玄宗西進
 
 潼関が陥落した日、哥舒翰の麾下が来て急を告げた。上はすぐには謁見せず、ただ李福徳等将監牧兵を潼関へ派遣しただけだった。暮れに及んで、平安火(平常であることを示す合図)が挙がらなかったので、上は始めて懼れた。
 六月壬辰、宰相を呼び出して謀る。
 楊国忠は自ら領剣南だったので、安禄山の造反を聞くと即座に副使崔圓へ皇帝の後座所を密かに揃えさせ、危急の時には逃げ込めるように準備していた。だから、ここに至って蜀への御幸を首唱する。上は同意した。
 癸巳、国忠は朝堂へ百官を集め、恐れて涙を流し、策略を問うた。皆は黙っていて答えない。国忠は言った。
「禄山の反状を人々が告発してから既に十年、上は信じなかった。今日のことは、宰相の過失ではない。」
 そして仗を降ろした。
 士民は驚き慌てて走り出したが、行くべき所が判らない。市里は寂れかえった。国忠は翰、カク夫人を入宮させて、上へ入蜀を勧めた。
 甲午、登朝した百官は一、二割もいなかった。上は勧政楼へ御幸して制を下し、親征の意思を表明したが、聞く者は誰も信じなかった。
 京兆尹の魏方進を御史大夫兼置頓使とする。京兆少尹の霊昌の崔光遠を京兆尹として、西京留守に充てる。将軍辺令誠へ宮殿内のことを任せた。剣南節度大使穎王ゲキへ、急いで鎮へ赴き本道へ皇帝の後座所を設けさせるよう命じた。
 この日、上は北内へ移った。
 夕方になると、龍武大将軍陳玄禮へ六軍を整列させ、厚く銭帛を賜下する。閑厩馬九百余匹を選んだが、他の者は何も知らなかった。
 乙未黎明、上は貴妃姉妹、皇子、妃、主、皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄禮及び近親の宦官、宮人達と延秋門を出た。在外の妃、主、皇孫は、皆、これを委ねて去った。
 上が左藏を過ぎる時、楊国忠は焼き払うように請い、言った。
「何も、賊の為に守ってやる必要はありません。」
 上は愁然として言った。
「賊が来て宝物を得られなかったら、必ずや百姓から酷く掠奪する。これは賊へ与えてやった方がよい。わが赤子をこれ以上苦しめるな。」
 この日、まだ登朝する百官もいた。宮門へ至ると時を告げる音は平常通り。三衞もいつも通り警備に立っていた。ところが、門が開くと宮人が乱れ出てきて、中外が騒がしくなった。上の居所が判らないのだ。ここにおいて、王公、士民は四出して逃げ隠れた。
 山谷の細民は争って宮禁及び王公の第舎へ入り、金宝を盗む。ある者は驢馬に乗ったまま上殿した。また、左藏大盈庫を焼き払った。
 崔光遠と辺令誠は人を率いて消火した。また、摂府や県官を募って分守させた。暴徒十数人を殺すと、騒ぎも漸く静まった。
 光遠はその子を禄山へ派遣して謁見させた。令誠も管理しているものを献上する。
 上が便橋を通過する時、楊国忠は橋を焼き払うよう命じた。だが、上は言った。
「士庶が各々生きる為に賊から逃げるのだ。どうしてその路を断つのか!」
 内侍監高力士を留めて、橋を焼こうとしている者を撲滅させてから追い着かせた。
 上は、宦者王洛卿を先行させ、郡県へ食糧などの準備を告知させた。食事時に、咸陽の望賢宮へ到着したが、洛卿は県令と共に逃げていた。そこで中使を出して食糧を徴発したが、応じる吏民はいなかった。日は登りきったが、上はまだ食事ができない。楊国忠が自ら市場で胡餅を買ってきて献上した。ここに於いて、民は争うように粗末な飯を献上した。麦や豆が混じっている。誰も献上しなかったのは、上を憎んでいたのではなく、自分達の粗末な食べ物を憚っていただけだったのだ。皇孫達は争うように手掴みで食べ、アッとゆう間に食べ尽くしてしまい、まだ食べたりない様子だった。上は代価を賜下して、これを慰労する。衆は皆哭し、上も又泣いた。郭従謹とゆう老父が、進言した。
