造反
 
 開元九年(辛酉、721年)蘭池州の胡の康待賓が諸々の降戸を誘って造反した。
 夏、四月、六胡州を攻め落とす。その軍勢は七万。進撃して夏州へ迫る。朔方大総管王俊(本当は日偏)、隴右節度使郭知運へ、討伐するよう命じる。
 五月、太僕卿王毛仲を朔方道防禦討撃大使として、王俊及び節度大使張説と共に康待賓を討伐させる。
 七月己酉、王俊が康待賓を大いに破った。これを生け捕りにし、造反した胡人一万五千人を殺す。
 辛酉、四夷の酋長を集め、西市にて康待賓を腰斬する。
 話は前後するが、叛胡は密かに党項と通謀し、銀城、連谷を攻撃し、その倉庫の物資を拠り所とした。張説が歩騎一万を率いて合河関から出撃して攻撃し、大いにこれを破る。追撃して駝堰まで至った。すると党項が胡と戦い、胡衆は潰滅して西へ逃げ鐵建山へ逃げ込んだ。説は党項を集めて安堵させ、その生業へ戻させた。 阿史那献は、党項が叛服常無いので、彼等も一緒に誅しようと請うたが、説は言った。
「王者の軍は、造反した者を打ち、服従した者は赦すものだ。既に降伏した者を、どうして殺せようか!」
 そして、麟州を設置して党項の余衆を鎮撫するよう奏上した。
 当初、郭知運と王俊へ協力して討伐するよう詔が降りた時、王俊は、朔方の兵力には余力があるので、知運は本軍へ戻すよう上言した。だが、返報が来る前に、知運は到着した。
 この一件のせいで、知運は俊へ非協力的だった。俊が降伏者を呼び集めると、知運はこれを攻撃した。虜は、俊が自分達を売ったと思い、再び叛いた。
 上は、俊が群胡を平定できないと判断した。九月丙午、俊を梓州刺史へ降格した。
 同月癸亥、張説は兵部尚書、同中書門下三品となった。
 十月、河西、隴右節度大使郭知運が卒した。
 知運と同県の右衞副率王君奥は、共に驍勇で騎射の名人として、西域に名を馳せ虜から憚られていた。当時の人々は、彼等を「王、郭」と呼んだ。君奥は、遂に知運の麾下から河西、隴右節度大使、判涼州都督に抜擢された。
 この年、朔方節度使を設置する。単于都護府、夏、鹽等六州、定遠、豊安二軍、三受降城を領有させる。
 十年四月己亥、張説へ知朔方軍節度使を兼任させる。
 五月閏月壬申、張説が朔方へ赴いて辺境を巡察した。
 康待賓の残党康願子が造反し、自ら可汗と称した。
 十年八月、張説が兵を発して追討してこれを捕らえ、その一党は全て平定した。
 河曲六州の残胡五万口を許、汝、唐、トウ、仙、豫等の州へ移し、河南、朔方の千里の土地を空にした。
 二十六年二月壬戌、康待賓の連座で、諸州へ奴隷として連れ去られた河曲六州の胡は、故郷へ帰ることを許す。鹽、夏の間に宥州を設置して、彼等をここへ住ませた。

 

 

 

 開元十年(壬戌、722年)六月、安南の賊帥梅叔焉等が、州県を攻囲した。驃騎将軍兼内侍楊思助(「日/助」)を派遣して、これを討たせる。
 思助は群蛮の子弟を募り、十余万の兵を得た。賊軍を襲撃して大いに破る。叔焉を斬り、屍を積んで京観として、帰った。

 

 

 同年八月己卯夜、左領軍兵曹権楚璧とその仲間の李斉損等が乱を起こした。楚璧の兄の子梁山を襄王の子息と詐称して光帝と為す。左屯営兵数百人を擁して宮城へ入り、留守王志音を探すが、見つけきれなかった。
 暁頃、屯営の兵は自然に潰滅した。楚璧等を斬り、首を東都へ持って行く。志音は驚き怖れて死んだ。
 楚璧は懐恩の姪、斉損は迥秀の子息である。
 壬午、河南尹王怡を京師へ派遣して事情を調べ慰撫させた。
 王怡が権楚璧の事件を究明したところ、連座で逮捕される者が多く、なかなか決着が付かなかった。そこで上は開府儀同三司宋mを西京留守とした。mは到着すると、楚璧と共に陰謀を巡らせた数人を誅殺するに留め、他の者は皆赦すよう上奏した。

 

 開元十三年(乙丑、725年)五月庚寅、妖賊劉定高が衆を率いて夜に通洛門を犯した。悉く捕らえて、これを斬る。

 

 十四年四月丁亥、太原尹張孝嵩が上奏した。
「李子喬(「山/喬」)とゆう者が、皇子と自称しています。路(「水/路」)州生まれで、母親は趙妃と言っています。」
 上は、これを杖で打ち殺すよう命じた。

 

 二十四年五月、醴泉の妖人劉志誠が乱を起こした。途上で掠奪をしながら咸陽へ向かう。村人が走って県官へ報告したので、橋を焼き払って進路を絶ちこれを拒んだ。賊衆は潰れ、数日して悉くこれを捕らえ、殺した。

 

 天寶三載(744)二月、海賊呉令光等が台、明で掠奪を働いた。河南尹裴敦復へ討伐を命じる。
 四月。裴敦復が、呉令光を破り、これを捕らえる。
 裴敦復が海賊を撃って帰ってくると、戸部尚書裴寛へ金品を送って軍功を吹聴するよう頼んだが、寛は過小報告しかしなかった。林甫がこれを敦復へ告げると、敦復は言った。
「寛はもともと私と親しかったから、いろいろ都合をつけてやっていたのに。」
 林甫は言った。
「君はすぐに上奏しろ。遅れたら、逆に何を言われるか判らないぞ。」
 そこで敦復は女官楊太眞の姉へ五百金を贈り、この事実を上言して貰った。
 十二月甲午、寛は有罪となり、隹(「目/隹」)陽太守へ降格となった。
 四年、四月乙巳、刑部尚書裴敦復を五府経略等使とした。
 五月壬申、敦復は京師にグズグズしていて任地へ赴かなかったので有罪となり、シ川太守へ降格となった。経略等使には光禄少卿彭果を任命する。
 上は、敦復が海賊を平定した功績を嘉していた。だから、李林甫がこれを陥れたのだ。

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