慕容、秦に背いて燕を復す。 慕容垂、西燕を滅ぼす。

 

 東晋の孝武帝の太元十年(385年)、七月。苻丕は兵を率いて、方頭から業へ戻った。東晋の龍驤将軍檀玄が攻撃してきたが、これを撃退し、苻丕は業へ入城した。
 さて、苻丕は業へ入城すると、西へ向かおうと思った。すると、壺関へ據った幽州刺史の王永が、使者を派遣して苻丕を招いたので、苻丕は業の住民六万世帯を率いて西進した。驃騎将軍張毛とへい州刺史王騰が、この一行を晋陽へ迎え入れた。
 ここへ到着して、苻丕は始めて長安陥落を知った。苻堅も既に死んでいたので、苻丕は喪を発し、即位して皇帝となった。苻堅を「宣昭皇帝」と追諡する。廟号は世祖。大赦を下し、大安と改元する。

 慕容垂は、魯王和を南中将郎として、業を統治させた。慕容農を龍城へ派遣して餘巖を討伐させた。慕容麟と慕容隆は渤海を攻略した。

 九月、苻丕は張毛を司空とし、王永を都督中外諸軍事、車騎大将軍、尚書令とし、王騰を中軍大将軍、司隷校尉とし、苻沖を尚書左僕射として西平王に封じた。妃の楊氏を皇后とし、子の苻寧を皇太子とする。
 すると、秦の尚書令の苻簒が関中から晋陽へ逃げ込んできた。苻丕は、苻簒を太尉とし東海王に封じた。

 十月、西燕王の慕容沖は尚書令の高蓋へ、後秦討伐を命じた。高蓋は後秦軍と新平の南で戦って大敗し、後秦へ降伏した。
 高蓋は、楊定を養子としていたが、彼は隴右へ逃げ、元の部下をかき集めた。

 苻丕の即位が伝わると、河北の苻定、苻紹、苻謨、苻亮が彼の元へ使者を派遣して、燕へ降伏したことを謝罪し、同心を告げた。中山太守の王兌は博陵を固守し、秦の為に燕を防いだ。
 十一月。苻丕は王兌を平州刺史、苻定を冀州牧、苻紹を冀州都督、苻謨を幽州牧、苻亮を幽・平二州都督に任命し、彼等の爵位を郡公とした。
 左将軍竇衝は、数万の兵力で茲川に據っていた。彼と、秦州刺史王統、河州刺史毛興、益州刺史王廣、南秦州刺史楊璧、衛将軍楊定等隴右の勢力が苻丕の元へ使者を派遣し、後秦討伐を焚き付けた。苻丕は、彼等の地位を州牧へ昇進した。
 楊定は、やがて歴城を築城した。そして兵糧を百頃へ置き、「龍驤将軍、仇池公」と自称し、東晋へ使者を派遣して「藩」と称した。そこで、東晋朝廷は、その称号を認めた。その後、彼は天水、略陽を奪取し、「秦州刺史、隴西王」と自称した。

 慕容麟は、博陵の王兌を攻撃した。城内では矢も兵糧も底を尽いた。すると、功曹の張猗が城を抜け出て民衆をかき集め、慕容麟へ内応した。王兌は、城の上から彼を罵って言った。
「卿は秦の民。そして我は卿の主君。卿は起兵して敵に内応したのに、『義兵』と号している。名と実と、何とかけ離れていることか!今、人々は卿の一切の功績を忘れたどころか、卿の不忠不孝の行いが、その心へ永遠に刻み込まれたのだ。中州は礼儀の国だ。それなのに卿のような人間が生まれるとは、思いにもよらなかった!」
 十二月、慕容麟は博陵を抜き、王兌と苻鑑を捕らえ、殺した。
 昌黎太守の宋敞は、烏桓、索頭の兵卒を率いて救援に向かっていたが、間に合わなかったので引き返した。
 苻丕は、宋敞を平州刺史に任命した。

 同月、慕容垂は中山へ移住した。この時、諸将へ言った。
「楽浪王(慕容温)は、流民をかき集め、倉廩を満たし、外へ対しては兵糧の供給地となり、内には宮殿まで造った。蕭何と雖も、彼の功績には及ぶまい!」
 そして慕容垂は、中山に遷都した。

 苻定は、信都に據り、燕の進攻を防いでいた。慕容垂は、従弟の北地王慕容精を冀州刺史に任命し、これを攻撃させた。

 十一年、正月、慕容垂は即位して皇帝となった。
 二月、大赦を下し、公卿百官を設置し、宗廟、社稷を繕った。
 慕容農を遼西王、慕容麟を趙王、慕容隆を高陽王に封じる。尚書令は慕容徳。左僕射は慕容楷、司隷校尉は慕容温。

 正月、姚萇は安定へ移動した。

 同月、秦の益州牧王廣は、隴右から兵を退き、河州牧の毛興を攻撃した。毛興は、建節将軍衛平を差し向けて夜襲し、これを大いに撃破した。
 二月、秦州牧王統は、王廣へ援軍を派遣して毛興を攻撃した。これに対し、毛興は籠城した。
 四月、毛興は王廣を攻めて撃退した。王廣は秦州へ逃げたが、隴西鮮卑の匹蘭が捕らえて、後秦へ引き渡した。
 毛興は更に上圭の王統を攻撃しようとしたが、兵役に苦しんだ枹罕の諸ていが、造反して毛興を殺した。彼等は衛平を河州刺史へ推戴し、秦へ使者を派遣して事情を伝え、苻丕はこれを承認した。

