政治制度
 
  開元元年(713)正月乙亥、誥が降りた。
「今後は、衞士は二十五才で入軍し、五十で免役とする。羽林飛騎は衞士から補填する。」
 吏部尚書蕭至忠を中書令とする。 

 九月丙戌、右御史台を再び設置し、諸州を督察させる。諸道按察使を廃止する。 

 十二月庚寅、尚書左、右僕射を左、右丞相と改称する。同様に、中書省は紫微省、門下省は黄門省、侍中は監とした。又、ヨウ州を京兆府、洛州を河南府、長史を尹、司馬を少尹とした。 

 敕が降りた。
「都督、刺史、都護将の官の就任、辞任の挨拶時には側門を通るように。」 

 開元二年(714)正月壬申、制が降りた。
「京官から才識のある者を選んで都督・刺史へ叙任し、都督・刺史から業績を挙げた者を京官へ叙任する。京と地方とを均等に出入りさせることを、永く恒式とする。」
 上は、都督や刺史を重視して、京官のうち才望のある者を選んでこれに任命しようと思っていたが、当時の士大夫は、まだ外任を軽視していた。
 四年四月辛未、尚書右丞倪若水がベン州刺史兼河南采訪使となった。揚州采訪使の班景倩が大理少卿となって京師へ呼び戻されて大梁を行き過ぎた時、若水は挨拶に行ったが、彼が出立した後、その後塵をいつまでも見遣ってから、振り返って官属へ言った。
「班生のこの旅は、まるで天へ昇るようなものではないか!」 

 従来の制度では、雅俗の音楽は、全て太常の管轄下にあった。上は、音律へ精通していたので、太常の礼楽の司では素晴らしい芸術を生み出せないと考え、左右教坊を設置して俗楽を教えさせることにした。これは、右驍衞将軍范及を長官とする。
 又、楽工数百人を選んで、梨園にて自ら法曲を教えた。彼等を「皇帝梨園弟子」と言った。宮中にもこれを教え習わせる。又、伎女を選んで宜春院へ置き、彼女達へ家を与える。
 二年正月、禮部侍郎張延珪、酸棗尉袁楚客が共に上疏して言った。
「上は働き盛りですから、経術を尊び清廉の士を近づけても、なお汲々とするべきであります。淫らな鄭の音楽を悦び狩猟を好むとゆうのは、深く戒めとするべきです。」
 上は採用できなかったけれどもこれを嘉び賞した。 

 丁卯、十道按察使を再び置き、益州長史陸象先等を任命した。
 後、ある者が上言した。
「按察使のおかげで、公私共に煩雑になっています。どうか刺史、県令に立派な人間を選んで、按察使を廃止してください。」
 上は、尚書省の官僚にこの件を議論させた。すると、姚崇が決議した。
「いま、十使を選ぶのでさえ、人材が居なくて苦労しているのです。ましてや天下は三百余州、県の数はその数倍。どうして全部の刺史や県令に職務に適う人格者を充てられるでしょうか!」
 それで、この案は却下された。
 しかし、四年十二月辛午、十道按察使を廃止した。 

  二年五月、己丑。飢饉の歳なので、員外、試、検校官を全てやめた。これからは、戦功や別敕がない限り、この三官は与えないこととした。 

  六月丁巳、宋王成器へ岐州刺史を兼務させ、申王成義へタク州刺史を兼務させ、タク王守礼へカク州刺史を兼務させた。ただ、彼等へは大きな儀礼を執らせるだけで、それ以外の実務については皆、上佐(長史や司馬など)へ委ねさせる。この後、諸王で都護、都督、刺史となる者は、皆、これに準じさせた。
 七月乙卯、岐王範へ絳州刺史を、薛王業へ同州刺史を兼務させる。また、宋王以下へ敕を下し、季節毎に二人が入朝し、入朝が一巡りしたらまた最初の者が入朝するよう命じた。 

  十二月甲子、隴右節度使を設置し、善(「善/里」)、奉、河、渭、蘭、臨、武、兆(「水/兆」)、岷、郭、ジョウ、宕十二州を領有させる。隴右防禦使郭知運をこれに任命する。
 この年、幽州節度使、経略、鎮守大使を立て、幽・易・平・檀・為(「女/為」)・燕六州を領有させる。 

