燕、段遼を討つ。

 明帝の太寧三年(325年)、三月。段末破(彼については、「石勒、河朔に寇す」参照)が卒し、弟の段牙が立った。 慕容鬼(「广/鬼」)は段氏と友好関係にあったので、段牙の為を思って遷都を勧めた。段牙はこれに従い令支を去ったが、国人はこの遷都が不満だった。
 段疾陸眷の孫に段遼とゆう男が居たが、彼は、常々段牙の位を狙っていた。
 十二月、段遼は、この遷都を段牙の罪と宣言して兵を挙げ、段牙を殺して自立した。
 段氏は務忽塵以来、日ごとに勢力を強大にしていた。この頃には西は漁陽に接し、東は遼水を境とし、胡・晋の三万世帯を支配。兵卒は四・五万騎を擁していた。

 成帝の感和八年(333年)、五月。慕容鬼、卒す。慕容皇(「皇/光」)が立つ。
 慕容皇は、即位当初、国法を厳重に適用したので、国民は皆不安がった。皇甫眞が切に諫めたが、聞かれなかった。
 慕容皇の庶兄は建威将軍慕容翰、同母弟は征虜将軍慕容仁。共に勇気と軍略を兼備し、屡々軍功を立てていたので、民衆から慕われていた。末の弟の慕容昭には文才があり、三人とも慕容鬼から寵愛されていた。
 ところが、それ故に慕容皇は彼等を忌んでいた。慕容翰は嘆いて言った。
「私は先公に従って力を尽くしてきた。幸いにして先公の威光があればこそ、功績も立てられたが、これは天が我が国に味方してくれたのだ。人の力でできることではない。だが、人々は私のことを英雄と言い、『他人の下に甘んじる人間ではない』と評している。このままでは殺されるだけだ。」
 そこで、子息と共に段遼へ亡命した。段遼は、かねてから彼の勇名を聞いていたので、大喜びで受け入れて、甚だ愛重した。
 慕容仁は、父の喪に服す為に平郭から戻って来た。この時、彼は慕容昭へ言った。
「我々は、もともと驕慢な性格で、嗣君へ対して無礼なことが多かった。嗣君は厳格な性分だから、罪が無くても怖ろしい。ましてや我々には罪があるのだ!」
 すると慕容昭は言った。
「俺達は正室の子供。国を分割する権利がある。兄貴は既に勇名を立てているが、俺はまだ部屋住みで支持する兵力がない。だから、嗣君も油断しているだろう。隙を見て、事を起こす。兄貴が挙兵し、俺が内応する。成功したら、遼東を分割してくれ。
 男児と生まれたからは、勝てなければ死ぬだけだ。建威将軍のように亡命して細々と生きて行くような真似は、俺にはできん。」
「善し!」
 こうして、慕容仁は平郭へ戻った。
 閏月、慕容仁は挙兵して西へ向かった。
 だが、この計画をある者が慕容皇へ密告していた。慕容皇は信じなかったが、使者を派遣すると、証拠があった。慕容仁は黄水まで進軍していたが、事が露見したと知り、使者を殺して平郭へ戻った。慕容皇は、慕容昭へ死を賜った。
 慕容皇は、軍酒祭の封奕を派遣して遼東を慰撫し、慕容仁討伐軍を組織した。
 高羽を廣武将軍として五千の兵を与え、総大将とする。そして庶弟の建武将軍慕容幼、慕容稚、廣威将軍慕容軍、寧遠将軍慕容汗、司馬の冬壽と共に慕容仁を攻撃させた。
 両軍は、?城の北で激突し、慕容皇軍は大敗した。幼、稚、軍は慕容仁に捕らえられ、かつて慕容仁の司馬だった高壽は、降伏した。
 遼東では、前の大農孫機等が慕容仁に呼応し、遼東城で挙兵した。封奕は入城できずに、慕容汗と共に戻って来た。東夷校尉の封抽、護軍の乙逸、遼東相の韓矯等は城を棄てて逃げた。
 こうして、慕容仁は遼東を占領した。
 段遼や鮮卑の諸部は皆、慕容仁の後押しをした。
 慕容皇は皇甫眞の言葉を思い出し、彼を平州別駕に抜擢した。

