玄武門の変
 
 武徳九年(626)六月、丁巳、金星が上天へ登った。(漢書の天文志によれば、「太白経天」の時には、天下に革命が起こり民の王が変わるとゆう。金星は、西から登れば西に伏し、東から登れば東に伏せり、上天へ登ることはない。昼間には上天に登っているのだろうが、その頃は日の光が強すぎて見えないはずだ。)
(訳者、注 金星が上天に輝く筈がない。後世のでっち上げとしか思えない。)
 秦王世民は、既に太子建成や斉王元吉との間に溝ができていた。洛陽は形勝の土地である。そこで世民は、一朝事ある時には都を逃げ出して洛陽を確保しようと考え、行台工部尚書温大雅に洛陽を鎮守させた。そして、秦府車騎将軍栄陽の張亮へ左右の王保等千余人を与えて洛陽へ派遣した。また、山東の豪傑達と密かに手を結び、変事への備えの為に金帛を与えて自由に使わせた。
 元吉は、亮が造反を企んでいると告発して尋問させたが、亮は最期まで言質を取られなかったので、釈放して洛陽へ返した。
 建成は、夜、世民を呼び出して、酒を飲ませて毒殺しようとした。世民は突然心臓が傷み、数升も吐血した。淮安王神通が彼を助けて西宮へ連れ帰った。
 上が西宮へ御幸して世民へ病状を尋ねると、建成へ詔した。
「秦王は、もともと下戸なのだ。これからは、夜に酒を飲ませてはならない。」
 そして、世民へ言った。
「大謀を建てて海内を平定したのは、全て汝の功績だ。だから我は、汝を世継ぎに立てようとしたのだが、汝は固辞した。それに、建成は年長で、太子になって久しい。我は、これを奪うに忍びないのだ。汝等兄弟は、相容れないように見える。このまま京邑に同居していたら、必ず紛争が起こるぞ。だから、汝を行台へ返し、洛陽へ住ませる。陜以東の主人になるが良い。すなわち、汝へ天子の旌旗を立てることを命じる。漢の梁孝王の故事に倣え。」
 世民は、膝元から離れて遠くへ行くのに忍びないと、涙を流して固辞した。
 上は言った。
「天下は一家だ。東西の両都は遠く離れているが、汝へ行って欲しいのだ。煩悲させないでくれ。」
 世民が出発しようとすると、建成と元吉が共に謀って言った。
「もしも秦王が洛陽へ行ったら、土地と武装兵を持つことになる。手が出せなくなるぞ。それよりも、長安へ留めておけば、一匹夫だ。容易く料理できる。」
 そこで、密かに数人へ上封させた。
「秦王の近習達は、洛陽へ行くと聞いて大喜びです。その有様を見ると、派遣したら二度と戻ってこないようで恐ろしゅうございます。」
 また、近幸の臣下へ、上を利害で説得させた。上は遂に心変わりし、世民の洛陽派遣は中止された。 

 建成、元吉と後宮の女性達は、上へ日夜、世民を讒訴した。上はこれを信じ込んで、世民を罰しようとした。すると、陳叔達が諫めた。
「秦王は、天下に大功があります。黜ってはなりません。それに、殿下は剛烈な性格。もしも挫抑されたら憂憤に耐えかねて不測の病を発しかねません。陛下、その時悔いても及びませんぞ!」
 上は、中止した。
 元吉は、密かに秦王を殺すよう請うた。すると、上は言った。
「彼には、天下平定の功績がある上に罪状はハッキリしない。どう言い訳するのだ?」
 元吉は応じた。
「秦王が東都を平定した当初、帰ろうともしないで銭帛をばらまき、私恩を植えました。また、敕命に逆らったのですから、造反と言わずしてなんでしょうか!ただ、速やかに殺してください。なんで理由がないことを患いますか!」
 上は応じなかった。
 秦王府の幕僚達は皆、憂懼して為す術も知らなかった。行台考功郎中房玄齢が、比部郎中長孫無忌へ言った。
「今、嫌隙は既にできてしまった。一旦禍が勃発したら、府朝が地にまみれるだけでは済まない。実に、社稷の憂えだ。ここは、王へ周公に倣って国家を安寧にするよう勧めなければならない。(周公は、兄弟の管、蔡を誅殺した。)存亡の機は、正に今日。間髪も入れられないぞ!」
 無忌は言った。
「我も前からそう思っていたが、口にできなかったのだ。今の子の言葉は、まさに我が心。謹んでこれを提言しよう。」
 そして、二人して秦王のもとへ出向いて、語った。
 世民が玄齢を召して謀ると、玄齢は言った。
「大王の功績は天地を覆います。大業を受け継いで当然です。今日の憂危を逃れることは、天も賛助なさいます。大王、疑ってぐずついてはなりません。」
 そして、府属の杜如晦とともに、建成と元吉を誅殺するよう、世民へ勧めた。 