 上が宰相へ言った。
「朕は読書して疑問が浮かんでも、質問する相手が居ない。儒学の士を選んで毎日入内させて読書の時に側に侍らせよ。」
 盧懐慎は太常卿馬懐素を推薦した。 

 四年正月丙午、曾王嗣眞を安北大都護、安撫河東・関内・隴右諸蕃大使とし、安北大都護張知運を副官とした。陜王嗣昇を安西大都護、安撫河西四鎮諸蕃大使とし、安西大都護郭虔カンを副官とした。
 二王はどちらも閣から出なかった。諸王の遙領節度はこれから始まった。 

 旧制では、六品以下の官は皆尚書省の奏擬へ委ねていたが、この年、始めて員外郎、御史、起居、遺はこれから外すようになった。 

 五年九月、中書、門下省及び侍中を皆、旧名に戻す。 

 貞観の制度では、中書、門下及び三品官が入奏する時は、必ず諫官と史官を随従させ、過失があれば矯正させ、美も悪も必ず記載することになっていた。諸司は皆、正牙に於いて事を奏し、御史が百官を弾劾する時には、法冠を服し武器へ対して弾劾文を読んだ。これらの制度のおかげで、大臣は主君を独占できず、小臣は讒言や隠匿ができなかった。
 許敬宗や李義府が政権を取ると、政事へ私情を交えることが多くなった。そこで、奏事官の多くは杖の下で待ち、御座は前は近習を覆って密かに奏じるようになった。 監奏御史(殿中御史)と侍制官は遠くの方に立って彼等が退出するのを待ち、諫官・御史は皆、武器を持った者と共に退出し、その後のことには関与しなくなった。
 武后は法律で群下を制御していた。諫官・御史は風聞で上奏することができたし、御史大夫から監察へ至るまで互いに弾劾しあっていたので、陰険に滅ぼしあうようになった。
 宋mが宰相となると、貞観の政治へ復古しようと、戊申、制を下した。
「今後、秘密にするべきでない事は、武器を目の前にして奏聞すること。史官は故事のように行え。」 

 六年八月。州県にて郷飲酒の礼を広める。毎年、十二月に実施させる。 

 唐の初期、州県の官吏の棒給は富戸へ徴集させていたが、出費が倍増し、多数の戸が破産してしまった。秘書少監の崔ミャンが、州県の棒給を計算して、百姓の常賦以外に加算して徴集するよう、上言した。
 十月、これに従う。 

