造反 |
開元十年(壬戌、722年)六月、安南の賊帥梅叔焉等が、州県を攻囲した。驃騎将軍兼内侍楊思助(「日/助」)を派遣して、これを討たせる。
思助は群蛮の子弟を募り、十余万の兵を得た。賊軍を襲撃して大いに破る。叔焉を斬り、屍を積んで京観として、帰った。
同年八月己卯夜、左領軍兵曹権楚璧とその仲間の李斉損等が乱を起こした。楚璧の兄の子梁山を襄王の子息と詐称して光帝と為す。左屯営兵数百人を擁して宮城へ入り、留守王志音を探すが、見つけきれなかった。
暁頃、屯営の兵は自然に潰滅した。楚璧等を斬り、首を東都へ持って行く。志音は驚き怖れて死んだ。
楚璧は懐恩の姪、斉損は迥秀の子息である。
壬午、河南尹王怡を京師へ派遣して事情を調べ慰撫させた。
王怡が権楚璧の事件を究明したところ、連座で逮捕される者が多く、なかなか決着が付かなかった。そこで上は開府儀同三司宋mを西京留守とした。mは到着すると、楚璧と共に陰謀を巡らせた数人を誅殺するに留め、他の者は皆赦すよう上奏した。
開元十三年(乙丑、725年)五月庚寅、妖賊劉定高が衆を率いて夜に通洛門を犯した。悉く捕らえて、これを斬る。
十四年四月丁亥、太原尹張孝嵩が上奏した。
「李子喬(「山/喬」)とゆう者が、皇子と自称しています。路(「水/路」)州生まれで、母親は趙妃と言っています。」
上は、これを杖で打ち殺すよう命じた。
二十四年五月、醴泉の妖人劉志誠が乱を起こした。途上で掠奪をしながら咸陽へ向かう。村人が走って県官へ報告したので、橋を焼き払って進路を絶ちこれを拒んだ。賊衆は潰れ、数日して悉くこれを捕らえ、殺した。
天寶三載(744)二月、海賊呉令光等が台、明で掠奪を働いた。河南尹裴敦復へ討伐を命じる。
四月。裴敦復が、呉令光を破り、これを捕らえる。
裴敦復が海賊を撃って帰ってくると、戸部尚書裴寛へ金品を送って軍功を吹聴するよう頼んだが、寛は過小報告しかしなかった。林甫がこれを敦復へ告げると、敦復は言った。
「寛はもともと私と親しかったから、いろいろ都合をつけてやっていたのに。」
林甫は言った。
「君はすぐに上奏しろ。遅れたら、逆に何を言われるか判らないぞ。」
そこで敦復は女官楊太眞の姉へ五百金を贈り、この事実を上言して貰った。
十二月甲午、寛は有罪となり、隹(「目/隹」)陽太守へ降格となった。
四年、四月乙巳、刑部尚書裴敦復を五府経略等使とした。
五月壬申、敦復は京師にグズグズしていて任地へ赴かなかったので有罪となり、シ川太守へ降格となった。経略等使には光禄少卿彭果を任命する。
上は、敦復が海賊を平定した功績を嘉していた。だから、李林甫がこれを陥れたのだ。