第三十回 郭壮図は古塔を修飾し、

      夏国相、長沙を棄てるよう倡議する。

 

 さて、計画が漏洩した尚之信は広東へ引き返したが、端渓まで来たとき、李天植が再び言った。
「大王が広東を離れてからこの方、広東の状況が判りません。ゆっくりと進んで、事態を充分把握しましょう。」
「馬鹿な。吾が広東へ戻ったら、莽依図は金秀や宣昌阿と連携を取って吾を追い詰める。ゆっくりなどしておられん。」
「私が気にかかるのは王国棟ただ一人です!彼が大王へ諂っているのは何故ですか?大王の力で出世するためだけではありませんか!沈上達や張貞詳も、大王の寵用を良いことに、ただ金をかき集めることしか考えておりません!このような連中は、変節しやすいものです。今、他の者が従来通りの高官厚禄を約束すれば、大王から受けた恩義など、どうして覚えておりましょうか!」
「それは思い過ごしだ。吾が呉三桂へ帰順したのは、一朝一夕のことではない。今まで王国棟等が吾を害した事など無かったのに、何故今日に限ってこれを疑うのだ?」
「昔は昔、今は今です。昔日は、大王の威厳が広東を振るわせておりました。そして全権を一人で掌握して居れば、誰が背けましょうか?ですが、今、失意のうちに軍を返し、僚属の間に疑惑が広まっております。ましてや巡撫の金秀と朝廷直属の宣昌阿が、同じ広東へ居るのですぞ!彼等がみんな揃って大王を謀ろうとしております。そして護令弟の尚之孝殿も、常々大王を陥れて王位を襲爵しようと狙っておりました。まこと、御配慮せねばならぬ事態です。」
 聞き終えて、尚之信は黙然と語らなかった。だが、王国棟が寝返ったとは限らない。そして、莽依図が広東へ先回りしてこれを制圧することも恐い。それで、自然と軍を急がせてしまった。結局、李天植の言葉に従わず、三軍を率いて広東へ急行したのだった。
 城も近くなった時、斥候兵が言った。
「王国棟は既に軍を率い、大王をお迎えに参上しております。」
 尚之信は大いに喜んだ。
「王国棟は、果たして吾に背かなかった。李天植は何を心配していたのだ?」
 その言葉が終わらないうちに、王国棟が姿を現し、下馬して尚之信を迎えた。尚之信はその手を執ると、密かに耳打ちした。
「吾が国元を離れている間、金秀や宣昌阿は何をして居った?」
「不審な挙動はありません。二人とも、大王の凱旋を心待ちにしていただけです。」
 尚之信は疑惑も持たずに、馬を急かせた。
 尚之信は、又、王国棟へ言った。
「国中の兵を集めて一斉蜂起するのに、どれ位かかる?」
「その権限は大王が独占して居られます。急がれるのならすぐにでも。どうしてそのようなことをお尋ねになられるのですか?」
「うむ。吾は昔、自らの手で明を滅ぼしたが、これは大きな誤りだった。その過を贖罪しようと、吾は呉三桂と同盟したのだ。これはお前の知らん事だがな。
 今回、江西へ行って、莽依図を謀ろうと思ったが、失敗した。かくなる上は、金秀と宣昌阿を殺し、速やかに起兵して、莽依図に対抗せねばならん。事は急を要する。遅れれば制せられる。お前は吾の腹心だ。吾の為に、一臂の力を振うのは今だぞ。お前が恃むに足りんと疑う者もおるのだ。吾は信じなかったがな。」
「何と!私は大王へ長年従っております!その私を疑われますか?いや、私だけではありません。大王のお言葉では、藩兵さえも疑って居られるご様子!ですが、藩兵は長年厚恩を蒙っておりました輩ども。ご命令あらば、断じて違う者はおりません!大王、どうかご心配なく。」
 既に、彼等は城へ入っていた。いつの間にか、周りは王国棟の率いていた兵卒ばかりとなり、尚之信の三軍は、ずっと後へ遅れている。李天植は不安でならず、尚之信のもとへ駆けつけようとした。
 と、その時、王国棟が合図をすると、兵卒達は一斉に声を挙げて尚之信へ飛びかかった。尚之信が暴れても、所詮は多勢に無勢である。尚之信は、アッと言う間に馬から引きずり降ろされ、縛り上げられてしまった。
「何をする!裏切ったか!」
「巡撫と欽差のご意向です。」
 その言葉も終わらないうちに、あちこちから兵卒達が姿を現した。
 王国棟の兵卒達が、突然、城内へ駆け込んだ為、李天植は変事が起こったことを知り、兵を城外へ留めると、一隊を率いて城へ近づいた。すると、道々の噂で、尚之信は捕らえられ、城門が固められたことを知った。そこで李天植は引き返し、巡撫の部署へ詰問の書状を書いた。だが、巡撫の部署では既に異例の早さで尋問が始まっていた。尚之信が清へ背いた罪状の詰問である。
