第三十三回 固原を抜いて、図海は兵を皆殺しにし、

      漢中へ走って王屏藩は国に殉じる。

 

 さて、周軍は撤退を決定し、その為、馬宝は寧郷、益陽へ進軍した。進むと見せかけ、機を見て貴州へ入るのである。又、夏国相と胡国柱は馬宝の行程を測って、撤退する。
 胡国柱は言った。
「今、我等が撤退すると、清軍は必ず追撃します。ここは、『見せ勢』を作りましょう。城の上に旌旗を盛大に並べるのです。そうすれば、我等が撤退するとは思わず、下手に仕掛けては来ますまい。」
 すると、夏国相は言った。
「いや、そんなことをすれば、却って清軍の追撃を誘発させてしまうぞ。」
「どうしてです?」
「清将の蔡敏栄は各路の軍をここへ結集した。だが、包囲したまま攻撃を掛けてこないではないか。これは、我が軍が長沙に居る限り、兵卒の志気が萎えるので、やがて退却するだろうと踏んでいるのだ。そう、我等の退却を待って追撃する腹なのだ!
 この城の内外の兵卒を合わせても、数万人に過ぎない。それは、今までの炊煙を見れば、奴等に見当が付いている筈だ。今、この兵力で攻撃を見せかけても、奴等は必ず迎撃に出る。」
「成る程・・・。」
 胡国柱は溜息をついた。
「用兵とゆうのは戦うのも難しいが、退却もなかなか易しくはない。それで?今、敵は大軍が結集しています。我等が撤退しても追撃を受けずに済む妙策はございますか?」
「ああ、一つ、敵を引っかける策がある。耳を貸せ。」
 夏国相から耳打ちされた途端、胡国柱は手を打って喜んだ。
「妙手、妙手。それなら絶対巧く行きます。奴等に一杯食わせてやりましょう。」
 そこで、夏国相は三軍の兵卒を集めると、各人へ鍬や鍬を与え、穴を掘らせた。忽ち土煙がもうもうと舞い上がり、日を覆わんばかりだ。この穴掘りは、夜まで続き、城の内外に無数の深い穴が掘りあがった。そしてその夜、周軍は南へ向かって転進した。
 この異常な行動は、早くも細作の手で蔡敏栄と岳東のもとへ届いた。しかも、もうもうと挙がった土煙は、全ての兵卒が目にしている。穴を掘っていることは一目瞭然だ。
「地雷でも埋めたんじゃねぇか?気味悪いぜ。あんな所進みたかぁねぇよ。」
 兵卒達のヒソヒソ話も尤も至極。蔡敏栄も考えあぐねた。
”どんな工作を仕掛けた?それが判らなければ、思うつぼへはまるだけだ。”
 と、そこへ諸将がやって来た。
「周軍は退却した模様。追撃を。」
「馬鹿を申すな。」
 蔡敏栄は言った。
「退却する奴等が、何でこんな真似をする?それに、馬宝軍も進撃した。この数日の周軍は異常だ。大がかりな作戦があるぞ。そして、奴等が何か仕掛けたのなら、我等を誘き寄せる筈。あの撤退は見せかけだ。こちらの狙いが、追撃にあることを知り、わざと撤退の振りをして誘き寄せているに違いない。迂闊に動くな。敵の術中に陥るぞ!」
 その言葉に岳東も簡親王も納得し、清軍は油断無く身構えるだけだった。
 翌日、流星馬が来た。
「寧郷、益陽には、敵の姿は見えません。馬宝軍は貴州へ向かった模様。」
「何?」
 蔡敏栄は怪訝に首を捻った。
 と、更に別の流星馬が来た。
「王会、洪福は、城を棄てて逃げました。現在、荊州は我等が奪還いたしました。」
「何!」
 蔡敏栄は愕然とした。
「しまった!それでは奴等は本当に撤退したのだ!全軍挙げて撤退した以上、奴等の本国に何か異変が起こったか!馬宝の北進は、我等をたばかる擬兵だったか!」
 細作を放って長沙城の様子を窺わせた。兵卒が見えなかったので、細作は、土民を捕らえて戻ってきた。蔡敏栄が問いただせば、周軍は既に去っていったとの答だった。