 二月、西燕の慕容沖は、長安の生活を楽しんでいた。そして、強大な慕容垂を恐れ、東へ向かおうとはしなかった。そこで、農耕を勧め宮室を築き、久安の計へ出たのである。望郷の念が止まない鮮卑族は、心中、主君を恨み始めた。
 左将軍韓延は、兵卒達の不満につけ込んで造反し、慕容沖を攻撃して殺した。そして、慕容沖麾下の将軍段随を燕王とし、昌平と改元した。
 三月、僕射の慕容恒と尚書の慕容永が段随を襲撃し、殺した。そして宣都王の子の慕容を立てて燕王とし、建明と改元した。こうして、鮮卑の男女四十万世帯を率いて、東進を開始したのである。(苻堅が強制移住させてから、実に十七年後のことである。望郷の念とは、かくも止みがたいものなのだ。)
 慕容恒の弟の慕容韓が、慕容を誘い出して殺した。慕容恒は怒り、慕容韓を置き去りにした。すると、慕容永と武衛将軍の句雲が慕容韓を攻撃した。慕容韓は破れ、慕容恒のもとへ逃げ込んだ。
 慕容恒は、慕容沖の子息の慕容瑶を立てて皇帝とした。慕容沖へ威皇帝と諡する。
 しかし、民衆は慕容瑶の元から逃げ出し、慕容永の元へ逃げ込んだ。慕容永は慕容瑶を捕らえて殺し、慕容泓の息子の慕容忠を皇帝とした。建武と改元する。慕容忠は、慕容永を太尉、守尚書令に任命し、河東公へ封じた。
 慕容永は寛大・公平な人柄だったので、ようやく鮮卑の民情は落ち着いた。
 一行が聞喜へ到着した時、慕容垂が皇帝と名乗ったことが伝わった。そこで、そこから先へは敢えて進まず、燕煕城を築いて居住した。

 鮮卑族が東進すると、長安が空虚になり果てた。そこへ、前の栄陽太守趙穀等が、杏城の廬水胡赦奴とその部下四千人を長安へ招き入れた。すると、渭北の軍閥達も続々と長安へ駆け込んだ。趙穀は丞相に推戴された。
 扶風では、王麟が数千の部下を率いて馬嵬山を根城としていた。廬水胡赦奴は、弟の赦多を派遣してこれを攻撃させた。
 四月、姚萇が安定から攻め込み、王麟は漢中へ逃げた。姚萇は赦多を捕らえると、長安目指して進軍した。赦奴は恐れ降伏したので、姚萇は彼を鎮北将軍に任命した。
 長安を占領した姚萇は皇帝位に即いた。父の姚弋仲を景元皇帝と追尊する。子の姚興を皇太子に立て、百官を設置した。
 群臣を集めて大宴会を開き、宴たけなわの時、姚萇は言った。
「朕はかつて、諸卿等と共に秦に仕えていた。それが今では君臣である。さぞ恥ずかしかろう!」
 すると、趙遷が言った。
「天は、陛下を子として恥じません。我等がどうして臣下となることを恥じましょうか!」
 姚萇は爆笑した。

 六月、西燕の句雲等が主君の慕容雲を殺し、慕容永を「使持節、大都督中外諸軍事、大将軍、大単于、よう・秦・梁・涼四州牧、録尚書事、河東王」に推戴し、燕の慕容垂へ対して臣従した。

 同月、慕容垂は慕容楷、慕容麟、慕容紹、慕容宙等に秦の苻定、苻紹、苻謨、苻亮等を攻撃させた。戦闘に先立って、慕容楷が書を与えて禍福を説くと、苻定等は皆降伏した。
 慕容垂は彼等を皆侯に封じ、言った。
「秦主から受けた恩に報いたいのだ。」

 王永は、四方の公侯、牧守、塁主、民豪へ檄を飛ばし、共に姚萇、慕容垂を討とうと呼びかけた。各々がその兵力をひっさげ、孟冬の上旬を期して臨晋へ集結しよう、と。
 すると、天水の姜延、馮翊の寇明、河東の王昭、新平の張晏、京兆の杜敏、扶風の馬朗、建忠将軍の王敏等が、各々数万の兵力を率いて決起し、秦へ使者を派遣した。
 苻丕は、彼等を将軍や郡守に任命し、列侯に封じた。
 冠将軍の登景は、五千の兵力で彭池に據り、竇衝と連携して姚萇を挟撃した。苻丕は、登景を京兆尹に任命した。
 姚萇は、安定の五千余世帯を長安へ移住させた。
 七月、秦の平涼太守金煕と、安定都尉没奕干が、後秦の姚方成と戦い、これを破った。姚萇は、弟の姚緒を司隷校尉に任命して長安の守備を任せ、自身で兵を率いて金煕等を攻撃し、大勝利を収めた。

 さて、罕の諸ていは、衛平を一旦は推戴したのだが、衛平が老齢だった為、これを廃したかった。ただ、彼の宗族が強制なのを憚り、実行できなかったのだ。
 ある時、啖青が諸将へ言った。
「大事を図るには、時期が大切だ。そうでなければ変事が起こる。さて、諸君は、ただ宴会を開いて衛平を呼び寄せればよい。後のことは、万事俺がやるから。」
 そこで、諸将は七夕に大宴会を催した。その宴席で、啖青は剣を抜いて言った。
「今、天下は大乱だ。我等は一蓮托生。しかし、賢主でなければこの時局を乗り切ることができん。衛公は既に老齢だ。隠居して謙譲の美徳を全うすればよい。
 狄道長の苻登は、王室の一員とは言え、志略は雄明。共に彼を立て、大駕へ赴こうではないか。諸君、不服な者は言ってくれ。」
 裾を祓って剣を構え、反対者を斬り殺さんばかりの勢いに、敢えて仰ぎ見ようとする者さえ居らず、諸将は皆、彼に従った。
 此処に於いて、苻登は五万の兵を率い、東下して隴へ出、南安を攻撃し、これを抜いた。そして、使者を派遣して、秦へ報告した。
 八月、苻丕は、苻登を「征西大将軍、開府儀同三司、南安王」に任命し、彼等の軍閥で自称していた持節や州牧、都督等の官職を全て追認した。
 又、苻丕は徐義を右丞相に任命。王騰に晋陽を守らせ、陽輔に壺関を預け、自身は四万を率いて平陽へ進軍した。

 話は前後するが、姚萇の弟の姚碩徳は、隴上に住んでいた。姚萇が造反したと聞いた時、彼は呼応して決起した。征西将軍と自称して、民衆をかき集め、冀城を占領し、兄の孫の姚詳を隴城へ據らせ、一族の姚訓を南安の赤亭に據らせた。そうして、秦の秦州刺史王統と対峙していたのである。
 姚萇は、安定を攻略した後、姚碩徳と合流し、王統を攻撃した。すると、天水、略陽近辺のきょうや胡が加勢に駆けつけた。その数二万。
 秦の略陽太守王皮は、後秦へ降伏した。
 九月、王統は秦州ごと後秦へ降伏した。
 姚萇は姚碩徳を秦州刺史とし、上圭を鎮守させ、安定へ帰った。

