魏、東西分裂
 
不協和音 

 中大通四年(532年)。喬寧と張子期が高歓へ降伏した時、高歓は彼等を斬り殺した(詳細は、「爾朱氏の乱」に記載)。侍中の斛斯椿は、それ以来不安になってしまった。
 五年、正月。高歓は爾朱兆を滅ぼした(詳細は、「爾朱氏の乱」に記載。)。
 同月、斛斯椿は南陽王寶炬や武衛将軍元毘、王思政を語らって、高歓暗殺を謀った。元毘は、中山王遵の玄孫である。
 また、舎人の元士弼が皇帝へ言った。
「高歓が詔を受ける時は、実に不敬でした。」
 孝武帝は、不快だった。
 孝武帝と高歓の不協和音を知った斛斯椿は、孝武帝へ閣内都督を設置して殿閣を守衛する武人を増員するように勧めた。やがて、数百人の武人が抜擢されたが、彼等は皆、四方から選び抜かれた驍勇の兵士達だった。
 孝武帝は屡々外遊したが、斛斯椿はこれに随行した。これによって、朝政や軍謀は、孝武帝と斛斯椿で専断するようになっていった。
 この頃、関中大行台の賀抜岳は大軍を擁していたので、孝武帝は彼と結託しようと考えた。そして、侍中の賀抜勝を都督三荊等七州諸軍事に任命した。彼等兄弟の兵力を後ろ盾にして、高歓へ対抗しようとしたのだ。高歓は、ますます不満を持った。 

  

高兄弟出奔 

 侍中・司空の高乾が信都へ居た時、父親が卒したが、喪に服する暇がなかった。孝武帝が即位すると、高乾は喪に服する為に辞職を願い出た。だが、孝武帝がそれを盾にとって彼を政界から締め出した為、高乾は怏々としてしまった。
 やがて、孝武帝が高歓と対抗しようと考え始めると、帝は高乾を抱き込もうと考えた。高乾は、上辺は当たり障りのない返事をした。
 やがて孝武帝が閣内部曲を設置すると、高乾は、親しい者へ言った。
「主上は功労者や賢人へ親しまず、群小を招き寄せている。元士弼や王思政をしばしば関西へ派遣して、賀抜岳と計略を練っているし、賀抜勝を荊州へ出した。いずれ乱が起きる。うかうかしていると、禍を蒙ってしまうぞ。」
 そして、ついに高歓へ密告した。
 高歓は、高乾をヘイ州へ呼び寄せると、時事について面談した。そこで、高乾は高歓へ受禅を勧めた。すると、高歓は袖で口を覆って言った。
「滅多なことを言うな!今、高司空をふたたび侍中にしてやる。門下の事はすべて卿へ委ねるぞ。」
 そして、高歓は屡々申請したが、孝武帝は許さなかった。
 高乾は、事変が目前に迫っていることを感知し、徐州刺史になろうと考え、密かに高歓へこれを求めた。
 二月、高乾は驃騎大将軍、開府儀同三司、徐州刺史となり、咸陽王坦が司空となった。
 高乾が徐州へ下向しようとする直前、孝武帝は、彼が機事を漏洩したことを知った。そこで、丞相の高歓へ詔を下した。
「高乾は、朕と私的に盟約を結んでいた。それなのに、今、日和ったのだ。」
 高歓は、高乾が孝武帝とも盟約を結んでいたと聞いて彼の性根を憎み、高乾から受け取った彼の時論を全て孝武帝へ献上した。
 孝武帝は高乾を呼び出すと、高歓の使者を臨席させて、彼を責め立てた。すると、高乾は言った。
「陛下は、ご自身で陰謀を企てられましたのに、私のことを反復したといいます。人主へ罰を与えられるのならば、陛下は反論できますか!」
 高乾は死を賜った。
 高乾の弟の高敖曹は、この時信都に居た。孝武帝は、東徐州刺史の潘紹業へ、高敖曹の殺害を命じた。
 高敖曹は、高乾の誅殺を聞くと、路へ壮士を伏して、潘紹業を捕らえた。案の定、潘紹業は敕を持っていたので、高敖曹はこれを奪い、十余騎を率いて晋陽へ出奔した。
 高歓は、高敖曹を見ると、彼の首を抱きしめて、泣きながら言った。
「天子は司空を枉殺した。」
 高敖曹の兄の高仲密は、この時光州刺史だった。孝武帝は彼も捕らえようとしたが、高仲密もまた、晋陽へ逃げ込むことができた。 

  

賀抜岳 

 賀抜岳が、行台郎の馮景を晋陽へ派遣した。高歓は、賀抜岳の使者が来たと聞き、大喜びで言った。
「賀抜孝は我を覚えていてくれたか!」
 そして、馮景と血を啜りあい、賀抜岳と義兄弟になることを約束した。馮景は、帰ってから賀抜岳へ言った。
「高歓は詐術の多い人間。信用できません。」
 すると、府司馬の宇文泰が、晋陽へ使者となって高歓の為人を見極めようと名乗り出た。そこで、彼も又使者として晋陽へ派遣された。高歓は、宇文泰を一目見るなり、大いに気に入った。
「こいつは肝っ玉の塊だ。」
 そして彼を手元に留めようとしたが、宇文泰が帰りたがるので、とうとう賀抜岳のもとへ帰してやった。だが、すぐに後悔して追いかけたが、間に合わなかった。
 宇文泰は、長安へ着くと賀抜岳へ言った。
「高歓が簒奪しないのは、ただ公の兄弟だけを憚っているのです。侯莫陳悦など、取るに足りません。公は密かに準備をしてください。そうすれば、高歓を滅ぼすなど簡単です。
 今、費也頭の兵力は一万を下りませんし、夏州刺史斛抜彌俄突は三千の精鋭を持っています。霊州刺史曹泥や河西の流民乞豆陵伊利も各々大軍を擁して、どこにも帰属しておりません。もしも公が軍を率いて隴へ進軍し、武威を張って恩愛で手懐けれぱ、これらの士馬が我等の麾下へ馳せ参じるでしょう。そしてテイやキョウを威圧して長安へ戻り、魏室を虚繧オたら、それこそ斉の桓公や晋の文公にも劣らない快挙ですぞ。」
賀抜岳は大いに喜び、宇文泰を洛陽へ派遣して、この旨を孝武帝へ伝えた。孝武帝も大いに喜び、宇文泰を武衛将軍に任命し、長安へ帰した。
 八月、孝武帝は賀抜岳を都督ヨウ・華等二十州諸軍事、ヨウ州刺史に任命した。
 賀抜岳は、馬の放牧を名目にして、平涼へ西進した。すると、費也頭・斛抜彌俄突・乞豆陵伊利・斛律沙門等が、皆、賀抜岳の麾下へ入った。又、秦・南秦・河・渭の四州の刺史達が皆、平涼へ集まって、賀抜岳の節度を受けた。ただ、曹泥だけは高歓へ付いた。
 さて、夏州は辺境にあり、国境を守る重大な地方である。賀抜岳は、有能な人間を夏州刺史として鎮守させたかった。そこで、部下へ尋ねてみると、皆は挙って宇文泰を推挙した。だが、賀抜岳は言った。
「宇文泰は、我が片腕だ。こんな所へ残してはゆけない。」
 だが、どう吟味しても他に人が居らず、遂に彼を抜擢した。 

