苻氏、長安に據る。

 

 晋の穆帝の永和六年(350年)、三月。苻洪は死に臨んで、関右を攻略するよう、息子の苻健へ遺言した。(「趙・魏、中原を乱す。」参照。)
 この頃、杜洪が長安を基盤にして「晋の征北将軍、よう州刺史」と自称していた。(彼は、もとは王朗の司馬だった。王朗が長安を去った後、長安を支配した。)彼は、張居を司馬にし、関西の夷・夏は、皆、彼の傘下に入っていた。
 苻健はこれを侵略しようと思ったが、その計略がばれないように、後趙の石祇から授かった官爵を受け取った。又、趙倶を河内太守に任命して温を守らせ、牛夷を安集将軍に任命して懐を守らせ、方頭へ宮殿を造り、民へ農耕を奨励した。これらは皆、長安攻略を悟らせない為、カモフラージュとして行ったのである。その真意を知って農耕を疎かにする者がいたら、処刑した。

 やがて、苻健は、晋の征西大将軍、都督関中諸軍事、よう州刺史と自称し、賈玄碩を左長史、梁安を右長史、段純を左司馬、辛牢を右司馬、王魚・程肱・胡文を軍諮祭酒に任命し、全軍を挙げて西征した。
 前鋒は魚遵。盟津にて、浮き橋を造って渡河した。
 ここで、弟の輔国将軍苻雄に五千を与えて潼関へ向かわせ、甥の揚武将軍苻菁には七千を与えて輅関へ向かわせた。
 別れに臨んで、健は苻菁の手を執って言った。
「もしも失敗したら、汝は河北で死に、我は河南で死ぬ。二度と逢うこともできまい。」
 渡り終わると、浮き橋を焼き払った。苻健自身は大軍を率いて苻雄の後詰めとなる。
 これを知った杜洪は、苻健へ書を与えて侮慢した。そして、張居の弟の張先を征虜将軍に任命し、三千の兵力で潼関の北へ派遣した。
 張先は大敗し、長安へ逃げ帰った。そこで杜洪は、関中の総勢を召集して迎撃準備を整えた。弟の杜郁は降伏を勧めたが、聴かない。すると杜郁は、自分の部隊ごと苻健へ降伏した。
 苻健は、苻雄を渭水の北へ派遣した。ここいらには、毛受・徐磋・白犢等が各々数万の兵力で砦を守っていたが、彼等は皆、杜洪の使者を斬り殺し、子息を人質にして苻健へ降伏した。苻菁・魚遵の進む先でも、城邑が次々降伏した。杜洪は懼れ、長安を固守した。
 九月、苻菁が渭北にて張先と戦い、これを捕らえた。これによって、三輔の郡県は全て降伏した。
 十月、苻健は長躯長安を衝き、杜洪・張居は司竹へ逃げた。
 十一月、苻健は、長安へ入城した。
 長安市民は晋室を慕っていたので、苻健は、建康へ使者を派遣して戦勝を告げた。又、桓温とも修好を結んだ。これによって、秦・よう・夷・夏が、皆健の麾下へ入った。
 趙の涼州刺史石寧だけは上圭に據って降伏しなかったが、十二月、苻健はこれを攻撃して斬った。

 七年、正月。 左長史の賈玄碩等が、護健へ請願した。
「昔、劉備が関中王となった故事に倣い、都督関中諸軍事、大将軍、大単于、秦王と名乗られて下さい。」
 すると、健は怒って言った。
「それは僭越とゆうものだ!晋へ派遣した使者もまだ帰ってはおらん。我の官爵は、お前らの知ったことではない。」
 しかしながら、梁安等へこっそり命じた。
「我へ尊号(皇帝号)を献上するよう、賈玄碩等へ風諭してくれ。」
 健は、臣下達の請願を辞退すること三回。その後に、ようやく許諾した。
 丙辰、健は、天王・大単于の位へ即いた。国号は「大秦」。大赦を下し、「皇始」と改元する。父の苻洪を武恵皇帝と追尊し、廟号を太祖とした。妻の強氏を天王后と為す。嫡子の萇を太子とした他、十一人の諸子を全員公爵にする。
 雄を、都督中外諸軍事、丞相、領車騎大将軍、よう州牧、東海公と為し、苻菁を衛大将軍、平昌公と為す。

 三月、秦王健は、各地に使者を派遣して、庶民の疾苦を調査した。税金を安くし、狩猟場を開放し、無用の役職を無くし、奢侈を止める。凡そ、趙時代の苛政は、皆、これを除いた。