「禄山が禍心を内包したのは、一日の事ではありません。また、闕を詣でてその陰謀を告げる者も居ました。しかし、陛下は往々にして彼等を誅し、奴の姦逆をますます逞しくさせました。結局、陛下が逃げ出すようなことになったのです。先王が忠良を訪問することに務めてまで聡明を広めたのは、けだし、この為です。宋景が宰相だった頃は屡々直言を進め、おかげで天下が平安だったことを、臣はまだ覚えています。ところが近年では、朝廷の臣下達は悪いことは口を閉ざし、ただご機嫌を取るために諂ってばかりいるようになりました。ここを以て、闕門の外の事を、陛下は知られなくなったのです。草野の臣は、ずっと前から今日のようになることを知っていました。ただ、九重は遙かに遠く、区々たる心を上達させる路がなかったのです。事がここに至らなければ、臣のような人間が、どうして陛下へ面と向かって訴えることができたでしょうか!」
 上は言った。
「これは朕の不明だ。悔いても及ばない。」
 慰諭して遣った。
 俄にして尚食が御膳を挙げてやって来た。上はまず従官へ賜ってから、その後に食べた。軍士を村落へ散らして食糧を求めさせたが、彼等が全員帰ってくる前に出発した。
 夜半になろうとする頃、金城へ到着する。県令は逃げていた。県民も皆、身体一つで逃げ出していたので飲食の器が残っており、士卒は自給できた。
 この時、従者も大勢逃げていた。内侍監袁思藝もまた逃げ去った。駅の中には灯りもなく、人々は貴賤も弁じずに寄り添って眠った。
 王思禮が潼関からやって来て、始めて哥舒翰が捕らわれたことを知った。思禮を河西、隴右節度使として、即座に陳へ赴かせ、敗残兵をかき集めて東討を待たせた。
 丙申、馬蒐駅へ到着する。将士は飢え疲れ、皆、憤怒した。陳玄禮は、禍は楊国忠のせいで起こったとして、これを誅しようと思った。そこで東宮の宦官李輔国を介して、太子へ伝言した。太子はすぐには決断できない。
 この時、吐蕃の使者二十余人が国忠の馬を遮り、食糧がないことを訴えた。国忠が返答する前に、軍士が叫んだ。
「国忠と胡虜が造反を謀っているぞ!」
 ある者がこれを射て、鞍へ当たった。国忠は走って西門の内へ至る。軍士はこれを追って殺し、身体をバラバラに引き裂いて、その首は槍に突き刺して駅門の外に掲げた。併せてその子戸部侍郎喧及び韓国、秦国夫人を殺す。
 御史大夫魏方進が言った。
「お前達は、何で宰相を殺したのだ!」
 衆はまた、これも殺す。
 韋見素は乱を聞いて出てきた所を、乱兵から槌でぶたれた。脳から出た血ず地面に流れた。すると、衆は言った。
「韋相公を傷つけるな。」
 これを救ったので、死なずに済んだ。
 軍士は駅を囲んだ。上は喧噪を利いて外で何が起こっているか問うた。すると近習は、国忠が造反したと答えた。上は杖をついて駅門から出てきて、軍士を慰労した。そして隊へ収めようとしたが、軍士は応じない。上が高力士へ問わせると、玄禮が答えた。
「国忠が謀反したのに、貴妃が供奉するのは宜しくありません。どうか陛下、恩を忍んで法を正してください。」
 上は言った。
「朕が自ら処断する。」
 門へ入ると、杖に寄りかかり、首を傾けて立ちすくんだ。
 しばらくして京兆司録韋諤が言った。
「今、衆人の怒りは犯しがたいのです。安危はこの時にあります。どうか陛下、即決してくださいませ!」
 よって叩頭流血する。
 上は言った。
「貴妃はいつも朕と共に深宮にいた。どうして国忠の反謀を知れるのだ?」
 高力士は言った。
「貴妃は誠に罪がありません。しかし、将士は既に国忠を殺したのです。それでいて貴妃がいつも陛下の左右にいたのでは、どうして安心できましょうか!どうか陛下、ここを重々お考えください。将士が安堵すれば、陛下も安泰なのです。」
 上は、貴妃を仏堂へ引き出して縊り殺すよう力士へ命じた。屍は輿へ乗せ、駅庭へ運び出す。玄禮等を呼び寄せてこれを見せた。玄禮等は甲を取り鎧を脱ぎ、頓首して罪を請う。上はこれを慰労し、軍士へよく諭させた。元礼等は皆万歳を叫び、再拝して退出する。ここにおいて始めて隊伍を整えて行進した。
 諤は見素の子息である。
 国忠の妻の裴柔とその幼子希(「日/希」)及びカク国夫人と夫人の子裴徽は皆逃げ出して陳倉へ至った。県令の薛景仙は吏士を率いて追捕し、これを誅した。
 丁酉、上が馬蒐を出立しようとした時、朝臣はただ韋見素一人だけだった。そこで諤を御史中丞として、置頓使に充てた。
 将士は皆、言った。
「国忠が造反したのに、その将佐は皆蜀にいます。行ってはなりません。」