 十月、西燕の慕容永は、東へ帰る為、苻丕の領土を通過することを求めたが、苻丕はこれを却下し、慕容永と襄陵にて戦った。
 秦軍は大敗し、左丞相王永、衛将軍倶石子等が戦死した。
 話は遡るが、東海王苻簒が長安から駆けつけた時には、その麾下に三千余人の壮士が居た。苻丕は、これを忌避した。
 今回の大敗の後、苻丕は苻簒から殺されることを恐れ、数千騎を率いて東垣へ逃げ、洛陽を襲撃しようと思った。
 東晋の揚威将軍馮該が、陜から出撃してこれを討ち、苻丕を殺し、その太子の苻寧と、長楽王寿を捕らえ、建康へ送った。東晋朝廷は、彼等を誅さず、苻宏へ委託した。
 苻簒と、弟の苻師奴は秦の兵卒数万を率いて杏城へ逃げ込んだ。その他の王公や百官は、
皆、慕容永へ降伏した。
 慕容永はさらに進軍して、長子に據り、ここで皇帝位へ即いた。中興と改元する。
 慕容永は、秦の皇后の楊氏を上夫人にしようとしたが、楊氏は短刀を懐へ忍ばせ、慕容永へ斬りつけた。慕容永は、楊氏を殺した。

 秦の苻登が南安で勝ってから、夷・夏の住民が、次々と彼に帰順した。その数三万世帯。 威勢が挙がった苻登は、遂に秦州の姚碩徳を攻撃した。すると、姚萇が自ら救援に駆けつけた。
 苻登は、胡奴阜にてこれと戦い、大勝利を収めた。二万余りの首級を挙げ、啖青将軍は、姚萇を射、その矢は見事、姚萇へ当たった。
 姚萇の傷は重く、上圭まで逃げた。その部下は、姚碩徳が代わって指揮した。
 十一月、秦の尚書寇遣は、渤海王の懿と済北王の永を奉じ、杏城から南安へ逃げた。南安王の苻登は苻丕の崩御を発表して服喪し、哀平皇帝と諡した。苻登は、苻懿を主君にしようと発案したが、部下達は言った。
「渤海王は先帝の子息ではありますが、未だ幼少です。今、三虜(姚萇・慕容垂・慕容永)が隙を窺う難局にありますので、年長の主君が必要なのです。我等の主君は、大王以外居りません。」
 そこで、隴東に祭壇を設け、苻登が即位した。大赦を下し、太初と改元。百官を設置する。
 苻登は、世祖(苻堅)の神像を造ると、軍中に置き、精鋭三百に護らせた。そして命令は全て、この神像へ奏上してから発布した。率いる兵力は五万。これで後秦攻撃を開始した。将士の鉾や鎧には、全て「死」「休」の文字を刻印し、戦う度に敵を蹴散らした。
 話は遡るが、慕容沖が長安を陥落する直前、徐嵩と胡空が各々五千を率いて砦に引きこもっていた。彼等はその後、後秦へ降伏して官爵を拝受していた。姚萇は、苻堅の死体を、彼等の二塞の真中へ埋葬した。
 苻登が東征してここまで来ると、徐嵩と胡空は降伏してきた。苻登は、徐嵩をよう州刺史に、胡空を京兆尹に任命し、苻堅を天子の礼で改葬した。

 慕容柔、慕容盛、及び慕容会(慕容盛の弟)は、皆、長子に居た。(彼等は太元九年に長安から脱出。慕容沖のもとへ逃げ込み、慕容沖が死んだ後は、慕容永に従って東進した。)
 慕容盛が、柔・会へ言った。
「主上は既に幽・冀を恢復したが、我等は未だ東西に分裂したままだ。(慕容垂と慕容永に分裂したことを言う。)そんな中で、我々は嫌疑を掛けられている。このままでは粛清されるだろう。座して死を待つよりも、東へ逃げようではないか!」
 遂に、三人揃って後燕へ亡命した。
 彼等が亡命すると、慕容垂は慕容盛へ聞いた。
「長子の人情はどうかね。」
「西軍は乱れております。兵卒達は早く東へ帰りたい、その一心だけ。ですから陛下は、ただ仁政を修めて時をお待ち下さい。そして大軍で臨めば、兵卒達は武器を放り出して投降するでしょう。あたかも孝子が慈父のもとへ駆けつけますように。」
 慕容垂は悦び、彼等を王公に封じた。
 年余の後、西燕皇帝の慕容永は、慕容儁及び慕容垂の子孫を皆殺しとした。

 十二月、慕容垂は魏王の拓跋珪を西単于に任命し、上谷王へ封じたが、拓跋珪は受けなかった。(既に全国制覇を志していたのである。詳細は、「拓跋、魏を興す」に記載。)

 十二年、正月。苻登は妃を皇后に立て、苻懿を皇太弟に立てた。東海王苻簒のもとへ使者を派遣し、「使持節・都督中外諸軍事・太師・領大司馬」に任命し、魯王に封じた。苻師奴(苻簒の弟)は、「撫軍大将軍・へい州牧」に任命し、朔方公に封じた。
 すると、苻簒は使者を叱りつけた。
「渤海王は、先帝の子息だ。安南王は何故彼を立てずに、自ら即位したのか!」
 だが、長史の王旅が諫めた。
「安南王は、既に即位したのです。今すぐ退位する事など、できる筈がありません。寇虜が暴れ回っております現在、宗室同士が仇敵となってはなりません。」
 苻簒はこれを聞き入れ、称号を拝命した。

 同月、姚萇は、秦州の豪族三万世帯を安定へ移住させた。

 三月、苻登は竇衝を南秦州牧、楊定を益州牧に任命した。
 四月、後秦の征西将軍姚碩徳が、楊定に迫られ、径陽まで退却した。楊定は苻簒と共にこれを攻撃し、碩徳は大敗した。すると姚萇が自ら救援に出向いたので、苻簒は敷陸まで撤退した。

