元魏、宋を寇す。
 
劉裕卒す 

 劉裕が長安を陥落した時、魏帝は大いに懼れ、使者を派遣して、南朝と講和を結んだ。以来、魏は南朝と毎年交流していた。
 宋の高祖の永初三年(422年)、宋の高祖(劉裕)が死んだ。この時、宋の殿中将軍沈範が、使者として魏へ滞在していた。沈範が帰国する時、魏帝は追っ手を派遣して、彼を捕らえた。そして、群臣を集めると、洛陽、虎牢、滑台攻略について協議した。
 崔浩は諫めて言った。
「陛下は劉裕からの貢物を受け取っており、劉裕も又陛下へ敬事しておりました。今、不幸にして彼は死にましたが、その喪につけ込んで討伐したのでは、たとえあの土地を占領したところで、功績とは言えません。奴等の本拠地である江南を討伐もせずに、喪につけ込んだとの悪名だけが広まるのです。それは、陛下の為にならないことと考えます。それよりも、弔問の使者を派遣して、新帝の基盤確立の為に手助けをしてあげましょう。そうすれば、陛下の義声が天下に広まり、江南を攻撃しなくても向こうの方から服従して来るでしょう。ましてや、今は劉裕が死んだばかりですから、権力争いも未だ激化しておらず、軍隊は国境で警備を固めています。今出陣しても、大功は建てられないでしょう。ここは、下手に出て、奴等を油断させるべきです。そして、権力者の争いが激化するのを待ちましょう。あの国では、必ず大乱が起こります。内乱で兵卒達が疲弊した時、それに乗じて襲撃すれば、易々と淮北を攻略できます。」
 魏帝は言った。
「劉裕は、姚興の死に乗じて後秦を滅ぼしたのだぞ。今、我が劉裕の喪に乗じてこれを討伐したところで、何で悪いのだ?」
「そうではありません。姚興が死んで、その子息達が争い逢ったからこそ、それに乗じて劉裕は後秦を討伐したのです。今、江南にはその隙がありません。劉裕の後秦討伐とは事情が違うのです。」
 魏帝は従わず、渓(正しくは、さんずいがない)斤、周幾、公孫表に出陣を命じた。
 十月。魏軍の出立に先立って、魏帝は公卿を監国の前に集めて、戦略について協議した。まず城を攻めるか、それとも土地を攻略するか?
 渓斤は城攻めを望んだが、崔浩は言った。
「南朝の人間は、守城に長けております。昔、苻氏が襄陽を攻撃した時も、一年以上も守り抜きました。今、大軍で攻め込んで敵の小城を攻撃し、もしも手間取ったならば、我が方は疲れ、敵の集結を許してしまいます。これは危道です。
 それよりも、いくつかの隊に分かれて土地を攻略しましょう。淮まで守宰を置き、租税を全て我が方で徴収します。そうなれば、洛陽、虎牢、滑台は北方で孤立します。そして救援も望めないと知れば、彼等は必ず黄河に沿って東へ逃げるでしょう。そうなれば、我等にとってここは嚢中の物。必ず奪取できます。」
 しかし、公孫表が城攻めを固く請うたので、遂に魏帝はこれに従った。
 ここにおいて、渓斤は二万の軍を率いて河を渡り、滑台の東へ陣取った。 

  

魏軍来寇 

 この時、司州刺史毛徳祖は虎牢を守っていた。滑台を鎮守するのは、東都太守王景度。彼が毛徳祖へ急を告げると、彼は司馬の擢廣に三千の兵を与えて派遣した。
 これより先、司馬楚之が衆人をかき集めて陳留に居たが、魏軍が河を渡ったと聞くと、すぐに使者を派遣して降伏した。魏は、司馬楚之を征南将軍に任命し、北境を掻き乱させた。毛徳祖は、これに備える為、王法政へ五百人を与えて邵陵を守らせ、劉憐に二百騎で擁丘を守らせた。司馬楚之は兵を率いて劉憐を攻撃したが、勝てなかった。
 台が軍資を送る時、劉憐はこれを出迎えることになった。この時、酸棗に住んでいた王玉とゆう男が、その事実を魏へ密告した。そこで、魏の尚書滑稽が倉垣を攻撃し、大勝利を収めた。倉垣の吏民は城壁を乗り越えて逃げ、陳留太守の厳稜は渓斤へ降伏した。魏は、王玉を陳留太守に任命し、兵卒を与えて倉垣を守らせた。
 ところで、渓斤は、滑台を攻撃していたが、なかなか抜くことができず、とうとう増軍を求めた。だが、それを聞いて魏帝は怒り、渓斤を詰問した。そして自らは五万の兵を率いて恒嶺まで進み、東晋軍を牽制した。それに伴って、魏帝は、太子の寿を塞上へ派遣した。 魏帝が河南攻略に向かったので、柔然が動き出すかも知れず、それに備えたのである。(翌年二月、柔然は来寇する)
 一方、叱責された渓斤は、滑台へ猛攻を加え、遂にこれを抜いた。王景度は脱出した。王景度の司馬の陽賛は魏に捕らわれたが、降伏しなかったので殺された。魏帝は、成皋侯苟児をコン州刺史として、滑台を鎮守させた。
 渓斤は、更に進撃して擢廣を撃破した。そのまま、勝ちに乗じて虎牢まで進み、毛徳祖と戦って、屡々これを破った。  

