宗教
 
 中宗以来、貴戚は争って仏寺を造営し、御国の為とのお為ごかしで、大勢の人間を僧にしていた。だから、労役のがれの為に髪を剃る富豪達が巷に溢れた。
 姚崇が上言した。
「仏図澄は趙を存することができず、鳩摩羅什は秦を存することができませんでしたし、斉の襄帝も梁の武帝も禍を免れませんでした。ただ、人民を安楽にさせてこそ、我が身に福が宿るのです。どうして姦人を妄りに僧侶にさせて、正法を壊させるのですか!」
 上はこれに従った。
 開元二年(714年)正月丙寅、役人へ、天下の僧尼を淘汰するよう命じた。これによって妄りに僧を偽称していた者一万二千余人が還俗させられた。
 二月丁未、敕が降りた。
「今後、所在に仏寺を建造してはならない。壊れかかっており修理が必要な旧寺は、役人へ申請し、検分を受けた後に行え。」
 七月戊申、百官と僧、尼、道士との往来を禁止する。
 壬子、人々が写経したり仏を鋳造したりするのを禁じる。 

 四年七月壬辰、太常博士陳貞節、蘇献は太廟の七室が一杯になったので、中宗の神主を別廟へ移し、睿宗の神主を太廟へ入れるよう請願した。これに従う。
 また、昭成皇后を睿宗の室へ移し、粛明皇后を儀坤廟へ留め祀るよう上奏した。
 八月乙巳、太廟の西へ中宗廟を立てる。 

 五年八月、太常少卿王仁恵が上奏した。
「則天武后の立てた明堂は古制に合致していません。また、明堂は質素を尊ぶのに、これは宮掖のように奢侈を極めています。これでは人も神も落ち着きません。」
 甲子、明堂を乾元殿と為し、冬至・元日には朝賀を受け、旧来通り季秋の大享は圜丘にて行うと制が降った。 

 十月癸酉、伊闕の人孫平子が上言した。
「春秋では、魯の文公が僖公の廟の順番を閔公の上へ昇らせたのを、逆祀として譏っております(文公、二年)。今、中宗を別廟へ移して睿宗を祀るのでは、まさに魯と同じです。兄でも弟の臣下だったなら昇らせてはならないのに、ましてや弟で兄の臣下だった者を兄の上へ置くことはできません!もしも兄弟が同世代というのなら、兄を別廟へ出すのは不自然です。どうか群臣へ博く協議させ、中宗を廟へ入れてください。」
 この件が禮官へ下された。太常博士陳貞節、馮宗、蘇献が議論して結論を出した。
「七代の廟では、兄弟を分けて数えません。殷代には兄弟四人が相継いで主君となったこともありました。もしもこれをそれぞれ代として数えたならば、祖禮の祭がなくなります。今、睿宗の室は高宗へ附属させました。ですから中宗は特別に別廟を立てたのです。中宗は既に新廟の祖へ昇らせ、睿宗は高宗へ従属させたのですから、何で中宗の上へ置いたことになりましょうか?それなのに、平子は僖公が逆祀であることを証として、聖朝を妄りに誣ました。増長させてはいけません。」
 当時の世論では、多くの者が平子を是としていた。上も又これに同意していたので、この議論は長く結論が出なかった。なお、蘇献は延の従祖兄である。
 平子はこれを論じて止まず、とうとう康州都城尉となった。 

 同月、新廟が落成した。戊寅、神主を廟へ入れた。 

 六年閏七月、右補闕盧履冰が上言した。
「礼には、『母が死んだとき、父親が健在なら一年の喪に服す』とあります。ところが、則天皇后はこれを三年に改めました(上元元年=674年)。どうか、旧来へ戻してください。」
 上は、廷臣へ議論させた。
 左散騎常侍チョ無量は、履冰の議論を是としたが、諸人は論争して長い間決着が付かなかった。
 八月辛卯、今後は五服は全て「喪服伝」の文に依るよう敕が降りた。しかし、士大夫の議論はなおやまず、各々自分の想いに従って実践した。無量は嘆いて言った。
「聖人が、どうして父母の恩の厚さを知らなかっただろうか?だが、厭降の礼こそ、尊卑を明らかにするもの。これがあるから我等は戎狄ではないのだ。なのに、俗人は目先の情愛に溺れて聖人の心を知らず、その制を乱してしまった。誰がこれを正せるだろうか!」 

