趙・魏、中原を乱す。(燕、魏を滅ぼす)

 

 

 晋の穆帝の永和六年(350年)、李閔(冉閔)は簒奪を決行し、国号を「大魏」と改めた。
東晋朝廷は、この動乱につけ込んで天下を統一しようと、大遠征軍を組織した。総大将は殷浩。(詳細は、「江左の中原計略」に記載。)

 姚弋仲と、蒲洪は、共に関右に割拠しようと目論んでいた。そこで、姚弋仲は、息子の姚襄に五万の兵力を与えて蒲洪を攻撃させたが、蒲洪はこれを迎撃して大いに敗った。三万の兵卒を捕虜とする。
 この戦勝によって、蒲洪は大都督、大将軍、大単于、三秦王と自称し、改姓して苻氏と名乗った。

 二月。燕から、趙討伐の大遠征軍が出陣した。慕容覇が二万の兵卒を率いて東道から徒河へ出、慕容于が西道から翳翁塞へ出、慕容儁自身は中道を通って廬龍塞へ出た。慕容恪、鮮于亮を前駆とした。
 燕の本国では、世子の慕容曄が龍城を守った。又、内史の劉斌を大司農とし、典書令の皇甫真と共に後事を託した。
 慕容覇軍が三徑まで進軍すると、趙の征東将軍登恒は恐れおののき、倉庫を焼き払って安楽から逃げ出し、幽州刺史の王午と共に薊を保った。徒河南部都尉の孫泳は、これを知ると慌てて安楽へ入り、消火に努めて穀帛を守った。
 慕容覇は、安楽を占領し北平の兵糧を入手すると、臨水にて慕容儁と合流した。
 三月、燕軍は無終まで進軍した。
 王午は麾下の将王佗に数千の兵力を与えて薊城へ留め、自身は登恒と共に逃げ出して魯口を保った。
 乙巳。慕容儁は薊を抜き、王佗を捕らえ、これを斬った。
 この時、慕容儁は、捕虜とした千余名の敵兵を悉く穴埋めにしようとしたが、慕容覇が言った。
「趙が暴虐なので、王師がこれを討伐するのです。ですから、民を塗炭の苦しみから救い、中州を慰撫しなければなりません。それなのに、始めて城を陥としたばかりで、もう虐殺をなさろうとする。これでは王師の名声など貰えませんぞ。」
 慕容儁が薊城へ入ると、中州の士女が、次々と降伏してきた。
 燕軍は、次いで范陽まで進んだ。
 范陽太守の李産は、石氏へ忠誠を尽くして防戦しようと思ったが、兵卒達が承諾しない。そこで仕方なく、八つの城の令や長と共に降伏した。
 慕容儁は、李産を太守とした。
 幽州別駕の李続は、李産の息子である。彼はこの時、家族を棄てて、王午に従って魯口へ行った。慕容儁がその父親を太守としたので、登恒は王午へ言った。
「李続の故郷は、既に占領されているし、父親も敵に降伏した。彼は今でこそここに居るが、いつ寝返るか知れたものではない。いたずらに累が及ぶより、奴を消そう。」
 すると、王午は言った。
「何とゆうことを言うのだ!この争乱の時代に、彼は節義に殉じて家族を棄てたのだぞ!昔の烈士に勝るとも劣らない。その彼を、猜疑心から殺してしまえば、燕や趙の士はどう思うか。衆情が一度離散してしまえば、再びかき集めることはできない。それは自滅の策だ。」
 そこで、登恒は思いとどまった。しかし、王午はまだ不安だった。登恒は納得してくれたが、他の諸将が早まるかもしれない。そこで、とうとう李続を慕容儁のもとへ派遣した。味方の手で殺してしまうよりも、その方がましだと考えたのだ。
 こうして、李続は、慕容儁のもとへ赴いた。彼と謁見した時、慕容儁は言った。
「卿は天命を知らず、父を棄てた男だ!それがなんで今頃ノコノコ現れたのか!」
 すると、李続は言った。
「私は旧主への恋慕心を断ち切れず、微々たる節義でも尽くそうと思いました。仕官した以上、我が身は我が物ではないのですから。
 殿下は義を以て天下を取ろうとなさって居られます。ですから私は、降伏する前に旧主へ忠誠を尽くしたことを、回り道をして時機を逸したとは思わないのです。」
 慕容儁は喜び、彼を優遇した。
 慕容儁は、弟の慕容宜を代郡の城郎とした。又、孫泳を廣寧太守とし、幽州の郡県を守宰させた。
 甲子、慕容儁は薊を慕輿句に任せ、自身は魯口の登恒を攻撃した。
 慕容儁軍が清梁まで進撃すると、登恒麾下の将軍鹿勃早が、数千人の兵力で夜襲を掛けてきた。
 彼等はまず、前鋒都督慕容覇の陣へなだれ込んだ。慕容覇は憤撃し、自ら十余人の敵兵を殺す。鹿勃早はそれ以上進めなかった。
 その隙に、燕軍は警備を厳重にした。
 慕容儁は、慕容根に言った。
「敵の士気は旺盛だ。一旦退却したらどうか?」
 すると、慕容根は顔つきを改めて言った。
「我等は多勢で、敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を頼って夜襲を掛けたのです。我等は賊を討伐する為にやってきました。そして今、その賊軍が目の前にいるのです。何を躊躇なさいます!
 王はただ横になって居られて下さい。臣等が、王の為に敵を撃破して見せます!」
 そうまで言われても、慕容儁は不安でならず、内史の李洪を従えて宿営を出ると、小高い丘の上へ移った。
 慕容根は左右の精鋭数百人を率いて、慕容儁の目の前で鹿勃早と戦った。李洪が騎兵を整えて加勢に飛び出すと、鹿勃早は逃げ出した。
 燕軍は追撃し、鹿勃早は体一つで落ち延びた。彼が率いた数千人は、ほぼ全滅。しかし、慕容儁は薊まで、一時撤退した。