 魏帝は、黒矛将軍于栗単を別働隊として河陽へ派遣し、金庸を攻略させた。これへ対して毛徳祖は、竇晃等を川伝いに派遣し、于栗単軍を防がせた。だが、河を渡った于栗単は、渓斤と合流して竇晃を攻撃し、これを破った。 

 十二月、魏帝は冀州まで進んだ。ここで、徐州刺史叔孫建へ、平原から渡河して青・コン方面へ向かうよう命じた。これへ対して、宋の豫州刺史劉粋は高道瑾へ五百の兵を与えて項城へ派遣し、徐州刺史王仲徳は湖陸へ出向いた。だが、叔孫建が河を渡ると、宋のコン州刺史徐淡は尹卯を棄てて逃げた。ここにおいて、泰山、高平、金郷等の郡が、全て魏の手に落ちた。
 叔孫建は、東進して青州へ入った。これに先だって、司馬愛之と司馬季之が済東の民をかき集めており、叔孫建が来るやいなや魏へ降伏した。 

 東陽城を鎮守している青州刺史竺変が急を告げたので、南コン州刺史檀道済へ救援に向かうよう詔が下った。又、廬陵王義眞は、龍驤将軍沈叔貍を劉粋のもとへ救援に派遣した。 

 宋の営陽王の景平元年、(423年)。魏の于栗単は金庸を攻撃した。金庸を守っていた河南太守王涓之は、城を棄てて逃げた。魏帝は、于栗単を豫州刺史として、洛陽を鎮守させた。
 この歳の攻防戦については、以下、三カ所に分けて列記する。 

  

叔孫建と東陽城 

 魏の叔孫建はリンシ(戦国時代の斉の首都)を攻略した。彼が向かうところ、全ての城が降伏した。これに対し、宋の青州刺史竺変は、民をかき集めて東陽城を確保した。入城しない者は山険に據らせ、穀物などを全部刈り取らせたので、魏軍が到着した時には、食糧が手に入らなかった。
 宋の済南太守垣苗は、城を棄てて竺変のもとへ駆け込んだ。
 魏帝は、?擁へ言った。
「叔孫建が青州を攻撃しているが、民はみんな逃げ隠れ、なかなか城を攻め落とせない。だが、連中の中には卿へ心服している人間も多い。卿も今から青州へ赴き、叔孫建を助けてやってくれ。」
 そして、?擁を青州刺史に任命し、騎馬を与え、途中で募兵しながら進んで青州を落とすよう命じた。この時、黄河を渡って青州へ向かった魏兵は凡そ六万騎。?擁は募兵して、五千人の兵卒を得た。彼は士民を慰撫したので、大勢の民が兵糧を提供してくれた。
 三月、叔孫建は三万騎で東陽城へ迫った。城中には文武併せて僅か千五百人しかいなかった。しかし、竺変、垣苗は総力を挙げてこれを守り、時には奇襲して敵を破った。
 魏軍は十余里に亘って陣を造り、城攻めの道具を多量に造った。竺変は四重に塹壕を掘ったが、そのうちの三つまで埋められた。そして撞車(お寺などで釣り鐘を撞く木槌の先に金属の重りを付けてものを、車の上に載せたもの)を造って城壁を壊そうとしたが、竺変は地下道を造って、大麻でこれを引っかけて壊した。
 しかし、魏軍は、盾を繋ぎ合わせて塀のように長くして、これで護りながら執拗に攻撃する。時が経つにつれ、次第に城壁は壊され、兵卒も次々と戦死していった。
 檀道済が彭城へ入った時には、司州も青州も、風雲急を告げていた。しかし、彼の率いる兵力は少なく、二分することはできない。青州の方が近く、竺変の兵力が少なかったので、檀道済は王仲徳と共に、まずこちらへ向かった。
 四月、東陽の城壁が、三十歩ばかり壊れた。?擁は、急いで攻めるよう請うたが、叔孫建は許さない。ぐずついているうちに、魏軍は勝機を逸した。
 そんな折りもおり、檀道済等の救援が来ると聞き、?擁は言った。
「賊軍は、官軍の騎兵が突入することを恐れ、鉄の鎖で車を繋いで陣を造っております。ですが、あれでは狭隘な地形では動きが取れません。私が五千の兵を率いて険阻な地形へ誘い込めば、絶対勝てます。」
 この時、酷暑続きで魏軍には疫病が蔓延していたので、叔孫建は言った。
「兵卒の大半が疫病にやられている。ここで持久戦に出られては、兵卒は休むこともできずに死に尽くしてしまう。そうすれば、復讐戦もできんぞ!今は全軍撤退するのが上策だ。」
 こうして、叔孫建等は屯営や器械を焼き払って退却した。檀道済が東陽へ到着した時には、兵糧が既に尽きかけていたので、追撃はできなかった。又、既に東陽城の城壁が壊れていた為、竺変は守りきれないと判断し、不其城へ移動した。
 叔孫建は、東陽から滑台へ移動した。
 ?擁は尹卯に留まり、焦、梁、彭、沛の民五千余家を招き寄せ、二十七の陣営を造ってこれを統治した。 