 一方、杜洪・張居は、東晋の梁州刺史司馬勲のもとへ使者を派遣した。
 四月、司馬勲が三万の兵力で攻め込んで来た。苻健は、五丈原にて決戦を挑んだ。司馬勲は屡々戦ったが、全敗。ついに南鄭まで退いた。
 さて、賈玄碩は、尊号を献上しなかったので、苻健はこれを根に持っていた。ここに及んで、「賈玄碩は司馬勲と内通している。」と密告させ、賈玄碩を、子息もろとも処刑した。

 八年、正月。苻雄等が、苻健へ尊号を献上する。彼等は、漢・晋の故事を持ち出し、「石氏のように゛天王゛号の手順を踏まなくても良い。」と奏上した。
 苻健はこれに従い、皇帝位へ即いた。大赦を下す。諸公を進爵して王と為す。又、「単于は百蛮を統制するものだから、天子が兼任するものではない。」として、太子へ単于の位を授けた。

 司馬勲が漢中へ帰ると、杜洪と張居は宜秋に駐屯した。
 杜洪は張居を軽んじていたので、張居は遂に杜洪を殺し、自ら立って秦王と称した。建昌と改元する。
 五月、苻健は張居を攻撃し、斬り殺した。

 十年、六月。苻雄が卒した。苻健は吐血するほど慟哭し、言った。
天は、吾に四海を平定させたくないのか!なんでこんなにも早く、吾から元才(苻雄)を奪うのだ!」
 魏王を追贈し、晋の安平献王の故事に従って埋葬した。
 苻健は、佐命の元勲だったが、謙恭で博愛、法度を遵奉した。だから、苻健も彼を重んじ、常に言っていた。
「元才は、吾の周公である。」
 苻雄の爵位は、息子の苻堅が襲爵した。
 苻堅は、孝行者で、幼い頃から大志があった。博学多能。英雄達ともよく交わり、呂婆楼・強汪・梁平老等は、皆、彼と仲が善かった。

 八月、太子の苻萇が、ようの蕎乗を攻撃し、斬った。これによって、関中は悉く平定した。苻健は、桓温を防ぎきった功績として、雷弱児を丞相とし、毛貴を太傅とし、魚遵を太尉とし、淮南王苻生を中軍大将軍、平昌王苻菁を司空とした。

 苻健は、政治に重点を置き、屡々公卿を集めて治道を講義した。後趙の苛政の後を継いだばかりだったので、その政治は寛簡、節倹を旨とし、儒士を尊んだ。これによって、秦の民は喜んだ。

 さて、淮南王の苻生は、生まれつき片目で、粗暴な人間だった。ある時、祖父の苻洪が、戯れに彼に言った。
「お前は、涙も一つしか流さないそうだな。」
 苻生は怒り、佩刀を引き抜くと、自らを刺し、流れる血を見せつけて言った。
「これがもう一つの涙だ。」
 苻洪は大いに驚き、苻生を鞭打った。すると、苻生は言った。
「刀で刺されるのは良い。しかし、鞭打たれる屈辱は我慢できん!」
 苻洪は、苻健に言った。
「あいつは狂悖な奴だ。殺してしまえ!でないと、我が家に災いを呼ぶぞ!」
 苻健は父親の言葉に従って苻生を殺そうとしたが、弟の苻雄がそれを止めた。
「まだ子供です。大人になれば改まります。今決めつけるなんて早すぎる!」
 苻生は、成長するに及んで、力は千鈞を挙げ、素手で猛獣と格闘し、馬と競走できる程の人間になった。騎射も巧く、武名は一世に轟いた。
 十一年、四月。太子の苻萇が卒した。強后は少子の晋王苻柳を太子に立てたがった。しかし、讖文に「三羊五眼」の一節があったとして、苻健は、苻生を太子とした。
 司空の苻菁を太尉とし、尚書令の王墮を司空とし、司隷校尉の梁楞を尚書令とする。

 六月、丙子、苻健の病気が重くなった。
 庚辰、苻菁が兵卒を率いて東宮へ突入し、太子の苻生を殺して自立しようとした。
 この時苻健は西宮にて療養していたが、苻菁は既に死んでしまったものと思いこみ、東掖門を攻撃したのである。
 苻健は、変事が起こったと聞き、端門へ登って兵卒を揃えた。諸人は苻健を見て惶懼し、武器を棄てて逃げ散った。苻健は苻菁を捕らえると、その罪状を数え上げ、殺した。そして、その他の者は罪に問わなかった。
 壬午、苻菁の代わりに、大司馬の武都王苻安を都督中外諸軍事とする。
 甲申、苻健は、太師魚遵、丞相雷弱児、太傅毛貴、司空王墮、尚書令梁楞、左僕射梁安、右僕射段純、吏部尚書辛牢を呼び出して、輔政するよう遺詔した。又、苻健は太子の苻生に言った。
「六夷の酋長や大臣達のうち、お前に従わない者が居たら、暫時殺して行くがよい。」
 司馬光、曰。
 嗣子を輔導して、これの羽翼とする為に、顧命の大臣を選ぶのである。彼の為に羽翼としながら、これを折ることを教える。これで滅ばずに済む筈がない!
 彼等が不忠だと思うのならば、最初から任せなければよいのだ。大柄を任せながら、しかも猜疑する。これでは国が乱れるに決まっているではないか。