 その頃、魏帝の李閔は、姓を故の「冉」へ戻した。母の王氏を皇太后とし、妻の菫氏を皇后とする。嫡子の智を皇太子とした他、諸子の胤、明、裕を王とする。又、李農を太宰、領太尉、録尚書事とし、斉王に封じる。彼の子息も、皆、県公に封じられた。
 対外的には、張沈や苻洪へ対して使者を派遣して特赦を出したが、共に従わなかった。

 麻秋が、苻洪へ言った。
「冉閔と石祇が全面衝突すれば、中原の動乱は長引くでしょう。ですから、この機会に関中を平定して、覇業の基礎を築きましょう。そうしてから東行して天下を争えば、誰が敵うでしょうか?」
 苻洪は同意した。
 しかし、麻秋は、軍閥奪取を考えていた。そこで、ある宴会にて、苻洪の酒へ毒を盛り、彼の部下を奪おうとした。だが、苻洪の世子の苻健が麻秋を捕らえ、斬った。
 毒を盛られた苻洪は、苻健へ言った。
「吾がまだ関中へ行かなかったのは、まず姚弋仲を討って中州を平定しようと思っていたからだ。しかし、それすらできぬ間に、豎子の為に命を落とす。
 中州平定は、お前達兄弟の手に余る。吾が死んだら、お前は急いで関中へ入れ!」
 言い終えて、事切れた。
 苻健は、苻洪の軍閥を踏襲した。だが、大都督、大将軍、三秦王の称号は撤去し、東晋から貰った爵位のみを称した。
 叔父の苻安を使者として東晋へ派遣し、苻洪の喪を告げた。

 趙の新興王石祇は、襄国にて皇帝位へ即いた。「永寧」と改元する。汝陰王の石昆を相国とする。
 州郡に據った六夷は、挙ってこれに呼応した。石祇は、その六夷の中でも、姚弋仲を殊に大切にし、右丞相、親趙王に任命した。

 姚弋仲の息子の中では、姚襄が勇気と知略に富み、多くの士民から敬愛されていた。彼等は、姚襄を世継ぎとするよう請うたが、姚襄は長子ではなかった為、姚弋仲はこれを許さなかった。しかし、毎日千人ほどの将士が請願する。姚弋仲は、彼等を皆、姚襄の部下とした。そして、姚襄を驃騎将軍、豫州刺史、新昌公となす。
 又、苻健へ、都督河南諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司、兌州牧、略陽公の称号を与えた。

 四月、石祇は汝王昆へ十万の兵を与え、魏を攻撃させた。

 冉閔が、李農と彼の三子及び尚書令王謨、侍中王衍、中常侍厳震、趙昇を殺した。彼は、東晋へ使者を派遣して伝えた。
「中原を乱した逆胡は、全て誅殺しました。今こそ共に兵を挙げ、天下を統一しましょう。」
 しかし、東晋朝廷は応じなかった。