 七月、苻登は瓦亭まで進撃した。
 八月、秦の馮翊太守蘭續が二万の兵力で和寧へ攻め込み、苻簒と共に長安攻撃を謀った。
 苻簒の弟の苻師奴は、苻簒へ即位するよう勧めたが、苻簒はこれを却下した。そこで、苻師奴は苻簒を殺し、その部下を奪った。それを知って、蘭續は、苻師奴と絶縁した。
 そうこうするうち、西燕の慕容永が、蘭續を攻撃した。そこで、蘭續は後秦へ救援を求めた。姚萇は自ら救援に赴きたかったが、尚書令の姚旻と左僕射の尹緯が言った。
「苻登が瓦亭まで出張っております。今出撃すれば、その隙に乗じられます。」
「なに、苻登の軍は確かに大軍だが、統一がとれていない。それに、苻登自身決断力がないから、軽騎で敵地深く突入することなどできはせんよ。我は、両月の間に、敵を撃破して戻ってくる。苻登が来襲しても、何もできんさ。」
 九月、姚萇は泥源にて苻師奴を大いに破った。苻師奴は鮮卑へ逃げた。屠各の菫成等は、皆降伏した。
 十月、姚萇は更に進撃し、慕容永と河西で戦い、慕容永は敗走した。蘭續は兵を列ねて守ったが、姚萇はこれを攻め落とし、蘭續を捕らえて杏城へ戻った。

 後秦の姚方成が、徐嵩の砦を攻撃し、これを抜いた。姚方成は徐嵩を捕らえ、その罪状を数え上げたが、徐嵩は却って姚方成を罵った。
「お前達の姚萇こそ、殺されるべき大罪を犯したではないか。苻黄眉が斬ろうとしたが、先帝がこれを止めたのだ。(升平元年。姚襄が敗北した時のこと)そればかりか、内外で重職を授かり、栄寵を極めた。犬や馬でさえ養われたら恩を知るとゆうのに、逆にその恩人を手に掛けた。お前達きょうには人間の倫理がない。グダグダ言わずにサッサと殺せ!」
 姚方成は激怒し、徐嵩を三斬(足を斬り、腰を切り、首を斬る)した。そして徐嵩の兵卒達は全員穴埋めにし、その妻子は報酬として部下へ分配した。
 姚萇は、苻堅の屍を掘り出すと、無数に鞭打ち、衣服を剥ぎ取って棘を巻き付け、穴の中へ直埋にした。

 十三年、二月。苻登は朝那へ、姚萇は武都へ出張った。以来、屡々戦い、互いに勝ったり負けたりした。七月になって、ようやく、互いに軍備を解いて退却した。
 後秦は、なかなか秦を滅ぼせない。そこで、関西の豪傑達の中には、後秦へ愛想を尽かし、秦へ帰順する者が続出した。
 八月、苻登は、息子の苻崇を皇太子とし、他の二人の子息(弁と尚)も、それぞれ王にした。
 十月、姚萇は安定へ帰った。苻登は新平にて兵糧を補充し、万余の兵を率いて姚萇の陣を包囲した。四面から哭声が響く。これに対し、姚萇も陣営の中で哭声を挙げさせて対抗した。すると、苻登は退却した。(???今一、良く判らない。呪術合戦の趣がある。千五百年前の人間の事だから、案外、迷信深かったのかも知れない。以下のエピソードでも、その一面は伺える。)

 十四年、正月。姚萇は、屡々秦に敗れたので、これは苻堅の神助があるのかと疑った。そこで、苻堅の像を造らせると、これへ祈祷した。
「臣の兄の姚襄は、『必ず復讐せよ』と臣へ命令して死んで行きました。新平にて陛下を手に掛けたのは、兄の命令に従ったまで。臣の罪ではありません。苻登は陛下の傍流ですが、それでも陛下の為に復讐しようとなさっているのですよ。ましてや、臣にとって姚襄は実の兄。どうして忘れられましょうか!
 それに、陛下は臣を龍驤将軍に任命して下さった時、『国を建てる役職だ』と仰られたではありませんか。臣は、その言葉を遵守しておるのです!
 今、陛下の神像を建てました。どうか、陛下。これ以上臣の過を懲らさないで下さい。」
 苻登はこれを楼から眺め、姚萇へ呼びかけた。
「臣下の分際で主君を殺し、その主君の像に福を祈る。何の御利益があるものか!」
 そして、大声で怒鳴った。
「主君を弑逆した大賊の姚萇、何故出てこない!お前と俺で勝負を決するぞ!」
 だが、姚萇は応じなかった。
 これから暫くの間、戦局は不利で、しかも軍中に夜な夜な怪異が起こった。そこで姚萇は苻堅の像の首を斬り、秦の陣へ送りつけた。
 後秦は屡々敗北した。五月、姚萇は中軍将軍の姚崇に大界を襲撃させた。ここには、秦の輜重が貯蔵してあったのだ。しかし、苻登はこれを安丘にて迎撃し、撃退した。
 苻登は、更に後秦の右将軍呉忠等を平涼にて攻撃し、これに勝った。
 八月、苻登は苟頭原に據って、安定に迫った。後秦の諸将は、姚萇へ決戦を勧めたが、姚萇は言った。
「切羽詰った敵と真っ向から戦うのは、兵家の禁忌だ。計略を用いてやっつけよう。」
 そして、尚書令の姚旻を安定に留めると、夜、三万騎を率いて大界を襲撃し、秦の輜重部隊を撃破した。苻登の皇后(毛氏)及び、子息の苻尚を殺し、名将数十人を捕らえ、男女五万人を略奪して帰った。
 皇后の毛氏は美しく、そして勇敢な女性で、騎射が巧かった。後秦軍が突入してきた時も、毛氏は弓をつがえて馬に跨り、壮士数百人を率いて戦った。しかし、衆寡敵せず、遂に後秦に捕らえられたのである。
 姚萇は、彼女を気に入り、後宮へ納めようと思ったが、毛氏は罵った。
「姚萇!先には天子を殺し、今は皇后を凌辱したがる。皇帝は天、皇后は地。お前など、天地に容れられぬ大罪人だ!」
 姚萇は、毛氏を殺した。
 諸将は、秦軍の駭乱につけこんで攻撃しようと請うたが、姚萇は言った。
「確かに秦軍は混乱しただろうが、今は怒気盛んだ。軽んじてはならぬ。」
 苻登は敗残兵をかき集めて胡空堡まで退いた。
 姚萇は、姚碩徳に安定の守備を任せた。又、安定の住民を千世帯ほど陰密へ移し、征南将軍姚靖(碩徳の弟)に鎮守させた。
 九月、苻登は東へ移動した。
 姚萇は秦州の守宰を碩徳に選ばせ、従弟の姚常に隴城を守らせ、刑奴に冀城を守らせ、姚詳に略陽を守らせた。