 あるものは河、隴を請い、ある者は霊武を請い、ある者は太原を請い、ある者は京師へ帰るよう請うた。上意は入蜀にあったが、衆心に違うことを配慮して、遂に行く先を言わなかった。
 韋諤が言った。
「京へ帰るには、禦賊の備えが必要です。今、兵が少ないので、東へ向かうのは容易ではありません。一旦扶風へ落ち着いて、それから静かに去就を考えましょう。」
 上が衆へ尋ねると、衆も同意したので、これに従った。
 出発するとき、父老達全員が道を遮って留まることを請い、言った。
「宮闕は陛下の家居、陵寝は陛下の墳墓。今、これを捨ててどこへ行かれるのですか?」
 上は、これの為に轡をしばらく抑えていたが、後へ残って父老を慰労するよう太子へ命じた。すると父老は言った。
「至尊が既に留まらなければ、子弟を率いて殿下に従い、東進して賊を破って長安を取ることが、某等の願いでございます。もし殿下も至尊も蜀へ入ったら、誰を中原の百姓の主君にさせるのですか?」
 僅かの間に衆は数千人にも膨れ上がった。太子は不可として言った。
「至尊が遠く険阻を冒すのだ。我はどうして朝夕に左右から離れることに忍びようか。それに、吾は未だ別れの挨拶もしていない。まずは帰って至尊へ言ってから進止を決めよう。」
 涕泣して馬を抜き、西へ行こうとした。すると建寧王炎(「人/炎」)と李輔国が轡を執って諫めた。
「逆胡が闕を犯し、四海は分崩しました。人情に沿わなければ、どうして復興できましょうか!今、殿下が至尊に従って蜀へ入ったら、もしも賊兵が桟道を焼き払った時、中原の地は手を拱いて賊へ授けることになるのですぞ。人情は一旦離れたら、二度と合いません。再びここへ来ようと望んでも、できませんぞ!今は西北の守辺の兵を収めて、郭、李を河北から呼び寄せ、これと力を併せて逆賊を討つのです。勝って両京を復し四海を平定し、危うい社稷を安泰にし、壊された宗廟を復興し、宮禁を掃除して至尊を迎えることこそ、一番の孝ではありませんか!どうして必ずしも区々たる温情へ児女のように心曳かれて良いものでしょうか!」
 廣平王叔(「人/叔」)もまた、太子へ留まるよう勧めた。父老は共に太子の馬を擁して行かせない。そこで太子は、叔を使者として、上へ伝えさせた。
 上は轡を抑えて大使が来るのを待っていたが、あまり来ないので偵察を出した。帰ってきて報告を受けると、上は言った。
「天命だ!」
 そこで後軍二千人と飛龍厩馬を分けて太子へ従わせた。そして、将士を諭して言った。
「太子は仁孝で、宗廟を奉じられる人間だ。汝等は、善くこれを補佐せよ。」
 又、太子を諭して言った。
「汝は勉めよ。吾のことは気にするな。西北の諸胡は、吾が平素から手厚く遇していた。必ずや汝の役に立つだろう。」
 太子は南面して号泣しただけだった。
 又、東宮の内人へ太子を送らせ、かつ、旨を宣して帝位を伝えようとしたが、太子は受けなかった。
 叔、炎はどちらも太子の子息である。
 己亥、上は岐山へ到着する。”賊の前鋒がやって来た”と、ある者が言ったので、上は慌ただしく通過し、扶風郡に泊まる。
 士卒は去就に迷い始め、往々にして不遜な言葉が流れたが、陳玄禮は制御できなかった。
 そんな折、成都から貢ぎ物の春綏十余万匹が扶風へ届いた。うえは、これを全て庭へ積み上げさせると、将士を呼び入れて、軒に臨んで彼等を諭して言った。
「朕が耄碌して政務を託す相手を誤ったので、逆胡が造反するに至り、その矛先を避ける為に遠くまで来た。卿等は皆、突然朕に随従した為、父母妻子と別れの挨拶もできなかった事を、朕は知っている。ここまで野宿を続け、こんなにも苦労をかけたこと、朕はとても恥ずかしい。蜀への道は険しく長い。郡県は小さいので、人馬が多すぎたら、あるいは供もできないかもしれない。今、卿等が家へ帰りたければ、自由にして良い。朕は子、孫、中宮と蜀へ行くにしても、なんとか行き着けるだろう。今日、卿等と訣別するに当たって、この綏を資糧として分け与えよう。もしも帰って父母や長安の長老に会ったなら、朕の為に想いを伝えてくれ。各々自愛せよ!」
 そして、涙を下して襟を濡らした。衆は皆、慟哭して言った。
「臣等の生死は陛下と供に。けっして二心はありません!」
 上はややあって、言った。
