苻秦、涼を滅ぼす。

 

 関中に苻氏が基盤を築いた。後趙の西中郎将王擢は、隴上に砦を築いたが苻雄に撃破され、涼へ逃げ込んだ。張重華は、彼を寵遇し、征虜将軍・秦州刺史とする。
 晋の穆帝の永和九年(353年)二月。張重華は、張弘・宋修に一万五千の兵卒を与えて秦を討伐させた。
 秦では、苻雄と苻菁が迎撃し、涼軍を大いに破る。一万二千の首級を挙げ、張弘・宋修を捕らえた。王擢は秦州を棄て、姑蔵へ逃げた。
 苻健は、領軍将軍苻願を秦州刺史とした。
 張重華は、この敗戦を悼み、戦没者の為に喪服を着、朝臣と共に哀哭した。又、戦死者の家には使者を派遣し、弔問する。
 五月、張重華は、王擢に二万の兵を与え、上圭を攻撃させた。秦州では、多くの郡県がこれに呼応し、苻願は敗れて長安へ逃げた。
 張重華は、この戦勝を東晋朝廷へ報告した。東晋朝廷は、張重華を涼州牧に任命した。

 十月、張重華が重病になった。子息の張曜霊は、わずか十歳だったが、彼を世子に立てて、境内へ大赦を下した。
 さて、張重華の従兄弟の長寧候祚は、武力があり、外面が良かった。趙長と尉緝は、張重華に諂って女酒を奨める嬖臣だったが、張祚は彼等とよしみを結んだ。
 都尉の常據は、張祚の人柄を見抜き、彼を地方へ飛ばすよう張重華へ請うたが、張重華は言った。
「幼い我が子の為に、あれを周公とも恃んでおるのに、お前は何とゆうことを言うのだ!」
 涼には、名将の謝艾が居た(「張氏、涼に據る」参照)。その功績は絶大で、張重華は大いに寵遇していた。側近達はこれを疎ましく思い、こぞって讒言したので、遂に、謝艾は酒泉太守として下向させられてしまった。
 謝艾は、張重華へ上疎した。
「権臣、倖臣が幅を利かせており、公室の危機でございます。何とぞ都へ戻して下さい。」 且つ、言った。
「長寧候祚と趙長には油断できません。追放するべきでございます。」
 十一月、張重華の病はいよいよ篤くなった。そこで、謝艾を衛将軍、監中外諸軍事に任命し、輔政とするよう自ら勅書をしたためた。しかし、張祚と趙長がこれを隠蔽し、遂に発表しなかった。

 丁卯、張重華が卒した。世子の張曜霊が立ち、大司馬、涼州刺史、西平公を称する。
 趙長等は張重華の遺詔と言い立てて、張祚を都督中外諸軍事、撫軍大将軍、輔政とした。
 十二月、右長史の趙長が建議した。
「艱難の時節は未だ続いております。このような時には、年長の主君を立てるべきなのに、張曜霊は余りにも幼い。どうか長寧候祚を立てて下さい。」
 張祚は、張重華の母親の馬氏から寵愛されていたので、馬氏はこれを許諾した。張曜霊を廃して涼寧候とし、張祚を大都督、大将軍、涼州牧、涼公とする。
 野望を達した張祚は、恣に淫虐に耽り、張重華の妃の裴氏と謝艾を殺した。

 十年、正月。張祚は涼王を自称した。年号も、建興四十二年を改め、和平元年とする。
 妻の辛氏を王后、息子の張太和を太子とする。弟の張天錫を長寧候、子の張庭堅を建康候、張曜霊の弟の張玄静を涼武候に封じる。百官を置き、天地を祀り、天子の礼楽を用いた。
 尚書の馬岌が切に諫めたので、それを罰して罷免した。
 それでも、郎中の丁其が諫めた。
「我々は武公(張軌)以来五十余年間、代々忠節を守り、謙譲の美徳を全うしてきた(晋室を推戴して、王と名乗らなかった)。だから、たかが一州の軍隊で挙世の蛮族と戦い、連年戦争に明け暮れて来たにも関わらず、我が民は弱音を吐かなかったのだ。
 今、殿下の勲徳は、未だ先代ほど高くはないのに、はやばやと王を名乗っている。何でそれが許されようか。我が民が主君の命令に従い、四方の民が我等に呼応してくれたのは、ひとえに我等が晋室を推戴していたからなのだ。
 今、殿下は王と自称した。これによって中外の心が離れてしまう。そうなれば、この片隅の領土で、どうやって天下の強敵と戦えようか!」
 張祚は激怒し、闕下にて斬り殺した。

