魏、北涼を滅ぼす
 
北涼、魏へ入貢す。 

 宋の文帝の元嘉七年(430年)、十一月。北涼王蒙遜は、魏へ使者を派遣して入貢した。魏帝は使者の為に宴会を催し、その席で崔浩の手を執り、使者へ示して言った。
「汝等も崔浩の噂は聞いて居るだろう。これがその崔浩だ。才略は当代随一。朕は事毎にこれへ諮問する。これの予測は符節を逢わせたように、一度として外れたことがない。」
 八年、八月。蒙遜は、息子の安周を、人質として魏へ差し出した。
 九月、魏帝は北涼へ使者を派遣しようと考えた。すると、崔浩は尚書の李順を推薦した。そこで魏帝は、李順を太常と為し、蒙遜へ「侍中、都督涼州・西域・キョウ・戎諸軍事、太傅、行征西大将軍、涼州牧、涼王」の称号を与え、武威、張掖、敦煌、酒泉、西海、金城、西平の七郡の王とした。将相、群卿、百官の設置など、細々とした制度については、漢初の諸侯王の故事に倣った。 

 九年、十二月。李順は魏の使者として涼へ行った。涼王は、中兵校郎の楊定帰を派遣して、李順へ言った。
「近年、歳のせいか腰を患い、拝伏ができそうもない。ただ、もうしばらくして小康状態となれば、なんとか会見はできるだろう。」
 李順は言った。
「王が老齢で患って居られることは、朝廷でも知っております。無用の心配をなさいますな。」
 翌日、蒙遜は李順を招き入れたが、この時、蒙遜は、寝そべったまま起きあがらなかった。李順は顔つきを改め、大声で言った。
「この翁はここまで無礼を極めたか!今、覆亡を憂えず、敢えて天地を凌辱するとは!」
 そのまま、使者の印である節を握りしめて出ていこうとしたので、涼王は楊定帰に後を追わせて言った。
「太常が衰疾を認知なされ、朝廷からも不拝の詔が降りたと聞きましたので、このようにさせていただいたのでございます。」
 すると、李順は言った。
「斉の桓公は九度諸侯と会盟し、天下を一つにした。そこで、周の天子は拝礼無用の特権を与えたが、桓公は臣下としての礼を失わぬよう、拝礼して詔を受けたものだ。今、王は涼州を統一して陛下へ帰順した。その功績は大きいが、斉の桓公とは比べ物にならない。それに、朝廷は王を重んじてはいるが、不拝の詔は、まだ降りていない。今、寝そべったままで天使と対応することが、社稷にとって良い結果をもたらすとお思いか!」
 涼王は、起きあがって詔を受けた。
 李順が帰国すると、魏帝は涼州のことを尋ねた。すると、李順は言った。
「蒙遜は河右を制圧して三十年になります。艱難を乗り越え、機変もほぼ知り、群下は彼に畏服しております。子孫に余慶を流すことはできなくとも、その一身は恙なく終えられるでしょう。ですが、礼は徳の始まりで、敬は身の基でございます。蒙遜は無礼、不敬。臣の見立てでは、長くはありますまい。」
「では、蒙遜が死んだ後、あの国はどれほど持つかな?」
「臣は、蒙遜の諸子を見て参りましたが、皆、庸才です。その中では、敦煌太守の牧建(「牛/建」)が、まだましなようです。後を継ぐのは彼でしょう。ですが、父の蒙遜と比べれば、知れたもの。これは天が陛下へ涼を賜るのでございます。」
「朕は、今、東方で手一杯。とても西まで手は回らぬ。卿の言葉通りなら、数年後に事を起こしても、遅くはあるまい。」 

 さて、涼州には、曇無讖という沙門がいた。鬼を使役して病気を治すと吹聴しており、秘術があるとも言っていた。涼王蒙遜は、これを甚だ重んじて、「聖人」と呼び、後宮の女性や娘達へ、その術を受けさせていた。
 この話を聞きつけた魏帝は、李順を派遣して、魏へ呼び寄せようとしたが、蒙遜はこれを承知せず、遂には曇無讖を殺してしまった。魏帝は、涼へ対して腹を立てた。
 なお、蒙遜は荒淫猜虐な人間で、臣下達はこれに苦しんでいた。 