 五月、東晋の廬江太守の袁眞が魏の合肥を攻撃し、勝った。その住民を捕虜として還る。
 六月、石昆は邯鄲まで進軍した。すると、鎮南将軍の劉國が繁陽からやって来て合流した。
 魏の衛将軍王泰がこれを攻撃し、撃破する。趙の死者は万を越え、劉國は繁陽へ帰った。

 十一月、冉閔は十万の軍勢で、襄国を攻撃した。息子の太原王冉胤を大単于、驃騎大将軍に任命し、降伏した胡人一千人を麾下へ配置した。すると、光禄大夫の偉諛が言った。
「胡、けつは皆、我等の仇敵です。今回彼等が来降したのは、単に命が惜しかったからです。万一変事が起こったら、悔いても及びませんぞ。どうか奴等を誅殺し、大単于の称号を撤去してください。そうすれば、惨事は回避できましょう。」
 しかし、冉閔は群胡を撫納しようと考えていた矢先だったので、激怒し、偉諛と息子の偉伯陽を誅殺した。
 七年、二月。 冉閔が襄国を包囲して百余日が経過した。この危急に、石祇は皇帝号を撤去し、「趙王」と称して燕に援軍を乞うた。又、姚弋仲へは國璽を送って援軍を乞う。
 姚弋仲は、息子の姚襄に二万八千の騎兵を与えて派遣した。
 この時、姚弋仲は姚襄へ言った。
「冉閔は、仁を棄て義に背き、石氏を屠滅した。我はかつて、石虎から篤い恩顧を賜った。自ら進撃して復讐するべきだろうが、この歳と病で、それもできん。
 お前の才覚は、冉閔に十倍する。必ず、奴を捕らえて帰るのだ。できなければ、二度と戻ってくるな!」
 又、姚弋仲は燕へ使者を派遣して、出軍を告げた。そこで、燕では禦難将軍の悦綰に三万の兵を与えて派遣し、これと合流させた。
 燕が援軍を派遣すると聞いた冉閔は、大司馬従事中郎の常偉を燕へ派遣した。
 慕容儁は封裕に面会を命じ、彼に言わせた。
「冉閔は石氏の養子なのに、その恩に背いて造反した。そんな男が、なんで皇帝など名乗るのか!」
 すると、常偉は言った。
「湯はけつを放逐し、武王は紂を討伐し、商・周を興した。宦官に養われた曹孟徳は、その出処など知れたものではないが、遂に義の基盤を築いたではないか。いやしくも天命でなければ、彼等がどうして成功しただろうか!これから推し量るに、そのように言われるいわれはない!」
「冉閔が即位した時、自分の将来を占おうと、黄金で自分の像を造らせたところ、像はできなかったと聞いているが、それは事実かな?」
「いや、聞かぬ。」
「南から来た者は皆、その噂を吹聴しておるぞ。なんで隠すのだ?」
「奸偽の人間は、天命をでっちあげて人々を惑わそうとする。そんな連中は、瑞兆だの亀などに仮託して、自分に重みをつけるのだ。
 しかし、魏帝は符璽を握り、中州を支配している。受命を疑う筈があるまい。ましてや金像など造る必要がどこにある!」
「その伝國の璽はどこにあるのだ?」
「業にある。」
「張挙は、襄国にあると言っている。」
「胡を殺した時、業に居た夷族達は殆ど全滅した。命辛々逃げだした者も、ドブの中に潜んで命を長らえただけ。彼等がどうして『伝國の璽』の在処を知っている?
 彼等は助けて貰えるのなら、どんな嘘でもついただろう。ましてや一個の印鑑だ。どんな風にでも言っただろうさ。」
 慕容儁は、なおも張挙の言葉を信じていた。そこで、傍らに柴を積み重ね、封裕に言わせた。
「なあ、よくよく考えてみな。徒に灰になるなど馬鹿らしいとは思わないか?」
 常偉は、顔つきを変えていった。
「石虎が貪婪暴虐な男で、自ら大軍を率いてこの燕へ攻め込んだのを忘れたのか!勝てずに引き返したとは言っても、併呑の志はなくさなかった。だから、兵糧や器械を東北へ運び込んでいたのだ。それが燕への援助物資の筈がないだろうが!