 九年、二月。慕容仁は司馬の羽皆を東夷校尉に、前の平州別駕の龍鑑を遼東相とした。

 同月、段遼は燕の徒河を攻撃したが勝てなかった。そこで今度は弟の段蘭と慕容翰に柳城を攻撃させた。柳城都尉の石宗と城大の慕輿泥は死力を尽くして守り抜き、段蘭等は勝てずに退却した。すると段遼は怒り、段蘭等を責めて、柳城を必ず攻略するよう厳命した。
 二旬の休息の後、彼等は再び攻撃した。
 段蘭軍は雲梯を作り、四面同時に昼夜を分かたず攻め立てた。だが、宗と泥はますます堅固に守りを固める。彼等は千余人を殺傷し、遂に守り抜いた。
 慕容皇は、慕容汗と封奕を柳城救援に派遣した。この時、慕容皇は慕容汗を戒めた。
「賊徒の戦意は鋭い。これとまともにぶつかってはならぬ。」
 しかし、慕容汗は驍果な性格。戦場に立つと、千余騎を前鋒として直進した。封奕が止めても聞かない。彼等は段蘭と牛尾谷にて遭遇し、慕容汗は大敗し、半数以上の兵卒が戦死した。ただ、封奕が陣を整えて力戦したので、慕容汗は死なずに済んだ。
 段蘭はこれに乗じて燕へ攻め込もうとしたが、慕容翰は祖国が滅んでしまうことを恐れ、言った。
「将軍となった以上、その務めは慎重に果たさなければなりません。つまびらかに敵の兵力を量り、万全でなければ動かない。今、敵の先鋒を撃破しましたが、敵はまだ主力を残しています。慕容皇は策が多く、伏兵をよく使います。もしも、敵が我等を誘き寄せた上で退路を断ち、全軍を挙げて反撃すれば、我等は全滅です。
 それに、我等へ課せられたのは、この勝利です。もし、君命を無視して攻撃を貪った挙げ句に敗北してしまえば、功名共に失います。その時、どの面下げて帰国できましょうか?」
「いや、慕容皇さえ虜にできれば、それ以上言うことはない筈だ。卿は故郷を滅ぼしたくないのだろう!今、千年(慕容仁の字)が東に割拠している。我が事が成った暁には、彼を迎え入れて嗣君としよう。そうすれば宗廟の祀りも絶えず、卿の望みにも背かないぞ。」
「私は既に国を棄てた男です。燕の存亡など、今の私に関わりはない!ただ、この国のことを思うからこそ、相の功名を惜しむのです。」
 そして、自分の手勢だけでも引き上げると固執したので、段蘭もやむをえず退却した。

 四月、慕容仁は平州刺史、遼東公と自称した。

 十一月、慕容皇は遼東を討伐した。襄平まで進撃すると、遼東の王岌が、密かに降伏を申し出た。慕容皇軍は進軍し、羽皆・龍鑑は単騎逃亡。居就、新昌等の県は降伏した。
 慕容皇は遼東の民を全員生き埋めにしようとしたが、高羽が言った。
「遼東の民が背いたのは、彼等の本意ではありません。慕容仁の凶威に、やむをえず従っただけです。今、その元凶は未だ生きております。我等は始めてこの城を得たばかりだとゆうのに、そのようなことをしては、今後頑強な抵抗にあってしまいます。」
 それで慕容皇は思いとどまった。その代わり、遼東の豪族達は棘城へ移住させた。又、慕容皇は、杜群を遼東相に抜擢し、住民を慰撫させた。