  

沮沐蒙遜、卒す。 

 十年、四月。蒙遜の病状が重くなった。そこで、国人が後継について相談した。世子の菩提は、まだ幼少だったので、菩提の兄の、牧建を世子に立て、中外都督、大将軍、録尚書事を加えた。
 やがて、蒙遜は卒した。諡は武宣王。廟号は太祖。牧建は河西王(沮沐氏は、東晋から河西王に封じられていた。史書でも、屡々「涼王」ではなく、「河西王」と記されている。)の位に即いた。大赦を下し、永和と改元する。子息の封壇を太子に立て、撫軍大将軍、録尚書事を加える。魏へ使者を立てて、以上のことを報告した。
 牧建は聡明で学問を好み、雅やかで度量があった。だから国人は彼を立てたのだ。
 話は遡るが、魏帝は以前、武宣王の娘を夫人として迎えようとしていた。武宣王が卒したので、牧建は「先王の意志を継ぐ」と言って、妹の興平公主を魏へ送った。彼女は昭儀となった。 

 魏帝は李順へ言った。
「卿は『蒙遜は長くない』と言ったが、験があったな。又、牧建も即位した。素晴らしいぞ!これなら、朕が涼を征服する日も遠くないな。」
 そして、李順へ絹千匹と厩馬一頭を賜り、安西将軍へ昇格させた。そして、李順への寵遇はますます厚くなり、政治向きのことは、大小と無く彼に諮問するようになった。
 涼へ対しては、李順を使者として派遣し、牧建へ「都督涼・沙・河三州・西域・キョウ・戎諸軍事、車騎将軍、開府儀同三司、涼州刺史、河西王」の称号を与え、宋揺を河西右相とした。牧建は、まだ功績も立てないうちに賞を受けるのは畏れ多いと、李順を留めて、称号を一頭減じるよう申し出たが、許されなかった。
 牧建は、敦煌の劉丙を国師と敬っており、自ら拝し、官属達にも北面して仕えさせた。 

 十一年、四月。牧建は宋へ使者を派遣し、王位を継承したことを告げた。詔がおり、牧建へ「都督涼・秦等四州諸軍事、征西大将軍、涼州刺史、河西王」の称号を与える。 

 十二年、正月。ある老父が敦煌の東門へ投書した。その老父を探したが、見つからない。書には、次のように書かれていた。
「涼王三十年若七年。」
 牧建が、これについて張愼へ尋ねると、彼は答えた。
「昔、カクが滅亡したとき、辛(草/辛)へ神が降りました。(春秋左氏伝、荘公三十二年に記載。)どうか陛下、徳を崇み政治を修め、我が国三十年の歴史を大切になさって下さい。もし、狩猟や酒色に遊び呆ければ、七年後に大きな災いが降りかかるでしょう。」
 牧建は憮然とした。 

  

牧建の成婚 

 十四年、十一月。魏帝は、妹の武威公主を牧建へ娶らせた。牧建は、宋揺を使者として平城へ派遣し、感謝の言葉を述べると共に、公主をどう呼べばよいか尋ねた。そこで、魏帝は群臣を集めてこれについて協議させたところ、皆、言った。
「母は子を以て尊く、妻は夫の地位に従うものです。牧建の母は、河西国太后と称するべきですし、公主は、涼国内では王后と称し、この地では公主と称すればよろしいかと。」
 魏帝はこれに従った。 

 初め、牧建は西涼の武昭王の娘を娶っていたが、魏の公主を娶ると、李氏とその母親の尹氏を酒泉へ移した。この頃、李氏は卒したが、母親の尹氏は其の屍を撫で、泣き声を挙げないで言った。
「貴女の国は破れ、家は亡んでいたのですよ。貴女は死ぬのが遅すぎた。」
 酒泉を鎮守していたのは、牧建の弟の無諱である。彼は尹氏へ言った。
「后の諸孫は、今、伊吾に居ます。(423年、李寶は伊吾へ逃げた。)そこへ行かれてはどうですか?」
 尹氏はその真意を測りかね、心ならずも言った。
「我が子孫は、行き場を無くして、異国へ亡命したのです。私はもう、余生幾ばくもありません。異境の鬼となるよりは、せめてここにて死にたいものです。」
 だが、幾ばくも経たないうちに、ひそかに伊吾へ逃げた。
 無諱は追っ手を掛けたが、尹氏は彼等へ言った。
「沮沐無諱は、北への亡命を許可してくれたのです。なんで追いかけてくるのですか!どうしてもというのなら、私の首を取っていきなさい。私は帰りません。」
 追っ手はそれ以上無理強いもできずに、引き返した。
 尹氏は、伊吾で卒した。 