 楊定が、隴・冀を攻撃し、これに勝つ。姚常を斬り、刑奴を捕えた。姚詳は略陽を放棄し、陰密まで逃げた。そこで、楊定は「秦州牧・隴西王」と自称した。これに対して苻登は、その称号を追認した。
 十月、苻登は竇衝を「大司馬、都督隴東諸軍事、よう州牧」に任命し、楊定を「左丞相、都督中外諸軍事、秦・梁二州牧」に任命し、共に後秦を攻撃することを約束した。又、楊政、楊楷も各々出兵し、長安にて合流するよう盟約を交わした。
 この二人は、共に河東の人間である。苻丕が敗れた後、彼等は各々流民数万戸をかき集め、楊政は河西に據り、楊楷は湖・陜近辺に據って、苻登へ使者を派遣し、恭順を誓った。そこで苻登は、楊政へ「監河西諸軍事、へい州刺史」、楊楷へは 「都督河東諸軍事・冀州刺史」の称号を与えていた。

 十二月、東門将軍任瓦が、姚萇の命令で、秦軍へ偽りの使者を派遣した。
「どうか攻撃をして下さい。呼応して私の守る東門を開きます。」
 苻登はこれに従った。ところが、この時兵を率いて外にいた征東将軍の雷悪地が、これを聞いて慌てて駆けつけた。
「姚萇はずる賢い人間。うかと信じられません!」
 そこで、苻登は中止した。
 その経緯を聞いて、姚萇は言った。
「あの男が居る限り、秦を滅ぼせんぞ!」
 雷悪地は、勇略が人並みはずれていたので、苻登は彼を、密かに憚っていた。雷悪地は懼れ、後秦へ降伏した。姚萇は彼を鎮軍将軍とした。

 十五年、正月。慕容永は兵を率いて洛陽へ向かった。東晋の朱序が河陰から黄河を渡り、これを攻撃して敗った。
 朱序は白水まで追撃したが、「擢遼が洛陽を狙っている」と聞き、引き返して、擢遼を撃退した。鷹陽将軍の朱黨に石門を守らせ、その子の朱略に洛陽を守らせ、参軍の趙蕃を補佐として残して、朱序は襄陽へ戻った。

 三月、姚萇が新羅堡にて、秦の扶風太守の斉益男を敗り、斉益男は逃げた。
 苻登は隴東を攻撃したが、姚萇が救援に赴いたので、退却した。

 四月、秦の鎮東将軍の魏掲飛が、衝天王と自称し、てい・胡を率いて杏城の姚當成を攻撃した。すると、雷悪地が造反してこれに応じ、李潤の姚漢得を攻撃した。
 姚萇は、これを自ら攻撃しようとした。すると、群臣はこぞって言った。
「陛下は、六十里先の苻登よりも、六百里先の魏掲飛を優先なさるのですか?」
「苻登は簡単には滅ぼせんが、我が城も又、苻登にオメオメ陥されはせん。雷悪地の知略は並外れておる。これが魏掲飛と連合し、更に菫成を仲間に引き込み、杏城と李潤に據れば、長安から東は我が版図ではなくなる。」
 とど、姚萇は千六百の精鋭を率いて、密かに出向いた。
 魏掲飛と雷悪地には数万の兵力があり、てい・胡がその傘下へ続々と赴いて来た。だが、一軍が入ると聞く毎に、姚萇は大いに喜んだ。群臣が怪しんでその訳を問うと、姚萇は答えた。
「魏掲飛が、同類を煽動して一堂に会したのだ。奴だけを滅ぼしても悪根はあちこちに残るが、奴等が烏合してくれたおかげで、一戦にして根まで枯らすことが出来る。」
 魏掲飛が敵を見ると、後秦軍は少数だった。そこで、全軍を挙げて攻撃した。これに対して、姚萇は堅固な砦に引きこもって戦わず、弱気を示した。その傍ら、子息の姚崇へ数百騎を与え、密かに敵の背後へ回らせた。魏掲飛の兵が混乱したのを見計らい、鎮遠将軍王超を派遣して攻撃し、魏掲飛及びその兵卒万余を斬り殺した。
 雷悪地は降伏した。すると姚萇は、彼を当初のように厚遇した。ある時、雷悪地は言った。
「俺の智勇は一世に傑出していると自認していたが、姚翁には事毎にしてやられた。これが俺の分なのだろう。」

 七月、馮翊の敦質が廣郷にて起兵し、秦へ呼応した。そして、三輔へ檄文を飛ばす。
「姚萇は凶暴残虐な人間で、神も人も傷つける。そして我等は先帝(苻堅)から、堯や舜の仁を受けた。君達は、侍中や尚書の子でなければ、卿や牧守の孫なのだ。恥を含んで生きるより、むしろ道を踏んで死のうではないか!」
 此処に於いて三輔の民衆は、あちこちで砦を築いてこれに応じた。ただ、鄭県の苟曜のみが数千をかき集めて後秦へ帰属した。
 秦は、敦質を馮翊太守に任命した。そして後秦は、苟曜を豫州刺史に任命した。
 十二月、敦質は苟曜と鄭県の東で戦い、敗北して洛陽へ逃げた。

 十六年、三月。苻登は范氏堡にて後秦の安東将軍金栄を攻撃し、これに勝つ。そのままい水を渡って京兆を攻撃したが、勝てなかった。しかし、更に進軍し、曲牢に據った。

 四月、苟曜は苻登へ内応を申し込んだ。苻登は曲牢から繁川へ向かい、馬頭原に屯営した。姚萇はこれを迎え撃ったが、苻登は撃退し、右将軍の呉忠を斬った。
 姚萇が敗残兵をかき集めて雪辱戦を挑もうとすると、姚碩徳が言った。
「陛下、どうか軽々しく戦われず、計略で敵を破って下さい。今、戦況は不利なのに、更に前進して賊に迫ろうとしておいでです。何か理由があるのですか?」
 すると、姚萇は言った。
「苻登の用兵は緩慢で、虚実を知らない。それが今、軽兵で直進し、長安の東まで出張った。これはきっと、小僧っ子の苟曜めが苻登へ内応したのだ。ゆっくりしていると、その謀略が実を結ぶ。だから、彼等が合流する前に撃破しなければならんのだ。」
 遂に苻登と戦い、これを撃破した。苻登は眉まで退却した。