 そこまで確かめて、蔡敏栄は長沙城へ入った。各路の清軍も長沙へ結集した。
 城内には、告知文が貼ってある。各衛には黄色い提灯がぶら下がっており、ここで蔡敏栄は、始めて呉三桂の逝去を知った。
 土民を捕らえて周軍の撤退の様子を尋ねると、土民は答えた。
「馬宝の北進は、退却の為。土を掘ったのは地雷を埋めた真似。全て偽装工作です。」
「してやられたか!」
 蔡敏栄は地団駄を踏んで悔しがった。
「夏国相も胡国柱も、見事に一杯食わせ居った!・・・しかし、並の将軍なら、ここで追撃を受けて殲滅されるだけ。どうしてこうも巧く逃げ出せようか?呉三桂が悍将なら、補佐役も有能。これでは天下がどうなっていたか判らぬわ。今、呉三桂は死んだ。本朝にとっては大いなる幸運だ。」
 とりあえず、彼等は長沙の奪還を朝廷へ報告した。
 呉三桂は数年間、長沙を占拠していた。これを奪還したのだから、清朝廷は大いに褒賞を加えた。又、岳東は数年に及んで転戦したので、その労をねぎらって、休息させた。彼の率いていた軍は貝子尚善に指揮させる。尚善は郡王へ進封され、蔡敏栄も太子太保の官職と、伯爵位を拝受した。その他の将兵も、各々賞された。
 併せて、命令も降った。
「呉三桂が卒した。この機に乗じて敵を殲滅せよ。」
 尚善と蔡敏栄は協議の上、しばらく兵を休めてから進軍することとした。
 又、清朝廷はこの戦果を図海へも伝えた。
「長沙は既に回復した。これを以て西路の兵卒の志気を鼓舞し、秦隴を粛清せよ。そして、そちらが片づいたら勢いに乗って四川まで攻め込むのだ。」
 命令を受けて、図海は思った。
”呉三桂も死んだこととて、四川軍の出撃はあるまい。顎・べんの両省には、後顧の憂いはない。よし、順承郡王の二万の兵と、吉林軍陣の五千を合流させ、陜西へ進軍だ。”
 既に、趙良棟も戻って来ていた。図海は諸将を呼び集め、趙良棟、張勇、王進宝、孫思克等と進軍の計略を協議した。
 図海は言った。
「前回、我が軍は敗北したが、王屏藩も遂に進取できなかった。敗残の余兵でも、なお敵を防ぎきったのは、天が呉三桂を見放した証拠だ!今、屏藩は陽平の要道を占拠して平涼の叛徒共の声援をしているが、平涼へ一歩も踏み込めない。我が屏藩を破るのは、今だ!諸君等には、何か妙策があるか?」
 すると、王進宝が言った。
屏藩は大軍。彼の軍営は、東は鳳翔から、西は秦安まで連なり、更に呉之茂と談洪が左右を守っております。これをうち砕くのは、至難の業。ただ、周軍の兵糧は併陽にあると聞きます。それに、ここは連塁の要地。私が一隊を率いて襲撃しましょう。そして奴等の兵糧を焼き払い、敵軍を東西に二分して見せます。そして、我等が全軍一丸となって奴等の前軍を撃破すれば、必ず撃退できましょう。」
 次に、趙良棟が言った。
「呉三桂の後軍には数十人の将がおりますが、その中に孫年とゆう男がおります。彼の兄は孫祥。これは王屏藩の後軍に居ります。孫年は、かつて吾の厚恩を受け、その兄にも帰順を勧めています。我軍と屏藩とが戦った時、彼の兄に放火させ、敵軍を掻き乱させましょう。奴等の軍が混乱したら、我等は一気に攻撃します。そうすれば、どうして支え切れましょうか?屏藩の軍さえ破れば、我等は一挙に陜西を平定できます。」
 図海は言った。
「二人の策は、どちらも取るべき所がある。ただ、吾にも策はあるのだ。屏藩は、長い間固原を根拠地にしてきた。まず、ここを奪取してから南下する。そうすれば、屏藩は帰る場所を無くしてしまう。今、一軍を出して併陽へ下り、本隊は長武一帯を守る。そうしておいて、大軍で固原へ攻め込み、屏藩との交戦を待ってから、孫年の策を実行させるのだ。」