  

宇文泰の台頭 

 十二月、高歓が、賀抜岳や侯莫陳悦の強盛を気に病んでいると、右丞のテキ嵩が言った。
「私が彼等を離間して、共倒れにして見せましょう。」
 そこで、高歓は彼を派遣した。
 又、高歓は、長史の侯景へ、斛抜彌俄突を懐柔するよう命じたが、これは失敗した。 

  六年、正月。高歓が、河西にて伊利を攻撃し、これを捕らえた。彼等の部落は、河東へ強制移住させた。
 孝武帝は高歓を詰って言った。
「伊利は、侵略も造反もしていない。国の純臣ではないか。それを王は突然討伐し、事前に難の申請も行わなかったとは、どうゆう了見か!」
 賀抜岳は、伊利を討伐された腹いせに曹泥を滅ぼそうと、都督の趙景を夏州へ派遣して、宇文泰と協議させた。
 宇文泰は言った。
「曹泥の居城は、孤城で遠く離れていますので、憂うるに足りません。それよりも、侯莫陳悦は貪欲で信用できません。こちらから先に討伐するべきです。」
 しかし、賀抜岳は聞かず、侯莫陳悦と共に曹泥を討伐しようと、彼を高平へ呼び出した。だが、侯莫陳悦は、既にテキ嵩の言葉に転び、賀抜岳を殺そうと考えていた。
 賀抜岳は、しばしば侯莫陳悦と共に宴会を楽しんだ。長史の雷紹が諫めたが、聞かない。 侯莫陳悦は、軍議を名目に、賀抜岳を陣営へ招いて、斬り殺した。賀抜岳の左右が逃げ出すと、侯莫陳悦は人を派遣して諭した。
「我が旨を受けたのは、賀抜岳一人だけ。諸君等に危害は加えぬ。」
 衆人は納得し、妄動しなかった。しかし、侯莫陳悦は内心不安だったので、彼等を慰撫して麾下に加えようとせず、即座に隴へ戻った。
 賀抜岳の兵卒達は、散り散りになって平涼へ帰っていった。ただ、趙貴だけは侯莫陳悦のもとへ赴き、賀抜岳を弔う為、彼の死体を求めた。侯莫陳悦はこれを許した。
 賀抜岳が死んだので、侯莫陳悦の軍中は祝賀しあった。ただ行台郎中の薛登は言った。
「侯莫陳悦は、たいして才略のある人間ではない。それなのに良将を殺害した。我等はやがて、他人の虜になってしまうだろうよ。なんで祝賀ができようか!」
 さて、賀抜岳の部下達は、新たな指導者を求めた。都督の寇洛が最年長だったので、諸将は彼を総諸軍に推したが、寇洛はもともと威厳も知略もなかったので、諸将を束ねる自信がなく、これを辞退した。すると、趙貴が言った。
「夏州刺史宇文泰の英略は世に聞こえている。遠近の豪傑達が心を寄せ、賞罰は厳明で、士卒は彼の命令に喜んで従っている。彼を推戴したら、きっと大事は遂げられる。」
 だが、諸将からは別の意見も出た。
「南方から賀抜勝を招き寄せよう。」
「魏の朝廷から然るべき人を下向させて貰おう。」などなど。
 なかなか決着がつかなかった時に、杜朔周が言った。
「火事の時に遠くから水を運ぶのでは手遅れになる。今日のことは、宇文泰を推戴しなければ収まりがつかない。趙将軍に従おう。我が軽騎で駆けつけてこの事変を宇文泰へ伝え、そのまま迎えて来よう。」
 そこで、諸将は杜朔周を夏州へ派遣した。
 事情を聞いた宇文泰は、将佐を集めて去就を議論した。すると、韓褒が言った。
「これこそ天が授けたのです。何を疑われますか!侯莫陳悦など井の中の蛙。貴君が行かれれば、すぐにでも虜にできます。」
 だが、皆は言った。
「侯莫陳悦がいる水洛は、平涼から遠くない。賀抜侯の士卒を彼が吸収していたら、とても手が出せないぞ。ここは状況を静観するべきだ。」
 すると、宇文泰は言った。
「侯莫陳悦は既に元帥を殺害した。だが、その勢いに乗って平涼を直撃しようともせずに、水洛まで退却してしまった。奴が無能なのは明白ではないか。それ、得難くして失いやすいのは時である。急いで駆けつけなければ、士卒の心が離間してしまうぞ。」
 夏州首望都督の彌姐元進は、侯莫陳悦と内応しようと画策した。宇文泰はこれを知ったので、帳下都督の蔡裕へ相談した。すると、蔡裕は言った。
「彌姐元進は裏切り者。殺してしまいましょう。」
 宇文泰は答えた。
「卿は決断力がある。」
 そこで、軍議にかこつけて彌姐元進を呼び出し、諸将の前で言った。
「隴で逆賊が乱を起こした。一致団結して戦わねばならない時に、異心を持つ者が居る。」
 そこへ、蔡裕が武装して入ってきて、目を怒らせて諸将へ言った。
「姦人の首は斬らねばならぬ!」
 諸将が頭を下げて同意したので、蔡裕は彌姐元進を斬り、彼の一味を皆殺しにした。こうして、諸将は侯莫陳悦討伐に団結した。
 この事件で、宇文泰は蔡裕を義子とした。
 宇文泰は、手勢を率いて平涼へ駆けつけた。杜朔周を先陣として、まず弾箏峽を確保させる。この時、民間人は恐々として、避難する者も多かった。兵卒達は略奪を働こうとしたが、杜朔周は言った。
「宇文侯は、罪人を討伐するのだ。民へ残虐を働いて、賊軍を助けるつもりか!」
 そして、民を慰撫したので、遠近の庶民は喜んで集まってきた。
 杜朔周は、本姓を赫連と言ったが、曾祖父の頃に憚って改姓していた。宇文泰は、今回の処置を嘉し、旧姓へ戻させて”達”とゆう名前を与えた。
 高歓は、賀抜岳の残党を掌握しようと、侯景を派遣していた。宇文泰は安定で彼と会ったので、言った。
「賀抜侯が死んでも、俺が生きているぞ。卿は何をしているのか!」
 侯景は顔色を失って言った。
「我はただの使い走り。いわば矢のようなもの。射手のままに動いたに過ぎません。」
 そして、逃げ帰った。
 宇文泰は、平涼へ到着すると、賀抜岳の為に慟哭した。将士は皆、悲しみながらも、その厚情を喜んだ。
 高歓は、宇文泰を籠絡しようと考え、侯刑と散騎常侍張華原、義寧太守王基を使者として派遣してねぎらったが、宇文泰は受けない。それどころか、使者達を留めようとして、言った。
「ここに留まって、富貴を共に享受しよう。断ったなら、今日限りの命だぞ。」
 すると、張華原は言った。
「殿は、殺すと脅されておられるか。だが、我は恐れませんぞ。」
 そこで、宇文泰は彼等を帰してやった。
 高歓のもとへ戻ると、王基は言った。
「宇文泰は雄傑です。今のうちに滅ぼしてしまいましょう。」
 だが、高歓は真に受けなかった。
「卿は賀抜岳と侯莫陳悦を見なかったのか!我が計略に掛かったら、誰も逃げられんぞ。」 