 それは確かに、魏帝が燕の為に石氏を殲滅した訳ではない。しかし、臣下として子息として、主君の親の仇が滅んだ時に、どのように行動するのが義に叶うのだ?君達は、今、彼に味方して我等を責めている。なんとも奇怪ではないか!
 よし、死人の骨肉は土となり、精魂は天に昇ると聞いている。グダグダ言わずに火を付けて僕を天上へ送れば良い。そうすれば、僕は即座に天帝へ訴えられるからな!」
 これを聞いて、左右の臣下は常偉を殺すよう請うた。しかし、慕容儁は言った。
「彼は命を捨てて主に殉じようとゆうのだ。忠臣である。それに、罪を犯したのは冉閔一人。臣下が何に関与したのか!」
 常偉を退出させ、館へ案内するよう臣下へ命じた。
 その夜、常偉と同郷の趙瞻とゆう男を派遣して、彼を慰労させ、且つ、言わせた。
「君、どうして真実を言わないのだ?王は怒り、君を遠流にしようとしているぞ。」
「吾は成人してから、庶民でさえも騙したことはない。ましてや人主を騙すものか!事実を曲げて阿るなど、できる性分ではないのだ。想いの丈を述べられたなら、東海へ沈もうとも悔いはない!」
 常偉はそれっきり、壁へ向かってごろ寝して、二度と口を開かなかった。
 趙瞻は仕方なく、ありのままを復命した。慕容儁は、常偉を龍城へ幽閉した。
 この月、慕容儁は龍城から薊へ出向いた。
 三月、姚襄と汝陰王昆が、各々兵を率いて襄国救援にやって来た。冉閔は、車騎将軍胡睦を長蘆へ派遣して姚襄を防がせ、将軍孫威を黄丘に派遣して石昆を防がせたが、両者とも敗北し、部下はほぼ全滅した。
 冉閔が自ら出向こうとすると、衛将軍の王泰が言った。
「今、襄国が降伏しないのに、援軍が雲集しております。もしも我等が出て戦えば、必ず腹背から挟撃されます。これは危道です。それよりも、まず、塁を固く築いて、敵の気勢を挫き、その上で、敵とゆっくり対峙し、隙を見つけて攻撃しましょう。それに、陛下自ら出陣し、万一のことが起これば、大事は去ります。」
 冉閔は得心し、出陣を取りやめようとしたが、道士の法饒が言った。
「陛下は襄国を包囲して年を越されましたのに、尺寸の功績もありません。その上、今、賊が来寇したのに、これを避けて攻撃しない。それでどうやって将士を使えますのか!それに、金星がスバルを冒しております。スバルは胡の星。これは胡王を殺せとの天の教えです。今なら、百戦百勝疑いなし。好機を逸してはなりません!」
 それを聞いて、冉閔は袂を翻して大言した。
「決戦だ!阻む者は斬る!」
 かくして、全軍で姚襄・石昆と戦った。
 この時、燕の悦綰は魏軍から僅か数里まで迫っていた。彼は騎兵同士の間隔を開け、馬に柴を引っ張らせてほこりをモウモウと巻き上げさせた。
 砂埃を見て、魏兵は恐れおののいた。その魏軍へ向かって、姚襄・石昆・悦綰は、三面から攻め立て、石祇は後方から攻撃した。魏軍は大敗し、冉閔は十余騎にて業まで逃げ帰った。
 降伏した胡人の栗特康は、大単于胤と左僕射劉奇を捕まえて、趙へ降伏した。石祇は二人を殺した。胡睦及び司空石璞、尚書令徐機、中書監廬甚を始め、戦死した魏兵は十余万人にも及んだ。(劉隗・廬甚は晋の為に死なずして、遂にこのようなところで戦死した。ああ、人は皆、いつかは死ぬものなのだ。死に場所を得ないとゆうことの、なんと無様なことか!)
 さて、冉閔は密かに逃げ帰ったので、誰もそれを知らなかった。業ではパニックが起こり、冉閔戦死の噂が流れた。そこで、射聲校尉の張艾は、冉閔へ近郊をパレードするよう提案し、冉閔は従った。これによって、戦死の噂は収まった。
 冉閔は、法饒親子をなます切りに切り刻み、偉諛へは大司徒を追贈した。
 魏軍を蹴散らしたので、姚襄は摂頭へ帰った。彼が冉閔を捕らえずに帰ってきたので、姚弋仲は起こり、百の杖刑に処した。

