風俗
 
   開元元年(713)十月辛卯、京畿の県令を呼び集めた。今年は飢饉なので、民を恵養するよう戒める。 

 二年七月乙未、上は、風俗が奢靡なので制を降ろした。
「乗輿服御、金銀の器玩は役人へ封鎖させ、軍国の費用とする。その珠玉や錦などは殿前で焼き捨てろ。后妃以下は、珠玉や錦繍を身につけてはならない。」
 戊戌、敕が降りた。
「百官の服帯及び酒器、馬具は、三品以上は玉で飾って良い。四品は金、五品は銀、それ以外は、全てこれを禁じる。婦人の服は、夫や子に従う。昔作った錦繍は、染めて黒くしたら着用しても良い。今後天下では珠玉の採取や錦繍を織ることを禁じる。違反した者は杖百。工人は一等を減じる。」
(司馬光、曰く。)明皇も当初は政事に意欲的で、自らこのように節倹に励んだのに、晩節は奢靡で敗れた。奢靡は何と人を溺れさせることか。
 詩に言う、
「初めは誰も慎むに、いつしか心は緩みゆく。」
 慎まなければならない! 

 同年九月、「今年は豊作だったので、穀物の値段が下がって農家へ打撃を与えないよう、諸州へ常平倉法を修めよ」と、敕にて命じた。ただ、江・嶺・淮・浙・剣南は地面が湿潤で、穀物の貯蔵に適していないので、例外とする。 

 三年五月、山東で蝗が大発生した。民はあるいは田の側で香を焚き、祭壇を設けて拝むだけで、これを殺さなかった。姚崇は、御史を派遣して州刺史や県令を監督させて、これらを捕らえて埋めるさせるよう上奏した。これを協議したところ、「蝗が多すぎて駆逐し尽くすことはできない」とゆう意見が多く、上もその成果に疑いを持った。すると、祟は言った。
「今、蝗は山東、河南に充満しており、北方の人々は土地を棄てて逃げ尽くしています。どうして苗が食われるのを座視するのみで救済の手を打たずに済ませられましょうか!かりに駆逐し尽くすことができなくとも、災害が拡大するのを傍観するよりも余程ましです。」
 上はこれに従った。
 盧懐慎は蝗を多量に殺すと和気を傷つけるのではないかと心配したが、祟は言った。
「昔、楚の荘王は蛭を呑んで病気になりましたが、すぐに快癒しました。孫叔は蛇を殺して福を得ました。蝗を殺すのに忍びない余り、人を飢え死にさせるなどとゆうことが、どうしてありましょうか!もしも蝗を殺して禍があるのなら、発案者たる祟が一身に受けましょう。」
(胡三省、注)楚王が食事をしていると、料理の中に蛭が混じっていた。これを告発したら料理人を死刑にしなければならないので、哀れに思って、そのまま食べた。すると病気になった。令尹が病気の原因を尋ねたので、楚王がありのままを語ると、令尹は言った。「天は立派な行いを褒めます。王は仁徳がありますから、この病気はひどくなりません。」
 孫叔ゴウが子供の頃、両頭の蛇を見た。ところが、この地方では「両頭の蛇を見た者は死ぬ」とゆう言い伝えがあったので、彼はこれを殺して埋め、家へ帰って泣いた。母が訳を尋ねると、「両頭の蛇を見たから死ぬ」と答えた。母が、その蛇はどこにいるのか重ねて尋ねると、「他の人もこれを見たら同じように死んでしまうと思い、殺して埋めてきた」と答えた。すると母は言った。「陰徳には、天が必ず福を下してくれます。」 

  四年、山東で再び蝗の害が起こったので、姚崇が再びこれを捕らえるよう命じた。すると、倪若水が言った。
「蝗は天災で、人力の及ぶものではない。徳を修めて、これを祓うべきだ。劉聡の頃、いつもこれを捕らえて埋めておりましたが、蝗害はますます甚だしくなった。」
 そして、御史を拒んでその命令に従わなかった。
 祟は若水へ手紙を書いて、言った。
「劉聡は偽主だったから、その徳が妖に勝たなかったのだ。今日は聖朝だ。妖は徳に勝てない。昔、立派な人間が県令をやっていたら、蝗はその境内へは入り込まなかった。(後漢書、魯恭伝)もしも徳を修めたら蝗害から逃れられるのなら、どうして努力せずに済まされようか!」
 すると、若水はこれに従った。
 夏、五月甲辰、使者を州県に派遣して蝗捕捉の勤惰を調べさせ、結果を報告するよう敕があった。これによって、毎年蝗が出たが、大きな災害には至らなかった。 

 八年六月、リクと穀が溢れて、二千人近くが漂流・溺死した。 

 十年五月、伊、汝で洪水が起こり、数千家が流された。
 六月丁巳、博州にて河が決壊した。按察使蕭嵩等へこれを治めるよう命じた。嵩は、梁の明帝の子孫である。(胡三省、注。後梁の主帰(「山/帰」)の諡が明帝である。) 