 十年六月己巳、太廟を九室へ増やし、中宗主を太廟へ戻すよう制が降りる。
 十一年八月戊申、宣皇帝廟を獻祖、光皇帝廟を懿祖と追尊し、太廟九室へ付随させる。 十一月、禮儀使張説等は、高祖を天の上帝へ配して三祖並配の礼をやめるよう、上奏した。
 戊寅、上が南郊で祀り、天下へ特赦を下す。 

 群臣は、しばしば上表して封禅を請うた。十二年閏月丁卯、明年十一月十日に泰山にて封禅すると制が降る。
 この時、張説は封禅の議の首建者だったが、源乾曜は封禅を欲しなかった。これによって、二人は不仲になった。
 十三年、張説が、封禅の儀礼の草稿を封書で献上した。
 四月丙辰。上と中書門下及び礼官、学士が集仙殿にて宴会を開いた。
 上は言った。
「仙人は憑虚の論で、朕は信じていない。賢者には済理が備わっている。朕は今、卿等と宴遊している。この殿の名を集賢殿と改名するべきだ。」
 その書院官は五品以上を学士とし、六品以下を直学士とする。張説を知院事、右散騎常侍徐堅をその副官とする。
 上は、張説を大学士としたかったが、説が固辞したので、やめた。
 説は、大駕が東巡する隙に乗じて突厥が入寇する事を畏れ、辺境の守備を固めようと、兵部郎中裴光庭を召して、これと謀った。光庭は言った。
「封禅は、天へ成功を告げるもの。今、中天へ昇ろうとゆうのに、戎狄を懼れるなど、盛徳ではありません。」
 説は言った。
「それならば、どうするのだ?」
「四夷の中では、突厥が最も強大です。ここで和親を求めて籠絡しようとしても、心を許せません。そこで、使者を派遣して彼等の大臣を徴集し、泰山の封禅へ随従させるのです。彼は絶対、大喜びで従います。突厥が来たら、戎狄の君長は皆、必ずやってきます。そうしたら、旗を巻き太鼓を伏せても枕を高くして余りあります。」
「善いぞ。説は考えもしなかった。」
 光庭は行倹の子息である。
 上は中書直省袁振を摂鴻臚卿として派遣し、突厥へ旨を諭した。小殺と闕特勒、敦(「日/敦」)は帳中で車座になって酒を出し、振へ言った。
「吐蕃は狗種、奚、契丹は、もともと突厥の属国。なのに彼等は皆、公主を娶っている。それなのに、突厥は何度も通婚を求めたが許されなかった。これはどうゆうことだ?もちろん、吾は蕃へ嫁いだ公主が皆、天子の娘ではないことは知っているが、今は真偽などどうでも良い!ただ、しばしば請うても叶えられなければ、諸蕃へ会うのが恥ずかしいだけだ!」
 振は、彼の為に奏聞することを約束した。小殺はその大臣阿史徳頡利發を入貢させ、東巡へ随従させた。
 八月。張説が封禅の儀を議し、睿宗を皇地祗へ配するよう請うた。これに従う。
 十月辛酉、車駕が東都を出発した。百官、貴戚、四夷の酋長が随行する。宿営するごとに、数十里が人と家畜で覆われる。役人が運ぶ供え物の行列は、数百里も絶えずに続いた。
 十一月丙戌、泰山の下に到着。御馬が登山した。従官は谷口に留め、宰相と祠官だけが皇帝と共に登った。護衛の人間は、山の下数百里を取り巻いた。
 上は、禮部侍郎賀知章へ問うた。
「前代はどうして玉牒の文を秘密にしていたのか?」
 対して答えた。
「あるいは密かに神仙を求めたので、他人に見られたくなかったのかも知れません。」
 すると、上は言った。
「吾は人民のために幸せを祈りたいだけだ。」
 そこで、 玉牒を出して群臣へ宣示した。
 庚寅、上は山上で昊天上帝を祀った。群臣は山下の祭壇で五帝百神を祀る。その他は、乾封の故事に倣った。