 さて、冉閔がまだ趙の相だった頃、全ての官庫を開放して、私恩を施していた。その勢力で戦争を始めたのだが、きょうや胡と戦うようになってから、一月も休まず戦争が続く。庶民は、大変苦しんだ。
 かつて趙では、青、よう、幽、荊州の民やてい、きょう、胡、蛮の民を百万人以上強制移住させていたが、趙の法律が無くなってから、彼等は皆故郷へ帰っていった。一斉にこれだけの人間が移動したのだから、道路は混み合い、殺人や略奪が横行し、無事に故郷へ帰れた人間は二・三割に過ぎなかった。
 こうして中原は大いに乱れ、飢饉や疫病と相余り、人肉まで食べられるようになり、田畑を耕す者も居なくなった。

 石祇は、麾下の将軍劉顕へ七万の兵卒を与えて業を攻撃させた。彼等は明光宮に陣取った。ここは、業から僅か二十三里の場所である。
 冉閔は恐れ、王泰と共に対策を練ろうと彼を呼びだした。しかし、王泰は前回提案を却下されたことを憤っていたので、戦場で受けた傷が痛むと、出仕を断った。そこで、冉閔自ら彼の屋敷を訪れたが、王泰は、重体だと言い張り、面会も拒絶した。
 冉閔は怒り、宮殿に帰ると左右へ言った。
「巴奴(王泰は巴蛮人)が、つけあがりおって。誰が頼むか!よし、まずは群胡を滅ぼして、それが済んだら王泰めも斬り殺してやる!」
 そこで全軍で出撃し、劉顕軍を大いに破り、陽平まで追撃する。討ち取った首級は三万。
 劉顕は恐れ、密かに降伏の使者を放った。
「石祇を殺して、挺身の証と致します。」
 冉閔は承諾し、引き返した。
 この時、密告する者が居た。
「王泰が、秦(苻健の樹立した政権。)へ亡命しようとしています。」
 そこで、冉閔は王泰を殺し、彼の三族を皆殺しにした。

 四月、渤海の住人逢約が、趙の混乱につけ込んで数千家の民衆を擁して魏へ帰順した。魏は、逢約を渤海太守に任命する。
 故の渤海太守は、劉準。彼は劉隗の甥である。
 さて、土豪の封放は、封奕の従兄弟。彼も又、大衆をかき集めて自衛団を作った。冉閔は、劉準を幽州刺史に任命し、逢約と渤海を二分させた。
 慕容儁は、封奕に逢約を攻撃させ、昌黎太守の高開に劉準と封放を攻撃させた。高開は、高瞻の息子である。
 封奕は、部下を率いて逢約の砦まで迫り、使者を派遣して、伝えた。
「故郷を離れて久しい。同郷の者とはなかなか会えなかった(封奕も渤海出身)。時事利害は、人毎に違うので論じても仕方がないが、一度会見しないか?情誼を結べるかも知れないではないか。」
 逢約は、もともと封奕の人柄を尊敬していたので、即座に応じ、門の外で封奕と会見した。とは言っても、各々騎兵を従え、騎上にて言葉を交わしたのだが。
 互いに挨拶を述べ、草草の四方山話をした後、封奕は言った。
「君とは代々同郷だった。懐かしさもひとしお。君の家も後々まで栄えて欲しいもの。だから、腹蔵なく言うのだ。
 あの冉閔は、石氏の乱につけ込んで強大化した。天下は、ただ彼の武力に服従しているに過ぎない。しかし、禍乱はまだ始まったばかりだ。これからどう転ぶ?天命は、力で争えるものではないのだよ。
 それに引き替え我が燕は、代々徳政を布いてきた。常に義を奉じて乱を討ち、向かうところ無敵だった。今、既に薊を都とし、南方では趙・魏と接しており、遠方から子供を背負ってまで我が国へ避難する民は後を絶たない。民は荼毒に嫌気がさし、治政を求めているのだ。
 冉閔は、遠からず滅亡する。その将来は、ハッキリと顕れているではないか。それに、燕王は国の基盤を固める為、腰を低くして賢者を遇している。
 君が態度を翻せば、功臣の一人として、子々孫々まで繁栄する。亡国の将として孤城を守り、必至の禍を待つことと比べて、どちらがましだろうか?」
 これを聞いて逢約は、黙り込んでしまった。
 さて、封奕の部下に、張安とゆう力自慢が居た。この会見に先立って、封奕は彼に命じていた。
「逢約が意気消沈するのを待ち、その機を逃さず馬を飛ばして捕らえて来い。」
 張安は、この時とばかり果敢に行動し、消沈していた逢約をアッとゆう間に取り押さえた。
 こうして逢約を拉致すると、封奕は陣営へ戻り、彼に言った。
「君が決断できなかったようだから、私が手伝ってやっただけだ。君を捕らえて手柄にしようなどとは考えていない。さあ、燕へ帰順しよう。そうすれば、君も、君を慕った民衆も、みんな一生を全うできるではないか。」
 一方、高開が渤海へ到着すると、劉準も封放も、降伏して彼を迎え入れた。
 慕容儁は、封放を渤海太守、劉準を左司馬、逢約を参軍事に任命した。なお、逢約は、「鈞」と改名した。

