苻秦、燕を滅ぼす。

 

 晋の穆帝の永和九年(353年)、二月。燕王慕容儁は、妃の可足渾氏を皇后に立て、世子の慕容曄を皇太子とした。又、龍城から薊宮へ遷都した。

 十年、四月。慕容儁は、冀州刺史の呉王慕容覇へ信都へ移るよう命じた。
 始め、慕容光は、慕容覇の才能を奇として、彼を「覇」と名付けた。そして彼を世子にしたがったのだが、群臣が諫めたので取りやめたのである。しかしながら、他のどの子よりも寵愛していた。それ故、慕容儁は、慕容覇を憎んでいた。
 ある時、慕容覇が馬から落ちて歯を折ったので、慕容儁は、慕容覇を慕容缺と変名させた。しかし、その「缺」とゆう名前は讖文に合致していた為、「慕容垂」と変名させた。
 やがて、慕容垂は順々に出世して、龍城の鎮守を任された。ここで彼は東北の民衆から絶大な人気を得たので、慕容儁はますます憎み、召還したのである。

 十二年、七月。太子の慕容曄が死んだ。献懐太子と諡される。
 升平元年(357年)、二月。慕容儁は、中山王慕容偉(正しくは日偏)を太子に立てた。

 さて、慕容垂は、段末破の娘を娶り、令、寶の二子をもうけていた。
 段氏は、才女で苛烈な性格。自分が貴人の出であることを鼻に掛け、可足渾氏を敬わなかった。可足渾氏は、これを含んだ。慕容儁は、もともと慕容垂が不快だった。
 二年、中常侍の汢皓が、「段氏と呉国の典書令の高弼が巫蠡を行いました。」とでっち上げた。これによって慕容垂も連座させようとゆうのである。
 慕容儁は、段氏と高弼を捕らえ、獄吏に糾明させたが、二人とも毅然としていて自白しない。拷問が益々厳しくなるので、慕容垂はこれを憐れみ、密かに伝えた。
「人は皆、どうせ死ぬのだ。そんな苦しみに耐えるくらいなら、いっそ虚偽の自白をした方が、楽になれるではないか。」
 すると、段氏は嘆いて言った。
「私は命が惜しいのではありません。巫蠡を行ったと言えば、先祖の名を辱め、王にまで累が及びます。私には絶対できません!」
 弁明は益々明確だった。それ故、慕容垂は連座を免れたのだ。
 段氏は獄中で死んだ。慕容垂は平州刺史となり、遼東の鎮守を命じられた。
 慕容垂は、段氏の妹を側室に入れた。しかし、可足渾氏はこれを退け、自分の妹の長安君を慕容垂の妻とさせた。慕容垂は悦ばず、これにより、益々憎んだ。

 三年、二月。慕容儁は群臣を集め、蒲池にて宴会を開いた。この宴会で、周の霊王の太子晋の話題が出た。才子の晋が早死にし、次男が継いだが、そのおかげで周は没落したとゆう物語である。これを聞いて、慕容儁は涙を零した。
「才子は得難いものだ。先日景先(慕容曄)を失ってから、我が髪には白い物が交じり始めた。卿等に聞くが、景先はどんな人間だったか?」
 すると、司徒左長史の李続が言った。
「献懐太子が東宮に居られた頃、臣は中庶子でしたので、その人柄は存じ上げております。太子には八つの大徳がございました。至孝。聡敏。沈毅。阿りを嫌い直言を喜ぶ。学を好む。多芸。謙恭。施しを好む。」
「それは褒めすぎだぞ。しかし、あれが生きて居れば、わしも何の憂いもなく死ねたものを。ところで、景茂(慕容偉)はどうじゃ?」
 この時、太子の慕容偉は傍らに居たが、李続は言った。
「皇太子殿下の智恵と見識は天性の物。八徳についても、評判を聞いております。しかしながら、二つの欠点の為にその長所が台無しになっているのでございます。狩猟と音楽を好む。」
 慕容儁は、皇太子を顧みて言った。
「伯陽の言葉は良薬だ。肝に命じるが良い!」
 慕容偉は不愉快だった。

 ある時慕容儁は、石虎から肘を囓られる夢を見た。目を覚ました慕容儁は、石虎の墓を暴いて死体を掘り返すよう命じたが、墓の中に死体はなかった。そこで、百金の懸賞金を掛けて石虎の屍を探し求めた。すると、業に住んでいる李莵とゆう女性がその在処を密告した。こうして、東明観の下で、石虎の屍が発見された。その屍は腐っていなかったとゆう。
 屍を引き出すと、慕容儁は罵った。
「胡の死人めが!なんで生きた天子を脅かすのだ!」
 そして石虎の残虐の罪状を数え上げると、屍を川へ投げ捨てた。しかし、その屍は、橋桁に引っかかって流れなかった。
 後、秦が燕を滅ぼした時、この話を聞いた王猛は李莵を誅殺した。

 十二月。慕容儁は病に伏せった。そこで、彼は大司馬の太原王慕容恪へ言った。
「この病気は、もう、治るまい。今、秦と晋が未だ控えており、景茂は幼い。国家多難の折、吾は宋の宣公に倣って、社稷をお前に譲ろうと思うが、どうかな?」
 宣公とゆうのは、春秋時代の宋の主君である。彼が卒する時、子供をさしおいて、社稷を弟へ譲った。これが宋の穆公である。穆公は卒する時、宣公の息子へ社稷を返し、美談として讃えられた。その故事に倣うとゆうのだ。しかし、慕容恪は言った。
「幼君など、暴君に比べればずいぶんとましではないですか。この私などが、どうして王位に即けましょう。」
 すると、慕容儁は怒って言った。
「俺達は兄弟だぞ!何で飾るのか!」
 だが、慕容恪も言い返した。
「陛下。もしもこの私に天下を統治する力量があるのならば、幼少の主君を補佐することだって出来る筈です!」
 慕容儁は大いに喜んだ。
「お前が周公になれるなら、もう何の憂いもない。それから、李続は清廉で忠義な男だ。巧く使ってやってくれ。」
 そして、慕容垂も業へ召還した。