  

弔い合戦 

 賀抜岳の訃報を聞いた孝武帝は、賀抜岳軍を慰労しようと、武衛将軍元比を派遣した。そして、彼等を洛陽へ招き、併せて侯莫陳悦も召集した。
 元比が平涼へ到着した時には、賀抜岳軍は既に宇文泰が掌握していた。片や、侯莫陳悦は高歓の腹心気取りになっており、召集を拒否した。そこで、宇文泰は元比を通して上表した。
「賀抜岳が非業の死を遂げましたので、臣は都督寇洛等から推戴されて、軍権を掌握いたしました。詔を奉じて賀抜岳軍を入京させたくはあるのですが、今、高歓の衆が河東におり、侯莫陳悦は水洛におります。そして、我等の士卒の大半は西片出身で、望郷の念に駆られております。もしもこのまま東進すれば、高歓軍が前方から迫り、侯莫陳悦軍は後方を遮断するでしょう。そうなれば、我が軍は大打撃を蒙り、この国から明日がなくなってしまいます。どうか、暫くのご猶予を賜りますよう。」
 孝武帝は、宇文泰を大都督に任命し、賀抜岳軍の指揮を正式に承認した。
 ところで、賀抜岳は東ヨウ州刺史の李虎を東廂大都督に抜擢していた。賀抜岳が死ぬと、李虎は賀抜勝に賀抜岳の軍を掌握させようと考えて、荊州へ赴いた。そして、賀抜勝を説得したが、賀抜勝は従わない。そのうちに、宇文泰が賀抜岳軍を掌握したと聞いて、李虎は彼の元へ向かった。しかし、その途中で高歓の部下に捕まって、洛陽へ送られてしまった。
 孝武帝は、関中を謀取しようとしていたので、李虎を得て大いに喜んだ。そして、彼を衛将軍に任命し、賜下品を厚く賜り、宇文泰のもとへ送り込んだ。
 宇文泰は、侯莫陳悦へ文書を送った。
「賀抜侯は、国家の大功労者。君は名声も実績も微々たるものだったのに、賀抜侯の推挙で隴右行台になったのではないか。又、高氏が専横し始めると、君と賀抜侯は共に密旨を受け、盟約を結んだのではないか。それなのに、君は国賊と結託して宗廟を危うくした。盟約で啜った血潮も乾いていないのに、君は短刀を振るったのだ。
 今、吾と君は、同じく詔を受けて召還された。今日の進退は、ただ君の動向次第だ。君が隴を離れて東進するのなら、私も都へ帰ろう。だが、君が割拠しようなどと野望を持つのなら、必ずや目に物見せてやる!」
 孝武帝は、宇文泰へ、秦・隴を平定する方策を尋ねた。すると、宇文泰は上表した。
「侯莫陳悦を召還して、朝廷の官職に就けてください。そうでなければ、瓜州が涼州へ封じる事です。さもなければ、必ず後患となりましょう。」
 原州刺史の史帰は、もともと賀抜岳から親任されていた。しかし、河曲の変では、侯莫陳悦側へ寝返ってしまった。侯莫陳悦は、王伯和と成次安に二千の兵を与えて派遣し、史帰を補佐して原州を鎮守させた。
 宇文泰は、都督の侯莫陳祟へ軽騎一千を与えて、これを急襲させた。侯莫陳祟は夜半、十数騎で城下へ向かい、残りの兵は近くの道に伏兵とした。
 史帰は敵が少数と侮って、軍備もしなかった。そこを衝いて侯莫陳祟は、城門へ據る。すると、城内から高平令の李賢と、その弟の李遠穆が侯莫陳祟へ内応した。ここにおいて、中外で軍鼓が鳴り響き、伏兵が一度に起った。
 こうして侯莫陳祟は、史帰及び王伯和、成次安を捕らえて平涼へ帰った。この手柄で、宇文泰は侯莫陳祟を行原州事に推挙した。
 三月、宇文泰は侯莫陳悦を攻撃するため、原州に全軍を結集した。 

  