 張祚は淫虐無道。上下は怨み憤った。
 十一年、七月。河州刺史の張灌の兵力が強大だったので、張祚はこれを疎ましがり、張掖太守の策孚を河州刺史に任命し、張灌は造反した胡族の討伐に駆り出した。更に、麾下の将軍易揣と張玲に、張灌攻撃を命じた。
 王鸞とゆう占い師が張祚へ言った。
「この軍が出陣すれば、生きて帰れません。そればかりか、涼国の危機となります。」
 そして、三つの不道を陳情した。
 張祚は激怒し、「妖言を吐く」と言い立てて、王鸞を斬った。
 刑に臨んで、王鸞は言った。
「我が死ねば、外では軍が敗れ、内では王が死ぬ。間違いない。」
 張祚は、王鸞の一族を全員誅殺した。
 これを聞いた張灌は、孚を斬り、張祚攻撃の為に挙兵して、州郡に檄を飛ばした。
張祚を廃し、涼寧候曜霊を復位させよう。」と。
 張灌は、易揣・張玲軍が渡河した時を見計らって攻撃し、これを撃破する。 易揣等は、単騎で逃げ帰った。張灌軍はこれを追撃し、姑蔵はパニックとなった。
 驃騎将軍宋混の兄の宋修は、もともと張祚から睨まれていた。しかも、張灌軍の来寇で、禍に巻き込まれるかと懼れた。
 八月、宋混と、弟の宋澄は西へ逃げ、万余の兵をかき集めて張灌に呼応し、姑蔵へ向かった。
 張祚は、張曜霊を引き出すと、殺して埋めた。張曜霊は、哀公と諡された。
 九月、宋混は、武始に屯営し、張曜霊の為に喪を発した。
 閏月、宋混軍は姑蔵へ迫った。張祚は、張灌の弟の張居と息子の張崇を収容して殺そうとした。しかし、いち早くその情報をキャッチした張居と張崇は、数百人の市民を雇って宣言した。
「無道なる張祚を討伐する為、我が兄の大軍が城東へ迫っている!我が軍に逆らう者は、三族を誅殺するぞ!」
 そしてそのまま西門へ赴いて城門を開け、宋混軍を迎え入れた。
 罰されることを懼れた趙長等は、閣へ入ると馬氏を呼び、涼武候の張玄静を立てて王とした。しかし、易揣等が兵を率いて入殿し、趙長等を捕らえて殺した。
 張祚は、殿上にて剣を振りかざし、力戦するよう左右を怒鳴りつけた。しかし、張祚は既に人心を失っており、その気になって奮戦する兵卒など一人もいない。遂に、張祚は、名もない兵卒達から殺されてしまった。
 宋混は、張祚を梟首し、その屍は道端に曝した。城内の皆が万歳と唱えた。やがて、庶民の礼法で張祚を葬り、二人の子供も処刑した。
 宋混と宋居は、張玄静を立てて大将軍、涼州牧、西平公として境内へ大赦を下した。又、建興の年号を復活し、建興四十三年とする。
 姑蔵へやって来た張灌は、張玄静を立てて涼王とし、自身は、使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公となる。又、宋混を尚書僕射とした。

 隴西の李儼は、張灌の命令に従わず、東晋の年号(永和)を使用した。彼のもとへは、大勢の民が集まった。
 張灌は、李儼討伐の為に、麾下の将軍牛覇を派遣した。しかし、その軍が隴西へ到着する前に、西平にて、衛林が郡を占拠して造反した。牛覇の軍は壊滅して、姑蔵へ帰った。
 酒泉太守の馬基も又、衛林に呼応して造反した。これに対して張灌は、司馬の張姚と王國を派遣した。両名は、馬基を檄撃破して、斬った。