 諸将は皆納得したので、図海はこの戦略に従って準備を開始した。
 一方、屏藩。彼は、呉三桂が死んだ哀詔を手にした。又、新君の即位も知り、彼自身、鎮西王に封じられた。呉之茂は蕩西王、談洪は鎮国公で、皆、金吾衛将軍の称号を与えられた。
この爵位を得て、屏藩は益々奮起し、諸将と軍議を開いた。
 まず、呉之茂が言った。
「先皇が崩御したので、人心は動揺しております。この一戦こそ正念場。それに、我が君の崩御を知れば、図海は戦争を仕掛けて来るに決まってます!まず、先制攻撃を掛けるべきです。陜西は険阻な地形。守るには易くても、進撃は難しい。ですから、東南へ転進し、扶風、武功から長武の背後へ総攻撃を掛けます。図海は必ず軍を分けて防御するでしょうから、我等は咸陽に沿って東進し、長躯進軍してべん・顎の背後へ出ます。道々、義勇軍を招聘し、我等の良将を選んで要所を守らせて糧道を確保すると共に、図海と蔡敏栄の追撃も防がせます。こうすれば、陜西から東進して、一挙に天下を平定できます。」
 すると、談洪が言った。
「その策は、成功すればよいが、失敗すれば大変だ!我が軍は敵中に孤立して、下手すれば全滅です。胡・夏・馬の三将が全軍を湖南へ結集しながら、なかなか進軍できないのに、我々ならば尚更ですぞ。」
「いいや、それとこれでは話が違う。」
 呉之茂は言った。
「胡、夏、馬の三将が、長沙を守っている。湖北、江西の敵が、どうして軽々しく進軍できようか!我々は漢中だけを考慮すれば良い。だから、四川へ書状を出し、鄭蛟麟に漢中を固めて貰えば、万に一つも憂いはない。
 今、国家多難の時だ。多少の危険は覚悟の上。もし、無為に日々を送れば、兵卒の心は益々疲れ、取り返しがつかなくなってしまうぞ!」
 それを聞いて、王屏藩が口を開いた。
「先帝の親征が途中で頓挫したので、図海めは、我等が討って出るとは考えて居るまい。馬宝、夏国相等は長沙に封じ込められ、我が軍も又、陜西に阻まれているのだから、図海は後顧の憂いが無くなったとて、油断しきっているに違いない。呉将軍の策は、敵の不意を衝いている。それに、ここで無為の日々を送ってもジリ貧だ。それならは、大勝負に出るしかないではないか。この作戦を、決行しよう。」
 ここで、部将の李本純が言った。
「その策を決行するとなると、少数では話になりませんぞ。もし、大軍を以て進撃するのなら、陜西を放棄して、全軍を結集しなければなりません。 それに、行軍距離も長い。ただ陜西を放棄するだけではなく、敵に迎撃の準備時間を与えてしまいます。
 すると、屏藩は言った。
「陜西の得失など、大局に影響はない。それに、我等の行動が敵に漏れても心配はない。奴等が全ての城を守ろうして、守備を分配するだろうが、我々は戦いを求めるのではない。ただ、進撃するのだ。守備が弱ければ落とし、強ければ放置して先を急ぐ。そうやって、敵を奔命に疲れさせるのだ!」
 こうして、李本純や談洪の意見を聞かず、遠征を決意した。
 と、そこに固原から流星馬が駆け込んできた。
清の大軍が来寇しました。至急、救援を乞う!」
 王屏藩は驚愕した。
「これでは呉将軍の策も決行できない!もし、この状況で遠征すれば、ただ陜西を失うだけでは済まないぞ。まだ、漢中の防備は固まっていない。漢中まで無くしたら、四川が危ない!どうすれば良い?」
「何の!これは朗報ではありませんか!」
 カラカラとうち笑ったのは談洪である。