 十二月、慕容仁は新昌を襲撃したが、督護の王寓が撃退した。

 感康二年(336年)、正月。慕容皇は慕容仁を攻撃しようとした。
 司馬の高羽が言った。
「慕容仁は、君親を棄て、これに背いた大逆人。民も神も許しません。其の証拠に、この海。今まで凍ったこともなかったのに、この三歳とゆうもの、連年凍り付いております。それに、慕容仁は陸路ばかりに目を向けております。これは、海の氷を渡って敵を滅ぼせとゆう、神のお告げでございます。」
 慕容皇はこれに従った。
 すると、幕僚達の多くは、氷を渡ることの危険を説き、陸路を通ることを勧めたが、慕容皇は言った。
「我が心は決まった!逆らう者は斬る!」
 慕容皇は、弟の軍師将軍慕容評等を率いて、昌黎から氷を渡って進んだ。凡そ三百里程で歴林口に上陸。そこで輜重を棄てて疾風のように平郭へ迫った。
 平郭から七里ほどの所で、斥候の報告が慕容仁のもとへ入り、慕容仁は狼狽して出撃した。それでも慕容仁は、慕容皇が機動力のある軍だけ差し向けて適当に荒らし回らせるつもりだとたかを括っており、まさか慕容皇本人が出撃しているとは考えても居なかったので、側近達に言った。
「例え一兵たりとも、生きて帰すな。」
 慕容仁は、城の西北へ陣を布いた。
 ところが、慕容軍が、手勢ごと慕容皇へ降伏した。慕容仁の軍が動揺したところを慕容皇が攻撃し、大いに敵を破った。
 慕容仁は逃げ出したが、その帳下が寝返り、彼を捕まえて慕容皇へ突き出した。慕容皇は、まずその帳下達の不義を責めて斬り殺してから、慕容仁を自殺させた。
 慕容仁が信任していた丁衡、游毅、孫機等は捕らえて斬り殺した。慕容幼、慕容稚、冬壽、郭充、羽皆、龍鑑は東へ逃げたが、慕容幼は途中で引き返して降伏した。
 慕容皇軍は東へ追撃を掛けた。羽皆、龍鑑へ追いついて、これを斬る。冬壽、郭充は高麗へ逃げ込んだ。その他の官吏については、慕容仁に強制されただけだとして罪には問わなかった。
 この功績で、高羽は汝陽公に封じられた。

 六月、段遼が中軍将軍李詠に慕容皇を襲撃させた。李詠は武興にて都尉の張萌と戦って捕らえられた。
 段遼は、別働隊として段蘭に数万の兵を与えて柳城へ屯営させた。宇文部の逸豆帰が安晋を攻撃して、段蘭の為に牽制してやった。だが、慕容皇が五万の兵を率いて柳城へ向かったので、段蘭は戦わずに退却した。慕容皇は直ちに兵を引き返し、安晋へ赴いた。逸豆帰は輜重を棄てて逃げたが、封奕が追撃し、大いにこれを破った。
 慕容皇は言った。
「段蘭も逸豆帰も、この失敗を恥じるなら、再び来寇する。柳城の左右に伏兵を置き、これを待ち受けろ。」
 そこで、封奕に数千騎を与えて馬兜山へ伏兵とした。
 三月、段遼が果たして数千騎で来寇したが、封奕がこれを襲撃し、大いに破った。敵将の栄伯保を斬り殺す。

 三年、三月。慕容皇は段の東端にある乙連城の東に好城を築き、折衝将軍蘭勃を逗留させて乙連城へ逼った。四月、段遼は車数千両の粟を乙連城へ運んだが、蘭勃がこれを攻撃して奪った。
 六月、段遼は一族の揚威将軍屈雲を派遣し、興国城にいる慕容遵(慕容皇の息子)へ夜襲をかけたが、返り討ちにあった。
 さて、北平の陽裕は、段疾陸眷から段遼まで五代に亘って仕え、皆から礼遇されていた重鎮だが、段遼が、屡々慕容皇と戦っているので、諫めた。
「仁者とは親しみ、近隣と仲良くすれば、国は栄える。況や慕容氏と我等とは代々婚姻を重ねたほどの間柄。慕容皇は才能も人徳もあるのに、我等は彼等と怨みを重ねてしまった。戦争は毎月のように起こり、百姓は疲弊しており、戦果はその弊害と比べて微々たるもの。私は、ここから社稷の憂いが始まることを恐れるのです。どうか、以前のようによしみを通じ、国を安んじ民へ休息を与えて下さい。」
 段遼は従わず、陽裕を北平の相として、地方へ飛ばした。