 辛卯、社首にて皇地祗を祭る。
 壬辰、上は帳殿へ出向いて朝覲を受け、天下へ恩赦を下す。泰山の神を天斉王に封じ、禮秩は三公一等を加える。
 張説は中書省と門下省の官吏だけをひいきして、親しんでいる摂官は登山させた。儀式が終わると、彼等は往々にして加階され五品以上へ入ったが、この加階は百官へ公平に行われはしなかった。中書舎人張九齢が諫めたが、聞かない。また、随従した士卒へは加勲されただけで、賜物がなかった。これによって、中外が怨んだ。
 さて、隋の末期、国の馬は全て盗賊や戎狄に掠奪されてしまった。唐の初期、赤岸澤にて雄雌併せて僅か三千匹の馬を得た。これらは隴右へ移して太僕の張萬歳へ管理させた。萬歳はこの職務に優秀で、貞観から麟徳にかけて、馬は七十万匹に増えた。そこで、これを八坊、四十八監に分けて、各々使を置いてこれを管理させた。この頃には、天下では一ケンで馬一匹が変えた。だが、垂拱以後、馬はどんどん減っていった。
 上が即位した頃、牧馬は二十四万匹いた。太僕卿王毛仲を内外閑厩使として、少卿張景順を副官とした。こうして、馬は四十三万匹に増え、牛や羊も同じように増えた。
 上が泰山で封禅をした時、牧馬数万匹を連れていった。この時、馬は同色毎に群にしたので、遠くから見ると、まるで錦の雲のようだった。上は毛仲の功績を嘉し、癸巳、毛仲へ開府儀同三司を加えた。
 甲午、車駕が泰山を出発した、庚申、孔子宅へ御幸して、祭をした。
 上が帰って宋州まで来ると、楼上にて随従の官吏達と宴会を開き、刺史の寇もこれに参加することができた。宴たけなわにて、上が張説へ言った。
「かつて、使臣達をしばしば諸道へ派遣して地方官の善悪を観察させた。今、封禅の為に諸州を巡ってみて、使臣の報告に虚偽が多いことが判った。懐州刺史王丘は穀物の他、一切献上しなかった。魏州刺史崔ベンは、装飾に錦繍を使わず、我へ倹約を示した。済州刺史裴輝卿は数百言を上表したが、規諫とならぬ言葉はなかった。その上、言った。『人々へ苦労を掛ければ、封禅をする価値がありません。』朕は常にこれを座の側に置き、左右の戒めとしている。この三人は、民を苦しめてまで手柄を買おうとはしない。真の良吏だ。」
 そして、寇を顧みて言った。
「これもまた、しばしば酒饌が不足すると朕へ訴えた。だから、卿が左右へ媚びないことを知ったのだ。」
 自ら酒を挙げてこれへ賜った。
 宰臣は群臣を率いて立ち上がり祝賀し、楼上の皆は万歳を唱えた。
 これによって丘は尚書左丞、ベンは散騎侍郎、輝卿は定州刺史となった。輝卿は叔業の七世の子孫である。
 十二月乙巳、東都へ帰る。 

 十四年正月、張説が上奏した。
「今の五礼は、貞観と顕慶年間に定められましたが、この二つには違いがあり、中にはまだ折衷されていない物もあります。学士等に古今を討論させ、改訂して施行しましょう。」
 制を降ろして、これに従う。張説と諸学士へ五礼を刊定するよう命じた。
 説が卒すると、蕭嵩がこれを継承した。
 起居舎人王仲丘は、明慶禮に依り、祈穀・大ガク・明堂は皆、天上帝を祀昊するよう請うた。嵩はまた、上元敕に依り、父が生存していても母親が死んだら三年の喪に服すよう請うた。皆、これに従う。高祖を圜丘・方丘に配し、太宗はガク祀及び神州地祇へ配し、睿宗は明堂へ配する。
 二十年九月乙巳、新しい禮が完成し、これを上納する。開元禮と名付けられた。 