「去就は好きにして良いぞ。」
 これによって、流言はなくなった。
 庚子、剣南節度留後崔圓を剣南節度等副大使とする。
 辛丑、上は扶風を出発して陳倉へ宿す。
 壬寅、上が散関へ到着した。随従する将士を六軍へ分ける。穎王ゲキを先触れとして剣南へ派遣する。壽王i等将を六軍に分けてこれに次ぐ。
 丙午、上は河池郡へ到着した。崔圓が表を奉じて車駕を迎える。蜀の土地が豊かに稔って甲兵が全盛であると、つぶさに陳情する。上は大いに悦び、即日、圓を中書侍郎、同平章事とする。蜀郡長史は従来通り。隴西公禹(「王/禹」)を漢中王、梁州都督、山南西道采訪・防禦使とする。禹は進の弟である。
 七月甲子、上が普安へ到着した。上が長安を出発したことは、多くの群臣が知らなかった。咸陽へ到着すると、高力士へ言った。
「朝臣で、誰が来て、誰が来ないかな?」
 対して言った。
「張均、張自は親子して陛下の恩を最も深く受けており、公主まで娶っています。彼等は絶対真っ先にやってきます。人々は皆、『房官(「王/官」)は宰相にするべきだ。』と言っていましたが、陛下は用いませんでした。その上、禄山が彼を推薦したことがあります。もしかしたら、来ないかも知れません。」
 上は言った。
「どうなるか、まだ判らない。」
 官が来ると、上は均兄弟の行方を尋ねた。すると、官は答えた。
「臣とも共に来ていたのですが、途中で留まって進みませんでした。その意向を見るに、腹中に一物ありながら口にできないようでした。」
 上は力士を顧みて言った。
「朕はもとより判っていた。」
 即日、官を文部侍郎、同平章事とした。
 話は前後するが、張自が寧親公主を娶った時、禁中に宅を置くことを許され、彼への寵愛は比類なかった。陳希烈が退職を求めた時、上は自の宅へ御幸して、誰を宰相にするべきか問うた。そして、自が答える前に、上は言った。
「婿を愛さないはずがないぞ。」 
 自は階を降りて拝礼し、舞い踊った。
 だが、結局宰相にしなかった。それ以来自は怏々とするようになり、上も又、それを覚ったのである。
 その頃、均、自兄弟及び姚祟の子尚書右丞奕、蕭祟の子兵部侍郎華、韋安石の子禮部侍郎陟、太常少卿斌は、皆、才望で大官へ至ったのである。上はかつて言った。
「吾が宰相に命じるのは、かつての宰相の子弟のみとしよう。」
 だが、一人も宰相にしなかった。 

 丁卯、上皇が制を下した。
「太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、長安、洛陽を奪取させる。御史中丞裴免は左庶子を兼務させる。隴西郡司馬劉秩は試守右庶子とする。永王リンは山南東道、嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、少府監竇紹をこれの傅とし、長沙太守李見(「山/見」)を都副大使とする。盛王gを廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南、河南等路節度都使とし、前の江陵都督府長史劉彙をこれの傅とし、廣陵郡長史李成式を都副大使とする。豊王共(「王/共」)を武威都督に充て、領河西、隴右、安西、北庭等路節度都使とし、隴西太守の済陰のトウ景山をこれの傅とし、都副大使とする。これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使カク王巨等は、従来通り節度使とする。官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」
 この時、gも共も共に閣を出ず、ただリンだけが鎮へ赴いた。山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。
 五府経略使を嶺南節度へ昇格させ、南海等二十二郡を領有させる。五溪経略使を黔難節度へ昇格させ、黔中等諸郡を領有させる。江南を東西二道へ分け、東道は餘杭を西道は豫章等諸郡を領有させる。
 話は前後するが、四方が潼関の陥落を聞いた時、上の所在地を知る者がいなかったが、この制が降りるに及んで始めて乗輿の在処が判った。
 彙は秩の弟である。
