉と共に、出るのは溜息ばかりだった。
 それまで、呉国賓はキジコの攻撃を、よく防ぎきっていた。しかし、軍中に兵糧が乏しくなり、しかも糧道も断たれたこととて、兵卒達が浮き足立ってしまった。「腹が減っては戦はできぬ。」それは、真理である。軍中から逃亡する兵卒さえ、ボツボツ現れ始めた。
”軍心がこの有様では、力を尽くして死守しても、先が見えている。それに、敵に内通する者が出るかもしれんぞ。こうなった以上、今のうちに奇襲を掛けるしかない!一か八かの大博打だ!”
 だが、その準備を進めている時、郭壮謀の敗報が飛び込んできた。
 郭壮謀軍は、兵糧が尽き、兵卒達の逃亡が相継いでいた。その機に乗じて、傅宏烈が城歩から出撃したのだ。周軍は、恐惶を来たした。それに、もともと飢えに苦しんでいた兵卒達だ。どうして敵対できようか?郭軍は大敗し、数え切れない程の戦死者を出した。
”背後を占領された以上、キジコを撃退しても、我が軍は敵地に孤立してしまう。”
 それに、友軍の敗残兵を棄てても置けない。呉国賓は険を棄て、退却しながら敗残兵をかき集めることとした。
 だが、この動きを察知したキジコは広西の一路から即座に兵を動かした。傅宏烈とも連携を取り、清軍は呉国賓を挟撃する形となった。呉国賓は、退却さえも思うに任せなかった。
 キジコと傅宏烈の両軍は、山野に満ちて来寇する。包囲されてしまった周軍は、決死の反撃を試み、郭壮謀は戦死した。もともと、兵糧が欠乏してから戦意も失していた郭軍の兵卒達は、次々と投降してしまった。
 呉国賓は、知勇兼備の良将だったが、その彼にして、既に施す術もなかった。郭軍が投降してしまってから、呉軍の兵卒達は戦意さえもなくしてしまったのだ。
 キジコと傅宏烈の大軍が、眼下に迫る。しかも自軍に戦意はない。
”脱出することさえもできぬか。徒に兵卒を殺したとて、何の役に立とうか!”
 覚悟を決めた呉国賓は、左右へ言った。
「この楓木嶺の守備を命じられた時、険阻を利すれば、必ず敵を撃退できると思っていた。だから、この任務を受けてから、力の限り戦ったのだ。広西の動向を見なかったのは、確かに我の失策だ。しかし、それにしても郭壮謀が我が策に従っていれば、撃退できたものを!だが、クダクダは言うまい。数万の兵を擁し、この険阻に立て籠もりながら、今では敵に囲まれて、脱出さえもままならぬ。何の面目あって胡将軍に見えられようか!」
 言い終えるや、剣を抜いて我と我が頸に突き刺した。アッと驚いた左右の臣下達が慌てて止めようとしたが、時既に遅し。呉国賓は自刎して果てたのだった。
 呉国賓の死後、周軍に主が居なくなり、兵卒達は一斉に降伏した。キジコと傅宏烈は降伏した将兵を慰撫し、北京へ勝報を入れた。頼塔貝子が傅宏烈の功績を上奏し、傅宏烈は広西巡撫へ抜擢された。
 こうして事後処理が済んだ後、キジコと傅宏烈は今後の行動を協議した。そして、傅宏烈軍は桂経由で真州へ入り、キジコと穆占は二道に分かれて貴州へ進むこととなった。

 

 話は耿精忠へ移る。
 靖南の耿精忠は、呉三桂の決起に帰順したが、その後、呉三桂の尊大さに嫌気がさした。しかしながら、既に造反を表明した以上、清朝廷へ帰順しても罪は免れないだろう。そう考えた耿精忠は、上辺は呉三桂と協力するように見せかけながら、その実、保身を図っていた。呉三桂が敗れた時の為に、とにかく近辺の領土を切り取って自分の力を増大させ、もしも呉三桂が勝ったなら、それを手柄に褒賞されようとゆう考えだ。