「敵が来たなら、撃ち破るのみ。固原を守るのではなく、大敵を撃破するのです!図海めは、前回大敗したばかり。大敗すれば、兵卒の志気は萎える。それで再び戦いを挑むなど自殺行為ですぞ。我等が精鋭で迎撃すれば、撃破できます。図海がここで再び敗れれば、もう東へ逃げるしかありますまい。そうなれば、我々は陜西を保全できるだけではなく、三晋・べん梁への路を奪取できるではありませんか。」
 王屏藩は大いに喜び、全軍を率いて固原へ向かった。行軍の途上、屏藩は諸将へ言った。「図海の来寇は、先帝の崩御に乗じただけ!我が国の興廃はこの一挙にある!各自、奮励努力せよ!」
 諸将は途端に勇み立った。
 更に、屏藩は清将の張勇へ書状を渡して降伏を勧めた。彼とは普段から親交があったので、前にも王爵を以て降伏を勧めていたが、返事が来なかった。そこで、再び招聘したのである。
 書状を読んだ張勇は、使者へ言った。
我と王将軍との親交は私事。既に敵味方になった以上、各々其の主君のために戦う。それが公。今後、私語での通信は止めていただきたい。」
 王屏藩は、その返答を聞き、張勇に降伏の意が無いことを知って、激怒した。
「奴め、俺を殺すことしか考えておらんのか!それに、我が軍を見くびっておるな!今後彼奴に遭ったら、必ず殺して、この恨みを晴らしてやる!」
 程なく、彼等は化平へ到着した。ここで斥候を飛ばしたところ、固原は既に敗北していた。
 この時、固原を守っていた周将は、陳旺。彼は軍をまとめ、屏藩のもとへやって来た。
「図海は自ら大軍を率い、既に固原を奪取しました!衆寡敵せず、某には手が討てません。何とぞ速やかなるご対処を!」
 屏藩は言った。
「奴等の進軍が、正しく神速!このまま進軍するのは拙いな。化平へ駐屯して待ち受けよう。」
 そして、陳旺がかき集めた敗残兵を後陣へ回し、呉之茂・談洪に左右翼を任せ、布陣して敵を待ち受けた。
 一方、固原を陥落した図海は、王屏藩軍襲撃の為、そのまま南下した。そして、趙良棟には、孫年の兄の内応工作を続行させた。
「王屏藩は老獪。内応の放火くらいでは、対処してしまうかもしれん。しかし、内応者が出たとなると、兵卒は動揺する。そこに乗ずるべき隙も生まれよう。王屏藩軍は強力で、部下も猛者揃い。だから、討てるだけの手を打たなければならぬのだ。」
 趙良棟は、孫年を密かに呼び出し、計略の実行を命じた。すると、孫年は言った。
「両軍の距離が離れており、密書を放っても、途中で捕まるかも知れません。某自ら兄のもとへ出向くのが一番確実でしょう。ただ、成功の暁には、兄へ褒美を与えるとゆう確約を頂きとうございます。」
 趙良棟は了承し、書状を書いて孫年へ渡した。孫年は密かに周軍へ行くと、「捕虜となっていたが、隙を見て逃げ出したのだ。」と取り繕い、うまく兄のもとへやって来た。そして、兄の孫祥へ、具に計略を述べ、言った。
「大局を見て下さい。呉三桂が死んだ以上、周の滅亡は目に見えています。ここで手柄を建てれば、清に帰順できます。こんな好機は二度と来ません。」
 孫祥は即答せず、弟を自分の営に留めた。心の中で思うには、
”周の臣下となった以上、死ねば周の鬼となる。それだけだ。”
 遂に、彼は趙良棟の書状を王屏藩へこっそり届け出た。
 王屏藩は言った。
「君はどう思ったのかね?」
「兄弟は私情。それで御国を裏切れません。」
「誠の忠臣だ!それならば、一働き頼めるな。君は営へ帰ったら、弟を騙しなさい。『王屏藩は持久戦で図海の疲弊を待つ腹づもりだ。その傍ら軍を二分し、一隊は鳳翔から東進してべん・梁へ向かわせる。』と。そして、図海・趙良棟が来襲したら、火を放って、放火したように見せかけろ。それから先はかくかくしかじか・・・」