 段遼は、屡々後趙との国境も侵していた。慕容皇は揚威将軍の宋回を派遣し、後趙へ対して「藩」と称した。そして、段への出兵を乞い、自分たちも出兵し、途中で合流しようと申し出た。そして、その証として、慕容汗を人質とすることまで提案した。後趙王の石虎は大いに喜び、慕容皇へ厚く返礼した。人質については無用。そして、明年行動を起こす、と、密かに盟約を結んだ。
 四年、正月。慕容皇は都尉の趙盤を趙へ派遣し、期日を確認した。石虎は段遼を討つ為に驍勇三万人を募り、その全員を龍騰中郎に任命した。
 その折も折、段遼は段屈雲に、趙の幽州を攻撃させた。幽州刺史李孟は易京まで退く。
 石虎は桃豹を横海将軍、王華を渡遼将軍に任命し、十万の水軍で漂愉津から出陣させた。又、支雄を龍驤将軍、姚戈仲を冠軍将軍に任命し、七万の軍勢で遼へ攻め込ませた。
 三月、趙盤は棘城へ帰った。慕容皇は、令支以北の諸城を攻撃して回った。段遼がこれを追撃しようとすると、慕容翰は言った。
「今、趙の軍団が南方に迫っております。全力を挙げて防がなければならない時に、更に燕と戦うつもりですか!燕王自らが出向いた以上、その率いるのは精鋭部隊。万が一にも敗れたら、どうやって趙と戦うのですか!」
 すると、段蘭が怒って言った。
「俺は前回、お前に謀られた。だから今日の憂き目にあったのだ。同じ手に二度も引っかかるか!」
 そうして、総勢で追撃を掛けた。慕容皇は伏兵を設けてこれを待ち受け、段蘭軍を大破した。挙げた首は数千級。五千世帯の人民と万を越える家畜を略奪して帰った。
 後趙の石虎は金台まで進軍した。支雄が長躯薊州へ入ると、段遼麾下の漁陽、上谷、代郡の諸太守は相継いで降伏した。こうして支雄は、瞬く間に四十余城を攻略した。
 北平相の陽裕は、数千家の民を率いて燕山へ登り、立て籠もった。これを放置して進軍すれば、後々後方を討たれる。そこで諸将はこれを攻撃しようと思ったが、石虎が言った。
「陽裕は儒学者だ。世間の名声が気になって、降伏できなかったに過ぎん。放っておいても何もできんよ。」
 こうして、これを看過して徐無まで進撃した。
 段遼は、弟の段蘭が既に撃破されたので、敢えて戦おうともせず、妻子、宗族及び豪族千余家を率いて令支を棄て、密雲山へ逃げた。将に行こうとする時、彼は慕容翰の手を執って泣いた。
「卿の策を用いず、自滅の道を選んでしまった。我はもとより自業自得だが、卿の寄る辺まで失い、慚愧に耐えない。」
 慕容翰は宇文氏へ亡命した。
 遼の左右の長史の劉群、廬ェ、崔悦等は、官庫に封をして降伏した。
 石虎は将軍の郭太、麻秋等に軽騎二万を与え、段遼を追撃させた。彼等は密雲山にて段遼の妻子を捕らえ、三千級の首を斬った。段遼は単騎逃れる傍ら、息子の段乞特眞を派遣して、石虎へ名馬を献上した。石虎はこれを受け取った。
 石虎は令支へ入ると、臣下達の論功行賞を行った。段の国民二万余戸は、司・よう・兌・豫の四州へ分割移住させ、有能な士大夫は抜擢した。
 この頃、陽裕がやって来て降伏を告げた。石虎はこれを詰って言った。
「卿は昔は奴隷のように逃げ隠れたのに、今回は士大夫面してやって来た。天命を知らんのか?それとも逃げる場所さえ失ったのか?」
 すると、陽裕は答えた。
「臣は、昔王公(王浚)に仕えて、その所業を矯正できませんでした。そして、段氏のもとへ逃げ込んだのに、これも全うさせられませんでした。今、陛下は天網を高く張り、四海を籠絡なさった。幽州・冀州の豪傑達は、風に靡くように陛下のもとへ集まっております。臣の如き才能なら、掃いて捨てるほど居りましょう。こうなりました以上、臣の命は、ただ陛下の思うがままに!」
 石虎は悦び、陽裕を北平太守へ任命した。