 彼は、まず浙右を狙った。左軍都督曾養性、中軍都督馬九玉、前軍都督呉長春、後軍将軍馬成龍、及び陸路都督馬仕宏、水軍都督朱飛熊、総兵愈鼎臣を浙江へ進軍させた。そして、耿精忠自身は本拠地の福建地方の各郡の人心をしっかりと掌握しながら、後続として進んだ。又、各路からも兵卒を動員してこれらを吸収しながら進んだので、この軍は見る見る膨れ上がり、浙江地方は震駭した。その結果、耿軍が進む所、風に靡くように次々と降伏してきた。
 それに、浙江では長い間平和が続いていた。どの軍隊も軍規が緩みきっており、とても物の役に立たない。だから耿精忠の軍が進軍した時、正しく破竹の勢いだった。召州、温州と、瞬く間にその精力を増大したのだ。
 まともに戦ったのは、守備の何敬忠ただ一軍。彼は斑竹嶺にて曾養性と決戦した。だが、その軍はアッとゆう間に壊滅し、何敬忠は戦死してしまった。それ以後は、最早戦う将軍も居らず、彼等はオメオメと敵軍を迎え入れた。こうして、虞、諸旦(「既/旦」)も守りきれず、耿精忠の版図へ入った。
 浙江地方は、耿軍の蹂躙するままに任された。地方の大吏が、北京へ救援を求める文書は、雪のように舞い散る有様だった。そこで、北京政府は康親王大将軍と固山貝子と寧海将軍を派遣し、これに対峙させた。
 この大軍が杭州まで進んだ所で、康親王は諸将と軍議を開いた。
 まず、固山貝子が言った。
「耿藩は、造反した後、長いこと進撃しなかった。これは、呉三桂が皇帝を潜称したので、加担したことを後悔し、状況を観望していたのだ!今、耿軍の勢いは鋭く、まともに戦えば、勝てるかどうか判らない。ここは、朝廷の徳を示し、帰順を勧めるべきである。奴らが巧く乗れば、戦わずに乱は平定される。それが上策ではないか。」
 すると、康親王が言った。
「それは拙い!その案は、耿王が造反した当初、既に図海が提案していた。あの頃ならばそれでも良かっただろう。しかし、今、奴等は進撃を開始したのだ。もしもその暴挙を不問に処すというのなら、奴らは帰附するどころか、却って増長するぞ。そうなれば、浙江は我等の物ではなくなってしまう!」
 寧海は頷いた。
「王爺の言うとおりです。敵の暴挙は甚だしい。もはや、宣撫の策を使う段階ではありません。それに、愚見を申すなら、敵を滅ぼすなど、そう難しくありませんぞ。」
「ほう。」
 康親王は、寧海へ向き直った。
「何か計略でもあるのか?」
「はい。今、耿藩は数路から浙江へ侵入しています。そして、その精鋭は浙江に居ります。もし、その浙江の軍を撃破できれば、先陣の兵に何ができましょうか?それが敵わないと言うのなら、間道を通って、奴等の本拠地の福建を攻撃することです。腹背に敵を受ければ、奴等は退却するしかありますまい?その退却に乗じて追撃すれば、福建も浙江も、一挙に平定できます。」
 康親王が深く頷くと、固山貝子が憤然として言った。
「俺は耿軍が恐かったのではないぞ!民衆を戦禍から免れさせたかっただけだ!そんな計略があるのなら、この俺が先陣を切って浙江を撃破して見せるわ!寧海将軍は福建を攻めればよい。康王爺には、ここでドッシリと構えて置いて貰おうか。」
 康秦王は声を立てて笑った。
「もとより、卿が臆病者とは思って居らぬよ。」
 こうして、寧海将軍が、間道を通って福建を攻撃し、固山貝子が浙江を攻撃することとなった。
 計略は既に定まり、固山貝子が先発した。斥候を放って偵察させると、どうも曾養性率いる一軍が、耿軍の中では最強のようだ。又、曾養性軍は黄岩に駐屯しており、清の総兵の劉健忠が敗戦して耿軍へ投降したことも判った。