 庚午、上皇が巴西へ到着した。
 太守の崔渙が出迎える。上皇は彼と語って悦んだ。房官もまた彼を推薦したので、即日、門下侍郎、同平章事を拝受する。韋見素は左相となる。渙は玄韋の孫である。
 庚辰、上皇が成都へ到着した。随従した従官及び六軍は、わずか千三百人だけだった。
 癸未、上皇が制を下して、天下へ恩赦を下した。
 北海太守賀蘭進明は録事参軍第五gを蜀へ派遣して、事を上奏した。gは上皇へ言った。
「今の用兵は、財賦が急務ですが、財賦の多くは江、淮にて生産されます。どうか臣へ一職をください。そうすれば、兵糧の欠乏を防いで見せます。」
 上皇は悦び、即座にgを監察御史、江淮租庸使とした。
 癸巳、霊武の使者が蜀へやって来て、蕭宗の即位を告げた。上皇は喜んで言った。
「我が子は天に応じ人に順じる。吾にはもう何の憂いもない!」
 丁酉、制を降ろす。
「今後、制を誥と改め、表疏では太上皇と称する。四海の軍国事は皆、先に皇帝へ知らせてから、朕へ奏上せよ。上京が回復したならば、朕はもう政事には関与せぬ。」
 己亥、上皇は軒へ臨み、伝国の宝玉を持って霊武へ行き位を伝えるよう、韋見素と房官、崔渙へ命じた。 

 十月、穎王ゲキが成都へ到着した。崔圓が出迎えて馬首にて拝礼したが、ゲキは馬を止めなかった。圓は、これを恨む。
 ゲキが政務を執ると、二ヶ月で吏民は落ち着いた。だが、圓の上奏により、ゲキの政事をやめさせて内宅へ帰し、武部侍郎李亘(「山/亘」)を剣南節度使としてこれに代えた。亘は見(「山/見」)の兄である。
 上皇は、ゲキと陳王珪へ上の元へ行って宣慰するよう命じた。こうして、彼等は彭原にて上へ謁見した。
 延王分(「王/分」)は上皇へ随従して蜀へ入ったけれども、車駕へ追いつけなかった。上皇は怒り、これを誅しようと欲した。漢中王禹がこれを救う。分へもまた、上の元へ行くよう命じた。 

 二年正月、安禄山が殺される。
 二月、上皇は張九齢の先見を思い、彼の為に涙を流した。中使を派遣して、曲江にてこれを祭り、その家族を厚く救済した。
 五月庚申、上皇は、上の母の楊妃を元献皇后と追冊した。
 九月、蕭宗が長安を恢復する。玄宗を呼び寄せるため、使者として談庭瑶を派遣した。その詳細は「蕭宗皇帝」へ記載する。
 十月丁未、談庭瑶が蜀へ着いた。
 丁卯、上皇は蜀を出発した。
 丙申、上皇が鳳翔へ到着した。従う兵は六百余人。上皇は、全ての甲兵を郡庫へ収めた。上は、精騎三千を動員して、奉迎する。
 十二月丙午、上皇は咸陽へ到着した。上は法駕を準備して望賢宮にて迎えた。
 上皇は、南楼に入る。上は黄袍を紫黄袍へ着替え、楼を望んで下馬した。そこから小走りに進み、楼下にて拝舞する。上皇は楼から降り、上を撫でて泣いた。上は上皇の足を捧げて、嗚咽が止まらなかった。上皇は黄袍を取り出して、自ら上へ着せてやった。上は、地に伏して頓首して固辞する。すると、上皇は言った。
「天数も人心も、皆、汝へ集まっている。朕の余生を保養するのが、汝の孝だ!」
 上はやむを得ず、これを受ける。
 父老は仗外に居り、歓呼して拝礼する。上が仗を開かせると、千余人が駆け寄り、上皇へ入謁して言った。
「臣等、今日、二聖が再び相まみえるのを、目にしました。もう死んでも恨みはありません!」
 上皇は、正殿へ住むことを肯らず、言った。
「これは天子の位だ。」
 上は固く請い、自ら上皇を助けて登する。食事になると、上は一品ずつ味見をしてから薦めた。
 丁未、行宮を出発しようとした時、上は自ら上皇の為に馬を習い、これを上皇へ進めた。上皇が乗馬すると、上は自ら轡を取る。数歩行くと、上皇はこれをやめさせた。上は馬に乗って先導したが、敢えて馳道は進まなかった。
 上皇は左右へ言った。
「吾は天子となって五十年、まだ貴くはなかった。今、天子の父となって、ようやく貴くなったのだ!」
 左右は皆、万歳を唱えた。
 上皇は開遠門から大明宮へ入り、含元殿にて百官を慰撫する。次いで長楽殿を詣でて九廟主へ謝り、しばらく慟哭した。
 その日のうちに興慶宮へ御幸し、ついに、ここに住んだ。上は退位して東宮へ戻ることを何度も請願したが、上皇は許さなかった。 

 元へ戻る