 十二年、正月。秦の征東大将軍・晋王柳が、参軍の閻負と梁殊を使者として涼へ派遣し、涼王張玄静へ親書を渡した。
 閻負と梁殊が姑蔵へ着くと、張灌が彼等を謁見して言った。
「我は晋の臣下である。敵国と交わる気はない。二君は何をしに来たのか?」
 すると、閻負と梁殊は言った。
「晋王の領土は貴公方と隣接しております。山河に隔てられているとはいえ、風はスースーと通り抜けております。それ故、好を修めようと参りました。何を怪しむことがありましょうか!」
「修好?我が家は、六代に亘って晋室へ忠誠を尽くし続けた家柄だ。もしも苻征東と修好すれば、上は先祖の志に背き、下は士民を裏切ることになる。そんなことが何でできようか!」
「しかし、晋室が衰微し、天命を失ってから久しゅうございます。ですから涼の二王は両趙の臣下となりました(張茂は前趙の藩と称し、張駿は後趙の藩と称した)が、それは天下の大勢を知っていたからです。
 今、大秦の威徳はまさに盛り。涼王がもしも河右地方の皇帝になろうとしても、とても秦には敵いますまい。小国として大国に仕えたいのなら、晋を見捨て我が秦の麾下へ入るべきです。そうすれば、長く福禄を保てましょう。」
「中州の人間は偽りが多い。先にも石氏が来寇したことがある。とても心は許せんな。」
「『中州を支配した帝王』と一括りになさいますな。その政策はそれぞれに違います。趙は確かに姦詐を本分としておりましたが、我が秦は違います。我が国は信義を持って旨としておるのです。
 先だっても、張先や楊初が帰属を拒みましたので先帝陛下がこれを討伐して捕らえました。しかし先帝は、彼等の罪を赦し、爵禄を与えて両名を寵遇いたしました。これを見ても、我等が石氏とは違うことがお判りでしょう。」
「もしも秦が、君の言うような無敵の大国ならば、何で江南を攻略しないのかね?あそこを併呑したなら、名実ともに中国の支配者。征東などする必要もあるまいて。」
「江南?あそこは入れ墨をした野蛮人の住む所。(いつの時代の話をしている!そりゃ戦国時代の楚の話だろうが!)相手が野蛮人なら、力ずくで制圧してから教化しなければなりません。しかし、この国の人々は節義をわきまえておられましょう?
 江南は力ずくで征服し、河右は義で懐ける。これが我が君の方針です。
 貴公がもしも天命に背いて我が国と戦うのなら、江南はその寿命を数年程延ばせましょうが、河右は貴公のものでは無くなりましょう。」
「我が領土は三州に跨り、武装兵は十万を越す。西は葱嶺から東は大河まで征服した相手は数知れず。それが我が身一つ守れないと言うのか!秦なぞ誰が恐れるか!」
「貴州に山河の固があると言っても、函とどちらが険阻ですか?物資の豊富さでは、秦やようとどちらが上でしょうか?杜洪と張居は趙氏の威勢を借りて関中を制圧し、四海を席巻しようとしましたが、先帝が西へ動くと、たちまちに雲散霧消してしまいました。
 もしも貴州が我が国に服従しなければ、我が主は赫然として怒りを発し、百万の兵を発動して軍鼓を鳴らして西征するでしょう。そうすれば、貴州はどうなるでしょうか?」
 すると、張灌は笑った。
「それは主人が決めること。私にそこまでの権限はありません。」
「いえいえ、いくら涼王に英武の資質があろうとも、未だ幼年。貴公は伊尹や霍光の地位にあります。国家の安危は、ひとえに貴公の一挙にかかっておりますぞ。」
 張灌は懼れ、張玄静へ命じて秦の藩と称させた。秦は張玄静へ爵位を授けた。

 張灌は、猜疑心が強く残虐な人間で、賞罰はすべて愛憎で行った。郎中の殷旬が諫めたら、張灌は言った
「虎は生まれて三日で肉を食べる。誰から教えられたわけでもない。」
 これによって、臣下から敬遠された。
 輔国将軍の宋混は忠硬な性格だったので、張灌はこれを憚り、宋混と、その弟の宋澄を殺し、張玄静を廃立して自分が王になろうと考えた。
 升平三年(359年)。張灌は数万の兵を姑蔵に集めた。
 これを知った宋混は、宋澄と共に壮士四十余人を率いて南城へ入ると、諸営へ宣言した。
「張灌が造反を謀てたので、太后の命令により、彼を誅する。」
 たちまちにして二千余の兵卒が駆けつけた。
 張灌は戦いを挑んだが、宋混に撃破された。この戦いの最中、張灌麾下の玄臚とゆう武将が宋混を刺したが、その刀は鎧を貫けなかった。宋混は彼を捕らえ、張灌の部下は全て降伏した。
 張灌と、弟の張居は自殺した。宋混は、彼等の一族を全員処刑した。
 張玄静は、宋混を使持節・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・酒泉郡候と為し、張灌に代わって輔政とした。
 宋混は、涼王の称号を撤去して涼州牧へ戻るよう、張玄静へ請願した。
 又、宋混が玄臚へ言った。
「今、私が輔政となった。さだめし卿は怖ろしかろう?」
 すると、玄臚は言った。
「張灌殿には恩義がある。節下を刺した時、傷つけられなかったのが悔しいだけだ。何で懼れたりするものか!」
 宋混は大いに気に入り、玄臚を腹心とした。