 七年、剣南節度使を設置した。益、彭等二十五州を領有させる。 

 八年三月壬子、敕によって、軍府で一番重要な役を衛士とした。六十にて免職とし、その定年を促し、百姓へは交代要員を供出させた。 

 五月辛酉、再び十道按察使を設置する。 

 九年正月丙辰、蒲州を河中府とし、京兆や河南に準じて中都官僚を設置した。
 しかし、同年六月己卯に中都をやめ、蒲州を復活させた。 

 天下の戸口に、逃げだしている者や戸籍などの巧みな虚偽が非常に多いので、実情を調べ直すよう、監察御史宇文融が上言した。
 源乾曜はもともと彼の才覚を愛していたので、これに賛同した。
 九年二月乙酉、逃亡した民の招集と、戸籍の虚偽への対処法について議論して上聞するよう司へ敕が降りた。
 丁亥、制が降りた。
「州県の逃亡した戸は、百日以内に自首したならば、今の在所でも本来の戸籍でも、望むところへ戸籍を作ろう。だが、期間を過ぎて自首しなければ、詮議して辺州へ移すぞ。公でも私でも、彼等を庇う者は罪に当てる。」
 宇文融へ逃亡者や戸籍外の田を担当させたところ、多くの民や田を登録できた。この功績で兵部員外郎兼侍御史となる。
 融は、進農判官十人を設置し、殺摂御史と並んで天下へ分行し、新しく登録された民は六年間賦調を免除するよう上奏した。
 だが、使者達は競い合って苛酷に税をはたり、州県もその風潮に追従して苛酷な取り立てを行ったので、民はこれに苦しんだ。陽テキ尉の皇甫景(「心/景」)は、その有様を上疏した。すると上は、融を陽テキ尉とし、景は盈川尉へ降格とした。州県は上の御心に叶うよう、税の収奪に務め、その数量を誇張し、あるいは旧来の民を新規の民と為し、およそ八十万戸を得た。田もまた、帳簿上は膨大に増えた。
 十一年八月癸卯、敕が降りた。
「前日、逃散した民を連れ戻すよう令を下したが、これでは民が苦労するかもしれない。天下は一つだ。好きなところで生きて行けばよい。現住の州県でよく慰撫して、なりわいがたつように計らってやれ。」
 十二年六月壬辰、制にて逃戸の自首を赦す。隠し田は適宜に税を徴収し、征役に差を付けてはいけない。租庸は皆、一律に免除する。
 宇文融を進農使とし、州県を巡回させて、吏民と賦役を議定させる。
 十五年二月乙卯、制を降ろす。
「諸州の逃亡者のうち、勧農使の治下に入った後に再び逃げだした者は、白丁の当年の租庸に準じ、兵役のある者は服務させる。」
 二十四年正月庚寅、敕が降りる。
「天下の逃戸は、今年中に自首すれば赦す。資産があった者は元通り返そう。ない者は別に沙汰を待っておれ。期限中に自首しなかった者は、専任の官吏に探求させ、諸軍へバラバラに編入させる。」
(王船山、曰く)
 春秋時代、晋が諸侯と商任にて盟約した(襄公二十一年)。この時、晋の臣下の欒氏が他国へ亡命していたので、晋は欒氏を亡命先にて禁固するよう命じた。この件は春秋経に記されているが、自分の臣下を撫することができないばかりか、他の国にて禁固させることを譏り、甚だしいと為している。しかし、これは封建時代の話だ。
 封建時代は、諸侯が各々領民を私有していた。その国から逃げ出したら、自分の国民ではない。だから、それぞれの国に封彊の境があり、各々の統治が限られていた。
 だからこそ、碩鼠(詩経、魏風)の詩に言う。
「まさに汝を去り、あの楽土へ行こうとする。」
 これは、逃亡を標榜して自分の主君へ抗しているのだ。
 上下交々猜疑しあう。衰世の風潮は、際限もなく堕落する。
 対して、天下に一人の王ならば、何郡の何県だろうと、全て一王の土地である。郡守や県令が領民として統治しているが、それは彼等の民ではない。民は全て天子の民なのだ。 土地が、あるいは痩せて家族を養えない場所もある。あるいは官吏が残虐で、人々が皆死んだ方がましだと思っている場所もある。にもかかわらず、一律に同じ政治を行えば、痩せた土地や残虐な官吏の民はこれを苦しみ、結果、戸籍を棄てて生まれ故郷から別の土地へ逃げ出すのである。
 しかし、喩えどこで暮らすにせよ、その移住先で農民は耕し、職人は物を作り、商人は物を流通させるのならば、天下国家にとって何の損益もない。それなのに、彼等を「逃人」と称するのは、役人達に物の道理が判っていないのだ。まともに受け取る価値はない。
 戸籍から逃げ出した民など、いてはならない。流浪の民が楽をして、土地に根付いた民が重税に苦しむなど、公平ではない。だが、移住したばかりの民へは労役を課してはならない。生活がまだ安定しておらず、余裕がないからだ。だからと言って、移住した民を一括して故郷へ強制送還するのは、一番の苛政だ、彼等は生きて行けないから、やむを得ず遠くまで移住したのだ。それを強制送還するなど、彼等を殺すような物だ。
開元十一年、州県へ敕を降ろして逃人を安集させたのは、なるほど的を得た処置だ。だが、それがどうして適宜なのか、そこの道理をよく考えなければならない。
 そもそも、安集の法とは、どんなものだったのか?
 まず、移住者の原籍を提出させ、その元の戸籍を抹消して、当該人の一族達へかかってきた代理徴税を免除する。そして、移住した人間へ対しては、彼等の新しい生業に従って、ゆっくりと賦役を定める。
 このようにすれば、四海の内は全て王民となり、実質的な損失がない。そうなれば、逃人などとゆう名将で呼ばなくてもよくなる。
 さて、邑から逃亡者が出たら、その土地の守令を罰するべきなのか?
 いや、一概には言えない。土地の肥える痩せるはもともとなのだ。征徭の煩雑や簡易も、その原因は根深いものがある。転居する者が多ければ、その水利の便を察してその土地を豊かにし、征徭の原因をよく閲して政治を公平にする。それは、一守令のできることではない。撫治の大臣が行うべき事だ。
 邑に移住してくる民が多ければ、その土地の守令守令を賞するべきか?
 いや、一概にそうとは言えない。
 守令の賢不肖は領民にこそ知れ渡っているが、新参者へ恩恵を垂れることはできない。それなのに、小さい恵みを与えて移住するものを誘うなど、法が許す行為ではない。
 人の居ない土地がなく、戸籍を逃れた民がなく、法の禁止を解いて自然に任せ、その上で士は仕官させ農民には耕させたならば、安集の令など必要ないのだ。 