 四年、正月。癸巳、慕容儁の病篤く、慕容恪等が遺詔を受けて輔政となった。
 甲午、慕容儁、卒す。
 戊子、太子の慕容偉が即位して皇帝となった。時に十一才。大赦を下し、建煕と改元する。
 二月、可足渾氏を皇太后とする。慕容恪が太宰、上庸王慕容評が太傅、陽鶩が太保、慕輿根が太師となり、朝廷の重鎮とされた。
 慕輿根は頑固者。先朝での殊勲を恃み、心中では慕容恪を見下しており、挙動に傲慢さが満ち満ちていた。
 可足渾氏は、政治にしゃしゃり出る女だったので、慕輿根は朝廷を掻き乱そうと考え、慕容恪に言った。
「今、主上は幼く、母后は政治に嘴を入れる。殿下、どうか意外の事態に備えられて下さい。それに、天下を定めたのは殿下の功績ですし、兄が死んで弟が受け継ぐのは古今の習わしです。(それは殷の法で、周の法ではない。)先帝の埋葬が済んだら主上を廃立して王になられるのが宜しい。殿下自ら尊位に即くのが、大燕無窮の幸いです。」
「お前は酔っているのか?何とゆう事を言うのだ!吾は先帝の遺詔を受けた。何でそのような事を考えようか?」
 慕輿根は慚愧し、謝罪して退出した。
 この事件を、慕容恪が慕容垂へ告げると、慕容垂は誅殺を勧めた。しかし、慕容恪は言った。
「今、大喪が起こったばかり。晋も秦も、我が国の隙を窺っている。そのような時節に、宰輔が殺し合ったら、国人からは幻滅され、二隣からは乗じられる。今は忍ぶべきだ。」
 秘書監の皇甫眞が慕容恪へ言った。
「慕輿根とゆう男は、もともと凡庸な豎子に過ぎませんでした。それが、先帝の厚恩を蒙って、輔政まで引き立てられたのです。しかし、その本性は、見識のない小人のまま。それが、先帝後崩御以来、日に日に傲驕が募っております。このままでは禍乱へ至りますぞ。明公は、今、周公の地位にあります。社稷の為に深謀しますに、早めに処刑なさるべきです。」
 慕容恪は従わなかった。
 慕輿根は、今度は可足渾氏と慕容偉へ言った。
「太宰と太傅が不軌を企んでおります。私が禁兵を率いて誅殺しましょう。」
 可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容偉が言った。
「二公は国の親賢。先帝が選んで孤児と寡婦を託したのす。そのような事はしません。それに、太師が造反を考えていないと、どうして判るのですか!」
 それで、取りやめた。
 又、慕輿根は龍城を懐かしみ、可足渾氏と慕容偉へ言った。
「今、天下は混迷し、外寇も一つではありません。この国難に当たって、龍城へ戻られるのが一番です。」
 これを聞いた慕容恪は、慕容評と謀り、密かに慕輿根の罪状を奏上して、これを誅殺した。その妻子と与党も殺し、大赦を下す。(慕輿根とその妻子・与党を殺したので、他の士民が妄動することを懼れ、民心を安んじさせる為に、大赦を下したのである。)
 大喪にあたって、輔政の一人が殺されたので内外は恐々としたが、慕容恪の態度は普段と変わらない。出入りの時にも、従者さえ連れずに一人で歩いた。ある者が警備兵を連れるよう説いたが、慕容恪は言った。
「人情は恐々としている。彼等を安堵させることが先決だ!俺がじたばたしたら、誰が落ち着けるか!」
 これによって人心は落ち着いた。
 慕容恪は、細かい事に口うるさくはなかったが、朝廷の礼節だけは兢々として厳謹に遵守した。事ごとに必ず慕容評と合議し、決して専断はしない。士と接する時は謙り、才覚を量って位へ付けた。官属や朝臣に過失があっても表沙汰にはしないで、他のことに仮託して揶揄した。言われた人は大いに慚愧し、二度と行わないのが常だった。
 慕容儁が死んだと聞いて、東晋の朝臣達は、北伐の好機と勇み立ったが、桓温は言った。
「慕容恪が居る。却って厄介だ。」
 三月、慕容儁を龍陵に埋葬した。景昭皇帝と諡する。廟号は烈祖。
 慕容恪は、慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・兌州牧・荊州刺史とし、梁国の蠡台を鎮守させた。孫希をへい州刺史とし、傅顔を護軍将軍とし、騎兵二万を率いて慕容恪自ら河南へ兵を動かし、淮へ臨んで還った。この軍事行動で、境内の動揺は収まった。なお、孫希は、孫冰の弟である。

 海西公の太和二年(367年)、四月。慕容恪は、慕容偉へ言った。
「慕容垂の才覚は、私に十倍します。しかし先帝は、幼長の序列を重視して、私を輔政となさったのです。私が死んだ後は、どうか陛下、国を挙げて呉王を尊重なさって下さい。」
 五月、慕容恪は、重体へ陥った。慕容偉は自ら見舞いに出向き、後事を問うた。すると、慕容恪は答えた。
「『恩に報いるには、賢人を薦めるのが最上である、』と聞きます。例え下賤の民でも、賢人ならば宰相にするべきです。ましてや至親なら尚更です!呉王は文武両道。管仲・蕭何に負けません。もしも陛下が、彼を大任すれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう。」
 言い終えて、卒した。
 慕容恪が死んだと聞いた苻堅は、密かに燕攻略を目論んだ。そこで、その可否を占おうと、まず手始めに燕へ使者を派遣した。この使者に選ばれたのは、匈奴の曹毅。副使は西戎主簿の郭弁である。
 ところで、燕の司空皇甫眞の兄の皇甫典、従兄弟の皇甫奮、皇甫覆は、皆、秦に仕官しており、中でも皇甫典は散騎常侍にまで出世していた。
 さて、燕へやって来た郭弁は、朝臣達の前で皇甫眞へ言った。
「僕は元々秦の人間だが、一族は秦室に誅殺されてしまった。だから曹王のもとへ逃げ込んだのです。ですから、貴公の兄や従兄弟達のことも、よく存じ上げておりますよ。」
 すると、皇甫眞は怒って言った。
「外国へ行った以上、臣とは他人だ!何を縁に吾と繋がると言うのか!お前の言い方は、奸人のようだな。その縁に仮託して何を企んでいる?」
 そして、彼を糾明するよう慕容評へ請願したが、慕容評は許さなかった。
 帰国した郭弁は、苻堅へ言った。
「燕では、朝廷の綱紀が緩んでおります。つけ込むべきです。ただ、皇甫眞一人だけは油断できません。」
 ちなみに、曹毅が死んだ後、秦はその部落を二つに分け、二人の息子に分割統治させた。それぞれ、東曹、西曹と呼ばれた。
 さて、慕容恪が病気になった時、慕容偉はまだ幼かった。慕容評は猜疑心が強い男だったので、才覚のある人間を大司馬にしないのではないかと恐れた慕容恪は、慕容偉の兄の安楽王慕容藏へ言った。
「今、南には晋の残党がおり、西には強秦がいる。二国とも我が国を狙っている。我が国が隙を作れば、すぐにでも襲いかかって来る。そこで、国の興廃は宰輔にかかる。中でも大司馬は、六軍を統率する重要な地位だ。その人を得なければならない。我が死んだ後は、親疎から言うと、お前か沖が大司馬に推されるだろう。しかし、お前達は才覚があり明敏ではあるが、いかんせんまだ若い。多難の時節には役不足だ。呉王の慕容垂は天資の英傑。その知略は世を超絶して居る。もしもお前達が、大司馬の地位を奴に譲るならば、必ず四海を統一できる。ましてや外敵など、懼れるに足らん。よいか、慎め。利に溺れて害を忘れてはならん。ましてや国家を忘れてはならんぞ。」
 又、彼は同じ事を慕容評へも言った。しかし、慕容恪が死んでしまうと、慕容評はその言葉を用いなかった。
 三年、二月。車騎将軍の慕容沖を大司馬とした。慕容垂は、侍中・車騎大将軍・儀同三司となった。

 同月、秦の魏公苻痩が、陜城を以て燕へ降伏し、出兵を乞うた。秦人は大いに懼れ、華陰にて守りを固めた。
 燕の魏尹の范陽王慕容徳が上疎した。
「先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ(蒲阪、陜城、上圭、安定、長安)に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうとゆう天の御心でございます。
『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く。』と申します。それは、呉・越の興亡を見れば明白でございます。どうか、皇甫眞にへい・冀州の兵を与えて蒲阪を攻撃させ、慕容垂には許・洛の兵を与えて陜城の包囲を解かせ、太傅には京師の兵を与えて出撃させてください。その上で、三輔へ檄文を飛ばして禍福を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。
 今こそ、天下平定の絶好の機会です!」
 この時、燕の士人の多くが、陜城救援を請願していた。そこで、関中の者と図ったところ、太傅の慕容評が言った。
「秦は大国である。今、国難に襲われたとはいえ、その底力は侮れん。それに引き替え我が国は、朝廷こそ一つにまとまっているが、先帝が崩御したばかり。我等の知略も又、太宰(慕容恪)程ではない。今は、関を閉じて国境を固守するのが一番。平秦など、今の我等には荷が重すぎる。」
 苻痩は、慕容垂と皇甫眞のもとへも書状を送った。
「苻堅も王猛も人傑です。それが、長いこと燕攻略を目論んでいました。この機会に乗じて秦を滅ぼさなければ、他日、燕の君臣は往年の夫差のように嘆くこととなるでしょう!」
 この書状を読んで、慕容垂は皇甫眞へ言った。
「後々の禍となるのは秦だ。我等が主上の年齢を見ても、太傅の人格を見ても、とても苻堅や王猛には敵わないぞ。」
「俺もそう思う。しかし、我等では動きようがない!」