侯莫陳悦軍掃討 

 南秦州刺史の李弼が侯莫陳悦へ説いた。
「賀抜公は無実なのに、公はこれを殺害しました。その上、彼の部下を手懐けもしなかった。今、彼等が宇文泰を推戴してからは、主の復讐を声高に叫んでいます。この情念には太刀打ちできません。この上は、武装を解除して謝罪するしかありません!そうでなければ必ず禍が及びます。」
 侯莫陳悦は、これを却下した。
 宇文泰は、甥の宇文導を都督として原州に留め、他の兵を率いると隴へ向かって進軍した。宇文泰の軍令は厳粛で、兵卒は秋毫も犯さなかったので、百姓は大いに悦んだ。
 木狹関では、雪が二尺も降り積もっていたが、宇文泰軍は道を急いで、敵の不意を衝いた。
 これを聞いた侯莫陳悦は、略陽まで退却した。この時、一万の兵を留めて水洛を守らせたが、宇文泰軍が進軍してくると、水洛はたちまち降伏した。
 宇文泰が、軽騎数百騎で略陽を急襲すると、侯莫陳悦は上圭まで退却した。ここで侯莫陳悦は李弼を召集して宇文泰軍を拒ませた。
 李弼は、侯莫陳悦が必ず敗北すると見ていたので、宇文泰へ密かに使者を出して、内応を申し出た。
 侯莫陳悦は城を棄てて逃げ、南の険阻な山に立て籠もった。すると、李弼は所部へ言った。
「侯莫陳公は、秦州へ帰ろうとしているのに、お前達はどうして装束を整えないのか!」
 李弼は侯莫陳悦の叔母の夫だったので、皆はこれを信じ、争って上圭へ赴いた。李弼は、まず城門に據って彼等を集め、城ごと宇文泰へ降伏した。宇文泰は、李弼を秦州刺史に任命した。
 その夜、侯莫陳悦は軍を出して戦おうとしたが、軍は勝手に崩壊してしまった。
 侯莫陳悦は猜疑心の強い人間だったので、負けてしまうと側近達の言葉に耳も貸さず、弟や子息、そして賀抜岳を謀殺した部下達と共に、わずか数名で逃げだした。
 しかし、どこへ行って良いか判らない。左右は曹泥のもとへ逃げ込むよう勧めたが、侯莫陳悦は聞かない。自身は馬に乗り、他の者は歩かせて霊州へ向かったが、追撃の兵卒を見て、自殺した。
 上圭へ入った宇文泰は、薛登を記室参軍に抜擢した。侯莫陳悦の軍庫を接収すると、宝物が山積みされていたが、宇文泰は一つも懐へ入れず、全て部下への賞金とした。この時、側近の一人が銀の瓶をチョロマカした。宇文泰はこれを知ると、その男を罰し、瓶はバラして兵卒への賞金とした。 

 タク州刺史の孫定児は侯莫陳悦の余党だったが、彼は州に據って抵抗を続けた。その兵力は数万。宇文泰は、都督の劉亮にこれを攻撃させた。孫定児は、敵を遠征軍で疲れ切っていると見くびって、ろくに軍備もしなかった。
 劉亮は、まず、城の近くの山へ登り、その嶺に兵を置くと、わずか二十騎を率いて孫定児を急襲した。油断しきっているところへいきなり敵が現れて、孫定児は驚愕するばかりで為す術を知らない。劉亮は兵を蹴散らして孫定児を斬った。そして、城外の嶺を指さして言った。
「大軍が来ているのだぞ!」
 城内の兵卒は驚いて降伏した。 

 話は前後するが、魏で内乱が起きた頃、もとのテイ王の楊紹先が武興へ逃げ帰り、再び「王」と称した。涼州刺史の李叔仁は領民に捕らわれ、テイ、キョウ、吐谷渾に散らばっていた元の部下達が一斉に蜂起したので、その勢力は南岐から瓜、善までの数州に跨った。
 宇文泰は、李弼に原州を鎮守させ、夏州刺史抜也悪毛に南秦州を鎮守させ、渭州刺史可朱渾道元に渭州を鎮守させ、衛将軍趙貴を行秦州事としてタク、ケイ、東秦、岐四州の粟を全軍へ給付させた。すると、楊紹先は懼れて藩と称し、妻子を人質として送ってきた。 

  

天子を擁立せよ 

 夏州長史于謹が宇文泰へ言った。
「殿が據った関中は険固な土地で、将士は驍勇、しかも土地は肥えています。今、洛陽の天子は群凶に迫られております。殿は真心を尽くし、利害を説いて、関右への遷都を請われてはいかがでしょうか。天子を擁して諸侯へ号令を掛け、王命を奉じて叛乱を討つ。これこそ、桓公や文公の覇業、千載一遇のチャンスです。」
 宇文泰は、これを嘉した。 

 宇文泰が秦・隴を平定したと聞いた高歓は、甘言と厚礼で彼を籠絡しようとしたが、宇文泰は受けず、その文書は封をしたまま孝武帝へ献上した。
 この時洛陽へ派遣された使者は、都督の張軌である。斛斯椿が張軌へ言った。
「高歓の野望は、道行く者でさえも知っている。今、頼れるのは西方だけだ。だが、宇文泰の才覚は、賀抜岳と比べてどうだろうか?」
「宇文公の文才は国を切り盛りできますし、武才は乱を平定できます。」
「卿の言葉通りなら、まことに頼もしい限りだ。」
 孝武帝は、宇文泰へ命じた。
「本隊を東進させよ。その為に、二千騎を発して東ヨウ州を鎮守して、周囲を牽制するが良い。」
 そこで宇文泰は、大都督の梁禦をヨウ州刺史とし、五千の兵を与えて先行させた。
 話は前後するが、高歓は侯莫陳悦の援軍として、都督の韓軌へ一万の兵を与えて蒲反へ據らせ、ヨウ州刺史の賈顕度へ舟を与えて、彼を迎えに行かせた。
 梁禦の一行が賈顕度と遭遇すると、梁禦は、宇文泰へ従うよう賈顕度を説得した。賈顕度はこれに応じ、梁禦を迎え出たので、梁禦は長安へ入城して、ここに據った。
 孝武帝は、宇文泰を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大都督・略陽県公に任命した。宇文泰は、寇洛をケイ州刺史、李弼を秦州刺史、張献を南岐州刺史に任命した。ところが、もとの南岐州刺史の廬待伯はこの交代に承服しなかったので、宇文泰はこれを襲撃して捕らえた。 

  