 乙酉、苻健が卒した。景明皇帝と諡する。廟号は高祖。
 丙戌、太子の苻生が即位する。大赦を下し、寿光と改元する。
 群臣が言った。
「年を越えずに改元するのは礼に適いません。」
 苻生は怒り、その議論の発起人を探し、右僕射段純と見当を付け、これを殺した。
 七月、苻生は、生母の強后を皇太后とし、妃の梁氏を皇后とした。梁氏は、梁安の娘である。諂いの巧い趙韶を右僕射とし、趙誨を中護軍とし、菫栄を尚書とする。
 八月、衛大将軍黄眉を、廣平王とする。前将軍飛を新興王とする。二人とも、苻生と仲が善かった。大司馬の苻安を領太尉とする。晋王柳を征東大将軍、へい州牧、鎮蒲阪とする。
 中書監胡文と、中書令王魚が苻生に言った。
「天文を見ますに、三年以内に国に喪があり、大臣が殺されます。陛下はどうか徳をお修めください。」
 すると、苻生は言った。
「皇后か朕が天下に臨む。それが大喪だ。毛太傅、梁車騎、梁僕射が輔政の遺詔を受けた。彼等こそ大臣だ。」
 九月、梁后・毛貴・梁楞・梁安を処刑した。
 趙韶と趙誨は、趙倶の親戚である。この二人は生から寵用されていたので、倶も尚書令になった。しかし、倶は病気を理由にこれを断り、後で二人に言った。
「お前達は、先祖の供養を思わないのか!毛・梁に難の罪があって処刑されたのだ?吾に何の功績があって彼等の代わりになれる?結局、吾が殺されるだけではないか!」
 遂に、憂いのあまり、死んでしまった。
 十一月、辛牢を尚書令とした。趙韶を左僕射とし、菫栄を右僕射とし、趙誨を司隷校尉とした。

 丞相の雷弱児は剛直な性格だった。朝廷では常に正言を吐き、趙韶・菫栄が政治を掻き乱しているのを見て、常に切歯していた。趙韶・菫栄は、彼のことを苻生へ讒言した。苻生は、雷弱児を、九人の子供と二十七人の孫共々処刑した。これ以来、諸ていは造反の心を持った。
 苻生が即位してから今まで殺された人間は、公卿以下僕隷まで五百人ではきかなかった。
 司空の王墮も剛直な性格だった。彼は諂いで出世した菫栄・強国を嫌い、彼等を仇敵のように見て、朝廷で会っても言葉を掛けたりしなかった。
 ある人が王墮に言った。
「菫栄の威勢は大したもの。少し位つきあっても良いのではないですか?」
 しかし、王墮は言った。
「菫栄など鶏狗に等しい。国士が彼等と喋れるか!」
 十二年、正月。天候が不順だったので、菫栄と強国は苻生へ言った。
「天候が不順です。これは貴臣のせいですぞ。」
 すると苻生は言った。
「貴臣といっても、大司馬と司空しかいないではないか。」
「大司馬は陛下の叔父です。(大司馬は苻安。)殺すわけにはいきません。」
 そこで、王墮を殺した。
 処刑間際に菫栄は言った。
「今でも俺を鶏や狗に例えるか?」
 王墮は、眼を怒らせて叱咤した。
 洛州刺史の杜郁は、王墮の甥だった。趙韶は彼と折り合いが悪く、苻生へ讒言した。結局、彼は東晋へ内通しているとの理由で処刑された。
 苻生が、群臣と共に宴会を開いた。尚書令の辛牢が酒監となったが、宴たけなわの時、苻生は言った。
「酒を飲まぬ者が宴席に残っているのが気にいらん!」
 即座に辛牢を射殺した。群臣は懼れ、敢えて酔う者が居なかったが、苻生は上機嫌だった。
 三月、苻生は、渭橋を造る為三輔の民を徴発した。時期的に農事が滞るので、金紫光禄大夫の程肱が諫めた。苻生は程肱を処刑した。
 四月、長安に大風が吹き、家屋や樹木を引っこ抜いた。宮中は驚愕し、賊が忍び込んだと騒ぎ立て、宮殿の門を閉鎖した。五日ほどして、ようやく復旧する。苻生は、盗賊を見つけたら心臓をえぐり取ると布告した。すると、左光禄大夫の強平が諫めた。
「天が災異を下したのです。陛下は民を愛し神を敬い、刑を緩くし徳を修めて対処するべきでございます。」
 苻生は怒り、強平の頭に鑿で穴を開けて殺した。強平は皇太后の弟だったので、黄眉、苻飛、建節将軍登きょう等が、叩頭して固く諫めたが、苻生は聞かなかった。それどころか、黄眉は左馮翊へ、飛は右扶風へ、登きょうは咸陽へ流した。彼等の驍勇を惜しんだから、殺さなかったのだ。
 五月、強太后が、憂いの余り卒した。諡は明徳。
 六月、生が下詔した。
「朕は、皇天の命を受けて万邦に君臨した。嗣統以来、なんの不善もないのに、誹謗する声が天下に満ちている。殺した者は千人もいないのに、これを残虐という!寛大に処して悪言がやまぬのなら、厳罰に処するしかない!」
 去年の春以来、潼関の西から長安へ至るまで、虎狼の害が多かった。昼は街道に暴れ、夜は家屋を襲う。連中は六畜を狙わずに、ただ人間ばかり喰らい、凡そ七百人が被害にあった。民はおちおち農事もできず、一つの家に合い集まって暮らしたが、被害に遭う者は後を絶たなかった。
 七月、群臣がこの件について上奏したが、生は言った。
「餓えた野獣は人を襲うが、飽食したら止むものだ。何で気にすることがある!それに、天は人を愛するものだ。定めし悪人が多すぎるから、朕の代わりに天誅を下してくれておるのだろうよ。」