 五年、四月。宋混が重症に陥った。張玄静と馬氏は自ら見舞いに出かけ、言った。
「将軍の身に万一のことがあったら、この孤児と寡婦は誰を頼めばよいのだろう!林宗を将軍の後継者とすればよいだろうか?」
「我が子の林宗は、まだ若く、その大任には耐えられますまい。もしも殿下が、我が一門をお見捨てにならないのでしたら、弟の澄へ政治を任せられて下さい。奴は儒学者ですから、迂遠なところがありますので、殿下が彼の尻を叩けばよいでしょう。」
 宋混は、宋澄や一門の者達へ言った。
「我が家は、国家の大恩を受けた。命に懸けてもこれに報いよ。権勢を恃んで心を傲らせてはならぬぞ!」
 又、朝臣達へは、忠貞を旨とするよう戒めた。
 宋混が卒するに及んで、道行く者も涕泣した。
 張玄静は、宋澄を領軍将軍、輔政とした。

 九月、右司馬の張邑は、宋澄が政治を執っているのが気に入らず、起兵して宋澄を攻め、これを殺した。そして、宋氏一族を誅滅する。
 張玄静は、張邑を中護軍とし、叔父の張天錫を中領軍とし、この二人を輔政とした。
 張邑は傲慢で放埒な人間だった。輔政となってからは、徒党を樹てて政治を専断し、大勢の人間を処刑したので、士人はこれを患った。
 さて、敦煌に劉粛とゆう男が居た。彼は張天錫の親友である。ある時、彼は張天錫へ言った。
「この国は乱れる!」
「何故かね?」
「中護軍だ。奴のやっている事は、簒奪前の長寧候張祚にそっくりではないか。」
 張天錫は驚いて言った。
「こら、滅多なことを言うもんじゃない。俺も疑惑は持っていたが、口にできなかったのだ。それとも、何か打つ手があるのか?」
「殺すしかない。」
「刺客?だが、できる男が居るかな?」
「ここに居る!」
 その時、劉粛は、未だ二十歳にも満たなかった。
「お前はまだ若い。誰か手助けが要るか?」
「趙白駒が手伝ってくれれば、それで十分だ。」
 十一月。張天錫と張邑が、共に入朝した。この時、劉粛と趙白駒が、張天錫に従っていた。隙を見て、劉粛が張邑へ斬りかかったが、逃げられた。趙白駒がこれに続いて襲いかかったが、勝てない。二人は張天錫と共に宮中へ入り、張邑は脱出できた。
 脱出した張邑は、武装兵三百人を率いて宮門を攻撃した。これに対して張天錫は、屋へ登って怒鳴りつけた。
「張邑は凶逆無道。既に宋氏を滅ぼし、更に我が家を滅ぼそうと企んでいる。汝等将士は代々涼の恩顧を蒙った臣下達ではないか。何でここを攻めることができるのか!
 今、誅殺するのは、張邑一人。他の者は咎めないぞ。」
 それを聞いて、張邑の兵卒は逃散した。張邑は自刎し、その家族は全員誅殺された。
 張玄静は、張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事・輔政とした。

 十二月、建興四十九年を改め、升平の五年とした。涼も、東晋の正朔を奉じたのだ。
 東晋朝廷は詔を下し、張玄静を大都督・督隴右諸軍事・涼州刺史・護きょう校尉・西平公とした。