 牧建が魏へ使者を派遣すると、魏帝は古弼と李順を北涼へ派遣した。又、牧建は宋へも使者を派遣して、書物を献上した。
 李順が帰国すると、魏帝は尋ねた。
「往年、卿は涼攻略の策を献上してくれたが、朕は東方へかまけてそれどころではなかった。今、北燕は既に片づいた。朕は今年中にも西征したいが、どうかな?」
 すると、李順は答えた。
「かつての私の予測通りに動いております。ですが、今、我が国は戦争を続け、士馬は疲弊しきっております。西征の件は、今年は思いとどまり下さい。」
 魏帝はこれに従った。 

  

北涼の反心 

 十六年、三月。牧建は、嫂の李氏と密通した。すると李氏は、牧建の姉と共に、魏公主へ毒を飲ませた。しかし、これを聞いた魏帝が医者と解毒剤を届けたので、なんとか魏公主の命は助かった。 

 魏帝は、李氏を引き渡すよう、牧建に要求したが、牧建はこれを拒否し、李氏を酒泉へ逃がした。
 話は変わるが、魏帝が西域へ使者を派遣する時には、まず牧建へ詔を下し、彼等を東の方へ集めさせていた。その使者が西域から武威まで戻った時、牧建の側近が密告した。
「我が君へ、蠕蠕可汗(柔然の可汗)が吹聴いたしました。『去年、魏の天子が我が国へ攻め込んだが、士馬を疫死させただけで、大敗して帰った。そして我々は、奴の長弟楽平王丕を捕虜にしたぞ。』我が君は大いに悦び、これを国中に宣伝いたしました。又、可汗は西域諸国へ使者を派遣して言っているのです。『魏は既に弱体化している。今、天下の強国は我だけだ。もしも魏から使者が来ても、これを奉じてはならぬぞ。』と。そうゆう訳で、西域諸国も、二心を懐き始めております。」
 使者は帰国すると、ありのままを魏帝へ伝えた。そこで魏帝は、尚書の賀多羅を涼州へ派遣して虚実を観てこさせた。帰国した賀多羅は言った。
「牧建は、上辺こそ恭順ですが、内心は反感を抱いております。」
 魏帝は涼を討伐しようと思い、崔浩へ尋ねた。すると、崔浩は言った。
「牧建の反心は、既に歴然としています。誅しなければなりません。我が軍は、去年の北伐で勝てませんでしたが、被害も大きくはありません。三十万の軍馬のうち、途中で死んだのは八千匹そこそこ。常歳の老衰死も、また一万匹とおりません。涼は遠方ですから、正しい情報を持たず、我等が衰耗して威力を無くしたと多寡を括っております。今、大軍を出してその不意を衝けば、奴等は必ず驚愕して、為す術を知らないでしょう。今なら、牧建を擒にできます。」
「よろしい!我が想いと同じだ!」
 そこで、西堂に公卿を大集して、協議した。
 すめると、弘農王渓斤等三十余人が、皆、言った。
「牧建の国は西の果て。奴の心は不逞ではありますが、父の後を継いでから、少なからぬ朝貢を、欠かさずに続けております。そして我が朝廷は、彼を今まで藩臣として遇し、公主まで娶らせたのです。今、その罪状は明白ではありません。恕宥するべきかと心得ます。それに、我が国は蠕蠕を討伐したばかりで、士馬は疲弊しきっております。大軍を出すべき時ではありません。又、あの国は荒涼たる土地で、水も草も殆どないとも聞いております。我々が大軍で進軍すれば、奴等はきっと籠城します。攻撃して抜けなければ、野で略奪する物もありません。これは危道でございます。」
 はじめ、崔浩は李順と反りが合わなかった。その李順は、涼への使者に立つこと十二回。魏帝は、彼を有能と寵遇し始めていた。涼の武宣王(蒙遜)は、屡々李順と遊宴していたが、その時、群臣へ驕慢なことも言っていた。だから、それが魏帝へ洩れることを懼れ、李順へは金宝を贈って懐柔していた。李順は、買収されて、其の事実を隠していた。崔浩はそれを知っていたので、密かに魏帝へ伝えていたが、魏帝は信じなかった。
 涼州討伐が議題となると、古弼と李順は言った。
「温圉水以西から姑藏へ至るまでは荒涼たる砂漠で水も草もありません。姑藏の南に天梯山がありますが、ここの山頂では、冬でも一丈余りの雪が積もっています。春夏にはその雪解け水が川となって流れますので、住民はそれを灌漑に使っているのです。もしも、我が軍の来襲を聞けば、奴等は必ずこの水道をせき止めるでしょう。そうすれば、水が欠乏します。姑藏城の周囲百里には、草も生えておりませんので、人馬は飢えと渇きの為、長逗留はできません。渓斤等の言う通りでございます。」
 すると、崔浩は言った。
「漢書地理志には『涼州の家畜は天下の饒』と書かれている。もし、水も草もなければ、どうやって家畜を養うのか?それに、漢人は、その水も草もない土地に城を築き、郡県を建てたと言われるのか?そもそも、雪が溶けたところで、その水量は知れている。その程度の水で、何で灌漑ができようか!そんな言葉は大嘘だ。」
 李順は言った。
「百聞は一見に如かず。私はこの目で見たのだ。何を難癖付ける?」
「汝は奴等から賄賂を取って、説客となったのだろう。俺を盲とでも思うのか!」
 魏帝はこれを静かに聞いていたが、退出して渓斤等を見た時、その顔が怒りで満ちていたので、群臣は何も言えず、唯々と伏すだけだった。
 群臣が退出した後、振威将軍伊香が魏帝へ言った。
「もしも涼州に水がなければ、奴等はどうやって建国できたのでしょうか?衆議に迷ってはなりません。ただ、崔浩の献策にこそ従うべきでございます。」
 魏帝は、これを善しとした。 