 固山貝子は諸部将へ言った。
「曾養性の一軍さえ破れば、耿藩の各軍は総崩れとなるに決まっておる!」
 そして、黄岩目指して進軍した。
 耿藩の兵卒達は、斥候侵入後の度重なる大勝に、しっかり増長しきっていた。そこへ、固山貝子がいきなり夜襲を掛けたのだ。曾養性軍は、不意を衝かれて狼狽し、大敗してしまった。
 既に敵を撃破すると、固山貝子は諸将へ言った。
「今、耿藩の総兵愈鼎臣は、兵卒を召集しながら淡渓へ向かっておる。こいつを撃破すれば、耿藩の戦意は益々消沈するぞ。」
 この時、耿藩の各隊は各々浦江、上虞、諸既、余姚等を陥していた。耿藩は、軍を分散させ過ぎていたのだ。固山貝子は、即座に淡渓へ向かった。対して愈鼎臣は、山野の間に露営していた。固山貝子は攻撃を掛けたが、地形が険しく、屡々戦ったのに、思うように戦果が挙がらない。
「地の利が向こうにある。このままでは埒が開かんぞ。」
 そこで、固山貝子は一旦兵を退き、部下に酒を振る舞った。
 これは、斥候の手によって、たちまち愈鼎臣へ報告された。
「奴等は諦めたか。いずれ退却するだろう。」
 愈鼎臣軍は、すっかり安堵して、警備の手を緩めた。だが、固山貝子は夜が更けると宴会をうち切り、満進貴と許宏員に各々に千の兵を与えて、愈鼎臣軍へ夜襲を掛けさせた。そして、自身は大軍を率いて後続となった。
 満進貴と許宏員が敵地へ到着した時、愈鼎臣軍は惰眠を貪っていた。そこへ、二軍が間髪を入れず突撃した。これでどうして抗戦できようか?愈鼎臣軍は大混乱に陥った。そこへ固山貝子の本隊が突撃してきた。愈鼎臣は、軍の指揮さえ出来ず、単騎で脱出する有様。固山貝子は、ここでも大勝利を収めた。
 この勝利を知った康親王は、副将の弁大寅と知府の姚后聖等に上虞と諸既を攻撃させ、これを攻略すると、再び一軍に合流して、次の軍議を練った。
 これに対して耿軍は、曾養性が敗北した後、各軍の兵卒達の志気が一気に消沈してしまった。そこへ、追い打ちをかけるかのように、不穏な噂が広まった。
「敵将の寧海が、間道を通って福建へ入ったそうだ。」
 腹背に敵を受けて動揺した耿藩の諸軍は、全軍集結して今後の動向を諮った。このまま康親王、固山貝子軍と戦うか、それとも、福建へ戻って、耿精忠と共に寧海を撃退するか。
 すると、曾養性が全軍へ言った。
「福建には耿王が居られる。寧海が我等の背後へ回ったとて、恐れるに足りん!今の我等の任務は、浙江を陥すこと。長躯北上あるのみだ!」
 諸将は頷き、衆議は一決した。
 こうして、耿藩の諸軍は、再び数路に分かれて進軍した。そして、曾養性と許宏員の軍が、黄岩にて固山貝子の軍を連破した。これによって耿軍は、黄岩、天台、仙居の三処を再び占領した。
 耿軍は更に進む。遂には、寧波まで陥し、康親王の糧道を断ったのである。
 この時、康親王の軍は十万を下らなかった。しかしながら、糧道を絶たれてからは輜重が届かず、この大軍は物資の欠乏に困窮した。
 固山貝子は、寧波、天台の通路を開く為、麾下の二人の提督、塞白理と周玉龍を二道から派遣した。これに対して曾養性は、勇将米光佐、米光祖を差し向けた。又、総兵の林冲へは水軍を与えて、小梁山江中で暴れ回らせた。これによって、浙江は全境を挙げて戒厳令が布かれたのだ。
 清軍は追い詰められてしまった。固山貝子は康親王へ言った。
「奴等に糧道を断たれ、我等は切羽詰まった。ここは速戦あるのみだ!」
「宜しい。吾は全軍を挙げて金華へ出る。卿は何としても天台を陥すのだ。」