 哀帝の興寧元年(363年)、八月。馬氏が卒した。庶母の郭氏を尊んで太妃とする。
 さて、張邑を殺してから、張天錫が政治を専断していた。郭氏はこれを憎み、大臣の張欽等と共に張天錫誅殺の陰謀を巡らせていた。しかし、この計画が漏洩し、張欽等は、皆、殺されてしまった。
 張玄静は懼れ、位を張天錫へ譲ったが、張天錫は受けなかった。
 右将軍劉粛等は、張天錫へ自立を勧めた。
 閏月、張天錫の命令を受けた劉粛等が兵を率いて入宮し、張玄静を弑逆した。
 張天錫は、「主君が俄に卒した」と宣言し、「沖公」と諡した。そして、自身は、使持節・大都督・大将軍・涼州牧・西平公と自称した。母親の劉美人を太妃とする。
 江東へ使者を派遣して、東晋朝廷へこの事件を報告した。

 二年、六月。秦王苻堅は、張天錫を大将軍・涼州牧・西平公へ任命した。

 海西公の太和元年(366年)、十月。張天錫は、秦へ使者を派遣し、国交の断絶を告げた。

 さて、話は遡るが、隴西の李儼は、郡ごと秦の傘下に入っていたが、その後、張天錫と好を通じた。
 十二月、斂岐が略陽の四千家を率いて秦に造反し、李儼の臣下と称した。そこで李儼は、牧や守を設置して、秦・涼と国交を断った。
 二年、二月。秦は輔国将軍王猛、隴西太守姜衡、南安太守召きょう、揚武将軍姚萇に一万七千を与えて、斂岐討伐軍を起こした。
 三月、張天錫が自ら兵を挙げ、李儼攻撃に向かった。
 さて、斂岐の部落は、もともと姚弋仲の配下だった。今回、姚萇が討伐に来ると聞き、彼等は皆、秦へ降伏した。王猛は略陽を占領し、斂岐は白馬へ逃げた。
 苻堅は、姚萇を隴東太守に任命した。
 四月、張天錫は李儼を攻撃し、大夏・武始の二郡を落とした。更に、涼の別働隊を率いる掌據が、李儼の軍を撃破。張天錫は左南まで進軍した。
 李儼は懼れ、枹罕まで退いた。そして、甥の李純を派遣して、秦へ謝罪し、救援を請うた。苻堅は、前将軍楊安と建威将軍王撫に二万の兵を与えて派遣し、王猛と合流させた。
 王猛は各地に兵を派遣して守備を固めさせた上で、楊安と共に罕救援に向かった。張天錫は迎撃したが、王猛はこれを大いに破った。涼軍は、戦死者・降伏した兵を合わせて一万七千の打撃を受けた。
 それでも、両軍はしばらく対峙した。やがて召きょうが白馬の斂岐を捕らえると、王猛は張天錫へ書状を渡した。
「吾が受けた詔は李儼救援であり、涼州との交戦ではない。今、掘を深く掘り、塁を高く積んで防備を固め、後の詔を待っている最中である。しかし、こうやって長い間睨み合っていても、互いに疲弊するだけで、良策ではない。もしも将軍が退却なさるなら、私は李儼のもとへ赴こう。将軍は無事に帰れるわけだし、それが最良ではないか!」
 これを読んだ張天錫は、諸将へ言った。
「このような提案が来ている。そもそも、我々は造反した李儼を討伐に来たのであって、秦と戦いに来たわけではないのだ。」
 こうして張天錫は引き上げた。
 張天錫が西へ帰った時、李儼麾下の将軍賀純が、李儼へ言った。
「明公は神武で将士は驍勇。それなのに、どうしてオメオメと他人の下に就かなければならぬのですか!王猛は遠征軍で、既に孤立しております。将兵は疲労しているでしょうし、我等の要請で出陣したこと故、油断しているでしょう。今、奴等を攻撃すれば、自立が叶います。」
「危機に陥ったので、救援を求めて助けて貰ったのだ。それが、窮地を脱すればたちまちに牙を剥く。それでは天下から何と言われるか!奴等も、いつまでも留まっては居るまい。退却するのを待つべきである。」
 李儼が秦軍を迎え入れなかったので、王猛は、従者数十人を率いて李儼へ会見を申し込んだ。李儼が枹罕城の城門を開けると、彼等は忽ち躍り込み、李儼を捕らえた。こうして王猛は枹罕を占領した。そして、立忠将軍の彭越を涼州刺史とし、枹罕を鎮守させた。
 王猛は、李儼の出迎えが遅かった件を詰ると、李儼は賀純の陰謀を告げた。そこで王猛は、賀純を斬り、李儼を連行した。
 長安へ着くと、苻堅は、李儼を光禄勲と為し、帰安候の爵位を与えた。