 十七年四月庚午、太廟で帝(「示/帝」)を行った。
 唐初では、合(「示/合」)は昭穆に序していたが、帝は各々その室で祀っていた。ここにいたって、太常少卿韋トウ等が上奏した。
「この様なやり方では、帝は普段の饗と変わりません。どうか帝も合も昭穆に序するようにしてください。」
 これに従う。
 トウは、安石の兄の子である。 

 十九年三月丙申、初めて、両京諸州へ各々太公廟を設置させる。張良を配享し、いにしえの名将を選んで十哲を備える。(張良を配饗し、これに司馬ジョウショ、孫武、呉起、楽毅、白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣を加えて十人とした。つまり、太公望を孔子と同格に扱い、同様の廟を造らせたわけですね。)二月と八月の上戊に孔子の礼のように祭りを行う。
 (司馬光、曰く、)天地を網羅するのを「文」と言い、禍乱を鎮定するのを「武」と言う。いにしえから、この二つを兼ね備えずに「聖人」と呼ばれた者はいなかった。だから、黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、伊尹、周公には征伐の功績があったし、孔子は実戦こそしなかったが、莱夷の兵を退却させ、将軍に費人を撃退させ、言った。「我は戦えば勝った。」どうして孔子が文の専門家で、太公望が武の専門家だとゆうことがあろうか?孔子が学者として祀られているのは、礼の先聖先師だったからだ。人間が生まれて以来、孔子ほど素晴らしい人は未だかつて居なかった。どうして太公望などと比べられようか!
 昔は、出兵となれば、士へ車甲を教えるよう大司徒に命じたり、御前試合を行い作戦を決定し戦果を報告するなどのことは、全て学校で行った。その理由は、礼義を先にして勇力を後にしたかったからである。
 君子に勇気だけあって義がなければ、乱を起こす。小人に勇気だけあって義がなければ、盗賊となる。もしも勇力だけを訓練して礼義を教えこまなければ、何をしでかしてしまうのか!孫、呉以降、皆、勇力を戦わせ、騙し合った。彼等を聖人と数えて「武」と言うなど、役者不足も甚だしい!それを強いて十哲になぞらえ、後世の学者達の師匠とした。もしも太公望に魂があるならば、孔子と同じように祀られることを、必ずや羞じるだろう。 

 五月壬戌。初めて五嶽眞君祠を立てる。 

 二十年七月、蕭嵩が上奏した。
「后土を祀って以来、屡々豊年となりました。ですから、これを京へ帰して賽祠するのがよろしゅうございます。」
 上は、これに従った。 

 十月壬午、上は東都を出発した。辛卯、路州へ御幸し、辛丑、北都へ到着する。
 十一月庚申、汾陰にて后土を祀り、天下へ恩赦を下す。
 十二月辛未、西京へ帰る。 

  二十一年正月乙巳、粛明皇后を太廟にて祀ることにして、儀坤廟を壊した。 

 方士の張果は、自ら神仙の術があると言い、「堯の時には侍中だった。今年で数千歳だ。」と、民を誑かした。普段は恒山の中を往来しており、則天武后以来屡々朝廷から招かれたが、やって来たことはなかった。
 恒州刺史韋済が、これを推薦した。上は中書舎人徐喬(「山/喬」)を派遣し、璽書を遣ってこれを迎えた。
 二十二年二月庚寅、東都へやって来た。肩輿に乗って入宮する。非常に厚遇された。
 同年十一月に、張果は恒山へ帰ることを固く請うた。制によって銀青光禄大夫とし、通玄先生と号する。厚く下賜して遣る。
 後、張果が卒すると、怪異を好む者は、「尸解仙になった」と上奏した。上は、これによって神仙を深く信じるようになった。 