 秦の兌州刺史強金槌が新平に據って後秦へ降伏し、息子の逵を人質として差し出した。姚萇が数百騎を率いて金槌の陣へ入ろうとすると群下が諫めたので、姚萇は言った。
「金槌は既に苻登のもとを去った。ここで我を謀ったら、奴はどこに行けるのか!それに、彼は帰順したばかりで不安な筈だ。誠実に接してやらねばならんのに、何で疑うようなことができようか!」
 姚萇が陣へ入ると、群ていはこれを殺したがったが、金槌は承知しなかった。

 七月、苻登は新平を攻撃したが、姚萇が救援に来たので、苻登は退却した。

 十二月、苻登が安定を攻撃した。姚萇は防戦の為陰密へ出向いたが、この時、太子の姚興へ言った。
「我が出陣したと聞けば、苟曜が必ず謁見を申し込む。その時、お前は奴を捕らえ、誅殺せよ。」
 苟曜は果たして長安へやって来て、姚興へ謁見を申し込んだ。姚興は尹緯へ命じてこれを誅殺した。
 姚萇は、安定城の東で苻登を破り、苻登は路承堡まで退却した。姚萇が酒を振る舞って戦勝を祝うと、諸将は皆、言った。
「もしも魏武王(姚襄)が居ましたら、賊をここまで跋扈させず、とうに滅ぼしていましたものを。陛下は慎重すぎますぞ。」
 すると、姚萇は笑って答えた。
「吾が兄に及ばぬものが四つある。兄は身長が八尺五寸。手は膝まで垂れ、その怪異に人々は畏れた。これが一つ。十万の兵を率いて天下を争い、その軍を遮れる者は居なかった。これが二つ。古きを温め今を知り、道芸を講論して英俊を収めた。これが三つ。大軍を指揮して上下を感悦させ、人々に死力を尽くさせた。これが四つ。
 だが、一国を建設するのに必要なのはそれらではない。群賢を駆使して、その算略の中の採るべき物を見つけ、大いに活用すればよいのだ。」
 群臣は感動し、万歳を唱えた。

 十七年、三月。姚萇が病に伏せった。彼は、姚碩徳に李潤を、尹緯に長安を守らせ、皇太子の姚興を安定へ呼び寄せた。
 征南将軍の姚方成が姚興へ言った。
「今、寇敵を滅ぼしてもいないのに、上は病気に伏せった。今は一丸と成らなければならない時だ。王統等は皆、手勢を控えているので、何をしでかすか判らない。早めに粛清しよう。」
 姚興は得心し、王統、王廣、苻胤、徐成、毛盛を殺した。
 これを知って、姚萇は怒った。
「王統兄弟は、吾の同郷だ。反心などない!そして、徐成等は前朝の名将。吾は彼等を臣下としたのに、何で勝手に殺すのか!」(しかし、何の懲罰も下さない。この怒りは、単なるフェイクと思われる。)

 七月、姚萇が重病と聞いて、苻登は大いに喜んだこれを世祖(苻堅)の御霊へ告げ、大赦を下し、百官全員の官位を二等進めた。そして、馬へ飼葉を与え兵卒を督促して、安定へ迫った。ひとまず、安定城から九十里の地点へ陣を布いた。

 八月、姚萇が小康状態へ回復した。彼は、防戦の為、自ら出陣しした。苻登が迎撃しようとすると、姚煕隆が別方面から秦の陣営を攻撃した。苻登は懼れ、退却した。
 その夜、姚萇は兵を率い、陣の付近へ隠れた。翌朝、苻登の放った斥候が、復命した。
「賊の陣営は空っぽです。兵卒がどこへ行ったか判りません。」
 苻登は大いに驚いた。
「奴は突然現れ、忽ち消えた。もしや、死にかけた姚萇の幽霊ではあるまいな?」
 苻登は、不気味になって擁まで退却した。そこで、姚萇も安定へ戻った。

 十月、巴蜀から関中へ移住した人々が、後秦へ背き、弘農に據って秦へ帰順した。そこで、苻登は竇衝を左丞相へ任命して、華陰へ移動させた。
 河南太守の楊詮期が竇衝を攻撃し、竇衝は逃げた。

 十八年、五月。竇衝は、自身の才能を誇り、天水王に封じるよう、苻登へ請願したが、苻登はこれを拒絶した。
 六月、竇衝は自ら秦王を名乗り、元光と改元した。
 七月、苻登は、野人堡にて竇衝を攻撃した。竇衝は後秦へ救援を求めた。
 尹緯が姚萇へ言った。
「皇太子が仁に厚いことは有名ですが、武勇がありません。ですから、殿下に苻登を攻撃させ、武功を建てさせましょう。」
 姚萇はこれに従った。
 太子の姚興は胡空堡を攻撃した。苻登は竇衝の包囲を解き、胡空堡救援に向かった。姚興は、平涼を荒らし回って帰った。
 姚萇は、姚興を長安へ帰し、鎮守させた。
 十月、姚萇の病状は益々重くなったので、彼は長安へ戻った。

 慕容垂が、西燕討伐を建議した。すると、群臣は言った。
「慕容永には、乗ずるべき隙がありません。それに、我々は連年征討を続け、士卒は疲弊しきっております。どうして奴等を滅ぼせましょうか!」
「吾もそう思う。しかし、吾はもう老いた。積年の智恵を振り絞れば、なんとか奴等を滅ぼすことが出来よう。あの賊徒をこのまま残し、将来に禍根を残したくはない。」
 こうして、戒厳令は布かれた。
 十一月、慕容垂は七万の軍で中山を出陣した。そして、鎮西将軍慕容賛、龍驤将軍張崇を井陜から派遣し、晋陽の慕容友(慕容永の弟)を攻撃させ、征東将軍平規に沙亭の段平を攻撃させた。
 慕容永は尚書令句雲、車騎将軍慕容鐘に五万の兵を与え、路川を守らせた。
 十二月、慕容垂は業へ到着した。