 劉顕は、石祇及び、その丞相楽安王炳、太宰趙庶等十余人を弑逆し、首級を業へ届けた。驃騎将軍の石寧は、相人へ逃げる。
 冉閔は石祇の首を道で焼き払い、劉顕を上大将軍、大単于、冀州牧へ任命した。

 七月、劉顕は、再び兵を率いて業を攻めた。冉閔はこれを撃退する。逃げ帰った劉顕は、襄国にて皇帝を潜称した。

 八月、燕は、慕容恪に中山を、慕容評に魯口の王午を攻撃させた。
 魏の中山太守候龕は、籠城した。そこで、慕容恪は、常山を迂回して九門へ陣を布いた。すると、魏の趙郡太守の李圭が郡を挙げて降伏した。慕容恪は、これを厚く慰撫した。そして、引き返して中山を包囲しようとしたところ、候龕も降伏して来た。
 中山へ入った慕容恪は、降伏した魏の将帥と土豪達数十家を薊へ移住させたが、それ以外は安堵した。彼の軍は軍令が厳しく、秋毫も犯さなかった。
 慕容評が南安まで来ると、王午は麾下の将軍鄭生を派遣して防戦させた。慕容評は、これを撃破し、鄭生を斬り殺した。

 石祇が死んだので、悦綰が襄国から帰ってきた。彼の報告により、張挙の嘘が暴露し、慕容儁はこれを殺した。そうゆう訳で、慕容儁は常偉の無実を知った。
 さて、常偉は四男二女をもうけていたが、彼等は皆中山に住んでいた。そこで、慕容儁は常偉を釈放し、子供達に迎えに来させた。常偉が感謝の言葉を述べると、慕容儁は言った。
「この大乱の中にあって、卿の諸子は一人残らずここへ集まった。天が卿を気に懸けているのだ。天でさえ気に懸けているのだから、孤なら尚更ではないか!」
 そうして妾一人と穀物三百斛を賜下し、凡城に住まわせた。
 北平太守の孫興を中山太守とし、占領したばかりの中山を統治させた。孫興は善い政治をしたので民が懐き、中山は燕の領土として確定した。

 十一月。逢鈞が渤海へ逃げ帰り、昔の部下を呼び集めて燕へ反旗を翻した。そこで、楽陵太守の賈堅は、人を派遣して禍福を説いた。すると、逢鈞の部下達は徐々に離散していった。
 逢鈞は、東晋へ亡命した。

 八年、正月。劉顕が常山を攻撃した。
 冉閔は、大将軍将幹に皇太子の智を補佐させて業を守らせ、自ら八千騎を率いて救援に赴いた。劉顕の大司馬清河王寧は、棗強県ごと魏に降伏した。
 冉閔は、劉顕を討ってこれを敗る。そのまま、襄国まで追撃した。すると、劉顕の大将軍曹伏駒が、城門を開いて冉閔を迎え入れた。冉閔は、劉顕及び彼の公卿以下百余人を殺し、襄国の宮殿を焼き払うと、住民を業へ強制移住させた。
 趙の汝陰王昆は妻妾を連れて東晋へ亡命したが、東晋朝廷は、彼を建康で斬罪に処した。
 これによって、石勒の子孫は全滅した。

 襄国を滅ぼしてから、冉閔は常山、中山諸郡で遊び暮らすようになった。その隙を衝いて、趙の立義将軍段勤が、胡・けつ人万余をかき集め、糸幕県にて造反し、趙帝と自称した。