 さて、燕では、王や公が自分の荘園に民を隠し、公民の数が減少した。その為、国庫は乏しくなり、歳入は不足した。
 九月、尚書左僕射の悦綰が言った。
「今、三国が鼎立し、各々併呑の志を持っております。しかしながら、我が国では法令が無視され、豪貴の横暴が恣に起こっており、国庫は底を尽きかけております。どうか権豪達の蔭戸を摘発し、正規の郡県の戸籍へ編入させて下さい。」
 慕容偉はこれに従い、悦綰に全権を委任した。悦綰は事実を究明し、厳格に摘発したので、王公達は隠し通すことが出来ず、公民は二十万戸も増員した。しかし、これによって悦綰は朝士達の怨怒を一身に背負ってしまった。
 悦綰はもともと病気を持っていたのだが、この件について精力的に働きすぎたので病気が悪化した。十一月、卒する。

 四年、東晋の大司馬桓温が、兌州から出陣して燕を討った。下?の王勵がこれと戦い、撃退した。
 燕は、更に慕容藏に撃退を命じたが、慕容藏は桓温を防ぎきれなかった。慕容偉は、慕容評と謀って龍城へ入った。
 彼等は、虎牢以西を割譲するとゆう条件で、秦へ救援を頼んだ。秦は援軍を派遣した。
 やがて、慕容徳が敵の糧道を絶ち、桓温は食糧に苦しんだ。これを知った秦兵が攻撃しようとしたので、桓温は退却した。
 慕容垂は、退却する東晋軍を追撃し、大破した。(詳細は、「桓温、燕を討つ」に記載。)
 こうして、燕と秦は修好を結び、屡々使者が行き来した。

 燕の散騎侍郎の赫咎と、給事黄門侍郎の梁深が、相継いで秦へ行った。
 赫咎と王猛は旧知の間柄だったので、王猛は彼を接待し、世間話の振りをして燕の国情を聞いた。赫咎は、燕の朝廷が修まらず、秦が大いに治まっているのを見て、密かに燕に見切りを付けた。そして王猛から引き立てて貰おうと考え、その内情を具に洩らした。
 梁深が長安へ着いた時、苻堅は万年で狩猟に出かけようとしていた。使者が来たと聞いた苻堅は会おうとしたが、梁深は言った。
「秦の使者が燕に来れば、燕の君臣は正装をして礼を尽くし、宮殿を掃き清めてから謁見するのです。今、秦王は野外で私と会おうとする。そんなご命令には従えません!」
 すると、尚書郎の辛勁が言った。
「国境を越えた賓客は、主人が意のままに処遇できるのだ。礼を強制できる立場か!それに、天子の乗輿のある所こそが行在所である。この国内は全て天子の庭。常居などない!又、主君が野で会盟することは、春秋にも記載されている。何の不都合があるか!」
 だが、梁深は言い返した。
「晋室が乱れたので、幽祚は徳のある人間へ帰着した。秦と燕が興ったのは、天命を受けたのだ。
 それに、狂逆な桓温が我が国を侵略した。燕が滅べば秦も孤立し、その命運も尽きる。だから秦主は、時患を等しく受けようと、救援軍を出されたのではなかったか。
 東朝の君臣が西を望めば、晋に押しまくられたことを恥じ、隣を憂と為す。だから、西から使者が来れば、敬って接するのである。
 今、強寇は既に去った。二カ国の交流は始まったばかりである。この時こそ、礼を崇び義を篤くして好を固めなければならない。それなのに使者を慢罵する。これは燕を卑しんでいるのだ。それでどうして修好の義と言えようか!
 それ、天子は四海を家と為す。故に、行けば「乗輿」と言い、止まれば「行在」と言う。しかし、今、海は分割され、天の光でさえ三ヶ国に分割される有様。これでどうして「乗輿」「行在」と言えようか!
「春秋」にしても、礼によれば正しい時期ではないのに謁見することを「遇」と言う。これは、危急の場合だから礼を簡略したに過ぎない。どうして平日にそのようなことを行おうか!
 客は一人。確かに力から言えば、主人には負ける。しかし、いやしくも礼に適わなければ、決して従わぬぞ!」
 そこで苻堅は、彼の為に行宮を設営し、百僚を揃えてから謁見した。燕朝の儀礼に合わせたのである。
 謁見の儀式が終わると、苻堅は彼の為に、私的に宴会を開いた。そして、その席で苻堅は問うた。
「東朝の名臣と言えば、誰々かね?」
「太傅の上庸王評。徳は明らかで、素性は至親。王室を光輔しております。そして、車騎将軍の呉王垂。雄略は世に冠しております。その他、或いは文才によって進み、或いは武才によって用いられ、官人は皆、見事に職をこなし、野に遺賢はおりません。」
 梁深の兄の梁奕は、秦で尚書郎を務めていた。そこで苻堅は、梁奕の館に梁深を泊めようとしたところ、梁深は言った。
「昔、諸葛亮が呉へやって来た時、兄の諸葛謹は呉に仕えていた。その時諸葛亮は、公的な場所で兄と対峙しましたが、私的な面会はしませんでした。私は、これを密かに慕っております。今、使者として来ましたのに、臣下の私室で休むのは、筋が通らないと考えます。」
 苻堅は、別の館を準備した。
 梁奕は、屡々梁深の館を訪れ、東国の様子を聞いた。すると、梁深は言った。
「私達は、今、お互いに別の国で栄達しております。それぞれに立場があるのです。私が東国の長所を言おうと思っても、この国の人間はそんな事を聞きたくないでしょう。しかし、この国の人間が東国の弱点を聞きたいと思っても、私が言える筈がないのです。兄上は、何でそのようなことを聞かれるのですか!」
 苻堅は、皇太子を梁深に会わせた。秦の官人達は、梁深を皇太子へ拝礼させようと思い、まず、風諭した。
「隣国の主君は、自分の主君と同じ。儲君もどうして異なろうか!」
 すると、梁深は答えた。
「天子は、我が子でさえも臣下扱いする。賤しい地位から尊い地位へ登らせようと望んでのことだ。(「生まれつき貴い者など、天下にいない。」とゆう思想に基づく。)
 天子の臣下でさえ、天子の子の臣下ではないものを、ましてや他国の臣下なら尚更ではないか!」
 遂に拝礼しなかった。
 王猛は、梁深を秦へ留めるよう苻堅へ勧めたが、苻堅は許さなかった。