 同月、姚萇は太尉の姚旻、僕射の尹緯と姚晃、将軍の姚大目、尚書の狄伯支を禁中へ呼び寄せ、輔政となるよう遺詔した。
 姚萇は姚興へ言った。
「彼等を傷つけるような進言は、受けるでないぞ。汝は、恩愛で骨肉を慰撫し、大臣は礼遇し、事に及んでは信義を旨とし、民へ対しては仁を篤くせよ。この四つを無くさなければ、吾に憂いはない。」
 姚旻は、涙ながらに苻登の対処について尋ねた。すると、姚萇は言った。
「大業は達成寸前。姚興には才知がある。何でそのようなことを問うのか!」
 翌日、卒した。享年六十四。
 姚興はその喪を隠して発せず、叔父の姚緒に安定を、姚碩徳に陰密を、弟の姚崇に長安を守備させた。
 ある者が、姚碩徳に言った。
「公の威名は鳴り響いております。しかも、その部下は最強。今、新帝が即位したばかり。必ず、朝廷から疑われます。秦州へ逃げ込み、事態を観望するべきです。」
 すると、姚碩徳は答えた。
「太子は聡明にして寛大な人間。そのような憂いは無用だ。今、苻登を滅ぼしてもいないのに、骨肉の争いを起こすなど、自滅の道だ。たとえ死すとも、そんな真似はできん。」
 そして、朝廷へ出向いて姚興へ謁見し、姚興は姚碩徳を礼遇した。
 姚興は大将軍を自称し、尹緯を長史、狄伯支を司空に任命して討秦の軍を起こした。

 十九年、正月。姚萇の死去を知って、苻登は喜んだ。
「姚興など小僧っ子。打ち据えるだけだ。」
 そして、大赦を下し、軍を率いて東進した。司徒の苻廣をように留め、太子の苻崇に胡空堡を守らせ、左丞相、秦・梁・益・涼・沙五州牧に任命し、九錫を加えた。
 二月、苻登は姚奴、帛蒲の二堡を攻め、これに勝った。
 四月、苻登は廃橋へ向かって進軍した。後秦の始平太守姚詳が馬嵬堡へ籠ってこれを防戦する。
 姚興は、尹緯を援軍として派遣した。尹緯は廃橋に據り、秦を待ち受ける。
 秦軍では、水が不足した。これを奪おうとして果たせず、兵卒の二・三割が渇死した。そこで、彼等は尹緯をますます焦って、尹緯を力攻めに攻め立てた。これを知って、姚興は狄伯支を使者として派遣し、尹緯へ伝えた。
「苻登は窮寇だ。慎重に対峙して、これを撃退せよ。」
 すると、尹緯は言った。
「先帝が崩御なさったばかりで、人情は騒然としている。今、力の限りに奮戦して敵を撃退しなければ、我が国は内部から瓦解する。」
 そして、秦軍と戦い、大勝した。
 その夜、秦軍は壊滅し、苻登は単騎でようへ逃げた。ところが、苻崇と苻廣は、敗戦を聞くや城を棄てて逃げたので、苻登はように留まることが出来ず、平涼まで逃げ、そこで兵をかき集めて馬毛山へ入った。
 ここにおいて、姚興は、始めて喪を発表し、即位して皇帝となった。大赦を下し、皇初と改元し、安定へ向かった。後秦皇帝姚萇は、武昭皇帝と諡された。廟号は太祖。

 二月、慕容垂は慕容會を業へ留め、司・冀・青・兌の兵卒を発した。慕容楷を釜口から、慕容農を壺関から派遣し、自身は沙庭から出撃して西燕を討った。この行軍中、行く先々で噂をばらまき、それによって本隊の所在地を眩ませた。
 これを聞いた慕容永は、各街道に厳重な防備を布き、兵糧を台壁へ集めた。この台壁には、従子の征東将軍小逸豆帰、鎮東将軍王次多、右将軍勒馬駒へ一万の兵卒を与えて派遣した。
 慕容垂は、業の西南へ軍を留めて、一月余りも動かなかった。慕容永はこれを怪しんだ。
「太行は道が緩く、通行しやすい。慕容垂は奇策を使ってこれを落とし、全軍を只関へ結集させるつもりではないか?」
 そこで、軍を移動して太行口を封鎖し、台壁には一軍を留めるだけとなった。
 やがて、慕容垂は大軍を率いて釜口から出、天上関へ入った。
 五月、慕容垂は台壁へ到着した。慕容永は、小逸豆帰を援軍に派遣したが、平規がこれを撃退した。小逸豆帰は再戦したが、今度は慕容農がこれを撃破し、弥馬駒を斬り、王次多を捕らえ、遂に台壁を包囲した。
 慕容永は小逸豆帰を呼び戻すと、自ら五万の精鋭を率いて赴いた。
 句雲と慕容鐘は懼れ、手勢を率いて後燕へ降伏した。慕容永は、彼等の妻子を誅殺した。 慕容垂は、台壁の南へ布陣すると、行基将軍慕容国へ千騎を与え、伏兵とした。
 慕容永と戦うや、慕容垂は偽って退却した。慕容永はこれを追撃したが、数里も行かぬうちに慕容国の伏兵が飛び出し、慕容永の軍を前後に分断した。そこへ後燕の諸軍が四面から総攻撃を加え、西燕を大いに破った。斬首は八千級。慕容永は長子へ逃げた。
 敗報を受けた晋陽の守将達が、城を棄てて逃げたので、後燕の慕容賛がここを占領した。 慕容垂は更に進んで長子を包囲した。
 慕容永が後秦へ亡命しようとすると、侍中の蘭中が言った。
「昔、石虎が龍城を攻撃した時、太祖はここを堅守して去らず、遂に大燕の礎を築きました。今、慕容垂は七十近い老いぼれ。戦場暮らしは体にもこたえますし、何年も続けて攻撃することなど出来ません。ただ、城を固く守り、敵の疲れを待ちましょう。」
 慕容永はこれに従った。

 六月、苻登は、息子の苻宗を人質として河南王乾帰のもとへ派遣し、救援を請うた。更に、乾帰を梁王へ進封し、自分の妹を王后として彼へ娶らせた。乾帰は、乞伏益州へ一万の軍を与え、救援として派遣した。
 七月、苻登が援軍を出迎えるところを、姚興が襲撃し、これを撃破した。
 姚興は苻登を捕らえ、殺した。苻登率いる兵卒達は、全員農民とした。陰密の住民三万世帯を長安へ強制連行し、苻登の皇后の李氏は、姚晃へ与えた。
 乞伏益州は、行軍の途中でこれを知り、引き返した。
 秦の太子苻崇は皇中へ逃げ、そこで即位して皇帝を名乗った。延初と改元する。苻登へ高皇帝と諡する。廟号は太宗。
 同月、後秦の安南勝軍強煕と鎮遠将軍強多が造反し、竇衝を王に推戴した。
 姚興は自ら出陣した。彼の軍が武功まで進んだ時、強多の甥の良国が強多を殺して降伏した。強煕は秦州へ逃げた。竇衝も逃げ出したが、逃亡先で捕まり、姚興へ引き渡された。