 十三年、東都は一斗の米が十五銭だった。青州や斉では五銭、粟は三銭だった。 

 十四年(726)五月癸卯、今年の戸数は7,069,565戸、人口は41、419、712人だと、戸部が上奏した。
 以後、戸部が上奏した戸数と人口などを列記する。
 二十年、戸数は7,861,236戸、人口は45,431,265人。
 二十八年、天下の県は1573、戸は8,412,871、人口は48,143,609人。
 この年、西京、東都の米価は、一斗が直銭二百にも満たず、絹匹もそんなものだった。海内は豊かで平和。旅人は万里を歩くものでも護身用の武器を携帯しなかった。
 二十九年、県は1、528。郷は16,829、戸は8,525,763、人口は48,909,800人。
 十三載(752)、郡は321、県は1,538、郷は16,829、戸数は9,069,154、人口は52,880,488。
(訳者曰く。) 唐代の最盛期です。それでも、人口は今の日本の半分以下でした。時は754年、今から1250年も前の話ですから。今の中国と比べると、1/20ですね。) 

 十四年七月。河南、北にて大水。溺死者は千人を数えた。
 八月、丙午朔、魏州から河が洪水を起こしたと報告が来た。
 十五年七月戊寅、冀州にて黄河が溢れた。 

 十六年八月乙巳、特進張説が開元大衍暦を上納した。これを施行する。 

 十七年、百姓の今年の地税を悉く半分免除した。 

  十八年、八月壬午、洛水が洪水を起こし、東都の千余家が流された。
  この年、死罪の判決を受けながら中止になった人間が、天下で二十四人いた。 

  二十一年、関中に雨が降り続き、穀物の値段が高騰した。上は東都へ御幸しようと、京兆尹の裴耀卿を呼び出した。すると、耀卿は言った。
「関中は帝業が興った場所です。百代先まで首都を変えてはいけません。ただ、土地が狭く穀物が少ないので、乗輿が時々東都へ御幸して、長安の穀物の消費を減らさなければならないのです。『貞観、永徽の頃は歳出も少なく、毎年関東の穀物一、二十万石を持ち込むだけで十分だった。だから、乗輿は長安に安居できた。』と、臣は聞いております。しかし、今は歳出が増え続け、運び込む穀物は数倍になりましたが、それでもなお不足しています。ですから、関西の人々の負担を軽くする為に、陛下が屡々官署を冒すことになるのです。
 今、もし、司農が租米を全て東都へ運び込ませ、それから水路で長安へ運び込んだなら、関中の食糧事情も好転するでしょう。いやしくも関中に数年の貯蔵が有れば、水害や旱害を憂う必要はありません。それに、呉の人々は水運に慣れず、途中に集積しておりますので、月日が経てば隠匿も生じます。どうか河口へ官倉を設置してください。呉舟には、そこへ米を入れて去らせます。官は船を雇って河、洛へ分入するのです。また、三門の東西にも各々一倉を設置します。ここに貯蔵しておき、川の流れが酷いときにはここに留め、水運が楽になったときに運び出します。そうでなければ、この場所に山道を開通して車にて運べるようにします。そうすれば滞留がなく、巨万の費用が省けます。河・渭の浜には、皆、漢・隋代の倉があります。これを修理するのは困難ではありません。」
 上は、深く同意した。 

 二十二年二月壬寅、秦州にて地震が続いた。公私の家屋は殆ど壊れつくす。吏民の死者は四千余人。左丞相蕭嵩へ救済を命じる。 

 十二月、京城での物乞いを禁じ、彼等を病坊へ置いて食事を与えた。(当時、病坊は諸寺に分置していた。) 

 二十五年七月己卯。大理少卿徐喬(「山/喬」)が上奏した。
「今年、天下の死刑は五十八人しかおりませんでした。今までは、大理獄院からは殺気が満ち溢れ、雀でさえも巣を掛けなかったものでしたが、今では鵲がその木に巣を造っております。」
 ここにおいて百官は、罪人が減ったとして、上表して祝賀した。 

  二十九年正月丁酉、制が降りる。
「従来、諸州で飢饉が起こった時には、上奏した結果を待ってから官庫を開いて民を救済していた。しかし、道が遠い時には、どうして救済に間に合おうか!今後は、州県の長官と采訪使が状況を判断して給付し、事後報告とせよ。」 

  七月乙亥、東都で洛水が溢れた。千余一が溺死する。 

  陜州刺史李斉物が三門運渠を掘った。天寶元年(742年)正月辛未、渠が完成する。斉物は神通の曾孫である。 

 天寶十載(751)正月、今年の地税を免除する。 

 十二載、中国は盛強で、安遠門から西は全て唐の領土だった。一万二千里には家が建ち並び桑や麻が生い茂った。中でも、隴右は天下第一と称されるほど富があった。 

 十四載八月辛卯、今年の百姓の租庸を免除する。

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