 襄邑から業へ還った慕容垂は、威名が益々揚がり、慕容評は益々彼を忌避した。
 慕容垂は上奏した。
「募集した将士の中で、命がけで功績を建てた者がおりました。殊に将軍の孫蓋等は、敵の精鋭と戦い、堅陣を陥しました。何とぞ篤い恩賞を賜り下さい。」
 慕容評は、握りつぶして賞しなかった。慕容垂は度々請し、遂には慕容評と朝廷で言い争った。これにより、両者の溝は益々深まった。
 太后の可足渾氏は、もともと慕容垂と反りが合わなかったので、その戦功を握りつぶしたばかりか、慕容評と共に、慕容垂を誅殺しようと謀略を巡らせた。慕容恪の息子の慕容楷と、慕容垂の舅の蘭建がこれを知り、慕容垂へ言った。
「機先を制しましょう。ただ慕容評と慕容藏さえ殺せば、後の連中は何もできません。」
 すると、慕容垂は言った。
「骨肉で殺し合うのは、国の一番の禍だ。例え死んでも、そんなことはできん。」
 だが、数日して二人は再び告げた。
「太后は既に決意しました。早くご決断を!」
「もはや彌縫できぬのか。それなら亡命しよう。他に手はない。」
 慕容垂はこの事を、子息達にはなかなか話せなかった。すると、世子の慕容令が言った。
「この頃、父君は顔色が悪いようです。もしや太傅が、主上が若いのにつけ込み、更に権力を握ろうと、父君を邪魔者扱いしているのではありませんか?」
「その通りだ。我が力を尽くして強敵をうち破ったのは、偏に国家の安泰を思えばこそ。まさか、功績を建てた後、我が身の置き所が無くなるとは思わなかった。お前は既に我が心を知っているようだが、どうゆう知略がある?」
「主上は闇弱で、全てを太傅へ一任しております。一度禍が発すれば、我が一族は全員誅殺されます。今、一族を保全し、大義も失わぬ為には、龍城へ逃げるしかありません。
 そこで腰を低くして謝罪し、主上が事情を察するのを待ちましょう。あの周公も東へ逃げましたが、主君が悔悟して帰ることが出来ました。そうなれば、大いなる幸いです。
 しかし、もしも主上が悟らなければ、燕、代の諸城を手なずけ、険阻な肥如を固く守って自立する。それが次善の策です。」
「善しい。」
 十一月、慕容垂は大陸での狩猟を願い出、平服で業を出、一路龍城へ向かった。だが、邯鄲にて、普段から愛されていなかった末っ子の慕容麟が逃げ出し、父を告訴した。これによって、慕容垂の従者達は次々と逃亡した。
 慕容評は慕容偉へ告発し、西平公慕容強へ精鋭兵を与えて追撃させた。
 慕容令が言った。
「龍城へ據ろうとしましたが、計略が洩れました。最早これまで。かくなる上は、秦へ逃げましょう。秦主苻堅は賢人を大切にすると聞きます。」
「それしかあるまい。」
 彼等は散り散りになって南山へ向かった。
 趙の顕原陵へ隠れていると、狩猟をしている数百騎の男達が、四面から迫ってきた。戦っても勝ち目はないし、逃げ場もない。慕容垂等は、為す術もなく、息をこらした。すると、男達は鷹を飛ばし、四方へ散って行った。慕容垂は白馬を殺して、天へ感謝を捧げた。
 河陽へ至り、津吏から渡河を禁じられたが、これを斬り殺して渡った。
 こうして、彼等は遂に洛陽へ到着した。その一行は、段夫人、世子令、令の弟の寶、農、隆、兄の子の楷、舅の蘭建、郎中令の高弼である。妃の可足渾氏は業へ留めてきた。
 さて、前述のように、慕容恪の死去以来、苻堅は平燕を目論んでいた。しかし、慕容垂を憚って手を出さなかったのだ。慕容垂が亡命してきたと聞き、苻堅は驚喜して、自ら出迎え、慕容垂の手を執って言った。
「天が賢人豪傑を生んだのだ。共に協力して大事業を成し遂げるのが自然の理だ。卿と共に天下を平定できたら、卿を必ず幽州へ封じよう。そうすれば、卿は子供としての孝道と、朕へ対する忠誠を両立できるではないか。」
 慕容垂は感謝して言った。
「私は寄る辺のない旅人。今までの罪を不問に処して戴くだけで幸いです。故郷へ錦を飾るなど、そんな大それたことをどうして望みましょうか!」
 苻堅は又、慕容令と慕容楷の才覚も大いに気に入った。彼等を厚遇し、巨万の富を賜下した。関中の士民も、もとより慕容垂の勇名は聞き知っており、大勢の男達がかれらを慕って集まってきた。
 王猛は苻堅へ言った。
「慕容垂親子は、龍や虎のようなもの。飼い慣らすことは出来ません。従順に見えても、一たび風雲が起これば、それに乗じて暴れ出すでしょう。早く処分するべきです。」
 すると、苻堅は答えた。
「朕は英雄を集めて四海を平定しようと思っている。何で彼を殺そうか!それに、朕は誠意を以て彼を受け入れると宣言したのだ。匹夫でさえなお嘘を恥じる。ましてや朕は万乗の天子だぞ!」
 かくして、慕容垂を冠軍将軍に任命し、賓徒侯へ封じた。又、慕容楷を積弩将軍に任命した。

 さて、秦は梁深を一月余り抑留した後、燕へ返した。梁深は慕容垂の亡命を目の当たりに見ていたので、業へ帰ると慕容評へ言った。
「秦では、軍事訓練が毎日行われ、多量の兵糧が陜東へ運び込まれております。私の見るところ、この平和は長続きしません。呉王垂も秦へ亡命したことですし、秦は必ず我等の隙を衝いてきます。早く防備を固められて下さい。」
「叛臣を受け入れて平和を破る?秦がそんな真似をするものか!」
「今、中原が二つに別れて対立しているのですよ。互いに相手を併呑しようと狙っていたではありませんか。桓温の来寇で、秦が援軍を出したのは、我等を愛しているからではありません。もしも燕に隙を見つければ、何で彼が本志を忘れましょうか!」
「秦主は、どんな人間だった?」
「明哲で決断力がありました。」
「王猛は?」
「彼の名声は、虚名ではありません。」
「儂の聞いた話と違う。お前は主君を脅すのか!」
 梁深は慕容偉にも同じ事を言ったが、彼も真に受けなかった。そこで皇甫眞へ告げると、皇甫眞はこれを憂え、上疎した。
「苻堅は油断できません。前回出兵して貰ったとき、我が国からの使者が相継いで秦へ向かい、彼等は我が国の地形や虚実に精通していまいました。それに加えて、今回呉王が亡命しました。どうか洛陽、太原、壺関を精鋭で固め、防備として下さい。」
 慕容偉は慕容評を呼び出して、この件を尋ねた。すると、慕容評は言った。
「秦は弱小国で、我等を後ろ盾と恃んでおります。それに苻堅は、国交にはそれなりに気を配っております。亡命者の口車に乗って国交を断絶するような真似は致しますまい。それよりも、軽率に動いて相手に警戒させる方が、紛争の種になってしまいますぞ。」
 遂に、燕では軍備に手を加えなかった。

 秦の黄門郎石越が、使者として燕へやって来た。慕容評は燕の富盛を誇示する為、豪奢にもてなした。すると、尚書郎の高泰と太傅参軍の劉靖が慕容評へ言った。
「あの石越とゆう男、言葉はでたらめで、視線は遠くを見ています。友好の使者とゆうよりも、我が国の隙を見つけに来たとしか思えません。ここは軍事訓練を派手に見せつけ、奴等の意気を喪失させるべきです。それなのに豪奢な有様を見せつけている。これでは連中は益々我等を侮りますぞ。」
 しかし、慕容評は従わなかった。高泰は、遂に病気と称して退職した。

 この時、可足渾氏は政治へ何かと口出しし、慕容評は財貨を貪って飽くことを知らない男だった。当然賄賂は横行し、官吏の推挙も賄賂によって決まった。こうして、下々には怨嗟が溜まった。
 尚書左丞の申紹が上疎した。
「太守や宰相は政治の大本。ところが今の太守・宰相は、その人を得ておりません。或いは殊勲を建てた武人だったり、或いは貴族の子弟だったりと、統治能力で選ばれてはいないのです。そして彼等の評価も出鱈目にやられておりますので、怠惰な者も刑罰を懼れず、励んだ者へ褒賞がありません。そうゆう訳で、百姓は困弊し、盗賊は天下に満ちあふれ、官吏の綱紀は乱れてしまいました。又、官吏の数も増えすぎております。それが先代と比べ、大きな負担となっております。
 そもそも、我が大燕の人口は、二寇(秦と晋)を合わせた程多く、弓馬の強さは四方及ぶものがありません。にも関わらず、屡々敗戦を喫しております。これは全て守宰の横暴に兵卒達がやる気を無くし、その命令に従わないことに由来しております。
 又、後宮には四千余人の女官がおり、彼女たちに仕える者共はこれに数倍します。その一日の費えは万金にも及びます。そして、士民もそれを真似して豪奢を競い合っております。
 あの秦や晋は中国の片隅しか領有しておりませんが、なお、天下併呑の野望を持っておりますのに、我等の上下の連帯は、日毎に壊れて行きます。そして、我等の乱れこそ、彼等の望みなのです。
 どうか守宰の人選をやり直し、官吏を減らして下さい。兵卒達を大切にし、経費は節減し、官吏へ対して信賞必罰で望む。こうしてこそ始めて桓温・王猛を梟首できますし、二寇を討ち滅ぼせるのです。」
 しかし、省みられなかった。