皇帝毅然たり 

 侍中の封隆之が、高歓へ言った。
「斛斯椿等は、今、京師にいますが、必ず禍を起こします。」
 その封隆之は、孝武帝の妹の平原公主に求婚したが、僕射の孫騰も彼女に求婚していた。結局、封隆之が彼女を射止めたので、孫騰は嫉妬し、彼の言葉を斯椿へチクッた。封隆之が懼れて故郷へ逃げ帰ると、高歓が彼を晋陽へ呼び寄せた。
 やがて孫騰は、些細な事件で御史を殺してしまい、罪を懼れて高歓のもとへ逃げ込んだ。
 領軍の婁昭は、病気が重くなり、官職を退職して晋陽へ隠居した。こうして、京師から高歓の息のかかった重職がいなくなった。
 孝武帝は、斛斯椿へ領軍を兼務させ、都督や河南、関西の諸刺史の人事を変更した。
 五月、孝武帝は晋陽を攻撃しようと戒厳令を下した。ただ、表向きは梁討伐を名目としていた。河南の諸州から兵を徴発し、洛陽にて大閲兵を行った。孝武帝も戎服を着て、斛斯椿と共に臨観する。
 六月、孝武帝は高歓へ密詔を下した。
「宇文泰と賀抜勝が造反を起こしそうなので、南伐を名目にして、密かに軍備をしているのだ。王も又、我等の為に牽制してくれ。なお、この詔は、読み終えたら焼き捨てるように。」
 すると、高歓は上表した。
「荊、ヨウが造反しようとしています。臣は今、三万の兵を率いて河東から渡河する所存。また、恒州刺史庫狄干等は四万の兵を率いて来違津から河を渡り、領軍将軍婁昭は五万の兵力で荊州を討ち、冀州刺史尉景は山東兵七万及び突騎五万を率いて梁を討ちます。皆、戦闘準備は整っております。どうか後裁断を。」
 高歓の野望は明白である。孝武帝は上表文を群臣へ見せて協議させ、これを阻止させた。すると高歓は、ヘイ州に僚佐を集めて協議し、更に上表文を出した。
「臣は奸臣達の讒言を受け、陛下から猜疑されてしまいました。もしも臣が陛下に背いたのならば、天殃を受けて子孫が断絶してしまうでしょう。ですが、もしも陛下が臣の赤心を信じてくださいますのなら、干戈を動かさずとも、奸臣の一二人を処分してくだされば済むのです。」
 孝武帝は、大都督源子恭に陽胡を守備させ、汝南王進に石済を守らせ、儀同三司賈顕智を済州刺史として豫州刺史斛斯元寿と共に済州へ赴かせた。斯元寿は斯椿の弟である。
だが、済州刺史の蔡儁は交代を拒否したので、孝武帝はますます立腹した。
 又、孝武帝は洛中の文武を集めて高歓への返答を書いた。
「朕は合戦の功績もなく、座して帝位へ即くことができた。それこそ、朕を生んでくれたのは父母だが、尊くしてくれたのは高王である。今、何の理由もな王と攻め合ったのならば、我が子孫こそ覆滅してしまうだろう。
 今回のことは、ただ宇文泰や賀抜勝に備えて、王と共に彼等を牽制しようとしたのである。だが、この二人は未だ目立った反意を示してはいない。それに加えて連年の兵乱続きで我が国の人口は半減しており、国力は疲弊している。それを考えて、武力へ訴えることを控えているのだ。
 又、王は奸臣の讒言と言ったが、朕は愚昧にして、これが誰を指すものか判らない。高乾を誅殺した事については、どうして朕一人の独断だろうか!王はこれを枉死として高敖曹をそそのかしたが、人の耳目の何と軽々しく変節できるものか!それに加えて、去年は封隆之が造反し、今年は孫騰が逃げ出した。この二人は王のもとへ逃げ込んだのに、王は二人を罰しようともせず、我等へ突き出しもしない。これで誰が王を怪しまずにいられるのか!もしも王が、朕へ対して至誠を尽くしているというのなら、どうしてこの二人の首を送ってこないのか!
 それに、王は西を攻撃すると言うが、四道から共に進軍する中、南へ進めば洛陽を包囲することも実に容易い。その時、河東の兵が宇文泰を牽制すれば、この国は誰のものになるのか!
 このような、口にする者さえ露骨すぎると恥じ入るセリフを聞かされて、猜疑しないでいられる者などいるものか!王が北方で安閑としているのならば、たとえ百万の軍を擁していても、朕は何も言わぬ。しかし、王が軍を南へ向けるのならば、朕は徒手空拳でも立ち向かうぞ。」
 中軍将軍王思政が孝武帝へ言った。
「高歓の野望は明白です。対して、洛陽は戦争に適した地形ではありません。宇文泰は王室へ忠節を尽くしておりますので、彼の元へ避難しては如何でしょうか?そして高歓がノコノコと洛陽を占領しましたら、討って出るのです。そうすれば地の利はこちらにあります。必勝疑いありません。」
 孝武帝はこれに深く同意し、散騎侍郎の柳慶を宇文泰のもとへ派遣して、相談させた。宇文泰が車駕を迎え入れたいと請願したので、柳慶がその旨を復命すると、孝武帝は柳慶へ私的に言った。
「朕は荊州へ行きたいのだが、どう思うか?」
「関中は険阻な地形で、宇文泰の才略は頼もしい限り。荊州は要害ではありませんし、南からは梁が迫ってきます。愚臣には、荊州の長所が判りません。」
 孝武帝が閣内都督の宇文顕和へ相談すると、彼も又西への御幸を勧めた。
 この頃、孝武帝は州郡の兵を結集させていた。東郡太守の裴侠が手勢を率いて洛陽へ来ていたので、王思政が彼へ尋ねたところ、裴侠は言った。
「宇文泰は、三軍から推戴されたほどの器量人。その彼が、二万の兵で百万に対峙できるとまで言われた関中に割拠しているのです。『既に戈矛を操っているのに、他人へ柄を渡すのではない』と言うではありませんか。彼の元へ赴いても、熱湯を避けて火の中へ飛び込むようなものです。」
「では、どうすればよいのかな?」
「高歓と宇文泰を牽制させている間に、陛下ご自身の基盤を強化なさることです。」
 王思政は、これに同意し、裴侠を孝武帝へ推薦した。孝武帝は、彼を左中朗将とした。
 ところで高歓は、洛陽が積年戦乱続きで荒れ果てていたので、業へ遷都しようと思ったことがある。その時、孝武帝は言った。
「高祖が河、洛へ築城して、万世の基礎を造られたのだ。王は既に社稷へ対して大功があるのだから、太和の故事を遵守すれば宜しい。」
 そこで、高歓は中止したのだが、ここに至って、高歓は再び遷都を謀った。
 高歓は、三千騎を派遣して建興を鎮守させ、河東と済州の兵を増員し、諸州から穀物を移出させて業城へ運び込んだ。
 孝武帝は、高歓へ詔を下した。
「もしも王が人情を逆なでしたくなかったら、河東の兵を撤退させ、建興の守備を止め、業の穀物を天下へ散らしなさい。そうすれば、王は太原にて枕を高くすることができ、朕も京洛で安閑とできる。しかし、王が馬首を南へ向けて鼎の軽重を問うのなら、朕は不武であるが、社稷宗廟の為に働こう。決断を下すのは王である。朕ではない。『山を造って、最後の一籠で完成するところまでいっていても、もしもそれが正しくないことだったなら、スッパリと中止せよ。(論語)』と言うではないか。」
 対して高歓は、宇文泰と斛斯椿の罪悪を極言した。 