 こうして、清軍も総力を挙げて反撃に出た。
 固山貝子は、まず、副都統の伯穆に三道から進撃させた。そして、白水洋の一戦で、曾養性を大いに破り、三千余人を殺し、天台・仙居を回復した。
 康親王は副都統の馬哈達を道山へ派遣し、提督の鮑虎を厳州へ派遣し、曾養性を攻撃した。部将の徐思潮、馮公武らの奮戦で大勝利を納め、遂に厳州を回復した。
 当時、東陽巨族に呉志森とゆう男が居た。彼は衆望を集めていたので、この乱世に義勇軍を組織して県城を回復していた。康親王は、彼の噂を聞くと、これを麾下へ招撫した。そして、各地を撫諭させ、民力を挙げて耿軍へ抵抗させた。その後、馬哈達と総兵の陳世凱へ、官民協力して進撃させ、温・処の二州を前後して回復したのである。
 固山貝子は、耿藩が分散したのに合わせて、諸将を分散させて敵を攻撃した。これに対して耿軍は、曾養性が撃破された一戦で志気消沈し、各軍とも風を望んで逃げ出した。
 北方の兵卒は、水戦に慣れていない。だから、固山貝子は陸路を取って進み、黄岩の後方へ出、別の一軍は土木嶺から茅坪嶺へ出て耿藩都督の呉長春軍を撃破した。
 曾養性は、温州まで退いた。耿藩副将の米正三が降伏し、台州の包囲は崩れた。固山貝子は、勢いに乗って更に進撃する。敵都督呉長春と総兵劉乗仁を相継いで斬り殺し、馬九玉、張広文等が降伏した。
 こうなってくると、耿藩の各軍は日和見を決め込み始めた。ただ、曾養性のみ、逆境にあっても志を変えず、部下へ言った。
「吾は耿王の命令を受け、この大事を承った。十数路の大軍で、浙江へ攻撃した時には破竹の勢いだったではないか!ただ、我が軍の各部隊が状況を観望して進軍しなかったので、遂に固山貝子に乗じられてしまったのだ。しかし、我等は耿王へ背かない。それに、各路の軍を結集したら、兵力でも敵に負けないではないか。」
 そこで、分散している客隊へ伝令を飛ばし、集結を提案した。
 この時、固山貝子は温州を目指していた。降伏した敵将の馬九玉へ温州の状況を尋ねると、馬九玉は答えた。
「耿藩の諸将には勇猛な者が多いのですが、忠誠心から言うと難があります。ただ一人、曾養性のみは別です。人柄は堅毅で、勇猛さでも飛び抜けております。もしもこの軍を撃破したら、他の将軍達は降伏するか逃げ出すでしょう。」
 固山貝子は得心し、曾養性攻略を考えた。
 当時、寧海将軍は福建へ攻め込んでおり、簡王も又、江西の軍を福建へ向けてこれを助けていた。建陽の耿王が窮地に立ったことを知った曾養性は、軍の半分を裂いて援軍に差し向けた。そして、残りの半数で温州を守ったのだが、固山貝子は、一ヶ月ほど攻撃して、遂に落とすことができなかった。
 一方、曾養性が派遣した援兵は寧海に襲撃され、耿王は建陽から脱出できなかった。この窮地にあって、耿王の妻が子供達と共に懇ろに説得したので、遂に耿王は降伏してしまった。耿王の降伏を知った曾養性は、遂に固山貝子へ降伏し、こうして福建・浙江は平定された。

 福建・浙江が平定されると、清軍は呉周へ全力を挙げた。湖南・広西の兵力をかき集め、数道から雲南・貴州へと進む。呉周は日々追い詰められて行った。本拠地の四川こそ無傷だったが、図海が王屏藩を大破し、漢中を奪取してから、成都の人々は恐々としていた。図海は必ず四川へ進軍してくる、と。
 この時、図海は既に出陣して数年経っていた。その間、休む暇もなく戦い続きだったので、北京朝廷は、図海軍へ休養を取らせてやろうと考えた。これに対して順承郡王は、河南に屯営しており、戦っていなかったので、 この軍を撤収し、図海をべん・梁へ移動させることとした。それに伴って、図海へは後任を選出させた。