 五月、魏帝は西郊で練兵をし、六月、魏軍は平城を出発した。この時、侍中の穆寿を太子晃の補佐として、留守を任せた。又、大将軍稽敬と輔国大将軍建寧王祟に二万の兵を与えて柔然に備えさせた。
 牧建へ対しては書状を以て、十二の罪状を数え上げ、且つ、言った。
「もしも自ら群臣を率いて、遠くまで我等を出迎えに来て頭を下げるなら、それが上策だ。六軍が揃ったところで、自分を縛り上げて降伏に出てくるのなら、次策である。もし、蒙昧にも籠城して悟らなければ、その身は殺され一族は滅ぼされ、未曾有の大戮が起こるだろう。今は良く思案して、自ら多福を求めよ!」
 魏軍は雲中から黄河を渡り、七月、上郡の属国城へ到着した。
 ここで、彼等は輜重を留め、諸軍に分かれた。撫軍大将軍永昌王健を一軍、尚書令劉契と常山王素を一軍。この二軍を先鋒として二道から並び進ませた。驃騎大将軍楽平王丕と太宰陽平王杜超が後続となり、平西将軍源賀を郷導とした。源賀は、禿髪辱檀(南涼の最後の王)の子息である。
 魏帝が、涼州攻略の方策を源賀へ尋ねると、彼は答えた。
「姑藏の傍らに、鮮卑族が四部いますが、皆、私の祖父の臣民でした。どうか私を軍前に出させて下さい。陛下の威信を述べ、禍福を説きましょう。そうすれば、彼等は必ずや我等に帰順します。外援が無くなれば、孤城を奪うなど、掌を返すようなものでございます。」
 魏帝は善とした。 