  

皇帝御幸 

 廣寧太守の任祥が尚書左僕射加開府儀同三司に任命されたが、彼は官職を棄てて逃げだし、郡に據って高歓を待った。
 そんな事が起こったので、孝武帝は北方生まれの文武官の去就をハッキリさせようと、高歓の咎悪を数え上げ、賀抜勝を行在所へ召還した。
 賀抜勝が太保掾の廬柔へ尋ねると、廬柔は言った。
「高歓は悖逆な輩。そんな人間とは、結局は共存できません。ですから、全力を挙げて都へ赴き、一気に勝負を掛けて生死を決する。これが上策です。北は魯陽を遮断し、南は旧楚を併合し、東はコン・豫と連合し、西進して関中へ引きこもる。こうやって、百万の兵力を擁してしっかりと基盤を築き、敵の隙を窺って動く。これが中策です。 このままここでグズグズしていたり、難を避けて梁へ逃げ込んだりしますと、功名は消え去ってしまいます。これが下策です。」
 賀抜勝は笑って、応じなかった。
 孝武帝は、宇文泰へ尚書僕射を兼任させ、馮翊公主を娶せた。又、宇文泰の帳内都督の楊荐へ言った。
「卿は帰国し、朕を迎えに来るよう、宇文泰へ伝えよ。」
 そして、楊荐を直閣将軍とした。
 宇文泰は、前の秦州刺史駱超を大都督とし、一千の軽騎を与えて洛陽へ駆けつけさせた。又、楊荐と宇文側を関まで出迎えにやらせた。
 高歓は、弟の高深に晋陽を守備させた。補佐役は、長史の崔進。そして、高歓自身は兵を率いて南へ進出し、衆人へ言った。
「爾朱氏がこの国を専断した時、孤は海内に義を立て、主上を奉戴した。それは全て、至誠の心だった。だが、斛斯椿は、その忠義を悖逆と讒言している。今、南進するのは、ただ斯椿を誅する為なのだ。」
 そして、高敖曹を前鋒とした。
 宇文泰も数州へ檄文を飛ばし、高歓の罪悪を暴露した。自ら大軍を発し、前軍は弘農へ屯営する。賀抜勝は汝水へ出陣した。 

 七月、孝武帝は自ら十万を率いて河橋へ屯営した。前駆の斯椿は亡山の北へ陣を布く。
 斯椿は、敵方の遠征の疲れを衝こうと、二千騎で河を渡って奇襲したいと請願した。孝武帝は乗り気だったが、黄門侍郎の楊寛が言った。
「高歓は、臣下の分際で主君へ弓引くのです。何と不遜な!ですが、こんな輩が輩出するご時世ですぞ。誰も信じられません。他人へ兵を与えるのは、戦乱を招くもと。斯椿が河を渡って万一にも手柄を建てるなら、これは一人の高歓を滅ぼしながら、新たな高歓を生み出してしまいますぞ!」
 そこで、孝武帝は斯椿の奇襲を中止させた。斯椿は嘆いて言った。
「この頃、火星が南斗へ入った(皇帝が、都落ちをする前兆と言われていた)。今、陛下は左右の言葉に惑わされて我が計略を棄てられたが、これも天命か!」
 これを聞いて、宇文泰は左右へ言った。
「高歓は、一日八百里もの強行軍。これは兵家の禁忌を犯している。ここは急襲するべき時だ。それなのに、陛下は河を渡って決戦せずに、ただ津を據守している。それに、黄河は万里。防衛線を張り巡らすのは困難だ。もしも敵が渡河したら、大事は去るぞ。」
 そして、大都督の趙貴を別道行台として、蒲反から渡らせ、ヘイ州へ赴かせた。又、大都督の李賢へ精鋭一千騎を与えて洛陽へ駆けつけさせた。
 孝武帝は、斯椿と行台長孫稚、大都督穎川王斌之に虎牢関を鎮守させた。又、行台の長孫子彦には陜を、賈顕智と斯元寿には滑台を守らせた。
 高歓は、相州刺史竇泰を滑台へ、建州刺史韓賢を石済へ差し向けた。
 竇泰と賈顕智は、長寿津で遭遇した。賈顕智は、密かに降伏を約束して軍を退いた。だが、軍司の元玄がこれに気がつき、洛陽へ馳せ帰って援軍を請うた。そこで孝武帝は、大都督侯幾紹を派遣した。滑台東で両軍は戦い、賈顕智は降伏し、侯幾紹は戦死した。
 北中郎将の田怙は、高歓へ内応を申し出た。そこで高歓は、軍を密かに野王へ移動したが、孝武帝はこれに気がつき、田怙を斬った。
 高歓は、黄河の北十余里まで来て、再び使者を派遣して誠款を口にしたが、孝武帝は聞かない。遂に、高歓は黄河を渡った。
 孝武帝が群臣を集めて軍議を開くと、ある者は梁へ逃げようと言い、ある者は賀抜勝のもとへ逃げ込もうと言い、ある者は関中へ逃げようと言い、ある者は洛口を死守しようと言い、紛糾してなかなか纏まらない。
 その頃、虎牢関では斯椿と穎川王が軍権を争っていたが、結局穎川王は関を棄てて洛陽へ戻ってきて、孝武帝へ言った。
「高歓がやって来ました!」
 孝武帝は、斯椿を呼び戻し、南陽王、清河王、廣陽王へ五千騎を与えて、纏口へ宿営させた。南陽王の別舎沙門の恵臻は、千牛刀を背負って従軍した。
 諸人は、帝が逃げ出すことを察知し、その夜のうちに大半が逃げ出した。清河王と廣陽王も又、逃げた。
 武穎将軍独孤信が、単騎で孝武帝を追った。孝武帝は嘆じて言った。
「将軍は、父母と別れ妻子を棄てて来た。『国乱れて忠臣を知る』とは虚言ではなかった!」
 戊申、孝武帝は長安へ逃れた。
 己酉、高歓は洛陽へ入城し、永寧寺を宿舎とした。そして、婁昭等へ帝を追わせ、洛陽へ戻るよう請願した。
 長孫子彦は、陜を守りきれず、城を棄てて逃げた。高敖曹は軽騎を率いて陜西まで帝を追ったが、追いつけなかった。
 孝武帝は、数日間、水だけ飲んで馬を飛ばし続けた。湖城へ到着すると、王思村の民が、麦飯を献上した。孝武帝は悦び、十年間の租税免除を約束した。
 稠桑にて、潼関大都督毛鴻賓が酒や食事を献上し、従官達も漸く飢渇から解放された。 