 簡文帝の感安元年(371年)。苻堅の命令で、王猛が張天錫へ書をよこした。
「昔、貴国は、劉氏や石氏の藩と称したが、これは国力の大小を考えての処置だった。今、涼の国力を考えるなら、往年ほどの勢力はない。そして大秦の徳は、二趙の比ではない。にも関わらず、将軍は国交を断絶したままだ。これは宗廟の為の正しい選択ではない。
 秦の国力を以てするならば、川の水を逆流させることさえ造作ない。関東は既に平定した。この軍を河右へ移動すれば、六郡の兵卒では支えきれまい。それでも、かつて劉表が『漢南に割拠できる』と言ったように、将軍も『河西に割拠できる』と言われるのか?
 吉凶は元亀が招くものではなく、行動の結果が形作るものだ。だから、宜しく深算妙熟し、自ら多福を求めよ。六世の成果を一朝で台無しにするような真似を行うではないぞ!」
 張天錫は大いに懼れ、使者を派遣して秦へ謝罪し、「藩国」と称した。苻堅は、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史・西平公と為した。

 十二月。秦は、河州刺史の李弁を枹罕へ派遣し、金城を修復させた。
 それを聞いた張天錫は、涼討伐の準備と考え、大いに懼れた。そこで、彼は東晋との好を強めようと、使者を派遣し、明年の夏、桓温と上圭にて会見するよう求めた。

 さて、張天錫が張邑を殺した時、劉粛と梁景が殊勲を建てた。それによってこの二人は寵用され、「張氏」の姓を賜って、国政に預かった。
 張天錫は、酒色に溺れ、政治を顧みなかった。又、世子の張大懐を廃嫡し、庶子の張大豫を世継ぎとしたので、人情が憤怒した。従兄弟の従事郎中張憲が切に諫めたが聞かない。