 さて、燕は虎牢関以西を秦へ割譲する約束をしたが、晋が退却すると、その土地を惜しんだ。そこで、秦へ使者を送って言った。
「先だっての約束は、使者が勝手に行ったこと。隣国同士、災害の時には助け合う。それは当然のことではありませんか。」
 苻堅は激怒し、輔国将軍王猛、建威将軍梁成、洛州刺史登きょうに三万の兵を与え、燕を攻撃させた。
 十二月、彼等は洛陽を攻撃した。
 五年、正月。王猛は、燕の荊州刺史武威王慕容筑へ書を送り、脅しつけた。すると慕容筑は、震え上がって洛陽ごと降伏した。王猛はこれを受けた。
 慕容藏は新楽に城を築き、石門にて秦兵を撃破した。秦将の楊猛を捕らえる。
 さて、王猛が長安を出発する前、参謀兼郷導(道案内役)として慕容令を麾下へ入れるよう請うた。そして、出発間際に、慕容垂のもとを訪れ、酒を酌み交わして言った。
「何か餞別を下さい。それを見て、貴君を偲びたいのです。」
 慕容垂は、佩刀を解いて、王猛へ渡した。
 洛陽へ到着すると、王猛は慕容垂の友人の金煕とゆう男を買収した。金煕は慕容垂からの使者と偽り、慕容令へ言った。
「我々親子が秦へ亡命したのは、死にたくなかったからだ。しかし今、王猛は我々を仇敵のように見て、日毎夜毎に讒言している。秦王は上辺こそ我々を優遇してくれているが、その心中がどうなのか、知れたものではない。丈夫が刑死から逃げ出しながら、遂に誅殺されるのでは、天下の笑い物ではないか。
 だが、聞く所によると、燕では我々の亡命に悔悟し、主上と太后が交々責め合っているとゆう。この機会に、我は燕へ帰るつもりだ。だから、使者を派遣し、お前に知らせる。我はもう出発した。お前も遅れずに逃亡せよ。」
 慕容令はこれを疑って終日躊躇したが、真偽を確かめる術もない。遂に、旧臣達を率いると、狩猟と偽って陣を出て、慕容藏のもとへ逃げ込んだ。
 王猛は、慕容令の造反を公表した。
 慕容垂は懼れて逃げたが、藍田県にて、捕まってしまった。苻堅は東堂にて慕容垂と謁見し、彼を労って言った。
「卿は、故国にて太傅から猜疑され、朕のもとへ逃げ込んできた。卿の賢子が故国を忘れられなかったとしても、それは人情の常。深く咎めることはできない。それに、燕は滅亡寸前。令一人が加勢してたとて、これを存続させることはできまい。ただ、彼が自ら虎口へ入っていったのが惜しいだけだ。
 それに、もしも彼が罪を犯したとしても、それは本人だけのことで、親子兄弟に累は及ばん。卿は何を懼れ、こんなに狼狽したのか!」
 そして、従前通りに接した。
 さて、慕容令は亡命先から逃げ帰ってきたとはいうものの、その父親は相変わらず秦で大切にされている。それで、慕容令は疑われ、龍城の東北六百里にある沙城へ移された。

 司馬光、曰く。
 昔、周は微子を得て殷を滅ぼし、秦は由余を得て西戎の覇者となり、呉は伍子胥を得て強国楚にを克服し、漢は陳平を得て項羽を誅殺し、魏は許悠を得て袁紹を破った。彼等は敵国の臣下を味方につけて、強大になったのだ。
 王猛は、慕容垂が油断できないことに気を取られる余り、燕が未だ滅亡していないことを忘れていた。慕容垂は才能があり功績も莫大だったので、無罪なのに疑われ、困窮して秦へ亡命したのだ。それなのに、まだ造反など考えてもいないうちから、これを猜疑して殺そうとする。これでは燕が無道を行っても、秦へ亡命する者がいなくなるではないか。明らかに誤っている!だから苻堅はこれを礼遇し、親しみ、寵用し、信頼して燕人の人望を収めたのである。それは過ちではない。
 王猛は慕容垂を殺すことに汲々として、遂には商人のように金で片を付ける真似まで行った。まるで、慕容垂の寵愛に嫉いているようである。これがどうして君子の所業といえようか!

 

 慕容蔵は栄陽まで進んだ。王猛は梁成、登きょうにこれを攻撃させ、撃退した。そして、登きょうを金庸へ留めてここを守らせ、輔国司馬の桓寅を弘農太守とし、登きょうの代わりに陜城を守らせて、帰国した。
 今回の功績に対して、苻堅は王猛を司徒・録尚書事に任命し、平陽郡侯に封じた。すると、王猛はこれを固辞して言った。
「まだ、燕も呉(東晋)も滅ぼしておりません。たった一城を陥落しただけで三公にまで抜擢されたのでは、もしも二カ国を滅ぼした時、どのように賞されると言うのですか!」
 しかし、苻堅は言った。
「卿が我が心を戒めてくれるから、卿の謙譲の美徳が顕れるのだ。だが、詔は既に発布した。三公はともかく、封爵は凡庸なもの。曲げて受け取ってくれ。」
 三月、秦では吏部尚書の権翼が尚書右僕射となった。
 四月、苻堅は王猛を再び司徒・録尚書事に任命したが、今回も王猛が固辞したので、中止した。

 ところで、冷遇された慕容令は、いずれ誅殺されてしまうと見当を付け、それよりはと、密かに起兵を計画し、沙城の中で数千人の兵卒を手なずけた。
 五月、慕容令は牙門の孟嫣を殺した。城大の渉圭が懼れ、降伏したので、慕容令はこれを信じて側近とした。
 彼等は、そのまま東方の威徳城を襲撃した。城郎の慕容倉を殺し、威徳城に據って東西の諸砦へ檄文を廻したところ、大半が呼応した。
 こうして勢力が増大した慕容令等は、龍城を襲撃した。この時龍城を鎮守していたのは、鎮東将軍の渤海王慕容亮である。慕容麟がこれを報告したので、慕容亮は城門を閉じて籠城した。
 癸酉、沙圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃した。慕容令は単騎で逃げ、その党類は壊滅した。沙圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺し、龍城へ出向いて慕容亮へその旨を伝えた。
 慕容亮は慕容令の為に沙圭を誅殺し、慕容令の屍を回収して埋葬した。

 秦は王猛・楊安等十将へ六万の兵卒を与えて再び燕攻略を考えた。
 六月、苻堅は王猛を送り出し、言った。
「今、卿へ全権を委ねる。まず、壺関を破り、上党を平定し、長躯業を衝け。いわゆる、『雷のように早ければ、耳を塞いでも手遅れだ。』とゆう奴だ。
 吾は自ら一万の兵卒を率い、継続して出発しよう。
 兵糧は、船と車で、水陸から補給する。卿は、後顧を患う必要はない。」
 すると、王猛は答えた。
「臣は、陛下の威令のもと、十分な成算を以て胡の残党を掃討いたします。これは、風が木の葉を吹き散らすようなもの。陛下の後続など要りますまい。ただ、占領した土地には、速やかに政庁を設置し、善政を布かれて下さい。」
 苻堅は大いに悦んだ。