 計略を授けられると、孫祥は営へ帰り、孫年へ言った。
「明日の深夜、図海殿が夜襲して下されば、火を放って内応しよう。」
 孫年は即座に清営へ戻って復命した。すると、図海は言った。
「この策は、巧く行かぬかもしれん。それでも我は進撃のつもりだが。」
 しかし、趙良棟は信じ込んでいた。孫年を手厚く扱っていたし、孫祥はその兄なのだから。彼は疑いもせずに軍馬を整えさせると、翌夜を待って進軍した。
 敵の手の内を知った王屏藩は、呉之茂と談洪へこれを伝えた。左右の両翼は旗をしまい、軍鼓は静まり、あたかも寝静まったかのようだった。ただ、本営を始め、チラホラと灯が点っていた。
 この有様を見た図海は、左右へ言った。
「我等を誘い込むつもりなら、灯りを消し、静まり返っているはず。今、敵軍は静かとはいえ、平常の静けさ。計略は、未だ洩れてはおらぬ。」
 そして、三鼓の頃合いに趙良棟を進軍させた。ただ、蹉跌を危惧し、孫思克と張勇を後詰めとした。
 趙良棟は静かに進み、周の中軍に近づくと、一斉に攻撃を掛けた。周軍は慌てふためいた振りをして撤退する。と、その時、周の後陣からパッと火の手が挙がるのが見えた。
「おお、孫祥がやったか!これに乗じて追い詰めろ!」
 だが、この火は、枯れ草が燃やされただけだった。そうとも知らずに趙良棟は、撤退する周軍へ追撃を掛けた。十余里程追撃したか、突然、道の両側からドッと歓声が挙がって矢が雨のように飛んできた。間髪を入れず、呉之茂と談洪の軍が、両脇から襲いかかる。応じるように、撤退していた周軍が、クルリと向きを変えて襲いかかった。
「しまった!敵の計略だったか!」
 趙良棟は慌てて撤退を命じた。しかし、軍は既に混乱している。両脇と正面から半包囲した周軍の攻撃も容赦ない。たちまちのうちに大勢の死傷者を出してしまった。
 だが、ここに前軍の敗北を知った孫思克と張勇が駆けつけてきた。周軍は十余里程追撃していたが、敵に援軍が顕れ、趙良棟が救出されたのを見て、撤退した。
 趙良棟は、体に数カ所の傷を負い、三千人の損傷を出した。彼が図海へ罪を乞うと、図海は言った。
「全員が納得尽くでの攻撃。裏をかかれたのは将軍一人の責任ではない。次回、奮起して功績を建てればよい!」
 趙良棟は恩を謝して退出した。そして孫年の罪を糾明しようとしたところ、事の顛末を聞いた孫年は、逃げられないと思って自刎していた。
 当初、趙良棟は孫年が周軍と内通して裏切ったのだと疑っていたが、自刎した姿を見て、その潔白を知った。そうなれば、孫年へ対して、恨むところはない。ただ、自分の計略が綿密ではなかったことを怨み、孫年の遺骸は懇ろに葬った。
 一方、王屏藩軍。趙良棟軍を撃破した後、死傷者を点検し、敵に数千の被害を与えたことが判った。
 呉之茂は言った。
「昨夜の戦いで、敵に救援軍が顕れなければ、趙良棟を殺せたものを。」
 すると、王屏藩。
「我は、大計を小用したことを惜しむ。ただ、数千の打撃なら、敵の戦意を挫くには十分か。」
そして、孫祥を厚く賞し、副将に抜擢した。更に、進軍について協議すると、呉之茂が言った。
「図海は遠征軍。速戦を狙っている筈。実際、電光石火の早業で固原を陥れました。しかし、それ以後は積極的な戦闘がありません。これは疑わしい。だから、我はここに在りながらも、漢中が心配なのです。」
 談洪は言った。
「漢中は遠く離れている。図海と雖も、ここにいて何ができます?今、目前に大敵が居る。ここで大勝すれば、万事目出度しですよ!」
 その考えに王屏藩も同意し、進軍を決議した。談洪を前鋒とし、呉之茂に各路を援撃させ、王屏藩は大軍を率いて図海と交戦する。