 八月、先鋒の永昌王健が、河西の畜産二十余万を捕獲した。
 魏の来襲を聞いた牧建は、驚いて言った。
「何とゆうことだ!」
 そして、左丞姚定国の計略に従い、魏帝を出迎えずに、柔然へ救援を求めた。そして弟の征南大将軍董来へ万余の兵を与えて城南へ派遣したが、その軍は戦いもしないで壊滅した。だが、魏軍の劉契が占い師の言葉を真に受け、兵を納めて追撃しなかったので、董来は城へ逃げ帰ることができた。これを聞いて、魏帝は立腹した。
 魏帝は姑藏へ到着すると、使者を派遣して降伏を勧告した。だが、牧建は、柔然が魏の変域へ入寇従っていると聞き、魏軍が退却することを冀って、籠城の構えを取った。
 牧建の甥の祖が城壁を乗り越えて、魏へ降伏した。それによって敵の内情を知った魏帝は、軍を分けて城を包囲した。この頃、源賀は諸部の三万余落を招聘した。だから、魏帝は外慮なしに城攻めに専念できたのである。
 ところで、姑藏城の城外には、水も草も豊饒にあった。これを見た魏帝は、李順を恨み、崔浩へ言った。
「卿は昔、李順の不実を述べたが、その言葉は正しかった。」
 崔浩は言った。
「臣はこの通り、真実しか申しません。」
 太子の晃は、涼州が茫漠たる土地だと疑っていたので、魏帝は太子へ詔を賜下した。
「姑藏城の西門外からは泉がわき出ており、それは大河となって城北へ流れている。その他にも多くの流れが砂漠の中へ入って行き、その間に燥地はない。だから、この勅を下して、汝の猜疑を解くのだ。」 

 九月、牧建の甥の万年が、部下を率いて投降してきた。これによって姑藏城は潰れ、牧建は文武五千人を率いて面縛して降伏した。魏帝は、その縛をほどいて彼を礼遇した。
城内の戸口二十余万を収めた。姑藏城の倉庫には、珍宝が山積みされていた。
 更に、魏帝は、張掖王禿髪保周、龍驤将軍穆羆、安遠将軍源賀の三人に、諸部を廻らせた。すると、数十万の雑胡が降伏してきた。
 こうして姑藏を落としたが、涼には、姑藏以外にも城がある。牧建の弟の無諱は、沙州刺史として酒泉を鎮守していた。宜得は秦州刺史として張掖を鎮守していた。安周は楽都太守で、従兄弟の唐児は敦煌太守だった。
 姑藏を落とした魏帝は、鎮南将軍渓眷を張掖へ派遣した。鎮北将軍封杳に楽都を攻撃させた。すると宜得は、倉庫を焼いて酒泉へ逃げた。安周は吐谷渾へ亡命したので、封杳は数千戸を略奪して帰った。
 渓眷は、更に酒泉へ進攻した。無諱と宜得は遺民をかき集めて敦煌へ逃げ込んだ。
 魏帝は、酒泉、武威、張掖へ将軍を配置して、これを守らせた。
 これらの手配が終わると、魏帝は姑藏で宴会を開いた。そして、群臣へ向かって言った。
「崔浩はもともと知略余りある人間だ。だから今回の千里眼も、そんなに驚きはしなかった。だが、伊香は弓馬の士である。それが、崔浩と同じ見解を持った。これには深く驚いた。」
 伊香は弓が巧く、力比べでは牛にも負けず、脚力では馬にも負けなかった。その上忠謹な男だったから、魏帝は特に寵遇した。 

  

柔然の来寇 

 話は遡るが、魏帝が西征へ出る時、平城の留守を任された穆寿は河上まで見送った。すると、魏帝は言った。
「柔然と牧建は親しい。朕が牧建を討伐すると聞けば、柔然は必ず動く。だからこそ、朕は精鋭を都へ留め、卿を太子の補佐として残したのだ。収穫が終わったら、すぐに兵を漠南へ動かせ。そして要害に伏兵を置いて、敵の襲来を待ち受けるのだ。敵軍を我が領内深くまで侵入させてから攻撃すれば、必ず勝てる。涼州は遠い。朕は救援に来られぬぞ。卿は朕の言葉に逆らってはならんぞ!」
 穆寿は頓首して命令を受けた。
 穆寿は、平素から中書博士公孫質と親しく、彼を知恵袋としていた。穆寿も公孫質も共に占いを信じる質だったが、今回の件で占ったところ、「柔然は来襲しない」との卦が出たので、備えをしなかった。公孫質は、公孫軌の弟である。
 だが、魏帝の姑藏攻撃を聞きつけた柔然の敕連可汗は、この虚に乗じて魏を攻撃しようと考えた。そこで、兄の乞列帰を留めて魏の稽敬、建寧王祟と対峙させ、自身は精鋭を率いて親征した。
 柔然軍が七介山まで進軍すると、平城はパニックになり、民は争うように城内へ逃げ込んだ。
穆寿は為す術を知らず、西郭門を封鎖して太子を南山へ避難させようと請うたが、竇太后が聞かなかったので、止めた。その代わり、司空の長孫道生と大将軍張黎を派遣し、吐頽山で敵を防がせた。
 その頃、稽敬と建寧王祟は、柔然軍を撃破していた。乞列帰、その伯父の他吾無鹿胡をはじめとする将帥五百人を捕らえ、万余の首級を挙げた。
 この敗報を受け、敕連可汗は引き返した。 