 尚之信は初めは否定していたが、王国棟、沈上達、張貞詳の三人が、交々証言を論った。中でも王国棟は、先程の耳打ちをそのまま語り挙げたのである。ここに至って、尚之信は逃れられないことを悟り、三人へ向かって罵った。
「吾は、お前らを厚く遇したのに、何故、却って吾を陥れるのだ。」
 三人は、黙りこくって答えない。ただ、張貞詳のみ、恥じる色があり、尚之心の言葉に赤面した。
 宣昌阿は、尚之信を更に押さえつけ、同類の名前を白状させようとした。すると、王国棟が言った。
「尚之信は、自立してから兵権を専断しました。この藩には、彼の腹心が大勢居ります。時間を与えると、脱出される恐れがありますぞ。」
 金秀も同意したので、宣昌阿は、すぐにでも市場で斬罪に処することに決めた。
 尚之信が捕まってから殺されるまで、わずか半日。大半の人間は、尚之心が処刑されたことさえ知らなかった。李天植の書状が巡撫のもとへ届いたのはこの頃であった。
 王国棟は、李天植も尚之信の同類だと告発した。そこで宣昌阿は捕らえようとしたが、金秀が言った。
「尚王は殺しましたが、藩兵はなお、李天植の手にあります。この藩兵達の多くは、尚王の私恩を受けた連中。もしも李天植が彼等を煽動したならば、大きな患いとなりましょう。ここは、寛大な処置で手なずけて、後に又謀った方が賢明です。」
 宣昌阿も同意し、尚之信の罪状を宣言したが、李天植は慰撫し、藩兵を解散させるよう命じた。
 これを聞いて、李天植は言った。
「吾は生まれてからこの方、尚王殿下の御厚恩と信頼を賜ってきた。仇を報いずにおるものか!」
 そして、兵卒達へ言った。
「尚王殿下の罪状は、処刑される程ではない。あの三人の忘恩の賊徒達に陥れられたのだ!」
 尚王が殺されたと聞いて、兵卒達は傲然と騒ぎたてた。そこで、李天植は再び書を書いた。
”尚王が周と通じたのは既に昔の話。今は正道に立ち返りました。なんで処刑された?「王が挙兵して莽依図の背後を衝く」と言い立てたのは王国棟一人だけですぞ!恩を忘れ主君に背き、これを死地へ陥れる。許されざる大罪です。欽差と中丞はそんな悪人を庇い立てなさるか?それなら、人心が収まりませんぞ!”
 宣昌阿と金秀は慌てて談合した。藩兵達は爆発寸前。ここで暴動を起こされては、我が身も危ない。そこで、李天植と書簡をやり取りし、結果、王国棟、沈上達、張貞詳の三人を斬罪に処して、藩兵達へ謝罪することとなった。その代わり、李天植は藩兵を解散させる、と。
 李天植が承知したので、金秀は三人を引き出し、「主君を讒して陥れた。」と罪状を読み上げ、市場で斬首の刑に処した。
 憐れむべし、この三人。尚之信の力を借りて富貴を得たのに、その栄華を保つ為に却って恩人を陥れる。その報いは、たちまち我が身へ降りかかり、忘恩背主の戒めと成り果てたのである。
 処刑終了を知り、李天植は側近へ言った。
「宣昌阿と金秀があの三人を殺したのは、我等を恐れたればこそ。既に恐れている以上、いつまでも放置する筈がない!吾は既に主人の仇を討ち、心残りもなくなった。いまさら生を貪って何になる?」
 そして、今度は将校達へ向かって言った。
「我等が主君の志は大きかったが、呉三桂は大業を成せる器ではなかった。事は終わった。これ以後、お前達は妄動してはならん。」
 言い終えるや、剣を抜いて自刎した。
 ところで、宣昌阿と金秀が三人を殺したのは、単に武装を解かせる為だけだった。ところが、図らずも李天植は自刎してまで部下達を戒めたのだ。だから、これを聞いて、二人とも感動してしまった。
”李天植は、義として主君を忘れなかった。その至誠は敬すべし。”
 彼等はそう奏上して、李天植を追褒するよう請願した。
 これ以後、藩府の兵権は、尚之孝へ帰順した。そこで彼等は、尚之孝が平南王を襲爵するよう請願した。尚之孝は兄に反し、広西へ出陣して莽依図を助けたのである。
 この後、呉三桂軍にとって、両広が大きな後患となる。計略は、長沙と岳州で前後して失敗し、今又尚之信を失う。呉三桂の軍中は大いに震動した。
 ところで、雲南は、決起当時の呉三桂の本拠地である。そこで、この事件によって兵糧調達に不安を持った馬宝と夏国相は、雲南へ飛報を出した。