 以前、上が田を耕して恩赦を下した折、宗廟の供え物や服紀がまだ通じていないものを増やす件について、管轄の官吏へ協議するよう命じていた。
 二十四年五月、太常卿韋滔(本当は糸偏)は、宗廟毎にヘン(「竹/辺」:タカツキ。古代の祭祀の時、果物を盛った器)豆を十二にするよう奏請した。
 兵部侍郎張均や職方郎中韋述が発言した。
「孝子の情は深いけれども物には限りがあります。聖人はそれを知っていたから、祀り方を制定したのです。人の嗜好には、元々基準などありません。恣意に供えたら、時と共に変わって行きます。ですから聖人は、一切を古と同じにしたのです。屈到は菱が好きで「死後は霊前に供えよ」と遺言しましたが、息子の屈建はこれを霊前に供えませんでした。私欲で国典を破らない為です(国語、「楚語」より)。今、甘旨肥濃とゆう贅沢な品を祭祀用に使おうとしていますが、ひとたび旧制を越えてしまえば、どこに限りがありましょうか!書経にも言います。『黍や稷が香り高いのではない。明徳が香り高いのだ。』もしも、”今の珍味美膳をいつも食べなれているから、御霊も欲しがっているだろう、何で古来からのやり方に固執する必要があろうか”と言ってしまったら、結局は従来の小さな器が棄てられて供物が盛大に盛られることになり、粛然とした音楽が棄てられてにぎやかな笛太鼓が鳴り響くことになってしまいます。正物でなくなってしまったら、後々はどのようになってしまうでしょうか!
 それ、神は精明で人へ臨むものです。豊大を求めません。いやしくも礼を失ったら、多いと雖も何になりましょうか!礼経を棄てて流俗へ従って、どうして良いものでしょうか!それに、君子は礼を以て人を愛し、迎合しません。ましてや宗廟にいるとき、敢えて旧章を忘れるなど、とんでもないことです!」
 太子賓客崔 が発言した。
「祭祀が太古に始まった頃は、毛を茹でて血を飲んでいました。これすなわち『毛血の薦』です。まだ酒を醸す麹がなかった頃は、玄酒を地面に播いていました。後の王の代になって、礼物がようやく揃いました。しかし、神道は敬う心ですから、従前の儀式を敢えて廃止しなかったのです。ヘン豆や祭祀用の器は、皆、周代の人々が定めた物で、宴饗や賓客用の器を使用したのですが、周公の定めた礼では毛血玄酒にても鬼神を祀りました。
 国家は礼によって訓を立てます。時によって規範を定めていますが、清廟や時饗、礼饌などは周代の制度を用いていますし、園陵上食の膳や道具は漢代の法を順守しています。職貢来祭で遠方の物が来た時に新奇なものがあれば、必ず鬼神へ捧げます。苑園の内で陛下が耕した収穫物や狩猟の時に陛下がしとめた獲物などは全て、まず捧げてから食べます。誠と敬を尽くしているではありませんか。このようにしておりますのに、これ以上何を加えましょうか!ただ役人達へ手抜きや怠慢をしないよう敕を下せば、既に供物のうちに鮮美肥濃がことごとく備わっているのです。これ以上、ヘン豆の数を増やす必要はありません。」
 上は、どうしても品味の量を増やしたかった。滔は、室ごとにヘン豆を各六つずつ加え四時には各々新鮮な果物や珍味を供えるよう、再び上奏した。これに従う。
 滔は、また、上奏した。