 十月、魏帝は帰国した。楽平王丕と征西将軍賀多羅に涼州を鎮守させ、沮沐牧建の宗族及び吏民三万戸を平城へ連行してきた。柔然の件の報告を受けたが、大事に至らなかったとして、穆寿等は誅されなかった。
 平城へ帰って来てから後、魏帝は、牧建のことを妹婿として遇し、征西大将軍・河西王の称号もそのままにしていた。牧建の母が死んだ時は、太妃の礼で埋葬した。蒙遜の墓へ対しても、三十家の墓守を置いて、面倒を見させた。 

  

魏の収穫 

 涼州は、張氏が前涼を建国して以来、士が多いと評判だった。(八王の動乱以来、中原の人士が大勢河西へ逃げ込んでいた。これを張氏は礼遇し、その態度が子々孫々受け継がれたので、涼州には大勢の人物が残ったのだ。)その歴代の君主の中でも、沮沐牧建は最も文学を好み、大勢の学者を抜擢していた。涼州を平定した魏帝は、彼等を礼遇した。その人士には、劉丙、索敝、陰興、宋欽、程駿、程弘などが居た。
 胡叟は、幼い頃から俊才で、かつて牧建に仕えたが、牧建は彼を重んじなかった。それで、胡叟は程弘へ言った。
「貴主は片田舎で国王を潜称し、小事にばかり気を取られ、その心は純一ではない。上辺は仁義を慕っているが、その実、道徳は無い。これでは滅亡も近い。鳥が良木を選んで巣を造るように、吾は魏へ仕官するつもりだ。御身とは暫く敵味方となるが、なに、長い事じゃない。」
 そうして、魏へ向かった。
 それから数年もしないうちに、涼は滅んだ。魏帝は、胡叟に先見の明があったとして、虎威将軍に任命、始復男の爵位を賜下した。
 常爽は、代々涼州に住んでいたが、仕官しなかった。魏帝は、彼を宣威将軍とした。
 河内右相の宋揺は、魏帝と共に平城へ行き、そこで卒した。
 索敝は、中書博士となった。この頃、魏では武功が持てはやされ、良家の子弟は学問など意に介していなかった。しかし、敝が博士になって十余年の間、学問を勧め、礼を制定したので、貴族達も彼を重んじ、その門下からは尚書や牧守へ栄達する者が数十人も輩出した。
 又、常爽は館にて七百余人を教授した。常爽の賞罰は厳格で、弟子達は、彼へ対してまるで厳君のように接した。これらによって、魏に儒教が定着した。 

  

沮沐無諱の反撃 

 さて、魏帝が涼州を去ると、禿髪保周は、諸部の鮮卑を率いて張掖に據り、魏へ造反した。 

 十七年、沮沐無諱が魏の酒泉を攻撃した。元契はこれを軽んじており、迎撃に出たが、逆に捕らえられてしまった。
 酒泉を抜いた無諱は、今度は張掖を攻撃した。禿髪保周が対峙する。魏帝は撫軍大将軍永昌王健を派遣した。
 五月、無諱は再び張掖を包囲したが、勝てずに臨松まで退いた。魏帝は討伐せず、詔を下して彼を諭した。
 七月、永昌王健は禿髪保周を撃破。禿髪保周が逃げたので、尉眷に追撃させた。禿髪保周は追い詰められて自殺した。
 八月、無諱は、永昌王健のもとへ使者を派遣し、降伏した。酒泉郡と捕虜にしていた元契を魏へ返還する。
 魏帝は、尉眷に涼州を鎮守させた。
 十八年、魏は沮沐無諱を征西大将軍、涼州牧、酒泉王とした。又、沮沐万年を張掖王とする。 