 王屏藩が進軍することは、図海の予測の内にあった。そこで、図海は孫思克を先行させ、試みに戦わせてみた。この軍は、談洪と相対した。談洪が一気呵成に攻め込めば、孫思克は全軍を挙げて防御する。呉之茂も又、勢いに乗って攻撃した。
 孫思克の一軍が敗走すると、王屏藩も勢いに乗って追撃した。すると突然、東路から一軍が突撃してきた。清の張勇率いる一隊である。王屏藩は、呉之茂にこれの防御を命じると、自身は死を冒して更に進んだ。図海は、前軍が不利と見て取り、貝子顎洞へ中軍を与え、救援に向かわせた。王屏藩は、談洪に孫思克への攻撃を命じ、自身は図海の本隊と戦った。
 伝令は戦場を行き交い、勝敗はめくるめく変わる。あちらこちらで強者達が死力を尽くして相い挑み、血臭は千里に漂って兵の心を狂わせる。軍鼓を鳴らして進撃せよ。退却の鉦など聞く耳持たぬ。戦闘は午後まで続いたが、両軍共に損傷し、なかなか勝負が付かなかった。
 王屏藩は叫ぶ。
「進め、進め!進めば恩賞、退く者は誅殺するぞ!」
 自ら剣を振りかざし、先頭に立って遮二無二進んだ。勇将の下に弱卒なし。清軍は次第に押され始めた。周の兵卒は勇猛果敢。遂に清兵に怖じ気が走った。前軍の吉林馬陣も多くの馬が傷ついて、左右が奔潰した。右路に戦う孫思克の一軍も、呉之茂に乗じられ、とうとう清軍は勢いを失った。
「勝った!」
 王屏藩がそう思った時、図らずも伝令兵が駆け込んできた。
「併陽陥落!我が軍は糧道を絶たれました!」
「何!」
 王屏藩は愕然とした。
「天は我等を滅ぼすか!」
 一声叫ぶと、彼は意識が朦朧となり、馬から転がり落ちた。左右が慌てて助け起こしたが、王屏藩は意識を失っていた。それで、部将達は王屏藩を後方へ連れていった。
 軍中の主将は既にいない。しかも併陽は陥落して糧道が絶たれた。そうなれば、清軍は必ず漢中まで占領するだろう。周軍の兵卒達の志気は一気に崩れ、皆、慌てふためいてしまった。
 片や図海。総崩れ寸前まで追い詰められて憂慮していた所、却って周軍が浮き足だった。
”さては、王進宝がやりおったか!”
 そこで、趙良棟へ左路から攻撃させた。すると、周軍は潰れた。図海は貝子顎洞と共に、嵩にかかって攻撃し、周軍は大敗してしまった。
 周の談洪は、数カ所の手傷を負っていたが、殿を務め、懸命になって馬を操り、戦いつつ逃げた。呉之茂は本隊の総崩れを知って救援に駆けつけようとしたが、孫思克から阻まれ、遂に退却を余儀なくされた。かくして、周軍は敗北を喫した。
 呉之茂は思った。
”この敗北は痛い。図海は必ず追撃するぞ。”
 振り返れば、自軍の兵卒は、まだそれ程疲労していない。そこで、殿を買って出、談洪には先に逃げさせた。その傍ら、王屏藩のもとへ使者を派遣した。
「このままでは、化平にも踏みとどまれません。華亭を取って駐留するべきです。」
 談洪も納得し、軍を急がせ先行した。
 図海は、王屏藩の実力をよく知っていた。驍勇で知謀があり、苦難に耐える。
「今回の敗戦こそ千載一遇の好機。今、王屏藩を始末しなければ、必ず後の患いとなる。」
 こうして、図海は全軍に追撃の命令を下した。
「王屏藩は、呉三桂の虎。彼が穴を失った機会に乗じて殺さなければならない。もし、逃げ延びて再起したなら、悍敵となって甦る!王屏藩を殺した者には、万金の賞を与えるぞ!」
 将兵は、勇んで追撃した。対して周軍は、ただ南を指して逃げに逃げた。
 さて、談洪の部下達は、既に併陽の陥落を知っていたので、戦意を喪失して懸命に逃げた。それが判ったからこそ、呉之茂が殿を代わったのである。その呉之茂へ対して、趙良棟と張勇が、両路から挟撃した。