 雲南を守るのは、呉三桂の大ふ馬、郭荘図。彼は各路から兵糧を送った。これらについて、その兵糧の調達を、彼は増産や貿易の奨励、そして増税で対処していた。だが、呉三桂の軍は多い。必要な兵糧も莫大で、民の負担も大きく、住民達はあちこちで怨言を洩らすようになってしまった。
 呉三桂軍が岳州へ撤退し、尚之信の戦意喪失等が伝わると、住民達の不安に拍車がかかった。両広は肥沃な土地である。だが、前途の艱難の大きさを思うと、これから先の負担が思いやられる。それに、両江は肥沃な土地。その援助が無くなれば、雲南へかかる負担はもっと増えるのではないか?賦税は更に重くなるのではないか?雲南のあちこちで、謡言が流行った。郭荘図は、この事態に頭を悩ませてしまった。
”何とか人心を鎮めなければならない。”
 その思案を凝らしている最中、帰化寺の住職の弘念が、寺の補修を請願してきた。
 この帰化寺は、明の成化年間に建立されたが、それ以降、次第に頽廃して行った。弘念は、常々、これを何とか整備したいと願っていたのだ。今回、郭荘図が人心を紛らわせたがっていることを知ったので、彼は吹聴して回った。
「御仏の言葉が降りました。『大周の挙基を佑けようではないか。』と。この寺は、久しく荒廃しておりましたが、この霊験に答える為、華麗に修飾いたしましょう。」
 その折も折、王屏藩が図海を破ったというニュースが雲南へ飛び込み、庶民は狂喜した。そのお祭り騒ぎの中で、大勢の士民が帰化寺へ寄進したのである。
 こうして、帰化寺では土木工事が大々的に行われ、数ヶ月のうちに本殿が落成した。
 そこで郭荘図は、これを呉三桂へ伝えると同時に、帰化寺へ祈願を命じることと、弘念に封土を与えることとを請願した。又、帰化寺へ碑文を賜り、寺の縁起を記させた。

”昆明から五里の場所に、金馬とゆう山がある。晋代の『南中志』は、この山に神が住むと記している。遡れば、漢の宣帝が、諫議大夫の王褒を派遣して、神を祀った。その地こそが、この金馬山である。
 時代は降って、大明の御代。仏教を尊んだ太祖皇帝は、寺門を建立するよう、天下の郡県へ命じた。その太祖の志を遵じ、成化年間、金馬山へ寺院が建立され、「帰化寺」と名付けられたのである。嘉靖年間、この寺は修復され、田畑や僧侶が整備され、今の形が備わった。
 この寺の前面に広がった昆池には、雲が湧き霞たなびき、後面に擁した金馬山に斗勺(北極星と北斗七星)が懸かる。右には城雉が踞り、左に広がった田畑は鱗のように集まっている。ここはまさしく、真州の景勝。それ故、この殿は「廡(ほそどの)精舎」とも称された。
 しかしながら、経る年月に、いつしかここも古ぼけていった。その衰退を眺めれば、今昔の思いに寂寥を禁じ得ない。
 今、大周が興り、大事が成就しようとしている。その霊験はあらたかである。その霊光の御加護へ答える為には、この寺を華麗に修飾するより他あるまい?ましてや、住職の弘念が疏状を以て上奏したのだ。だから、殿宇を重厚に整え、その門を高くし、旧観を復興しようと思った。
 留守将軍・雲南総督・ふ馬郭公が孤へ請願し、内府右将軍張公弼吉、内府後将軍趙公子遠が後押しする。それ以来、大勢の民がこの趣旨に賛同し、挙って寄進した。そうして、僅かの間に見事なる殿や門が完成した。これは、衆心の悦望の成果ではあるが、その発端は、一・二の篤志家が人々の心を動かし続けて止まなかったことにある。
 だが、天下は創造より継承の方が困難なものだ。雑草を取り除き、荊棘を払って寺を構え、重軒を南北へ連ね、飛閣がそびえ立ってはいるが、これらはある面、掌を翻すように容易なことである。これに対して、旧規に依って子孫へ伝え、家屋を立派に補修し、或いは維持する為に工夫を凝らす時には、却って思うようには行かないことがあり、重い荷物を背負って高い山へ登るように苦労する。これは何故だろうか?それは、今の人が物の軽重を知らず、努めることが出来ないからだ。
 そもそも、世相には治世と乱世があり、事には緩急がある。泰平の世では願望も大きいが、乱世では生きて行くだけで手一杯。苟も自身や家族さえ生きながらえるならば、他に何を求めようか?それで、人主の嗜好や、禍福死生の説に恐れを抱くのである。
 これに対して、成功を求める人々は、目に見える成果を期待する。権勢のある者へ媚び諂うと忽ち富裕になれるが、仏を敬ったとて目に見える効果が現れない。その結果、仏事は後回しにされてしまう。
 そうゆう訳で、創世の主君は宮殿を盛大に建てることを考え、後継者は泰平無事の間はそれを改めることが出来ないのである。
 今、民の心を鼓舞して修復を達成できたのは、御仏の霊験の賜。そして、治乱もはからず、一心にこれを求めた仏子の功績である。ああ、弘念こそそれである。よって、その功績を讃え、ここに記す。”