  

渓斤の虎牢攻撃 

 三月、虎牢を攻撃している魏の渓斤と公孫表へ、魏帝が援軍を送った。
 毛徳祖は城内に七丈程の地下道を掘った。その地下道は六つあり、いずれも包囲する魏軍の背後へ開通した。そこで決死隊四百人を選りすぐり、参軍の范道基を指揮官として、敵の背後から奇襲を掛けた。
 この、突然の攻撃に、魏軍はパニックに陥った。決死隊は、数百の首級を挙げ、敵の攻具を焼き払って城へ帰った。だが、魏軍は、一旦退却したもののすぐに再集結し、今まで以上に激しく城を攻め立てた。
 この城攻めの最中、渓斤は三千の兵を率いて、許昌の李元徳を攻撃した。李元徳は敗走し、魏は許昌を占拠したが、ユ龍を太守としてこれを守らせると、渓斤は素早く虎牢へ戻った。
 渓斤が居ない隙を狙って、毛徳祖は城を出て公孫表と戦った。両軍は朝から暮れまで戦い、毛徳祖は魏兵数百人を殺した。だが、そこへ渓斤軍が帰って来て公孫表と合流し、共に攻め立てたので、毛徳祖は大敗を喫してしまった。毛徳祖は武装兵数千を失い、再び城へ籠もって固く守った。
 毛徳祖は、もともと北方の人間で、公孫表とは旧知の仲だった。だから、公孫表が機略に長けていることを知っており、これを気に病んでいた。そこで、彼へ便りをしたため、それを渓斤へ密告させるとゆう、反間工作を行った。そして、公孫表へ渡す手紙は、わざと文章を墨で塗ったり、ところどころを書き改めたりした。(曹操が、馬超と韓遂を離間させた計略。「三国志、魏武帝本紀」に記載されているので、その故事に倣ったと思われます。発案者は賈グ(言/羽)。「三国志演義」にも出てくるので、ご存知の人も多いと思います。)渓斤は文書の提出を求めたが、その文書はあちこち訂正されたり消されたりしていたので、猜疑して魏帝へ報告した。
 ところで、公孫表と太史令の王亮と若い頃から同じ部署で働いていたが、公孫表はいつも王亮を侮蔑していた。王亮はここぞとばかりに言った。
「公孫表は虎牢の東に陣取っていますが、ここは戦術的に不利な場所です。そんなことをやっているから賊を滅ぼせないのです。」
 魏帝はもともと術数を好む性格だったので、その言葉に納得し、それやこれやで怒りがおさまらず、刺客を放って公孫表を殺させた。
 魏帝は、又、ヘイ州刺史伊楼抜へ、渓斤を助けるよう命じた。毛徳祖は必死で抵抗し、多くの魏兵を殺したが、だんだん力つきてきた。
 閏四月。叔孫建が渓斤のもとへ来て、共に虎牢を攻撃した。虎牢は、包囲されて二百日。その間、戦闘のない日はなかった。精鋭兵は次々と戦死していったが、これを包囲する魏軍は、次々援軍が来て補充して行く。それは泥沼の消耗戦だった。魏軍が城壁を壊せば、毛徳祖はその直前に、内側に三重の城壁を作り上げておく。すると、魏軍はたちまちに二重の塀を壊し、最期の一つの塀で敵味方しのぎを削る、と言った有様だった。兵卒達も疲れ切っていたが、毛徳祖が恩愛を以て接したので、誰も造反しなかった。
 この時、湖陸に檀道済、項城に劉粋、高橋に沈叔貍が居たが、どれも魏軍の強さを恐れ、敢えて動こうとはしなかった。
 魏帝は、萬余人を白沙から渡河させ、濮陽の南へ陣取らせた。
 丁巳、魏軍は地面を掘って、虎牢の水脈を断った。これによって城兵は渇に苦しんだ。傷ついても流血さえしないほどの惨状になり、しかも、敵方はここを先途と猛攻を加える。 己未、遂に虎牢は陥落した。将士は、毛徳祖を抱えて脱出しようと勧めたが、毛徳祖は言った。
「俺は、この城と生死を共にしようと誓ったのだ。今更心を翻せない!」
 魏帝は、将士へ命じていた。
「毛徳祖は、必ず生け捕りにして連れて来い。」
 結局、将軍の豆代田が毛徳祖を捕らえて献上した。
 城内にいた将佐は、皆、魏軍に捕らえられたが、ただ参軍の范道基だけが、二百人を率いて包囲を突破し、南へ帰った。
 なお、魏軍の兵卒は、十人中二・三人が疫病で死んだ。
 渓斤等は、司・コン・豫州の諸郡県を悉く平定し、守宰を置いてこれを慰撫した。魏帝は周幾に河南の鎮守を命じたので、河南の人心は落ち着いた。 