 秦府に驍将が多いので、建成と元吉は、これを自分の仲間へ引き入れようと考え、密かに金銀器一車を左二護軍尉遅敬徳へ賜り、併せて書を与えて言った。
「長者よ、我と布衣の交わりを敦くしようではないか。」
 すると、敬徳は辞して言った。
「敬徳は、下賤な生まれ。隋末の乱世の中で、長い間叛逆者に従っておりました。その罪は誅殺されるのが当然なのに、秦王から更生の恩を賜ったばかりか、藩邸にその名を連ねさせていただきました。今はただ、命を捨ててでもこの御恩に報いたいのに、まだ殿下へ対して何の功績も立てていません。それでどうしてこのように厚い賜を頂けましょうか。もしも殿下と私的に交遊すれば、これは二心を持つことになります。利に転んで忠を忘れる人間ならば、どうして殿下のお役に立てましょうか!」
 建成は怒り、遂に彼と途絶した。
 敬徳がこれを世民へ告げると、世民は言った。
「公の心は山岳のようだ。金を山と積んでも動かすことができない。くれるとゆうものを受け取ったとて、何の嫌疑があろうか!それに、奴等の陰謀を知ることまでできるのだから、なんと良策ではないか。賜をつっかえしたりすれば、公の身も危なくなるぞ。」
 案の定、元吉は敬徳へ刺客を放った。敬徳はそれを察知すると、重門を開け放して安伏したまま動かなかった。刺客は屡々庭までやって来たが、遂に入室しなかった。
 元吉は、敬徳を上へ讒言し、尋問に掛けて誅殺しようとしたが、世民が固く請願したので免れることができた。
 元吉は、左一馬軍総管程知節も讒言して、康州刺史として下向させることにした。知節は世民へ言った。
「大王の股肱羽翼が尽きたら、私の身もどうやって守れましょうか!知節は死んでも去りません。どうか早く決起してください。」
 又、建成達は金帛で右二護軍段志玄を誘った。志玄は従わない。そこで建成は、元吉へ言った。
「秦府の知略の士で憚るべき者は房玄齢と杜如晦だけだ。」
 そこで二人を上へ讒言して追い出した。 