 升平元年(357年)二月、苻生は、大魚が蒲を食べる夢を見た。苻氏のもともとの名字が蒲だったので、苻生は気分を害した。
 ちょうどその頃、長安で歌が流行った。
「東海の大魚が龍となる。男はみんな王になり、女もみんな公になる。」
 苻生は、太師・録尚書事の魚遵を、七人の息子や十人の孫ともども誅殺した。
 金紫光禄大夫の牛夷は懼れ、荊州へ行くことを求めたが、苻生は許さず、中軍将軍に任命した。その任命式にて、苻生が「魚公の爵位を公へ与えよう。」と言った為、牛夷は益々懼れ、自宅に帰って自殺した。
 苻生は、昼夜の区別無く酒を飲み、あるいは一月以上も朝廷へ顔を出さなかった。
 奏上された事を酔っぱらったまま決裁することもあった。左右の臣下は、それにかこつけてやりたい放題。賞罰に明確な帰順など全然なかった。
 ある時は、申酉の刻(夕方六時頃)になってようやく朝廷へ顔を出し、酔いに任せて大勢の臣下を殺戮した。
 又、彼は眇だったので、「残、缺、偏、隻、少、無、不具」の文字を使ってはならぬと厳命した。うっかりこの文字を使って誅殺された官吏は、数え切れないほどだった。面の皮を剥いだ人間に歌や踊りをさせて大喜びすることもあった。
 ある時、生は左右へ尋ねた。
「吾のことを、庶民は何と言っておるかな?」
「聖明な主君のおかげで、賞罰は的を得ており、庶民は泰平を謳歌しております。」
 すると、苻生は怒った。
「媚びへつらうか!」
 たちどころに引き出すと、斬り殺した。
 他日、同じ質問をしたところ、その時の臣下は答えた。
「陛下の刑罰は、少し厳しすぎると言っております。」
 それでも、苻生は怒るのだった。
「我を誹謗するか!」
 その臣下も斬り殺された。
 勲臣、旧臣、親戚の大半は誅殺された。群臣は、一日過ごすことが、十年にも感じられた。

 東海王苻堅は、もともと名望があり、故の姚襄の参軍の薛譖、権翼と仲が善かった。その、薛譖と権翼が、密かに苻堅に説いた。
「主上は暴虐で猜疑心が強く、中外から愛想を尽かされています。秦祀を受け継ぐのは、殿下以外に誰がおりましょうか!どうかお早めに決断を。この国を、他家の者に奪われてはなりません。」
 そこで、苻堅は尚書の呂婆桜に尋ねた。すると、呂婆桜は言った。
「僕はいつ殺されるか判らない人間で、大事を共謀するには役不足でしょう。ただ、僕の同郷に王猛とゆう男が居ます。彼の謀略は天下一。殿下は、彼に諮問なさって下さい。」
 そこで、呂婆桜へ、王猛を呼び出して貰った。苻堅は一見して王猛を気に入り、時事を語るに及んで大いに悦び、自ら言った。
「劉玄徳が諸葛孔明を手に入れたようなものだ。」