 八月、慕容永は困窮し、東晋のよう州刺史希恢へ救援を求め、併せて玉璽を献上した。 そこで、希恢は上奏した。
「もしも、慕容垂が慕容永を併呑したら、患は益々深くなります。ここは両国を並び立たせ、機会を見て各個撃破するべきです。」
 東晋の武帝は同意し、青・兌二州刺史王恭と豫州刺史ゆ楷を救援に向かわせた。ゆ楷は、ゆ亮の孫である。
 慕容永は、晋からの援軍が来ないことを心配し、皇太子の慕容亮を人質として派遣した。だが、それを知った平規はこれを追跡して、捕らえた。
 慕容永は、魏にも救援を頼んだ。魏王の拓跋珪は陳留公虔と将軍?岳に五万の兵を与えて派遣した。彼等は東進して河を渡り、秀容に屯営した。
 晋と魏の援軍が到着する前に、大逸豆帰の部将伐勤等が城門を開き、後燕兵を城内へ入れた。後燕軍は慕容永を捕らえ、斬った。併せて、?雲や大逸豆帰など、西燕の公卿や将軍三十余人を斬った。
 こうして、西燕の領土八郡、領民七万余戸及び前秦の乗輿、朝服、伎楽、珍宝等は全て後燕のものとなった。
 慕容垂は、慕容賛に晋陽を守らせ、慕容鳳に長子を守らせた。又、西燕の僚属のうち才能のある者は抜擢した。
 九月、慕容垂は長子から業へ戻った。

 十月、前秦皇帝苻崇は、梁王乾帰に追われ、隴西王楊定のもとへ逃げ込んだ。楊定は司馬の召強に秦州を守らせて、自ら二万の軍を率いると、苻崇と共に乾帰を攻撃した。
 乾帰は軻弾、益州、詰帰等に三万の兵を派遣して防御させた。益州が楊定と戦って敗れ、軻弾と詰帰は戦わずに退却した。すると、軻弾の司馬の擢温が剣を振りかざして怒った。
「主上は雄武を以て国を築き、向かうところ敵なくして秦、蜀に武威を振るった。将軍は宗室の一員にして、職務は元帥。力つき命を落とすまで国家の為に戦うべきです。今、益州が敗れたとはいえ、二軍は健在。それでいて退却するのでは、何の面目あって主上にまみえられましょうか!」
 軻弾は陳謝して言った。
「部下の心根が判らなかったのだ。お前のような人間ばかりなら、吾も死を愛してみせるぞ!」
 とど、騎兵を率いて戦った。すると、益州と詰帰も兵卒を激励してこれに続き、楊定の軍を大いに破った。楊定と苻崇を斬り、一万七千の首級を挙げた。
 かくして、乾帰は隴西を平定した。
 楊定には子供がなかった。仇池を守っていた従兄弟の楊盛が、征西将軍・秦州刺史・仇池公を自称し、楊定へ武王と諡した。彼は東晋へ使者を派遣し、藩と称した。
 前秦の皇太子苻宣は楊盛のもとへ逃げ込んだ。彼は手勢を二十部の護軍に分け、各々砦を造らせたが、郡県は置かなかった。

 

(訳者、曰く)

 前秦もとうとう滅んだ。苻丕の死で殆ど滅亡寸前ではあったが、その後、七年に亘って余命を保つことが出来た。苻登の威勢が振るわず、姚萇に押されていながらもなお、彼に帰順する人間が次々と現れたからだ。これは、苻堅の余慶に他ならない。
 前回も述べたが、苻堅は理想を追う余り現実を見落として滅亡したと言われている。しかし、その理想故の余慶がここまで大きかったことを、今回改めて認識した。彼の善政を追慕する民衆が大勢いたことが、今まで無視され過ぎていた。これは如何にも片手落ちである。
 世の中には歴史を論じる人間は多い。彼等は一つの事件を取り上げ、したり顔をして云々と論を立てる。だが、歴史はその事件の後も続いているのだ。ある行動の結果が、五年後、十年後に実を結ぶことも多い。それらを無視して、一事件だけを論じるのでは、どうして長所と短所を論じ尽くすことが出来ようか。
 かつて、孫子は言った。
「戦争の害を知らない人間は、戦争の利についても語ることが出来ない。」と。
 しかし、それは戦争に限ったことではなく、全てに於いてそうである。物の善悪について判断をつけることは、そうそう容易には行かない。
 人は皆、死ぬまで生きて行く。その寿命は七十年を越えたし、子供の幸福を案じて死んで行く人が多いことを思えば、百年スパンで成果を見ても短いとは言えない。どうして後々の影響を無視して生きて行けようか!

 今、How to本が流行している。曰く、「戦国武将に見る〜」曰く、「中国の〜」。それらは歴史的な事実をもとにして、自説を論証している。一読すれば如何にも正しそうに思えるが、その大半は底が浅い。その多くは、否定したいことについては短所のみを述べ、肯定したい物については長所のみを述べてある。これではどんな論説でも歴史を証拠とすることが出来るが、歴史をそのように使って何の意味があるだろうか!ましてや、後世への影響まで考察して論を立てている物に至っては、殆ど皆無である。
 勿論、学識溢れる人間の考察を読むことは益がある。一つの事件について穿った見方をされたものを読めば、考えもつかなかった見識が広まるだろう。しかし、これのみで済ませるのは非常に危険である。世の中には、人を誑かす書物も多いのだから。
 善悪の判断をつけるには、篤い見識がいる。膨大な歴史を閲し、その時代背景から風俗、後世への影響まで頭に入れ、現在の状況と比較しつつ答えを出さなければならないからだ。その為には、迂遠ではあるが、自分の目で歴史を通読する必要がある。
 自分の人生について真剣に考えるならば、所詮、How to本で手軽に済ませるわけには行かないのだ。