 四月、甲子。燕は慕容恪等に魏攻撃を、慕容覇等に段勤攻撃を命じた。
 冉閔は燕と戦おうとしたが、大将軍菫閠と車騎将軍張温が諫めた。
「鮮卑は勝ちに乗じて勢いがあります。それに敵は多勢で我等は無勢。ここは、ひとまず退却しましょう。勝ちに傲れば驕慢になり、防備も杜撰になります。その後、兵力を結集して攻撃するべきです。」
 すると、冉閔は怒った。
「俺はこの軍勢で幽州を平定して慕容儁を斬ろうと想っているのだ。今、慕容恪程度に後ろを見せるなど、恥だ!」
 司徒劉茂と特進郎豈は、共に語った。
「今回の戦では、我が君は生還できまい。戮辱を座して待つなどできん!」
 かくして、二人とも自殺した。
 冉閔は安喜に陣を布いた。慕容恪もこれへ赴いた。冉閔が常山へ向かえば、慕容恪も追いかける。両者は遂に、魏昌の廉台にて激突した。
 この戦いで、燕軍は十戦して一度も勝てなかった。
 もともと、冉閔の勇名は轟いていた。しかも、率いる兵は精鋭揃い。燕軍の兵卒は恐れを抱いた。そこで、慕容恪は各陣地を巡回し、言って回った。
「冉閔は勇敢だが、無策。これは一夫の敵だ!麾下の士卒は飢えと疲労に苦しんでいる。武器は立派で精鋭ではあるが、その実、使い物にならん。撃破するなど簡単だ!」
 これに対し、冉閔は戦場を林の中へ持ち込もうとした。冉閔の部下には歩兵が多く、燕軍には騎兵が多かったからだ。
 慕容恪の参軍の高開は言った。
「林の中では、我等は不利です。軽騎を派遣して、速やかに敵を捕捉させましょう。そして、負けたふりで退却させ、敵を平地へ誘い込む。その後、全軍で攻撃するのです。」
 慕容恪は、これに従った。
 魏軍が策にはまって平地へ戻ると、慕容恪は、全軍を三隊に分けて諸将に言った。
「敵は勢いに乗っている。その上、兵力で劣ることも知っているので、必死の勢いで攻めてくる。よって、我が率いる中軍は、陣を厚く集中させて敵を待ち受ける。合戦になるのを待ってから、卿等は両側から敵を攻撃せよ。必ず勝てる。」
 そして、射撃の巧い鮮卑五千人を選ぶと、鉄の鎖で馬を結び、方陣の前方に配置した。 冉閔の乗馬は「朱龍」と呼ばれ、一日千里を走る名馬である。冉閔は左手で両刃矛を操り、右手には鉤戟を執り、燕兵を攻め立てて三百余級の首を斬った。
 戦いの最中、冉閔は大きな旗を望み見た。
゛あれこそ敵の本陣か!`
 悟った途端、全軍を挙げて敵の方陣へ突撃した。
 しかし、方陣の先頭に陣取っていたのは、鎖で繋がれた騎兵達だ。これには突入できない。魏軍がとまどった途端、燕軍の両翼がこれを挟撃し、魏軍を大いに破った。
 冉閔は幾重にも包囲されてしまったが、これを突破して東へ逃げた。走ること二十余里。さしもの朱龍も疲れから倒れ、冉閔は遂に燕軍に捕らえられた。
 この戦いで、燕軍は、魏の僕射劉群を殺し、菫閔、張温及び冉閔を捕らえ、皆、薊へ送った。冉閔の子の冉操は魯口へ逃げた。なお、燕軍では、高開は傷がもとで死んだ。
 慕容恪は進軍して常山へ屯営する。慕容儁は、彼に中山鎮守を命じた。
 己卯、冉閔は薊へ着いた。慕容儁は大赦を下す。
 慕容儁は、冉閔を引立てると、言った。
「お前は下才の奴僕のくせに、なんで皇帝を潜称したのか!」
 すると、冉閔は言った。
「天下は大乱。禽獣に等しいお前ら夷狄でさえも皇帝を称しているではないか!ましてや俺は中国の英雄。皇帝になるのが当然だ!」 慕容儁は怒り、三百の鞭刑に処した後、龍城へ送った。
 冉閔は、この年の五月、龍城にて処刑された。ちなみに、この年、大旱魃と蝗害が起こった。慕容儁は、これを冉閔の祟りと恐れ、彼を祀った。悼武天王と諡する。
 一方、慕容覇。彼の軍が糸幕へ着くと、段勤とその弟の段思聡は城を挙げて降伏した。