 世民の府中で腹心といえるのは、長孫無忌と、その舅でヨウ州治中の高士廉、右候車騎将軍三水の侯君集及び尉遅敬徳達だが、彼等は世民へ建成と元吉を誅殺するよう日夜勧めた。世民はなおも躊躇して決断できず、霊州大都督李靖へ尋ねた。すると李靖は辞退した。そこで李世勣へ尋ねると、彼も辞退した。それで世民は、二人を重んじた。
 そのうち、突厥の郁射設が数万騎を率いて河南へ入寇し、烏城を包囲した。建成は、元吉を世民に代えて諸軍を督させ北征させるよう推薦し、上はこれに従い、右武衞大将軍李藝と天紀将軍張謹を督して烏城を救援するよう、元吉へ命じた。すると元吉は、尉遅敬徳、程知節、段志玄および秦府右三統軍秦叔寶等を従軍させ、秦王の帳を閲覧して精鋭の士を元吉軍へ編入させるよう請うた。
 率更丞王至(「日/至」)が、世民へ密告した。
「太子が斉王へ語りました。『今、汝が秦王の驍将精兵を得、数万の大軍を擁した。我は秦王と共に昆明池にて汝と餞別するが、その時幕下にて壮士に秦王を殺させる。そして秦王が急死したと言い立てれば、主上も信じるしかあるまい。そしたら、我は大勢の人間へ、我が国事に預かれるよう進言させる。敬徳等は既にお前の手の内にいるのだ。全員穴埋めにしても、誰が不服を唱えようか!』」
 世民は、至の言葉を長孫無忌等へ伝えた。無忌等は先手を打つよう勧めた。世民は嘆いて言った。
「骨肉で殺し合うのは、古今の大悪だ。われは、禍が朝夕にも発するのを知った。そこで、まず奴等へ決起させてから、その後に義を以てこれを討とう。それで良いな!」
 敬徳は言った。
「死を愛する者などいません!今、衆人は王へ死を奉っていますが、これは天が授けるのです。禍は起ころうとしているのに、大王はまだ安閑として憂えられておりません。大王は御自身を軽く見られていますが、それでは社稷はどうなりますか!大王が敬徳の言葉を用いなければ、敬徳は鼠のように草沢へ隠れ、大王の左右へ居ることさえできずにオメオメと殺戮を受けることになってしまいます。」
 無忌が言った。
「敬徳の言葉に従わなければ、事は今敗れます。敬徳等は絶対王のものになりませんし、無忌もまた彼と共に去って行きます。もはや大王へ仕えることもできません!」
 世民は言った。
「我の意見も、全て棄てることはできない。公は、よく考えてくれ。」
 敬徳は言った。
「王の今の処置には疑問があります。智ではありません。艱難に臨んで決断しない。勇がありません。それに、大王が元々養っていた勇士八百余人は、今は全員宮殿に入り、武装しています。決起体制は既に整っているのです。大王、何を躊躇うのですか!」
 世民が府僚を訪れると、皆、言った。
「斉王は凶戻で、結局は弟として仕えることは出来ません。この頃聞いたのですが、護軍の薛実がかつて斉王へ言ったそうです。『大王の名は、合わせると「唐」の字になります。つまり、最後には大王が唐の皇帝になるとゆうことです。』それを聞いて斉王は喜び言いました。『ただ秦王さえ除けば、東宮など掌を返すようなものだ。』彼と太子の乱は未だ成功していないのに、既に太子を殺したつもりなのです。斉王の乱心に厭う物はありません。為さない物などありませんぞ!もしも二人が志を得たら、天下は唐のものではなくなります。賢明な大王ならば、あの二人を始末するなど塵を掃くようなもの。なんで匹夫の節義にひかれて社稷の計を忘れるのですか!」
 世民はなおも決断できなかった。すると、皆は言った。
「大王は、舜をどのような人間だと思し召されますか?」
「聖人だ。」
「舜が掘った井戸から出なかったなら、井戸の中の泥になっただけです。塗った穀物倉から降りなかったら、倉の上で灰になっただけです。天下の主人に選ばれて後世へ法規を残すことが、どうしてできたでしょうか!ですから、舜は、父親の小さい杖は受け、大きな杖からは逃げ出したのです。それは、存するものが大きかったからです。」
 世民は卜を命じた。すると、幕僚の張公謹が外から入って来て、亀甲を地面へ叩きつけて言った。
「卜は、迷っていて決断できない時に行う物です。今の事態に迷う余地はないのに、なんで卜を行うのですか!卜の結果が不吉だったとて、どうして止めることができましょうか!」
 此処に於いて、計は決した。
 世民は、無忌へ、密かに房玄齢等を召し出すよう命じたが、房玄齢等は言った。
「敕旨で、王へ仕えることを禁じられました。今、もしも私的に謁見すれば、その罪は死刑に相当します。このご命令は聞けません。」
 世民は怒り、敬徳へ言った。
「玄齢と如晦が、なんで我へ背くのか!」
 そして佩刀を取ると敬徳へ授け、言った。
「公が行ってみよ。もしも来ようとしなければ、その首を斬って来い。」
 敬徳が行き、無忌と共に彼等を諭して言った。
「王は既に計画を決した。公はすぐに入って共に謀れ。我等四人は一群となって歩いてはいけない。」
 そして、玄齢、如晦へは道士の服を着せて無忌と共に行かせ、敬徳は別の道を通って戻った。 