「喪服では、『舅は思(「糸/思」)麻三ヶ月、従母、外祖父母は皆、小功五ヶ月』となっています。外祖父は至尊なのに、従母の服喪と同列です。姨(従母)と舅は、服喪の軽重に一等差を付けてあります。堂姨と舅親は疎遠ではないのに、恩が絶えたので共に喪に服しません。舅母は外から来たので、『かまどを同じくする礼』には入れません。こうして昔の意向を見ますに、しっくり来ないところもあります。どうか、外祖父母を大功九ヶ月とし、姨、舅は小功五ヶ月、堂舅、堂姨、舅母は服袒を免じるようにしてください。」
 崔 が意見した。
「正家の道は、二つあってはいけません。定義を総一するならば、その理は本宗にあります。ですから、内に斉、斬があり、外は皆思麻です。名を尊ぶために加える物はわずか一等に過ぎませんが、これは先王不易の道です。どうか八年(実際には開元七年)の明旨を守って全て古礼に依り、万代の成法となさってください。」
 韋述が意見した。
「喪服伝に言います。『禽獣は母を知って父を知らず。野人曰く、父と母が何で同じだろうか!都邑の士は、ニ(父が死んで宗廟に位牌を立ててからの呼び名)を尊ぶことを知り、大夫や学士は祖を尊ぶことを知る』と。聖人が天道を極めれば祖ニへ厚くなり、一族が繁栄すれば子孫へ親しみます。母党を本族と比べれば、同列に扱えないのは明白です。今もし、外祖父と舅の服喪へ一等を加え、堂舅と姨を服紀に並べたら、中外の制はどれだけ違うというのですか!礼を廃して情に流れるのは、務める者の愚劣です。古の人は、人情が揺れやすいのを知り、礼が次第に失われて行くのを恐れたので、その同異を分け軽重を分明にして後世の人々が永く純粋な礼を実戦できるように、制を作ったのです。微かな想いを大切にして封じ込めたもの。どうしていい加減に作ったものでしょうか!いやしくも加えることができるなら、減らすこともできるのです。禮経を損なうとゆうことは、かつての聖人を否定することです。先王の制は常倫というもの。これを大切にしていても、なお失墜を恐れます。その記述を一つ乱せば、どこで止まりましょうか!どうか儀禮に依って喪服を定めてください。」
 禮部員外郎楊仲昌が意見した。
「鄭文貞公魏徴が、始めて舅へ小功五ヶ月の喪を加えました。文貞は賢人とはいえ、周公や孔子は聖人です。賢人に従って聖人の制度を改めるのでは、後世の学者は何に従うでしょうか!内外が序列をなくし、親疎が倫理を奪うことを恐れます。情に流されるままにしたら、どこへ行き着くのでしょうか!昔、子路は姉の喪の期間が終わったのにやめませんでした。すると、孔子が言いました。『先王が礼を制定した。道を行う者は、皆、これを破るに忍びない。』そこで、子路は喪をやめたのです。これは、聖人が情を抑えるように教えた明白な例です。記に言います。『軽々しく禮を議論してはいけない。』それが天地にどくろを播き、日月に並ぶことは明白。賢者はこれに由ります。どうして増やしたり減らしたりできましょうか!」
 敕が降りた。
 均は説の子息である。
「姨舅は小功を服し、舅母は全降を得ず、宜しく思麻を服せ。堂姨舅は服袒を免じる」
(訳者、曰く。)結局、滔の請願が通った。反対意見がやたら丁寧に書かれているが、それを滔一人の意見で押し切ったのだろうか。それとも、彼に同意した大勢の官吏の意見を全て割愛したのだろうか。 