 甲申、慕容儁は、慕容評と中尉候龕へ精騎一万を与えて、業を攻撃させた。
 彼等が業へ着くと、将幹と冉智は城門を閉じて拒戦したが、城外は悉く燕軍に降伏した。劉寧と弟の劉崇は、胡騎三千を率いて晋陽へ逃げた。
 五月、業城内は食糧が乏しくなり、人々は大いに飢えた。人を殺してその人肉を食べるところまで追い詰められ、趙時代の宮人達は、殆ど食べられてしまった。
 将幹は、東晋へ使者を派遣して降伏し、且つ援軍を求めた。
 慕容儁は、廣威将軍慕容軍、殿中将軍慕容根、右司馬皇甫眞等に二万の兵を与え、慕容評と共に業を攻撃させた。
 東晋の謝尚は、将幹へ対し、降伏の条件として伝國璽を求めた。しかし、将幹は、謝尚が本当に援軍をくれるかどうか疑い、躊躇して決断できなかった。
 さて、謝尚の命令で方頭を守っていた戴施が、この話を聞きつけた。六月、戴施は壮士百余人を率いて業へ乗り込み、三台の守備を助け、将幹へ言った。
「今、燕賊は目の前におり、交通は遮断されている。これでは璽を送ることもできまい。私に預けてくれるなら、必ず天子へ届けよう。國璽が届けば、天子も卿の至誠を知り、きっと、大軍と兵糧を送ってくれる筈だ。」
 将幹は納得し、國璽を彼へ渡し、戴施はこれを東晋へ送り届けさせた。こうして、東晋は援軍を出した。(これまで、東晋は正統を名乗っていたが、伝國璽はなかった。よって、中原では江東政権を、「白版天子」と呼んでいた。ここに至って、國璽はようやく東晋へ戻った。)
 甲子、将幹は精鋭五千及び晋兵を率い、城から出て戦った。慕容評はこれを大いに破り、四千の首級を挙げた。将幹は、戦場から離脱して、業城へ逃げ込んだ。
 八月、魏の長水校尉馬願等が、城門を明けて燕兵を招き入れた。戴施と将幹は、倉垣へ逃げた。
 慕容評は、魏后の菫氏、皇太子智、太尉申鐘、司空條枚等及び乗輿服御を薊へ送った。尚書令王簡、左僕射張乾、右僕射郎粛は、自殺した。
 慕容儁は、「菫氏が伝國璽を献上した。」とのデマを吹聴し、彼女は「贈璽君」の称号を、冉智には海賓候の爵位を与えた。申鐘は、大将軍右長史とする。又、慕容評へ、業の鎮守を命じた。
 一方、東晋の謝尚は、伝國璽が手に入ったことを宣伝し、百官を集めて祝賀した。

 話は前後するが、王午が冉閔の敗北を知った時、登恒は、既に死んでいた。
 七月、王午は安國王と自称した。
 八月、慕容儁は、慕容恪、封奕、陽鶩にこれを攻撃させる。王午は籠城した。これに対して燕軍は、城外の稔りを略奪し、兵糧攻めを取った。

 十月、兵を擁して州郡に據っている故の趙の将軍達が、各々燕へ降伏した。
 慕容儁は、王擢を益州刺史に、変逸を秦州刺史へ、張平をへい州刺史に、李歴を兌州刺史に、高昌を安西将軍に、劉寧を車騎将軍に任命した。

 慕容恪軍は、安平に陣を布き、兵糧を蓄え、城攻めの道具を揃えた。
 だが、この時、中山の蘇林とゆう男が、無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林制圧の為、魯口から引き返した。
 閏月、慕容儁は、慕容根を援軍として慕容恪のもとへ派遣した。この両軍で蘇林を攻撃し、斬り殺す。
 その頃、王午は麾下の将軍秦興に殺されていた。しかし、その秦興も呂護に殺され、呂護は安國王と自称した。

 燕の群臣は、慕容儁へ尊号を献上し、慕容儁はこれを許した。
 十一月。燕で始めて百官が設置された。国相封奕を太尉とする。左長史の陽鶩を尚書令とする。右司馬の皇甫眞を尚書左僕射とする。典書令の張希を右僕射とする。その他の文武官も、各々昇進した。
 戊辰、慕容儁は皇帝位へ即いた。大赦を下す。伝國璽を手に入れたと吹聴していたことから、年号を「元璽」と改元した。
 武宣王を高祖武宣皇帝、文明王を太祖文明皇帝と追尊する。
 この時、たまたま東晋の使者が燕に逗留していたが、慕容儁は彼に言った。
「帰国したら汝の天子へ伝えるが良い。主の居ない時代が続いたが、中国の民から望まれて、遂に我が皇帝となった!」
 司州を中州と改め、龍都へ建留台を置き、玄兔太守乙逸を尚書として、龍都の後事を委任した。