 帰化寺が落成すると、郭荘図と林天敬は、それを呉三桂へ奏上した。呉三桂は帰化寺へ詣でるよう、又、仏法を厚く庇護するよう、彼等二人へ命じた。こうして、雲南では国を挙げてのお祭り騒ぎとなったのである。
 既に、この工事の時に膨大な金が費やされた。だが、郭荘図は、今度は弘念へ封土を与える許可を取り付けようと考えた。とうとう、林天敬は、郭荘図へ言った。
「国家の財政は、既に逼迫しており、戦況も芳しくありません。今からは、戦費捻出の為に節約を重ねても、まだ足りないことを恐れるのです。それがこのような虚名に金を費やすなど。ふ馬は皇室の一員。もしも陛下が奢侈や虚名に現を抜かされ始めたら、これを戒めるべき立場ですぞ。それが自ら焚き付けるなど!」
 だが、郭荘図は言った。
「私とて、それは判っている。ただ、人心が動揺したら何もできない。だから、人々の目を逸らす為に、帰化寺の落成を行ったのだ。やむをえずにやっておるだけだ。」
「ふ馬がそれを知っておられるのなら、敵を打ち払う算段をするべきです。このような姑息な手段で、いつまで誤魔化すことが出来ますか?」
 二人が議論していると、胡国柱、馬宝、夏国相から報告が入った。
”岳州陥落。江西は撤廃す。尚王は既に死し、両江・湖南も危ない。速やかに募兵して増援軍を送ると共に、兵糧の手配も頼む。”
 郭荘図は嘆息した。
「胡・夏の二公は、謀略に精通し、周皇帝の片腕とも言うべき方々。馬宝も又、李定国麾下の悍将。この三人を以てしても、ここまで追い詰められるのか?」
 林天敬と顔を見合わせて消沈するばかり。とりあえず、長沙へは、雲南の財政逼迫を告げ、鋭意努力すると答える以外なかった。

 さて、江西へ戻ろう。
 胡国柱と馬宝は長沙に留まり、夏国相は渕陽へ駐屯した。これに対して、清軍が速やかに進攻し、長沙へ集結するのは明白だった。そこで、夏国相も長沙へ退却した。
 馬宝が胡国柱へ言った。
「大局の危急。長久の策も大事ですが、目前の危機も乗り越えなければなりません。」
 彼等が談合していると、夏国相がやって来た。そこで、馬宝は三人で協議することにした。
 まず、夏国相が言った。
「今、我等数人は湖南へ結集した。そして、後顧の憂いを無くした敵方も、総力を挙げて向かってくる。こうなれば、長沙は四達の地だけに、どこからでも攻撃され、守るには不利だ。それに、防戦に専念して攻撃しなければ、最後には守りきれなくなる。」
 すると、馬宝が言った。
「我等の最初の失策は、進軍が遅すぎたこと。次の失策は、湖南の守りに固執したことです。川、陜の友軍では、長躯して敵を分断させるほどの兵力を持たず、ついに、敵を結集させてしまいました。敵は既に多勢。まっとうにやりあっては勝ち難い。兵力が枯渇し、勝機を失ったのならば、徒に長沙を守っても意味がありません。」
「その通り。この際、長沙を放棄して進軍してはどうか?数道に分かれて進軍し、この後は城塞を落としても守備兵を残さず、長躯北進するのだ。ここで守りを固めても、先の目はない。」
 胡国柱が言った。
「お二方のご高説は、まことに最も。すぐにでも周帝陛下へ進言し、裁可を頂きましょう。」
「それは良いが、周帝は長沙に固執して居られる。ここを放棄すると言えば、お聞き入れ下さるまい。」
「夏国相の言われる通り。ただ、周帝の裁可もなしに、独断で長沙を放棄するなど、誰に出来ましょう?後の責任は誰が受けるのですか?」
「二つの策を行いましょう。」
 そう言ったのは、胡国柱だ。
「まず、周帝へは長沙の危機を盛言し、ここの守備が役に立たないと説得する。陛下が大軍を率いてべん・梁方面へ親征なされば、ここは自ずから危機を脱します。そうでなければ、長沙を棄てる以外にありません。周帝の意向を見てから謀りましょう。」
 夏国相も馬宝も、これに同意した。そこで、彼等は現状を詳細に記し、呉三桂の元へ使者を派遣したのである。