 武帝の太元元年(376年)、苻堅が詔を下した。
「張天錫は、藩と称して位を受けたが、彼の臣道には欠けるところがある。苟萇、毛盛、梁煕、姚萇等は、西河へ出兵せよ。そして、閻負、梁殊は詔を奉じて、張天錫を入朝させよ。もしも張天錫が命令に背いたら、即座に進撃して涼を討て。」
 動員した兵力は十三万。更に、秦州・河州・涼州の刺史を動員し、三州の兵力を後続とした。
 七月、閻負と梁殊が姑蔵へ着いた。張天錫は官属へ言った。
「今回入朝したら、二度と帰って来れまい。しかし、拒むと大軍が襲撃する。どうすれば良いだろうか?」
 すると、禁中録事の席傷が言った。
「まず、ご子息を人質とし、珍宝奇財を厚く贈り、敵兵へ退却して貰いましょう。そして其の後、徐々に計略を施せば宜しゅうございます。これが即ち、『屈伸の術』でございます。」
 すると、衆人は、皆、激怒した。
「我が国は歴代晋朝へ仕え、その忠節は海内に鳴り響いている。今、一旦賊庭に身を委ねたら、その辱は祖宗にまで及ぶ。これ以上の醜聞があろうか!それに、河西は天険の地。百年に亘って外敵を阻んできたのだ。領内の兵卒を総動員し、西域を招き匈奴を引き入れれば、必ず勝てる!」
 張天錫は、衣を翻して叫んだ。
「孤の方針は決まった!降伏を口にする者は斬る!」
 そして、閻負・梁殊へ言った。
「お前達は生きて帰りたいか?それとも死んで帰りたいか?」
 だが、梁殊は屈服せずに言い返した。張天錫は怒り、二人を軍門に縛り付けると、兵卒へ射撃するよう命じた。
「はずす者は、我が同士ではない!」
 母親の厳氏は泣いた。
「秦主は、一州の領土で天下を制圧しました。東は鮮卑を平らげ、南は巴・蜀を取り、それでも、その軍は留まることを知らないのだよ。お前がもしも降伏したなら、まだ数年は持ちこたえるでしょう。それなのに、この片田舎の国力で、大国相手に喧嘩する。その上、使者まで殺してしまった。ああ、明日にでも国が滅びます!」
 張天錫は、龍驤将軍馬建へ二万の兵を与えて、秦を防がせた。
 二人の使者が殺されたニュースは、秦へも伝わった。
 八月、梁煕、姚萇、王統、李弁が清石津から河を渡り、河会城を攻めた。ここを守るのは、涼の驍烈将軍梁済。彼は、秦へ降伏した。
 甲申、苟萇は石城津から渡河した。そして梁煕と合流し、纒縮城を攻撃。これを抜いた。馬建は懼れ、清塞まで退いた。
 張天錫は、征東将軍掌據へ三万の軍を与えて洪池へ派遣し、自身は五万の軍勢で金昌城へ出向いた。
 安西将軍の宋皓が張天錫へ言った。
「昼間は人事を見、夜は天文を見て占いましたが、秦軍にはとても敵いません。降伏するのが一番です。」
 張天錫は怒り、皓を宣威護軍へ格下げした。
 廣武太守の辛章が言った。
「馬建の出陣は、国家の為になりません。」
苟萇は姚萇へ武装兵三千を与えて先鋒とした。
 庚寅、馬建は、一万の兵卒を率いて秦へ降伏した。他の涼兵は、逃散した。
 辛卯、苟萇は洪池の掌據と戦い、これを撃破。敗戦の混乱の最中、掌據は言った。
「吾は督諸軍となること三度、節鉞を二度預かった。恩寵を極めたと言えよう。だが、武運拙く、遂にこの羽目に陥った。こここそが我が死に場所だ!」
 かくして兜を脱ぐと、西へ向かって稽首し、剣の上に突っ伏して死んだ。
 この戦争で、秦軍は、涼軍の軍司席傷も殺した。
 癸巳、秦軍は清塞へ入った。張天錫は司兵の趙充哲を派遣して防戦させた。秦兵は、赤岸にて趙充哲と戦い、これを撃破。捕虜・戦死者は合計三万八千。趙充哲は戦死した。
 張天錫は、自ら城を出て戦った。すると、留守中の城で造反が起こった。張天錫は、数千騎を率いて姑藏へ逃げ帰った。
 甲午、秦軍が姑藏まで進軍すると、張天錫は、自らを縛り上げ、降伏した。苟萇はそのいましめを説き、張天錫を長安へ送った。
 涼州の郡県は、すっかり全部、秦へ降伏した。
 九月、苻堅は梁煕を涼州刺史に任命し、姑蔵を鎮守させた。
 七千余りの豪族を関中へ移住させたが、その他については、旧来の生活を安堵させた。張天錫は帰義候とし、北部尚書に任命した。
 当初、秦軍は出陣に先立って、張天錫の為に新しい邸宅を造っておいた。そして予定通り、張天錫はその邸宅に住むこととなった。
 涼の臣下については、才覚に従って地位役職を与えられた。

(訳者、曰)

 暴虐なる石虎は、中原を制覇し、その余勢を駆って西辺へ攻め込んだ。涼は大いに鳴動し、涼主張重華は人を求め、臣下張耽は人を推し、こうして謝艾が抜擢されたのである。
 ああ、謝艾。名将とはかくの如きか。
 十倍の敵に臆せず、寡を駆って衆を撃つ。戦場に於いては四輪車に乗り、悠然として采配する。その自若たる有様は、部下の心を奮わせ、敵兵を浮き足立たせた。
 張耽は、人を見るに明なり。張重華は、人を擢するに断たり。そして謝艾、これに応えて能たり。むべなるかな涼の弱を以て趙の強を防ぐこと。一州を以て九州を支配した石虎が、九州を挙げて一州に阻まれる。
 惜しむべし、艱難にあって堅き人の心の、安閑にあって弱きこと。石虎を撃退した張重華は安逸に流れ、佞人達を跋扈さす。一人の謝艾、いずくんぞ取り巻きの多きに勝てんや。かくして、涼に簒奪起こる。
 この時に当たって、謝艾は何を為せしや?
 その智、一身を守るに足らざるか?その勇、乱を起こすに足ざるか?
 然らず。名将には智あり、勇あり。そして断あり。
 されば、何ぞ手を束ねて死を甘受せしや?ああ、国を思うの情に惹かれ、身を殺して内乱を避けしや?
 知らず。西辺の小国にて、散逸多く、史書は黙して語らない。
 かかる名将が死するに臨んで、史書は告げる。「張祚、謝艾を殺す。」と。
 それ、人は想いを抱えて事を起こす。そして、後の人は事を見てその想いを知る。だからこそ、事跡が散逸するに及んで、その想いも闇に消えたのである。
 哀しい哉。