 七月、月食があった。

 王猛は壺関を攻撃し、楊安は晋陽を攻める。
 八月、慕容偉は、慕容評へ三十万の兵を与えて防がせた。
 慕容偉は、秦の来寇を憂え、散騎侍郎の李鳳、黄門侍郎の梁深、中書侍郎の楽崇を召しだして尋ねた。
「秦軍の兵力は多いのか?今、我が国では大軍を派遣したが、これで撃退できるだろうか?」
 すると李鳳が答えた。
「秦は弱小国。王帥の敵ではありません。景略(王猛)も凡才。太傅とは比べ物になりません。ですから大丈夫です。ご心配要りません。」
 すると、梁深・楽崇が言った。
「勝敗を決めるのは謀略です。兵力の多寡ではありません。秦は遠くからわざわざやってきた遠征軍です。なんで戦わずに済ませましょうか!ですから、我等も謀略を用いて勝ちを拾うべきです。戦わずに済むなどとゆう甘い期待は持ってはなりません!」
 慕容偉は不愉快だった。
 王猛は、壺関を落とし、上党太守の南安王慕容越を捕らえた。彼等が進軍すると、郡県は次々と降伏してきた。燕人は大いに震えた。
 楊安は晋陽に手こずった。晋陽には兵卒が多く、兵糧もたっぷりあった為だ。
 王猛は、屯騎校尉の苟長に壺関を任せて、楊安の援軍に駆けつけた。そして地下道を掘り、虎牙将軍張毛へ数百の兵を与えて城内へ忍び込ませた。張毛達は大呼して城門を開き、秦兵を迎え入れた。
 こうして、秦軍は晋陽へ入城し、燕のへい州刺史東海王慕容荘を捕らえた。
 慕容評は、王猛を畏れて敢えて進まず、路川に屯営した。

 十月、王猛は、将軍の毛当を晋陽へ留め、路川へ向かい、慕容評と対峙した。
 王猛は、まず将軍の徐成を偵察に出して、燕軍の陣形を調べさせた。この時、日中に帰れと命じていたが、徐成が帰ってきたのは、日が暮れた後だった。王猛は怒り、斬罪に処しようとしたが、登きょうが言った。
「今、敵は大軍で我が方は少数。そして徐成は大将です。どうか赦して下さい。」
「いいや、殺さなければ軍法が立たぬ!」
「徐成は私の部下。咎が斬罪に値するとは雖も、私と徐成とで手柄を建てて贖います。」
 それでも王猛は赦さない。とうとう、登きょうは怒り、自分の陣営へ帰ると、軍鼓を鳴らして王猛の軍を攻撃しようとした。軍鼓を聞いた王猛が使いを出して理由を尋ねると、登きょうは言った。
「遠賊を討つよう詔を受けたが、近くにも賊が居り、仲間同士殺し合おうとしている。だからまず、そっちの賊から退治するのだ!」
 王猛は、登きょうを義があり、勇気があると思い、伝令を出して言った。
「将軍、止めなさい。徐成のことは赦免する。」
 徐成が解放されると、登きょうは王猛のもとへ赴いて陳謝した。王猛は、その手を執って言った。
「将軍を試しただけだ。将軍は、麾下の武将へ対してでさえこのようにする。ましてや国家の為ならば、どれ程活躍してくれるだろうか。吾は、もはや賊など憂えぬ。」
 ところで、王猛軍が、敵中深く入り込んだ遠征軍である。慕容評は持久戦を望んだ。
 慕容評は貪欲で下品な性分だった。この期に及んでも、薪や水を売って金を儲け、得た銭を山と積んだ。それで士卒達には怨憤が鬱積し、戦意など無くなった。
 それを聞いて、王猛は笑った。
「慕容評は全くの間抜けだ。億兆の兵を率いたとて、畏れるに足りん。ましてや数十万など、赤子の手を捻るようなもの。必ず撃破して見せよう。」
 そして、夜襲を計画した。抜擢したのは、遊撃将軍郭慶。五千の兵を与えて、慕容評の輜重を焼き払わせた。その火は業からも見える程燃え広がった。
 慕容偉は大いに懼れ、侍中の蘭伊を派遣して、慕容評を詰った。
「王は高祖(慕容鬼)の子供である。宗廟社稷を憂えるのが当然なのに、戦死を慰撫せずに、材木や水を独占してその利益をかき集めるとはどうゆう了見か!官庫に山積みしている財宝を、朕は王と共有しておるのに、貧しさを憂えてでもいるのか!もしも賊軍が進撃してこの国を滅ぼしてしまったら、王はかき集めた銭帛をどこにしまうつもりなのか!かき集めた銭帛は悉く兵卒達へ分かち与え、兵卒達を都督して速やかに戦闘させよ!」
 慕容評は大いに懼れ、王猛へ使者を送って、戦闘を告げた。
 甲子、王猛は渭源に陣を布いて誓いを立てた。
「私こと王景略は国の大恩を蒙り、内外の任務を兼ね、今、諸君と共に深く敵地へ入った。今こそ命がけで戦う。進めども退くな。共に大功を建て、国家へ報いようではないか。そして名君のもとで爵位を受け、父母と共に祝いの酒を飲む。また素晴らしいではないか!」
 秦の兵卒は、皆勇躍し、釜を破り食糧を棄て、大呼して争うように進撃した。
 王猛は、燕の大軍を望み見て登きょうへ言った。
「今日の合戦、将軍でなければ強敵を破ることは出来まい。勝敗はこの一挙にかかっている。将軍よ、励んでくれ!」
 すると登きょうは答えた。
「司隷の地位さえ約束してくれれば、貴公の憂えはなくなりますぞ。」
「司隷?それの任免までは、我が権限にない。安定太守と万戸侯なら約束しよう。」
 登きょうは機嫌を損ね、そのまま兵を退いた。すると、たちまち戦争が始まった。王猛は登きょうを召しだしたが、登きょうは応じない。とうとう王猛は登きょうの陣へ駆けつけ、司隷の地位を約束した。登きょうは帳中で大杯をあおると、張毛、徐成と共に馬を飛ばして燕軍の陣地へ乗り込んだ。陣中を掻き乱し、出入りすること四回。傍若無人な戦いで、数百人を斬り殺した。
 昼過ぎまでの戦いで、燕軍は大敗してしまった。戦死者や降伏した者を合わせて、五万余人の打撃を受ける。秦軍は更に、勝ちに乗じて追撃した。燕軍は更に十万以上の被害を受け、慕容評は、単騎業まで逃げ帰った。

 崔鴻(北魏の人間。「十六国春秋の作者」)曰く、
 登きょうは、部下の将の為に軍法をなみした。私情に走ったのである。兵を追い立てて王猛を攻撃しようとした。上へ対して無礼である。戦いに臨んで、司隷の職を求めた。上を脅したのである。この三者は、皆、赦されざる大罪ではないか!
 しかし、王猛はその短所を容認して、彼の長所を使った。猛虎を馴らして悍馬のように使いこなし、大功を成し遂げたのだ。
 詩に曰く、
「封(草/封)を採り、菲を採る。根が固いからといって、葉まで棄てるな。」
 これこそ王猛を讃えたのだ。

 

 秦軍は長躯東進し、業を包囲した。
 王猛は、上疎した。
「臣は甲子の日に敵を殲滅しました。願わくば陛下、仁愛の志を以て占領地を慰撫し、民を苦しませ賜いますな。」
 苻堅は返書を与えた。
「将軍は三ヶ月を経たずして、賊軍の元凶に大勝した。前代未聞の勲功である。
 朕は今から六軍を率いて赴こう。将軍は一休みして、朕が来るのを待ってから、総攻撃を掛けるように。」
 王猛が到着する前は、業では略奪が横行していた。しかし、王猛が到着すると、乱暴狼藉はピタリと収まった。号令は厳格で明確。兵卒は略奪を行わず、法令は簡潔で政治は寛大。燕の人間は落ち着き、生業に精を出すようになった。彼等は互いに言い合った。
「はからずも今日、太原王(慕容恪)の治世が甦るとは、思いもよらなかった。」
 それを聞いて、王猛は嘆息した。
「慕容玄恭(慕容恪)はまこと、一代の奇士だった。古き良き時代の遺愛か!」
 そこで、太牢を設けて慕容恪を祀った。