  

長安入 

 八月、高歓が百官を集めて言った。
「臣下となって主君を奉じるのは、過ちを正し危乱を救う為である。大臣となりながら諫争せず、帝の御幸にも従わない。平穏な時には寵に耽って栄華を争い、危急の時には逃げ隠れる。そんな事で、どこに臣下の節義があるのだ!」
 誰も言い返せなかったところ、尚書左僕射の辛雄が言った。
「主上は、近習ばかりと事を謀り、臣は参与することができませんでした。陛下が西へ御幸されるに及んで追随したならば、佞臣達と同類になってしまいます。そこで留まって大王をお待ちしておりましたのに、それをさえ詰問される。我等は何をしても罪から逃れられませんのか。」
「卿等は大臣の位に就いていたのならば、身を尽くして御国へ後報恩するべきではないか。群佞が事を用いた時に、一度でも諫争したのか?国家をここまで追いやったのが、一体誰の罪だというのだ!」
 そして、辛雄及び開府儀同三司の叱列延慶、兼吏部尚書の崔孝芬、都官尚書の劉欽、兼度支尚書の楊機、散騎常侍の元士弼等を捕らえて、皆、殺した。司徒の清河王は、大司馬として、尚書省へ住まわせた。
 宇文泰は、趙貴と梁禦へ二千の兵を与えて、孝武帝を迎えさせた。孝武帝は、黄河沿いに西へ行きながら、梁禦へ言った。
「この水は東へ流れるのに、朕は西へ進む。もし、再び洛陽へ戻れたら、陵廟へ卿等の功績を報告しよう。」
 孝武帝も左右も、皆、涙を零した。
 宇文泰は儀衛を備えて孝武帝を迎え入れ、東陽駅にて謁見した。この時、宇文泰は、冠を取って涙を零しながら言った。
「悪党の野望を阻止できず、乗輿を移動させましたのは、臣の罪でございます。」
 すると、孝武帝は言った。
「いや、公の忠勤に落ち度はない。朕の不徳にこそ、寇はつけ込んだのだ。今、公と相まみえることができた。社稷を公へ委ねる。公はこれを努めよ!」
 将士は皆、万歳と称した。こうして、乗輿は長安へ入った。宇文泰は大将軍と尚書令を兼務し、軍政両面に亘る最高責任者となった。
 その他、二つの尚書を設置し、機事を分掌させた。任命されたのは、行台尚書の毛遐と周恵達である。この時、長安政権の草創期だったので、二人は兵糧の備蓄や兵器の製造、兵卒の訓練に勤しんだ。
 宇文泰は馮翊公主を娶っていたので、フバ都尉を拝命した。 

 ところで、天文へ目を向けると、火星が以前から南斗へ入っていた。去ったかと思えば又入り、二ヶ月も留まったまま。
既述のように、「火星が南斗へ入ると、天子が都落ちする。」と諺に言われていた。そこで、梁の武帝はお祓いをしたのだが、やがて、魏の皇帝が西へ逃げたとの報告が入った。
 それを聞いて、梁の武帝はムッとした。
「虜のくせに、天象に応じるようになったのか!」 

  

高歓軍進攻 

 高歓は、自ら孝武帝を追いかけていった。孝武帝を迎え入れる為である。都では、清河王が大赦を下し、政治を代行した。
 九月、高歓は孝武帝を迎える為、行台僕射の元子思を派遣した。自身は潼関を攻め、これに勝ち、毛鴻賓を捕らえる。
 高歓は、更に華陰の長城まで進軍した。すると、龍門都督の薛祟礼が城ごと降伏してきた。 

 賀抜勝は、長史の元穎を行荊州事に任命し、南陽を守らせた。そして、自身は関中へ向かって西進した。浙陽へ到着した時、報告を受けた。
「高歓は、既に華陰まで進軍しております。」
 これを聞いた賀抜勝が退却しようとすると、行台左丞の崔謙が言った。
「今、帝室は転覆し、陛下は塵まみれの有様。公は行在へ全速力で駆けつけるべきでございます。そして宇文行台と一致協力して共に大義を唱えたら、天下の人々は誰もが駆けつけて参りますぞ!逆に、この機を棄てて退却すれば、人々の希望はなくなります。一旦失意した心を再び奮起させるのは至難の業。後悔しても及びませんぞ!」
 だが、賀抜勝は採用せず、ついに退却した。
 高歓は、河東まで退却した。この時、占領地の押さえとして、薛瑜に潼関を、庫狄温に封陵を、薛紹宗に華州を、高敖曹に豫州を守備させた。
 高歓が晋陽を出発してから、孝武帝のもとへ約四十通の書状を送ったが、孝武帝は一通の返書も出さなかった。
 高歓は東へ向かったが、行台の侯景へ賀抜勝攻撃を命じた。
 侯景が荊州へ進軍すると、荊州の住民登誕が元穎を捕らえて侯景へ呼応した。賀抜勝が応援に駆けつけると、侯景はこれを迎撃して撃破した。
 賀抜勝は、数百騎を率いて梁へ亡命した。
 
 孝武帝がまだ洛陽にいた時、閣内都督の趙剛を密使として東荊州刺史馮景昭のもとへ派遣し、兵を率いて上京するよう命じていた。だが、彼が出陣する前に、孝武帝は都落ちしてしまった。そこで、馮景昭は幕僚を集めて善後策を協議した。
 司馬の馮道和は、このまま蟠踞して高歓の出方を待つよう進言した。すると、趙剛は言った。
「公は兵を率いて行在へ向かうべきです。」
 だが、誰も黙りこくって応じない。遂に、趙剛は自分の刀を地面へ叩きつけた。
「公が忠臣になりたければ、道和を斬れ。賊徒に従うつもりなら、私を殺せ!」
 馮景昭は感悟して、兵を率いて関中へ向かった。
 ところが、侯景が荊州を攻撃すると、東荊州の住民楊祖歓がこれに呼応して、馮景昭軍の行く手を阻んだ。馮景昭は戦ったが敗北し、趙剛は戦死した。 