 この時、周の前軍は既に潰走して、呉之茂軍は孤立していた。
”これ以上戦ったら完全に包囲される。”
 そう判断すると、呉之茂は撤退を命じた。
 暮れ近くになり、彼等は化平へ到着した。呉之茂はここで敗残兵を収容して軍用を整えたかったが、図らずも、追撃する清軍は間近に迫っていた。図海は呉之茂が化平にて陣容を整えることを恐れ、別働隊を化平へ派遣していたのだ。
 清軍は桟道から出現して呉之茂軍を攻撃した。呉之茂は軍容を整えることもできず、更に撤退するしかなかった。この戦いで、清軍は又も大勝利を得た。
 やがて、真夜中になり、月が中天に昇ると、図海は攻撃を停止させた。慣れない地形で、逆襲されることを恐れたのだ。夜間は行軍にも不便であり、清軍はここに宿営した。
 化平での戦闘で、周軍は更に七千の打撃を受けた。もっとも、もしも呉之茂が奮戦しなければ、とてもこの程度では済まなかっただろうが・・・。
 大勝利を得た図海は、両日の間、兵卒を休ませてから、南下した。この機会に、何としても王屏藩を屠らねばならない。
 片や、王屏藩も追撃は覚悟していた。そして、大敗の後の自軍では、とても図海軍と戦えないことも判っていた。それに加えて、併陽は既に陥落した。そうなれば漢中も危ない。ここは、華亭も放棄して漢中へ走るべきである。
 呉之茂が言った。
「図海は、勢いに乗って追撃を掛けます。もし、このまま漢中へ行けば、我が軍は全滅するかも知れません! 私がここに留まって図海軍を防ぎましょう。将軍は漢中へ入り、人心を鎮めてください。」
「呉将軍がそうしてくださるのなら、誠の忠勇!ただ、図海軍は全軍を結集しております。将軍が自ら測られて、これを防ぎ切れましょうか?」
「それは言われますな!ただ、一日でも長く、敵を足止めさせて見せます。将軍は一刻も早く漢中へ入り、陣容を整えられるのです!」
 王屏藩は頷いた。
 この時、談洪は傷が元で発病していた。そこで、王屏藩は談洪と共に漢中へ向かい、呉之茂一軍が留まった。
 呉之茂は、軍中にて力強く言った。
「漢中はまだ落ちていない!今、王大将軍も漢中へ向かった。これで大丈夫だ。大将軍が漢中へ到着すれば、我々も又撤退できる。諸君、各々持ち場へ就いて、奮励努力せよ。我が軍は、しばらくここに留まるだけだ。その目的は、漢中を確保することにある。」
 そして、資財をあらいざらいつぎ込んで兵卒を労った。これによって、軍士の志気は幾分盛り返した。呉之茂は奮闘しながら、少しづつ撤退したのである。
 さて、王進宝は併陽にて周軍の兵糧を焼き払うと、即座に兵を纏め、漢中目指して南下した。道々、兵卒を招納したので、声勢は大いに振るった。王屏藩は、この一軍も予測していたので、なおさら、夜を日に継いで撤退を急いだのである。
 幸いにして、王進宝が到達する前に、関隘を確保できた。これを知った王進宝は、敢えて攻撃しようとはせず、しばらく兵を休めて図海の指示を待った。
 周軍では、談洪の病が、思いの外重症だった。漢中へ着いた途端、彼は床へ就いてしまった。 これだけでも、王屏藩の胸は痛んだ。なお、追い打ちをかけるように悲報が届いた。
「呉之茂軍、遂に図海軍に包囲されました!」
 王屏藩は嘆息した。
「呉之茂は逃げられなかったか!我がもし救援に赴かなければ、呉之茂は死ぬ。だが、救援に向かえば漢中が危ない。我が挙兵して数年。これ程の窮地は、かつて無かった!」
 叫び終えると、鮮血を吐いた。
 この時、王屏藩は大勢挽回が困難であると思い知り、国に殉じる覚悟が決まった。