 十一月。苻堅は、李威を太子の補佐として長安へ残し、陽平公苻融に洛陽を任せ、自らは精鋭兵十万を率いて業へ赴いた。出発して七日目に安陽へ到着し、祖父の時の住民達を集めて宴会を開いた。
 王猛は密かに安陽へ行き、苻堅に謁見した。
 苻堅は言った。
「昔、周亜父は漢の文帝を迎えに出なかったとゆうのに、卿は敵に臨んで軍を棄てて来た。何故かな?」
 王猛は答えた。
「周亜父は、主君に恥をかかせて名声を勝ち得ました。臣は内心軽蔑しております。それに、臣は陛下の威霊を背負って滅亡寸前の敵を撃つのです。例えるならば、釜の中の魚。何で慮るに足りましょうか!
 それよりも、監国(留守を守っている時の太子を監国と言う。)はまだ幼いのに、陛下はこんなに遠出なさいました。不慮のことが起こりましたら、悔いても及びませんぞ!陛下は、覇上での臣の言葉をお忘れになられたのですか!」
 さて、燕の宣都王慕容桓は、万余騎を率いて沙亭へ進軍していた。これは慕容評の後詰めだったのだが、慕容評が大敗したと聞き、内黄まで退却した。
 苻堅は、登きょうに信都を攻撃させた。
 丁丑、慕容桓は鮮卑の兵卒五千人を率いて龍城へ逃げた。
 戊寅、夜。燕の散騎侍郎餘尉が、扶餘・高句麗及び上党の人質五百余人を率い、業の北門を開けて敵兵を招き入れた。慕容偉、慕容評、慕容藏、慕容淵、左衛将軍孟高、殿中将軍艾朗等は龍城へ逃げた。
 辛巳、苻堅は業へ入宮した。
 燕の公卿や大夫や官僚達を見て、慕容垂の顔に怒りがこみあがった。すると、高弼が言った。
「大王は、祖宗歴代徳を重ねた家柄に生まれ、希代の英傑の資質持ちながら、災厄に遭って国外へ亡命なさいました。今、故国は滅びましたが、これは大王にとって興運の始まりかも知れないのですぞ!国人達へ広大な器量を見せて、其の心をお掴みなさいませ。そうして彼等を将来の基盤としてこそ、大きな功績を樹立できるのです。一時の怒りでそれを捨て去るなど、大王の為になりません。」
 慕容垂は喜び、これに従った。
 慕容偉が業から逃げ出す時、衛士はまだ千余騎程残っていた。しかし、城を脱出すると、彼等は散り散りに逃げ出して、ただ十余騎が付き従うだけだった。苻堅は、郭慶に追撃させた。
 慕容偉の逃避行は困難を極めた。孟高は慕容偉に従い、二王を守りながら進んだ。時に野盗が襲って来たが、戦いながら進んだ。
 数日して、一行は福禄へ到着した。塚があったので一休みしていると、二十余人ばかりの盗賊が襲撃してきた。皆、弓矢を携えている。これに対して、孟高は刀を抜いて戦い、数人を殺傷した。しかし、体力には限界がある。孟高は必死の力を振り絞ると賊の一人を抱きかかえて地面へ叩きつけ、叫んだ。
「男の死に様を見せてやる!」
 残りの盗賊達は一斉に矢を射、孟高を射殺した。
 孟高一人が奮戦しているのを見た艾朗は引き返して戦い、戦死した。
 慕容偉は馬を失くし、徒歩で逃げた。郭慶は高陽にて慕容偉へ追いつき、麾下の巨武とゆう武将がこれを縛り上げた。すると、慕容偉は言った。
「小人のくせに天子を縛り上げるのか!」
 巨武は言った。
「俺は詔を受けて賊を捕まえに来たのだ。誰が天子か!」
 こうして慕容偉を捕まえ、苻堅へ引き渡した。
 苻堅が、降伏せずに逃げ出したことを詰ると、慕容偉は答えた。
「先人の墳墓にて死にたかったのだ。」
 苻堅は憐れんで縄を解き、宮へ帰させ、文武の官吏を率いて、改めて降伏に出てこさせた。慕容偉が、孟高と艾朗の忠義を苻堅に語ると、苻堅は彼等を厚く埋葬し、彼等の子を郎中に抜擢した。
 郭慶が龍城まで進むと、慕容評は高句麗へ逃げた。しかし、高句麗は慕容評を捕らえて秦へ送ってきた。
 慕容桓は慕容亮を殺すと、その部下を吸収し、遼東へ逃げた。しかし、遼東太守の韓秉稠は既に秦へ降伏していたので、城門を閉ざした。慕容桓はこれを攻撃したが勝てない。
 郭慶は、将軍の朱嶷を派遣して、これを攻撃させた、慕容桓は部下を見捨てて単騎で逃げたが、嶷はこれを捕まえ、斬り殺した。
 諸州の牧、守、そして六夷の軍団などは、悉く秦へ降伏した。占領した領土は、百五十七郡、二百四十六万戸、九百九十九万人に及んだ。燕の宮人や珍宝は褒賞として将士に分け与えた。大赦を下す。
 さて、以前梁深が使者として秦へ行った時、苟純が副使だった。梁深は、応対のことを苟純へ告げなかったので、苟純は心中恨んだ。そこで、帰国すると慕容偉へ言った。
「長安に滞在している間、梁深は、苻堅とやけに親しくしていました。これは国を売ったのかも知れません。」
 又、帰国した後、梁深は屡々苻堅や王猛を讃美していた。又、秦軍がいつ攻めてくるか判らないので軍備を厳重にするように、とも言っていた。
 果たして、秦は侵略して来た。その行動は、梁深の予測通りだったので、慕容偉はますます怪しんだ。慕容評が敗れるに及び、遂に慕容偉は、内通者として梁深を捕らえ、獄へ落とした。
 業へ入城した苻堅はこれを知り、梁深を釈放し、中書著作郎に任命した。そして引見し、言った。
「かつて卿は、上庸王と呉王は将相の奇材だと称していたが、彼等は結局何の謀略も施せず、国を滅ぼしてしまったではないか。」
 すると、梁深は言った。
「天命です。たった二人で覆せましょうか!」
「卿は亡国の兆しを察することが出来ず、燕の美点を勝手にでっち上げて虚称した。しかし、その忠は我が身を守るどころか、却って傷つけたではないか。それではとても知恵者とは言えないな?」
「『動こうとする微かな兆しを感じ取ることを機微と言う。そうなれば将来を予見できるので、吉。』と聞きます。臣のような愚かな人間は、とてもそこまで及びません。
 ただ、子となっては孝が一番大切なように、臣下となっては忠が一番大切です。そして、一つの思いを極めなければ、忠孝は全うできません。ですから、古の烈士は、危険が迫っても態度を改めませんでしたし、殺されると判っても逃げず、君や親に殉じたのです。
 しかし、あの機微を察している連中は、安危に気を取られ、去就を選び、家国を顧みません。もしも機微を知っていたとしても、臣にはとても、そんな真似は出来ません。ましてや、臣は及ばなかったのですから、尚更そんなことが出来ましょうか!」
(「父親の悪事を隠さなかった正直者がいる。」と聞いた時、孔子は言った。
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。それを正直と言うのです。」(論語)
 梁深は、祖国に亡国の兆しを見い出し、それを充分知悉していながら、秦の朝廷で口にすることが出来なかった。それは、孔子の言う「正直」である。
 苻堅はそれを賞賛することが出来ず、却って機微を察することの出来ない凡庸な人間だと揶揄した。この一事を以て、秦滅亡の兆しを察することが出来るのである。)
 苻堅は悦綰(太和三年の項参照。荘園の民を摘発して公民へ編入した。)の忠義を聞き、会うことができなかったのを恨んだ。彼の子息を郎中とする。
 王猛は、今回の手柄で使持節・都督東六州諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司・冀州牧となり、業の鎮守を命じられ、清河郡侯へ進爵した。そして、慕容評の屋敷にあった全ての財宝が、王猛へ賜下された。
 陽安は、博平県侯になった。登きょうは使持節・征虜将軍・安定太守となり、眞定郡侯を賜った。郭慶は、持節・都督幽州諸軍事・幽州刺史として薊の鎮守を命じられ、襄城侯を賜った。その他、将士へ各々恩賞が賜下された。
 政治方面では、燕の官吏も抜擢した。又、燕の制令で民に不便なものが在れば、これを変革した。

 十二月、苻堅は、慕容偉や燕の后妃、王公、百官及び鮮卑四万戸を率いて長安へ戻った。
 この時王猛は、梁深を主簿として留めるよう請願した。
 後になって僚属を集めて宴会を開いた時、秦へ来た使者の話題が出た。すると、王猛は言った。
「人の心は様々だ。昔、梁君は燕の美点を述べた。楽君(楽崇)は桓温の恐ろしさを語った。そして赫君は、燕の弱点を密かに語ってくれた。」
 すると、参軍の馮誕が言った。
「今、その三者は全て秦の臣下です。敢えて聞きますが、誰に目をかけられますか?」
「うむ。赫君には先見の明があったな。」
「すると公は、丁公を賞され、李布を誅殺されるのですね。」
 王猛は爆笑した。
(昔、劉邦は、項羽を裏切った丁公を誅殺し、項羽に忠誠を尽くした李布を賞した。
 王猛が赫咎を賞讃したのは、苻堅が梁深を揶揄したのと同じ感覚か?)