 九年五月、戊戌、敕が降りた。
「京官の五品以上、外官は刺史と四府の上佐はおのおの県令一人を推薦せよ。その政の善悪を見て、推薦者へ賞罰を加える。」 

 この年、都督や刺史になった諸王は、全員京師へ召還された。 

 同年、朔方節度使を設置する。単于都護府、夏、鹽等六州、定遠、豊安二軍、三受降城を領有させる。 

 十年、正月癸亥、公廨銭を収めて、その税銭を百官の棒給に充てるよう、役人へ命じる。(武徳元年、京司及び州県官へ各々公廨田を給付し、その収入で公私の費用に充てるよう制していた。)
 乙丑、職田を収める。畝につき、倉粟二斗を給付する。(唐の文武官には官位応じて職田が与えられていた。貞観十一年、職田が百姓を侵漁するとして、それらを逃還貧戸へ給付するかわりに、一畝につき粟二戸を給付し、これを地租と言った。だが、後に水害や旱害が起こり、これが停止されていた。) 

 十年八月、朔方節度使張説が、康待賓の残党を掃討した。その詳細は、「造反」に記載する。
 従前は、辺境には常に六十余万の守備兵が居た。説は、強い外敵がいないので、二十余万の兵を罷めさせて農業に返させるよう上奏した。上が疑ったので、説は言った。
「臣は長い間戦場にいたので、実情を具に知っています。将帥は、自衛の兵力が足りれば、残りは私用に使うだけです。敵を制御できるならば、多くの兵を擁して農務を妨げる必要はありません。もしも陛下がお疑いならば、臣は闔門を百人で守りきって見せましょう。」
 上は、これに従った。
 当初、諸衞府の兵は、成人の年に従軍し、六十で定年だった。その家族も雑徭がかかり、次第に零落していったので、逃亡する者が多く、兵役は百姓の重い負担となっていた。張説は、壮士を募兵して宿衞へ充て、色役・優為の制度(?)を問わぬよう請願した。そうすれば、逃げ出した者達も争って募兵に応じるだろうと言うのだ。上は、これに従った。すると、旬日のうちに精兵十三万人を得た。彼等を諸衞へ分配すると、更に二交代で警備ができるようになった。
 兵と農の分離は、これから始まった。 

 十一月乙未、始めて、宰相の実封を三百戸とした。 

 十一年二月己巳、天兵、大武等の軍を廃止する。大同軍を太原以北節度使とし、太原・遼・石・嵐・汾・代・忻・朔・尉(「草/尉」)・雲の十州を領有させる。 

 上は麗正書院を設置し、秘書監徐堅、太常博士会稽の賀知章、監察御史鼓城の趙冬曦等文学の士をかきあつめ、書を修めさせ、あるいは講義をさせた。張説を修書としてこれの長とした。彼等は高給で優遇される。
 四月、中書舎人洛陽の陸堅は、彼等が国の役に立たないのにいたずらに費用を浪費しているとし、これを悉くやめるよう上奏した。すると、張説は言った。
「昔から、国家が無事の時の帝王は、宮室に贅沢をさせたり声色に溺れたりしたものです。それなのに今上の天子だけは文儒を礼遇し、典籍を修復しています。その利益は大きく、費用はわずかです。陸子の言葉は、なんと迂遠な事か!」
 上はこれを聞いて、説を重んじ堅を軽んじた。 

 十一年十一月戊子、尚書左丞蕭嵩と京兆、蒲、同、岐、華州長官へ府兵及び白丁十二万人を選ばせた。これを「長従宿衞」と呼ぶ。一年二交代とし、州県の雑用には使わせなかった。
十三年二月乙亥、長従宿衞の師を「廣(弓/廣)騎」と改名し、十二衞に分隷させた。合計十二万人が六交代制となる。
 十六年二月壬辰、廣騎を左右羽林軍飛騎と改称した。
 二十六年十月、左右羽林を分けて龍武軍を設置する。万騎を以て、営へ隷属させる。 