 太常博士王與(「王/與」)が上楚して、青帝檀を立てて春を迎えるよう請うた。これに従う。
 二十五年十月辛丑、今後、立春には東郊にて迎春をするよう敕する。
 この頃の上は、鬼神を祀る事をとても好んでいた。だから、與は祠祭の礼だけを学んで進言した。上はこれを悦び、侍御史、領祠祭使とした。
 與の祈祷は、あるいは紙銭を焚いたりするもので、巫事の類だった。だから、礼を習った者はこれを羞じた。 

 二十七年四月癸酉、敕が降る。
「諸々の陰陽術数は、婚姻や葬礼、占い以外、これを禁じる。」 

 八月甲申、孔子を文宣王と追諡する。
 従来は、先聖先師を祀る時、周公が南を向き、孔子は東を向いて坐っていた。今回、制が降りる。
「今後は、講師を南へ向けて座らせ、王者の服を着せよ。釈奠は宮懸を用いる。」 

 睿宗の喪が開けた時、太廟にてシャア(祖先を祀る儀礼の一種)を行った。以来、シャアは三年に一度、テイは五年に一度行ってきた。
 この年、夏にテイを行ったが、冬にはシャアを行うことになっていた。だが、太常が協議した結果、「祭を屡々行うのは冒涜だ。」とゆうことになった。そこで今年のシャアは中止して、以後、シャアとテイも五年毎に行うよう請うた。これに従う。 

 二十九年、上が、夢で玄元皇帝から告げられた。
「京城の西南百余里に、吾が像がある。汝は使者を派遣してこれを求めよ。吾は、興慶宮にて汝とまみえよう。」
 上が使者を派遣したら、楼観山の中でこれを得た。
 閏四月、これを興慶宮へ迎置する。
 五月、玄元の姿を絵に描かせて、諸州の開元観へ置かせた。
 天寶元年(742)正月甲寅、陳王府参軍田同秀が上言した。
「丹鳳門の空中で、玄元皇帝を見ました。そして告げたのです。『我は尹喜の昔の邸宅に霊符をしまっている。』と。」
 上は、もとの函谷関へ使者を派遣し、尹喜台の傍らにてこれを見つけた。
 壬辰、群臣が上表した。
「函谷の霊符は、ひそかに年号と符合しています。『先天は違わず』と申します。どうか、尊号へ『天寶』の字を加えてください。」
 これに従う。
 二月辛卯、上は玄元皇帝を新廟にて享する。
 甲午、太廟にて享する。
 丙申、南郊にて天地を合祀し、天下へ恩赦を下す。
 桃林県を霊寶と改称する。田同秀は朝散大夫とする。
 当時の人々は、皆、霊符は同秀の贋作だと疑っていた。一年後、清河の人崔以清が再び言った。
「天津橋の北で、玄元皇帝を見ました。そして告げたのです。『武城紫微山へ霊符をしまっている。』と。」
 勅使が言って探し、見つけた。
 東都留守王垂(「人/垂」)はそれが偽りだと知り、尋問したところ、果たして自白したので、上奏した。上は深くは罰せず、ただ流罪としただけだった。 

 三載、術士の蘇嘉慶が「九宮の貴神に遁甲の術があり、降雨や日照りを司っています。どうか東郊へ祭壇を立て、四孟月に祀ってください」と、上言した。これに従う。
 礼遇としては、昊天上帝の下に置き、太清宮、太廟の上に置く。供物には玉を用い、皆、天地を待つ。 

  十二月癸丑、上が九宮で貴神を祀り、天下へ恩赦を下す。 

 五載四月己亥、制を下す。
「今後、四孟月(春夏秋冬それぞれの真中の月)には、皆、吉日を選んで天地、九宮を祀る。」 

 群臣は、西嶽にて封禅を行うよう、しばしば上表して請うていた。
 九載正月、これを許す。
 上は、華山へ路を穿ち、その上に檀場を設けるよう、御史大夫王ヘへ命じた。
 この春、関中は旱だった。三月辛亥、嶽祠で火災が起こった。西嶽の封禅を取りやめるとの制が降る。 

  九月辛卯、處子の崔昌が上言した。
「我が国家は、周、漢の後を受け継いだのです。土徳で火徳に代わったのですから。周(北周)も隋も正統な支配者ではありません。その子孫を二王の後継者と扱うのは不適切です。」
 この件は、公卿へ協議させた。
 集賢殿学士衞包は上言した。
集議の夜、四星が尾に集まりました。天意は明白です。」
 そこで、上は殷、周、漢の子孫を捜して三恪とし、韓、介、サイ公を廃した。(韓は元魏の、介は後周の、サイは隋の子孫。ここで言う、二王は、夏、殷を指す。黄帝、堯、舜の子孫は封じられており、これを三恪と言った。)
 昌を左贊善大夫に、包を虞部員外郎にする。 

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