 この指示を受けた図海は、諸将を呼び寄せると、今後の方略について建議させた。すると、王進宝、張勇、孫思克、貝子顎洞等は言った。
「この勢いに乗って一気呵成に攻め立てれば、成都攻略など、手に唾して達成できますぞ。」
「いいや、そうはいきますまい。」
 一人だけ反論したのは、趙良棟。
「古来より、四川は、『天賦の地』と呼ばれていました。山川は険阻で、土地は豊饒。呉氏がここに腰を据えたら、自立することもできましょう。今、確かに王屏藩こそ敗りましたが、まだ羅森、鄭蛟麟等は成都を守り、他の多くの能将も健在です。呉三桂は積年戦い続けた猛将。その麾下に将無しと、どうして言えましょうか?それに、四川の民は一千万。その民は強悍です。これに呉三桂の軍隊が加わるのですから、兵無しとも言えません。
 呉三桂が決起してから、長年の戦争で、その兵糧の為に雲南には重税を課し、民は其の支配を恨み始めました。しかし、呉三桂は、四川の民へは重税を課したことがありません。四川の民心は、未だ離間していないと思われます。
 賊軍は、既に悍兵と能将を持ち、険阻な地形に據って、人の和もある。この状況で我が軍を迎え撃つのですから、利は奴等にあります。四川を攻略するためには、少兵では無理ですが、大軍を動かせば、兵糧の問題が起こります。あの険阻な地形へ、どうやって兵糧を送ればよいのか?糧道を絶たれれば、危機に陥ります。
 ましてや、屏藩が積年秦隴を支配し、その間に人々の心を掴みました。我等が四川へ攻め込んだ時に、秦隴の民衆が心変わりをすれば、どうやって防ぎましょう?
 これらは全て、我等の不利。これだけの難点があるのに、成都攻略が容易だ等と、どうして言えましょう?
 ですが、もしも末将が大将軍の信任を蒙り、部下の人馬と吉林馬陣一万人を与えて下さったならば、必ずや四川を攻略して献上して見せましょう。」
 それを聞いて、図海は言った。
「卿の洞察は、大勢を把握して居る。ただ、四川を攻略すると言うが、どれくらい掛かると見て居るのか?それに、どのような方策を持っているのだ?」
「遅くても二年。早ければ一年。数ヶ月と言えば、口先だけの大法螺になってしまいます。呉氏が四川に割拠して久しく、人心も掴んでおります。ですからまずは恩沢を与え、その後に武力行使してこそ、成果も上がるのです。そうでなければ、我々が進撃しても四川の民が蜂起して呉氏を助けるでしょう。敵地深く入り込んでそのような事態になれば、とても勝つことはおぼつきません。」
「その通りだ。」
 そこで、図海は、趙良棟を征西大将軍に推挙した。又、本部人馬一万の他、図海の軍中から精兵二万を選び、吉林馬陣一万人と共に彼の麾下に配属し、四川攻略に向かわせた。
 又、孫思克に本部人馬を与えて漢中を押さえさせ、趙良棟の声援とすると共に、兵糧の補給を命じた。張勇と王進宝は、各々本部人馬を率いて趙良棟と共に入川させた。彼等は遊軍となるのだが、全て趙良棟の節制を受けるよう命じた。
 最後に、図海は趙良棟へ言った。
「これだけの軍力を備えれば、きっと、卿の助けとなろう。又、吾はべん梁へ退くが、それでも敵の牽制とはなるぞ。兵糧の補給は心配するな。将軍が凱旋する日を、吾は待ち望んでおるぞ。」
「はっ。某、大将軍の知遇を受けましたからには、命を落としても悔いはありません。必ずやこの氏名を完遂し、将軍の期待を裏切りません。」
 かくして、彼等は四川へ向かった。