 己未、金星が再び中天へ登った。傅奕が密奏した。
「金星が、秦の領分に見えます。きっと、秦王が天下を取るでしょう。」
 上はその状を秦王へ授けた。ここにおいて秦王は建成と元吉が後宮を乱していることを密奏し、かつ、言った。
「臣は、兄弟へ対して糸一本ほども背いていません。今、臣を殺したければ世充、建徳へ仇を報いたようです。臣が今横死すれば、君臣は永久に行き違ったまんま。魂が冥土へ行った時、諸賊から見られるのが恥ずかしゅうございます!」
 上はこれを読んで愕然とし、言った。
「明日、彼等へ詰問しよう。汝は早く参内しておくが良い。」
 庚申、世民は長孫無忌等を率いて入朝し、玄武門へ兵を伏せた。
 張ショウ、は、世民が参内した訳を知ったので、建成へ伝えた。建成は元吉と協議しようと、呼び出した。すると、元吉は言った。
「宮府の兵を動員し、病気と称して参内せず、形勢を観望しましょう。」
 建成は言った。
「兵の備えは、もう厳重だ。弟よ、共に入参して、我等自身で消息を尋ねてみよう。」
 こうして、共に入参し、玄武門へ向かった。
 この頃、上はこの事について協議しようと、裴寂、蕭禹、陳叔達等を呼び出していた。
 建成と元吉は、臨湖殿まで来て様子がおかしいことに気がつき、東宮府へ向かって馬首を返した。世民が彼等を呼ぶと、元吉は弓で世民を射たが、再三射たのに当たらない。世民は、建成を射て、殺した。尉遅敬徳は七十騎を率いて後に続く。左右が元吉を射て、落馬させた。
 世民の馬は、道をそれて林の中へ入り込んだ。世民は、木の枝にぶつかって落馬し、暫く起きあがれなかった。元吉はそこへ駆けつけて、世民の弓を奪って絞め殺そうとしたが、敬徳が馬を急かせてやってきて、怒鳴りつけた。元吉は武徳殿へ逃げ込もうとしたが、敬徳はこれを追いかけて射殺した。
 翊衞車騎将軍の馮立は、建成の死を聞いて、嘆いて言った。
「生きているうちにその恩を受けたのに、死ぬ時に難を逃れるな事ど、どうしてできようか!」
 そして副護軍薛萬徹、屈咥直府車騎謝叔方と共に東宮、斉府の精兵二千を率いて玄武門へ駆けつけた。だが、大力の張公謹が一人で関を閉めてこれを拒んだので、彼等は入れなかった。
 雲麻(「麻/毛」)将軍敬君弘は宿衞兵を掌握して玄武門へ屯営していた。身を挺して戦おうとしたら、親しい仲間がこれを止めた。
「事態は、どう落ち着くか判らない。暫く様子を見よう。兵が集まるのを待ってから列をなして戦ったとて、遅くはないさ。」
 君弘は従わず、中郎将呂世衡と共に大声で怒鳴りながら突撃し、共に戦死した。君弘は、顕雋の曾孫である。
 門を守る兵と萬徹はしばらく力戦していたが、萬徹が軍鼓を鳴らして秦府を攻撃しようとすると、将士は大いに懼れた。そこへ尉遅敬徳等がやってきて建成と元吉の首を示したので、宮府の兵卒は遂に潰れた。
 萬徹は数十騎と共に終南山へ逃げ込んだ。馮立は、既に敬君弘を殺していたので、仲間へ言った。
「太子へ少しは報いられたぞ!」
 そして解散して野へ逃げた。
 上が海池へ舟を浮かべようとしていた時、世民は尉遅敬徳を宿衞へ派遣した。敬徳は、武装し矛を持ったまま、まっすぐ上のもとへやって来た。上は大変驚いて問うた。
「今日、誰が乱を起こしたのだ?卿はなぜここへ来たのか?」
 対して、敬徳は答えた。
「太子と斉王が乱を起こしましたので、秦王が挙兵してこれを誅しました。そして、陛下が驚きではないかと懼れ、臣を宿衞へ派遣したのです。」
 上は、裴寂等へ言った。
「今日、はからずもこんな事になってしまった。どうすれば良かろうか。」
 蕭禹と陳叔達が言った。
「建成と元吉は、もともと義謀に参与しておりませんし、天下平定の功績などありませんでした。秦王の功績が高く衆望が重いのを気に病んで、共に姦謀を為したのです。今、秦王が自らこれを討って誅しました。秦王の功績は、世界を覆い未来永劫輝きます。民心も全て帰順しているのです。もしも陛下が、秦王を元良(太子のこと)に処して国事を委ねましたら、事は有るべき姿へ戻ります!」
 上は言った。
「善きかな、それこそ我の宿望だった。」
 この時、宿衞及び秦府の兵と二宮の左右は未だ戦いを止めていなかった。敬徳は、手敕を降ろして諸軍を秦王の指揮下へ入れるよう請うた。上は、これに従う。
 天策府司馬宇文士及が東上閤門から出て敕を宣伝したので、衆人の騒動は収まった。
 上は又、黄門侍郎裴矩を東宮へ派遣して、諸将卒を諭し解散させた。
 上は、世民を呼び出して、これを撫でて言った。
「最近では、政権を放り投げたくなった事が、何度もあったのだ。」
 世民は跪き、上の乳を吸って、長い間慟哭した。
 建成の子安陸王承道、河東王承徳、武安王承訓、汝南王承明、鉅鹿王承義、元吉の子梁郡王承業、漁陽王承鸞、普安王承奨、江夏王承裕、義陽王承度らは、皆、誅殺され、帝籍を剥奪された。
 始め、建成は、自分が即位した後には元吉を皇太弟に立てると約束していた。だから元吉は、彼の為に命を尽くしたのだ。
 諸将は、建成と元吉の左右百余人を悉く誅して官籍を剥奪するよう欲したが、尉遅敬徳が固く争った。
「罪は二凶にあり、既に誅殺した。支党まで罰を及ぼすのは、安寧の道ではないぞ!」
 それで中止した。
 この日、詔が降り天下に恩赦が出た。凶逆の罪は建成と元吉のみに止め、その他の余党の罪は一切問わない。その僧、尼、道士、女冠は旧来通りとする。国家の諸々は、皆、秦王が裁断する。
 辛酉、馮立、謝叔方等が自首した。薛萬徹は逃げ隠れていたが、世民が屡々使者を出して諭したら、出頭した。世民は言った。
「これはみな、事に於いて忠。義士である。」
 そして、釈した。
 癸亥、世民を皇太子に立てた。又、詔する。
「今より、軍国の庶事は大小と無く太子の裁断を仰ぎ、その後に聞奏せよ。」 