 苻堅は、業から帰る途中、方頭で長老を集め、宴会を開いた。その席で、永年の租税免除を約束した。

 甲寅、長安へ到着した。そして、慕容偉を新興侯に封じた。
 燕の旧臣では、慕容評を給事中とし、皇甫眞を奉車都尉とし、李洪をふば都尉として、朝廷に出仕させた。(この三人が、燕の三公である。)
 又、李圭を尚書とし、封衡を尚書郎とし、慕容徳を張掖太守とし、平叡を宣威将軍とし、悉羅騰を三署郎とした。封衡は、封裕の息子である。
 燕のもと太史の黄弘が感嘆した。
「燕は必ず再興する。多分、呉王の力で。ああ、吾の老齢が恨めしい!生きている間に見れるだろうか!」
 汲郡の趙秋が言った。
「天道は燕にある。十五年と経たぬ間に、秦は燕に征服される!」

 慕容桓の息子の慕容鳳は、当時十一才。密かに復讐を志し、鮮卑や丁零の気骨ある者と交わりを結んでいた。
 これを見て、権翼が言った。
「君は才覚が買われているのだ。天命を知らなかった父親の真似をするもんじゃない!」
 すると、慕容鳳は答えた。
「父上は忠を建てようとして遂げられなかった。これは人臣としての節義だ。君侯の先程の言葉は、義を廃らせますぞ!」
 権翼は顔つきを改めて陳謝した。そして、彼は苻堅へ言った。
「慕容鳳には才覚も情熱もあります。しかし、野心を持つ狼の子です。人の下では終わりますまい。」

 簡文帝の感安二年(372年)二月。慕容垂が苻堅へ言った。
「燕を滅ぼしたのは、臣の叔父の慕容評です。聖朝に列席させるのは宜しくありません。それよりも、燕の人々の為に誅殺するべきでございます。」
 苻堅は慕容評を范陽の太守として地方へ飛ばした。又、燕の諸王を全て辺境へ追いやった。
 司馬光、曰く。
 昔の人は、自分の国を滅ぼされても喜ぶことがあった。何故か?征服者が、悪大臣を誅殺するからである。(殷の湯王、周の武王がこれである。漢の劉邦もこれに近かった。)
 さて、あの慕容評とゆう男は、君を蔑ろにして専制し、賢者を忌避し功臣を妬み、愚闇貪欲残虐の限りを尽くして国を滅ぼした。しかも、国が滅んだのに自殺もしないで、オメオメ逃げ出して捕まったのである。
 しかし苻堅は、彼を誅殺せず、そこそこの地位を与えてやった。これでは人を愛したとは言えても、国を愛しているとは言えない。慕容評を誅殺しなかったことによって、苻堅は人望を大いに失ってしまった。
 これでは、苻堅が恩を施しても、恩と感じ取られず、苻堅が誠を尽くしても、誠意と受け取られなくなっただろう。そして遂に功名を遂げられず、天下に身の置き所さえなくなってしまったのだ。
 これは、賞罰に正しきを得なかった為である。

(訳者、曰)
 慕容垂は、秦軍と共に業へ入った時から、燕再興を考えていた。決して人の下につかない人間を屡々狼に例えるが、彼こそまさしくそれだろう。王猛は、一目でそれを見抜いていた様に見える。しかし、もしかしたら、その王猛の陰険なやり方に、慕容垂は愛想を尽かしたのかもしれない。
 あるいは、司馬光が言うように、慕容評を誅殺しなかったのが決定的になったのだろうか?ともあれ、慕容垂は、これだけ寵遇してくれた苻堅を、最終的に裏切ってしまうのである。
 さて、慕容垂が裏切った原因は、前述の三点のみではなく、他にも数多くあるだろう。だが、最も重大な要因と言えば、これは言うまでもなく弘(水/弘)水の敗戦である。
 王猛が誠実に接したら造反しなかったか?慕容評を誅殺したら造反しなかったか?もちろん、「そんなことに関係なく、絶対造反した」とは言い切れないだろうが、弘水の敗戦に限って言えば、「これがなければ慕容垂は絶対に造反しなかった、」と断言できる。
 慕容垂がいかに野心家であろうが、苻堅が堅実に国を維持していたら、何の問題もなかったのである。にも関わらず、王猛は慕容垂を処刑しようとあれこれ画策した。これは、明らかに臣下の分に過ぎた行為である。

 王猛について、名臣としての評価が高かったが、今回この話を読んでみて、いくつが首を捻った箇所がある。一つは慕容垂の謀殺未遂。そして一つは梁深を差し置いて赫咎を褒めたことである。
 これでは知恵者とは言えても、節義正しいとは言えない。国を建てる為には信義が最も大切であることを思えば、彼は大本を治めていなかったと言える。
 ただし、大本を治めるのが迂遠なやり方であるのも又、事実だ。そして、もしも目先の利益に専念するなら、王猛は赫咎を褒めなければならない。
 梁深を赫咎の上に置けば、敵国の臣下達へ対して、「情報を提供しない方が得である。」と宣伝することになる。そうすると、忠臣ばかりか、利害で転ぶ人間までが自国の為に力を尽くすことになってしまう。
 この時点では、秦はまだ東晋を滅ぼしてはいなかったし、小国とはいえ、前涼もまだ割拠していた。王猛が、速やかに成果を挙げることを考えても、それは意外ではない。
 だいたい、戦乱の世の中では、弱者は滅ぶ。大本を固めるのは大切ではあるが、迂遠である。そのやり方で強国になるには時間がかかる。そんなことをすれば、強国になる前に、他の国から滅ぼされてしまうではないか。
 だから、まず、最初に成果を挙げなければならない。その為には、利害打算や奇策に走ることになる。
 それに対して、国を治める為には、士吏へ道義心を弁えさせねばならない。平和な世の中ならば、少しぐらい時間を掛けてでも、大本を固めた方が、長い目で見れば効果が高い。 結局の所、謀略を駆使して天下を平定し、天下が泰平になったならば、道義心に重点を置くことになる。
 劉邦が丁公を誅殺し、李布を賞したのは、天下を統一した後だった。王猛が赫咎を梁深の上に置いたのは、まだ敵が残っている時だった。その状況は同じではない。
王猛はそれを知悉していたに違いない。だからこそ、劉邦を持ち出されて非難されても、爆笑して済ませたのである。
 王猛は、節義よりも実利を追求した。それは、彼が置かれた立場を考えるならば、そうしなければならなかったのだ。だが、この中にこそ、乱世の本当の恐ろしさが潜んでいる。
 この話で「機微を知る」と褒められる人間は、全て裏切り者である。そして、節義正しい者は、「天命を知らない」と非難された。
 乱世に於いては、節義を知る人間を「愚か者」と非難しなければならなかった。そうすると人々はますます節操を無くす。それによって乱世は益々混迷を深める。その悪循環の中で、中国の内乱は二百年にも及んだのである。嗚呼!