  

魏、東西分裂 

 十月、高歓は洛陽へ帰ると、僧侶の道栄を孝武帝のもとへ使者として派遣した。
「陛下がお帰りになられるのなら、臣は文武の百官を指揮して宮禁を掃き清めましょう。ですが、もしもお帰りにならないとしたならば、国には一日として主がいないではいられません。臣は陛下へ背こうとも、社稷に背くことはできないのです。」
 しかし、孝武帝は答えなかった。
 そこで、高歓は百官を召集し、誰を擁立するべきか協議した。彼等は清河王を推したが、清河王は既に皇帝気取りだったので、高歓はこれを憎み、言った。
「近年、甥から叔父への逆祚が続いた。在位年数が短いのも、そのせいだ。帝位は次の世代へ譲らなければならない。」
 そして、清河王の世子の善見を擁立した。清河王は不安になって逃げ出したが、高歓は追いかけて連れ戻した。
 丙寅、善見が即位する。これが孝静帝である。御年十一才。大赦を下し、天平と改元する。(魏の東西分裂。) 

 宇文泰は、潼関を攻撃した。薛瑜を斬り、七千人を捕虜として長安へ戻る。孝文帝は、宇文泰を大丞相にした。
 東魏の行台薛修義等が黄河を渡って楊氏壁に據った。西魏(資治通鑑では、単に「魏」と称している。)の司空参軍薛端等は村民を煽動して東魏を撃退し、楊氏壁を奪還した。宇文泰は、汾州刺史蘇景恕を派遣して、これを鎮守させた。 

  

各地の動向 

 話は遡るが、孝武帝と高歓が対立した時、斉州刺史侯淵、コン州刺史樊子告、青州刺史東莱王貴平の三人は密かに結託し、事態を静観した。ただ、侯淵は、高歓へ使者を派遣した。
 孝武帝が関西へ逃げ、清河王が政権を握ると、彼は汝南王進を斉州刺史とした。
 汝南王は斉州へ行ったが、侯淵は入城を拒んだ。すると、城民の劉桃符等が汝南王を密かに城内へ導き入れた。
 侯淵が部下を率いて逃げ出すと、今度は、彼が行青州事に任命された。この時、高歓は侯淵へ書状を送った。
「手勢が少ないからと言って、青州へ入ることを恐れる必要はない。斉の人間は、軽薄な質で、すぐに利益に転ぶ。だから、斉州の民も汝南王を招き入れたのではないか。青州の民も、卿を迎え入れるに決まっている。」
 そこで、侯淵は助言通り青州へ向かった。
 東莱王が交代を受け付けなかったので、侯淵は高陽郡を襲撃して、これに勝つ。
 東莱王は世子へ兵を与えて、高陽を攻撃させた。すると、侯淵は夜半に東陽へ駆けつけて、州民へ言った。
「台軍は、もう迫っており、我が軍は壊滅した。我一人、どうにか脱出して、危急を告げに来たのだ。グズグズせずに救援に駆けつけろ!」
 それを聞いた者は、驚いて散り散りに逃げだしてしまった。
 明け方になると、別の者がやって来て、道行く人へ告げた。
「台軍は昨晩高陽へ到着した。俺達はその先鋒だ。」
 城民はますます恐れ、遂に東莱王を捕らえて降伏した。侯淵は、東莱王を斬って、その首を洛陽へ送った。
 ここで、話は先走る。
 翌、大同元年(535年)三月、東魏は封延之を青州刺史として、侯淵と交代させた。州を失った侯淵は懼れ、廣川まで行ったところで、造反した。夜半、青州南郭を攻撃し、郡県を略奪する。
 四月、高歓は済州刺史蔡儁を差し向けた。すると、侯淵の部下は次々と離散していった。
 侯淵は南へ逃げようとしたが、土民に殺され、首は業へ送られた。 

 又、大同元年二月、東魏の儀同三司婁昭がコン州を攻撃した。
 樊子告は、前の膠州刺史厳思達へ東平を守らせたが、婁昭はこれを抜いた。 婁昭は更に進軍して、瑕丘を包囲したが、ここはなかなか落ちない。そこで、彼は水をひいて城を水浸しにした。己丑、大野抜が、樊子告を殺して降伏した。
 はじめ、瑕丘の兵力が少なかったので、樊子告は老弱の人間まで駆り立てて兵卒としていた。樊子告が死ぬと、彼等は全員逃げ出した。諸将は、彼等を捕まえて全員誅殺するよう勧めたが、婁昭は言った。
「この州は、不幸にも残賊の為に踏みにじられていた。だから彼等は、官軍が助けてくれることを渇望していたに違いない。それなのに、今、彼等を誅殺するのでは、民は一体誰を頼みとすればよいのか!」
 そして、彼等を見逃した。 

  

東魏遷都 

 中大通六年(534年)十月。東魏では、趙郡王甚を大司馬に、咸陽王担を太尉に、開府儀同三司高盛を司徒に、高敖曹を司空にした。
 洛陽は西魏にも梁にも近く、いつ敵から攻められるか判らない。高歓は、それを言い立てて、再び業への遷都を言い出し、三日で強行した。
 丙子、孝静帝は洛陽を出発し、四十万戸の民が狼狽して続いた。百官から馬を徴収し、尚書丞郎よりも地位の低い者は驢馬に乗せた。事態が落ち着くと、高歓は晋陽へ戻った
 司州は洛州と改称され、尚書令の元弼を洛州刺史に任命して洛陽を鎮守させた。
 行台尚書の司馬子如を尚書左僕射とし、右僕射の高隆之、侍中の高岳、孫騰等を業に留めて朝政を執らせた。引越して暮らしが立ち行かない民へ、百三十万石の粟を配給した。
 十一月、孝静帝は業へ到着した。相州刺史を司州牧へ、魏郡太守を魏尹へ改称する。
 この時、孝静帝へ付き従った六坊の兵卒(魏では、宿衛の兵卒を六坊に分けていた。)は一万人に見たりず、その他は全て高歓のもとへ走った。 

 十二月、宇文泰は儀同の李虎と李弼に霊州の曹泥を攻撃させた。翌年正月、曹泥は降伏した。 

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