 十一年、政事堂を中書門下と改称してその後方へ五房を並べて政治を全て分掌させるよう、張説が上奏した。 

 十二年五月丁亥、諸道の按察使をやめた。
 十七年五月壬辰、十道及び京、都両畿の按察使を再び設置する。 

 十四年四月辛丑、定、恒、莫、易、滄の五州に軍隊を設置し、突厥に備えた。 

 十五年、五月癸酉、上は慶王淡等諸子を悉く領州牧や刺史、都督、節度大使、大都護、経略使としたが、その実一人も出向させなかった。
 前代では、太宗は晋王(高宗)を愛して、閣へ出さなかった。豫王もまた、武后の末子だったので、閣へ出さなかった。皇嗣が相王となるに及んで、始めて閣へ出る。 中宗の御代では、焦(「言/焦」)王が愛されなかったので、嫡男なのに地方へ出された。温王は十七になっても、まだ禁中に住んでいた。上は即位すると、附苑城を十王宅として皇子を住ませた。宦官がこれを後押しし、城へ籠もりきりとなり、これ以後閣へ出なくなった。幕府を開いて官属を設置し藩鎮を領有していても、ただ侍読の時に入って授業を受けるだけで、それ以外の王府の官属はただ歳時に名前が記録されるだけだった。藩鎮の官属は名前さえ通らない。皇孫が多くなると、百孫院が設置される。太子も又、東宮には住まず、いつも輿に乗って別院へ行っていた。 

 十二月戊寅、吐蕃が辺患をなすので、隴右道及び諸軍は團兵(府兵が廃止されてから、民兵を組織させた。これを團兵と称する)五万六千人を組織し、河西道及び諸軍は團兵四万人を組織し、関中にては一万の兵を徴発して臨兆(「水/兆」)へ集め、朔方は兵を一万人會州へ集めて秋の入寇を防ぎ、冬の初めになって入寇がなくなったらやめるように、制が降りた。虜が来寇したら、その状況を伺って互いに出兵して腹背から攻撃するのだ。 

 十二月丙寅、敕が降りた。
「長征の兵卒に帰ってくる期限がないのは、人情として耐え難い。これを五隊に分け、毎年一隊を家へ帰して湯浴休暇を与えよ。五年間で勲五転を賜下する。」 

 この年、戸籍を三年に定め、九等に分ける。 

 十七年八月辛巳、銭を私鋳する者が多くなったので、敕がおり、民間での銅鉛錫の売買や、銅で器皿を作ることを禁じた。採取された銅鉛錫は、官にて全て買い上げる。 

 十八年三月丁酉、京官の職田の給付を再開する。 

 従来は、司や官の人選は、ただ人間の能力のみを見たので、ある者はまるで出世しなかったり、あるいは老年になっても下位のままだったり、出仕して二十余年になるのにいまだに禄を貰えない者などが居た。また、州県には等級がなかったので、ある者は大から小へ行かされたり、都近辺から僻地へ行かされたりなど、定まった制度がなかった。
 裴光庭が始めて資格を遵守するよう上奏した。各々任期が終わった後、経歴の多少で序列を決め、吏部に集める。官位が高い者は次の任務にあまり選ばれず、低いものを中心に選任する。能力のあるなしに関わらず、任期を終了したらそれを記録し、年期が来たら昇給する。官位の序列は越えることが無く、譴責された者でなければ皆、昇級して降格はない。
 この上奏に、能力が無くて出世できない者は皆喜び、これを「聖書」と呼んだ。しかし、俊才達は怨嘆しない者はいなかった。宋mはこれを不可として争ったけれども、結局裁可された。
 光庭は、また、流外にも任務を代行させ、これも中書省の審議を通過した。
(訳者、曰く)これは、唐が年功序列制を採用したとゆうことでしょう。役人が減点評価をされるようになると、過失なく務めようとするので、俗に言う「お役所仕事」が幅を利かせます。かなり重要な一節ではないかと思います。 