 四月、沮沐唐児が、沮沐無諱に背いた。沮沐無諱は、従兄弟の沮沐天周を酒泉に留めて、自らこれを攻撃し、沮沐唐児は敗死した。 

 魏は、沮沐無諱がいずれ辺境の禍になることを懼れ、鎮南将軍渓眷に酒泉攻撃を命じた。
 魏軍の包囲を受けた酒泉城は、十一月、城内の食糧が底を尽き、万余人が餓死した。この時、沮沐天周は妻を殺し、その肉を兵卒へ分け与えた。やがて、渓眷は酒泉を抜き、天周を捕らえると、平城へ送った。沮沐天周は、平城で処刑された。
 沮沐無諱も、兵糧が欠乏してきた。又、魏の大軍も怖ろしかったので、流沙を越えて西へ逃げようとした。西には、善(「善/里」)善国があった。沮沐無諱は、弟の天周に、善善を攻撃させた。善善は降伏しようとしたが、そこへ魏の使者がやってきて、固守するよう勧令した。結局、安周は勝つことができず、善善の東城へ退却した。 

 十九年、四月。沮沐無諱は万余家を率いると、敦煌を棄てて沮沐安周のもとへ赴いた。この軍が到着する前に、善善王は恐れ、部下を率いて且末へ逃げた。その息子は、安周へ降伏した。こうして、沮沐無諱は善善に據ることができたが、この砂漠越えで士卒の大半を失った。
 李寶は、二千の兵力で伊吾から敦煌へ乗り込み、城府を修繕して、もとの住民を呼び集めた。
 話は遡るが、沮沐牧建が滅亡した後、涼州の住民の門爽が、高昌に據って、太守と自称していた。この頃、柔然から圧迫された唐契が、部下を率いて西へ避難し、高昌を奪おうと考えた。だが、それを果たす前に、柔然の追撃を受けて唐契は敗死した。すると、弟の唐和が、その部下を率いて車師前部王伊洛のもとへ逃げ込んだ。
 この時、沮沐安周が横載城に屯営していたので、唐和はこれを攻撃して抜いた。又、高寧、白力の二城も抜き、使者を派遣して魏への降伏を勧告した。
 ところで、唐契が門爽を攻撃した時、門爽は沮沐無諱のもとへ使者を派遣して、偽りの降伏をし、同盟して唐契を攻撃しようと持ちかけていた。
 八月、沮沐無諱はこの話に乗り、軍を率いて高昌へ赴いた。だが、この時既に唐契は死んでいたので、門爽は城門を閉じて沮沐無諱軍を拒絶した。
 九月、沮沐無諱麾下の将が高昌を攻撃して、これを抜いた。門爽は柔然へ逃げた。
 こうして沮沐無諱は高昌へ據った。そして、宋へ使者を派遣した。宋は、沮沐無諱を「都督涼・河・沙三州諸軍事、征西大将軍、涼州刺史、河西王」とした。 

 二十一年。沮沐安周が、「都督涼・河・沙三州諸軍事、征西大将軍、涼州刺史、河西王」の称号を継承した。 

  

牧建の最期 

 話は遡るが、十六年に魏軍が敦煌を攻略した時、府庫を壊して財宝を奪った者がいた。その門は開きっ放しになったので、住民達も争って盗みに入った。役人はこの事件の下手人を挙げることができなかったが、実は、沮沐牧建が人を派遣して、財宝を盗ませていたのだった。
 二十四年。沮沐牧建と親しかった者が、この事件を告発した。又、「牧建親子は毒薬を多量に蓄えており、百人からの人間を毒殺した」と告発する者や、「牧建の姉妹達は呪術を学んでいる。」と言う者も居た。そこで役人が牧建の家を捜索したところ、盗まれていた宝物が出てきた。魏帝は激怒し、沮沐昭儀を自殺させ、その宗族を皆殺しとした。ただし、沮沐祖だけは、皆より早く降伏していたので、命を助けた。
 又、「牧建はもとの臣下達と語り合って謀反を企んでいる。」と通告する者も居た。三月、魏帝は牧建を自殺させた。哀王と諡する。