 六月、太史令の康権が苻生へ言った。
「天文が異常です。それに、先月上旬から雲がたれ込めているのに、未だに雨が降りません。これはきっと、誰かが簒奪を企んでいるのでしょう。」
 苻生は怒り、妖言を吐いたと言い立てて、康権を殴り殺した。

 特進・領御史中丞の梁平老等が苻堅に言った。
「主上が徳を失い、上下囂々。人々は造反を考え、燕も東晋も隙を窺っております。禍が起これば、家も国も滅びます。どうか殿下、早く決起されて下さい。」
 苻堅は心で頷きながら、苻生の蛮勇に恐れを為してなかなか決行しなかった。
 ある夜、苻生が婢へ言った。
「阿法の兄弟も信用できん。明日にでも殺すか。」
 婢は、それを苻堅と苻堅の兄の清河王苻法へ密告した。
 苻法は、梁平老及び特進光禄大夫の強汪と共に壮士数百人を率いて雲龍門へ潜入した。苻堅は、呂婆桜と共に麾下の兵卒三百人を率い、軍鼓を鳴らして進軍した。すると、宿衛の将士は、皆、苻堅のもとへ集まってきた。
 苻堅の兵卒は、苻生の部屋へ乱入し、まだ酔っていた苻生を捕らえて別室へ引き出した。彼を廃して越王とし、次いで、殺した。「れい王」と諡する。
 苻堅は、帝位を苻法へ譲ったが、苻法は言った。
「お前は嫡子だし、賢人だ。お前が立つべきだ。」
「いえ、兄上が年長。立つべきです。」
 すると、苻堅の母の苟氏が、涙を流して群臣へ言った。
「社稷は重大なことです。その人選に誤りがあれば、他日、禍は諸君の身にも降りかかるのですよ。」
 群臣は皆、頓首して苻堅へ立つよう請うた。
 苻堅は皇帝号を撤廃し、大秦天王と称し、太極殿にて即位した。趙韶・菫栄を始めとする苻生の寵臣達二十余人を誅殺してから大赦を下し、「永興」と改元する。
 父の苻雄を文桓皇帝と追尊し、母の苟氏を皇太后、妃の苟氏を皇后、世子の苻宏を皇太子とする。清河王苻法は、都督中外諸軍事、丞相、録尚書事、東海公とし、諸王は皆、降爵して公とする。
 左僕射は李威、右僕射は梁平老。強汪を領軍将軍、呂婆桜を司隷校尉、王猛を中書侍郎とする。
 弟の苻融を陽平公とした。彼は文学を好み、雄弁で記憶力に優れ、百人力で騎射が巧かった。苻堅は彼を重んじ、国事は常に彼と共に議した。
 苻堅の息子の苻丕を長楽公とする。彼にもまた文武の才能があり、裁断が巧く、融に似ていた。
 李威は苟太后の姑の息子で、もともと苻雄と仲が善かった。苻生は、苻堅を屡々殺そうとしたが、その度に李威が庇っていた。李威は王猛が賢人であると見抜き、彼を国事へ参与させるよう、常に苻堅へ進言した。
 苻堅は王猛へ言った。
「李公が君を知っているのは、まるで官仲を知る鮑叔牙のようだな。」
 そこで、王猛は、李威を兄のように敬った。

 八月、薛譖を中書侍郎、権翼を給事黄門侍郎に任命し、王猛と共に国家機密に参与させた。
 九月、魚遵の名誉を回復し、太師の礼で改葬する。まだ生きている子孫は、才能に従って抜擢した。

 十一月、苟太后が宣明台で遊んだ時、苻法の官舎に馬車が出入りするのを見て、後々、苻堅の禍になると考えた。そこで李威と共謀して苻法へ死を賜った。
 苻堅は、東堂にて苻法と別れた。この時、苻堅は慟哭の余り吐血した。
 苻法へ「献哀公」と諡する。息子の苻陽を東海公へ、苻敷を清河公へ封じる。

 十二月、苻堅は尚書へ行き、文案が拙いとして、左丞の程卓を罷免し、王猛を後がまに据えた。
 苻堅は人材を登用し、農桑を奨励し、貧困者を救い、百神を敬い、学校を建て、世俗へ節義を提唱したので、秦の民は大いに悦んだ。