  

項城攻防 

 三月、宋の朝廷は、「項城は、魏に近すぎる。小兵力では持ちこたえられない。」と考え、高道瑾を寿春まで退却させるよう、劉粋へ命じた。すると、劉粋は上奏した。
「敵の主力は虎牢へ向かっており、こちらへは兵力を振り分けておりません。それに、もしも項城を棄てれば、淮西の諸郡の拠点が無くなってしまいます。沈叔貍は既に肥口まで行っておりますので、撤退させるのは良くありません。」
 この時、許昌が陥落し、ここを守っていた李元徳が、敗残兵二百を率いて項城へ逃げ込んできた。そこで、劉粋は、彼を高道瑾の補佐役とすると共に、李元徳が許昌を守れなかった罪を宥めるよう朝廷へ請願した。
 朝廷は、二つとも容認した。
 甲子、劉粋は、李元徳に許昌を襲撃させた。李元徳はユ龍を斬り、許昌の民を慰撫したので、租糧も数多く集められた。 

  

来襲始末 

 閏月、司・コン・豫州が奪われたことで、徐羨之と謝晦は自劾したが、詔が降りて不問に処した。
 五月、魏帝は平城へ帰った。
 九月、魏帝は、渓斤等を平城へ召還し、虎牢は留守兵に守らせた。
 十一月、魏の周幾が許昌を攻撃した。許昌は潰れ、李元徳は項城へ逃げた。更に、魏軍は汝陽も包囲した。汝陽太守王公度は項城へ逃げた。劉粋は、麾下の将を救援として項城へ派遣した。魏軍は、許昌城と鐘城を取り壊して、帰国した。 

  

(訳者、曰) 

 崔浩の進言は筋道が通っていたが、魏帝はそれを二回も無視した。その時点で、この遠征は失敗すると思っていたが、そこそこの領土は獲得した。ただ、その為の被害も大きかったようだ。やはり、宋が頑強に抵抗したので、「手に唾する」とはいかなかったのだろう。
 ところで、途中の年号に、「宋の営陽王の景平元年」とある。○○帝ではなく、○○王となっているので、「劉裕が崩御した後、皇太子が即位したが、やがて一族の他の者に簒奪された。」とゆうことが判る。してみると、やはり派閥争いなどはあったのだろう。こうゆう時、放置しておくと、派閥争いは激化し、やがて骨肉の争いまで発展する。その時こそ、侵略する好機だというのが、戦争のセオリーである。やはり、崔浩の言うように、ここは暫く傍観して、内乱が起こるのを待つべきだったのだろう。そうすれば、もっと少ない被害で、もっと多くの成果が得られたに違いない。
 歴史地図帳を見ると、「魏・宋対立時代」は、山東半島や長安・洛陽は全て魏の領土であり、宋の北限は、黄河どころか、淮水の南岸まで押し下げられている。東晋時代に奪った南燕や後秦の故地は全て魏の領土である。この時の戦いでここまで奪われたのだろうか?
 さて、営陽王の後に登場するのが、文帝である。この、文帝の時代に、宋は反撃を開始のだろうか?あるいは、他の皇帝の時に行うのか?ようやく本格的な南北朝時代に突入したので、両朝の戦争が面白くなりそうだ。「宋の文帝、恢復を図る」とか、「宋の明帝の北伐」とかの表題が見えるので、翻訳するのが今から楽しみである。