  二十年七月、裴光庭と蕭嵩で左右の廂兵を分割指揮するよう敕が降りた。 

 この年、幽州節度使兼河北采訪處置使へ、衞・相・洛・貝・冀・魏・深・趙・恒・定・ケイ・徳・博・レイ・営・バクの十六州及び安東都護府を増領する。 

  二十一年六月癸亥、制が降りる。
「今後は才覚のある選人は、吏部に委任して臨時に採用する。流外の上奏は、門下の過失の責任をとらなくてもよい。」
 しかし、この制が降りたけれども、役人達は年功を遵守した方が有利なので、”お役所仕事”の弊害は変わらなかった。
 この時、三師以下の官吏は17,686人。佐史以上は57,416人。仕官の方法が雑多すぎて、数え上げることもできなかった。 

 同年、天下を京畿、都畿、関内、河南、河東、河北、隴右、山南東道、山南西道、剣南、淮南、江南東道、江南西道、黔中、嶺南のおよそ十五道に分けた。各々へ采訪使を置き、六箇条で非法を検察した。両畿は中丞がこれを領有し、その他は賢刺史を選んでこれを領有させた。官吏は左遷や罷免でなければ廃更させない。ただ今までの慣例を変革したときは報告の義務があったが、それ以外のことは事後報告で構わなかった。 

 唐の当初、公主の実封は、三百戸に留まっていた。中宗の御代、太平公主は五千戸となり、七丁までを上限とした(子息は七人まで皇族と認める、とゆう意味かな?)。開元以来、皇妹は千戸に止まり、皇女はこの半分で、皆、三丁を上限とした。フ馬は三品の外官に除し、実際の職務にはつかせない。
 公主の邑が非常に少なくなったので、車や服を購入できなくなった皇女もいた。
 左右の者が、あるいは少なすぎると言うこともあったが、上は言った。
「百姓の租賦は我の所有ではない。戦士が死力を尽くしても、その恩賞は束帛にすぎないのに、女子に何の功績があって多くの戸を享受するのか?これへ倹約を教えたいだけだ。」
 二十三年七月、咸宜公主が下嫁し、その実封が初めて千戸になった。公主は、武惠妃の娘である。ここにおいて、諸公主が皆、千戸となった。 

 旧制では、推挙された人間の試験は員外郎が行っていた。ところが、その席で進士の李権が、員外の李昴を陵侮した。この件に関して、議者は、”員外郎は官位が低いので衆人が服さない”と結論を出した。
 二十四年三月壬辰、今後は禮部侍郎が挙人の試験を行うよう敕が降りた。 

 六月、初めて百官の棒銭を月割りとする。 

 二十五年正月。初めて玄学博士を設置した。毎年、明経によって挙げる。 

 二月、敕が降りた。
「進士は名声だけで学があるとされ、古今に暗い者が多い。明経はその内容に精通していることが大切なのだ。今後は明経で大義十条を問い、時務策三首を述べさせる。進士は大経十帖を試す。」 

 五月辛丑、上は役人達へ、宗子のうち才能のあるものを選んで台省及び法官、京県官を授けるよう命じた。敕に言う。
「道に背く者や怠け者よ、王法に贔屓はないのだぞ。だが、身を修め節義正しければ、その報いが、どうして他人より薄かろうか!率先して我が風俗を正すことを期待する。」 

 上は、李林甫、牛仙客と法官へ律令格式を編纂し直すよう命じていたが、これが完成した。九月壬申、これを頒布する。 

 従来、西北の数十州には兵卒が多く、地租や営田では兵糧をまかないきれなかった。そこで始めて和糴の法を用いた。
 ここに彭果とゆう者がいた。牛仙客の献策をもとに、関中にて糴法を用いるよう請うた。
 戊子、豊作で穀物の価格が安くなり農民が苦労しているので、敕を降ろし、時価の二、三割増しの値段で買い入れ、東、西畿の粟数百万石を和糴するよう命じた。また、今年は江、淮の租米の運輸を中止するよう命じる。
 これより関中に備蓄された穀物が満ち溢れ、車駕が東都へ往復しないようになった。
 癸巳、河南、北の租米を含嘉、太原倉へ運ぶよう敕し、皆、本州へ留めさせた。 