 司馬光、曰く。
 年長者を嫡に立てるのは、礼である。ただ、高祖が天下を取れたのは、全て太宗の功績だ。隠太子は庸劣なくせにその右に居る。この二人は地位は嫌疑され権勢は迫られ、あい入れ合えなくなるのは当然である。
 もしも高祖に文王のような明哲さがあり、隠太子に泰伯のような賢明さがあり、太宗に子ゾウのような節義が有れば、どうして乱が生じただろうか!だが、そうすることができなかった。
 太宗は、初めは敵方に先手を打たせて、その後に応じようとした。このようにすれば、やむを得なかったとも言えるし、弁明の余地もある。だが、群下から迫られて遂に禁門に血を塗り、兄弟へ刃を加え、千年先まで汚点を残した。惜しいかな!
 それ、数百年の命脈を保つ王朝を建国した君主は、子孫から手本とされるのである。唐の中宗、明宗、蕭宗、代宗の帝位継承の有様は、この手本を口実としたのではないか! 

  

 戊辰、宇文士及を太子・事、長孫無忌、杜如晦を左庶子、高士廉、房玄齢を右庶子、尉遅敬徳を左衞率、程知節を右衞率、虞世南を中舎人、猪亮を舎人、姚思廉を洗馬とした。斉王国司の金帛什器は、全て敬徳へ賜った。
 ところで、洗馬の魏徴は、早く秦王を除くようにと、建成へ常に勧めていた。建成が敗北すると、世民は議長を呼びだして言った。
「汝はなぜ、我等兄弟の仲を離間したのか!」
 皆は、魏徴の命を危ぶみ懼れたが、魏徴は自若とした態度で言った。
「あの時太子が徴の言うとおりにしておけば、こんな禍は起こらなかったものを。」
 世民は、元々彼の才覚を重んじていたので、態度を改めて礼節を尽くし、・事主簿とした。
 また、王珪、韋挺を雋(「山/雋」)州へ呼び出して、皆、諫議大夫とした。
 世民は、禁苑での狩猟を解禁し、四方からの貢献を中止させた。百官各々の政治のやり方を聞き、政令は簡潔にしたので、中外は大いに悦んだ。
 屈突通を陜東道行台左僕射として洛陽を鎮守させた。
 益州行台僕射竇軌と行台尚書韋雲起、郭行方は、反目し合っていた。ところで、雲起は、弟の慶倹を初め大勢の宗族達が太子の建成に仕えていた。建成が死ぬと、軌は雲起が建成と共に造反する予定だったと誣告し、これを捕らえて斬った。行方は懼れて京師へ逃げた。軌はこれを追いかけたが、逃げられてしまった。 

  

 辛巳、幽州大都督廬江王援(本当は王偏)が造反した。その経緯は「造反」に記載する。 

 乙酉、天策府を廃止した。 

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