 この年、初めて租庸調を命じる。租は財源として、他は特産品で京都へ輸送させた。 

 二十六年正月、制が降りる。
「辺地の長征兵は応募した兵で十分だ。今後、鎮兵を派遣してはならぬ。その地にいる者は呼び戻せ。」 

  同月、天下の州、県、里へ学校を設置するよう命じた。 

 二十九年十月壬寅、北庭と安西を分けて二節度とする。
 天寶元年(742)正月壬子、平盧を分離して別の節度とし、安禄山を節度使とした。
 この時、天下の直領は三百三十一州、靡き従った地方は八百州。十節度、経略使を置き、辺境へ備えさせた。
 安西節度は西域を撫寧したクシャ、焉耆、于眞(「門/眞」)、疏勒の四鎮を統べ、クシャ城にて治めた。兵力は二万四千。
 北庭節度は突騎施、堅昆を防ぎ、瀚海、天山、伊吾の三軍を統べ、伊、西二州の境界に屯営し、北庭都護府にて治め、兵力は二万人。
 河西節度は、吐蕃、突厥を絶隔し、赤水、大斗、建康、寧寇、玉門、墨離、豆盧、新泉の八軍と張掖、交城、白亭の三守足(「手/足」)を統べ、涼、粛、瓜、沙、會五州の境界に屯営し、涼州を治める。兵力は七万三千。
 朔方節度は、突厥を防ぎ、経略、豊安、定遠三軍と三受降城、安北、単于二都護府を統べ、霊、夏、豊三州の境に屯営し、霊州を治めた。兵力は六万四千七百人。
 河東節度は、朔方と掎角の備えで突厥を防ぎ、天兵、大同、横野、可(「山/可」)嵐の四軍と雲中守足を統べ、太原府忻、代、嵐三州の境に屯営し、太原府を治める。兵力は五万五千人。
 范陽節度は奚、契丹を臨制し、経略、威武、清夷、静塞、恒陽、北平、高陽、唐興、横海九軍を統べ、幽、薊、為(「女/為」)、檀、易、恒、定、漠、滄九州の境に屯営し、幽州を治める。兵力は九万一千四百人。
 平盧節度は室韋、靺鞨を鎮撫し、平盧、盧龍二軍と楡関守足、安東都護府を統べ、営、平二州の境に屯営し、営州を治める。兵力は三万七千五百。
 隴右節度は、吐蕃へ備禦し、臨兆(「水/兆」)、河源、白水、安人、振威、威戎、漠門、寧塞、積石、鎮西十軍と綏和、合川、平夷の三守足を統べ、ゼン、廓、兆、河の境に屯営し、ゼン州を治める。兵力は七万五千人。
 剣南節度は、西は吐蕃へ抗し、南は蛮、リョウを撫す。天寶、平戎、昆明、寧遠、澄川、南江の六軍を統べ、益、翼、茂、當、 、石(「木/石」)、松、維、恭、雅、黎、姚、悉十三州の境へ屯営し、益州を治める。兵力は三万九百人。
 嶺南五府経略は夷、リョウを綏静し、経略、清海二軍、桂、容、 、交の四管を統べ、廣州を治める。兵力は一万五千四百人。
 この他に又、長楽経略がある。福州を領有し、兵力は千五百人。
 東莱守足は、莱州を領有する。東牟守足は登州を領有する。兵力は、おのおの千人。
 およそ鎮兵は四十九万人。
 開元以前は、辺域の兵卒達への衣食の費用は、毎年二百万を過ぎなかった。天寶以後は、辺将からの軍備増強の要請が多く、毎年千二百万の衣と百九十万斛の兵糧が必要となった。公私共に費用に苦労し、民は困窮しはじめた。 

 二月、侍中を左相、中書令を右相と改め、尚書左、右丞相を僕射へ戻す。東都、北都を皆、京となし、州を郡、刺史を太守とする。 

 三載、百姓は、十八才で中、二十三才で丁とする。(民へ与える田が不足したので、元来十八になったら一人分の田圃を与えていたのを、半人前しか与えなくなった、とゆう事だと思います。) 

 十一載三月乙巳、吏部を文部、兵部を武部、刑部を憲部と改める。 

 唐の初期、詔敕は全て中書、門下官の文章の巧い者が書いていた。
 乾封以後、始めて文士元萬頃、范履冰等を召して、諸文辞の草稿を作らせるようになった。彼等はいつも北門にたむろしており、人々はこれを「北門学士」と言った。
 中宗の御代は、上官昭容がこの仕事を独占していた。
 上が即位すると、始めて翰林院を設置した。禁廷の近くに置き、上は文章の士から下は僧、道、書、画、琴、棋、数術の工を、皆、ここへ詰めさせた。これを「侍詔」と言う。 

 十三載十一月己未、内侍官二人を置く。官位は、正三品。

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