 さて、この戦いで、慕容皇は石虎と合流しなかった上、略奪の利益を独占したので、石虎は面白くない。四月。石虎は慕容皇討伐を思った。すると、太史令の趙攬が言った。
「天文を見ますに、燕は守られています。出兵しても失敗します。」
 石虎は怒って趙攬を鞭打った。
 これを聞いて、慕容皇は守備を厳重に固め、六卿・納言・常伯などの冗騎の侍官を撤廃した。
 趙の戎卒は数十万。燕の国民は恐れおののいた。
 慕容皇は高羽へ尋ねた。
「どうすればよい?」
「趙軍は確かに強敵。しかし、心配は要りません。ただ堅守すれば、奴等は何もできません。」
 石虎は四方へ使者を派遣して民や官吏を招き寄せた。燕の成周内史崔壽、居就令游泓、武原令常覇、東夷校尉封抽、護軍宋晃等がこれに応じた。游泓は游遽の兄の子である。
 冀陽へ流れ込んでいた士達は、共謀して太守の宋燭を殺して趙へ降伏した。宋燭は、宋晃の従兄弟である。
 営丘内史の鮮于屈も、趙へ降伏の使者を送った。すると武寧令の孫興が吏民を諭し、協力して鮮于屈を捕らえ、その罪状を数え上げて殺した。彼等は城門を閉ざして籠城した。
 昌黎の孫泳は衆人を率いて趙を防いだ。豪族の王清等が密かに趙と内通しようとしたが、孫泳はこれを収容して斬った。数百人の共謀者は震え上がって罪を乞うたが、孫泳はこれらを全員赦し、共に防戦した。
 楽浪では、領民全員が造反したので、楽浪太守の鞠彭は、壮士二百余人と共に棘城へ帰った。
 戊子、趙軍が棘城へ迫った。
 慕容皇は城を棄てて逃げようとしたが、帳下の将軍慕容根が言った。
「趙は強大で、我々は弱い。大王が逃げれば趙は調子づきます。その勢いで我が国へ攻め込まれれば、もはや打つ手はありません。多分、連中も大王の逃亡を望んでいるのでしょう。わざわざその手に乗ってどうしますか!今、守備を固めて籠城すれば、我が軍の志気は百倍します。敵の攻撃を持ちこたえれば、付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば、万に一つも望みはありませんぞ!」
 慕容皇は逃亡を思いとどまった。しかし、尚も懼れる想いが顔に出ていた。すると、玄莵太守の劉佩が言った。
「今、強敵に囲まれ、衆人の心はおびえきっております。ですから、事の安危は、大王一人にかかっておるのです。ですから大王は、どっしりと構えて将士を励まさなければなりません。びくびくしてはならんのです。
 今、事は急を要します。臣が出撃して、敵を蹴散らして見せましょう。そうすれば、衆人の心も落ち着くでしょう。」
 そして、決死隊数百騎を募り、出撃した。彼等は趙軍を掻き乱し、或いは斬り、或いは捕らえて城へ戻った。これによって、城内の志気は百倍した。
 慕容皇は、今度は封奕へ計略を問うた。すると、封奕は答えた。
「石虎の凶暴残虐は甚だしく、民も神も憎んでおります。奴等の禍は、今こそ下るのです!なぜなら、奴等は国中の兵をかき集めて来寇しました。趙国の守備は希薄。その隙に何が起こるでしょうか。
 戦は守る者が有利です。戎馬がいくら強くとも、籠城すれば持ちこたえられましょう。我等は堅守して、時を待つのです。」
 これを聞いて、慕容皇はやや安堵した。そんな時、ある者が、慕容皇へ降伏を勧めた。すると、慕容皇は言った。
「天下は孤の指先にある。なんで降伏を勧めるか!」
 趙兵は、四面から蟻のように群がったが、慕容根等が昼夜力戦した。凡そ十余日。趙軍は勝てず、遂に退却した。
 慕容皇は息子の慕容恪へ追撃を命じた。率いる兵力は二千騎。趙兵は大敗し、慕容恪は三万余の首級を挙げた。趙の諸軍は兜を棄てて逃げ散ったが、ただ、石閔のみ、全軍を全うした。
 石閔の父は瞻。内黄の人で、本姓は冉と言った。趙王の石勒が陳午を破った時、冉閔を捕らえた。この時、石勒は、彼を養子にするよう石虎に命じたのである。冉閔は驍勇で戦上手。策略も多かった。石虎は彼を寵愛した。

 慕容皇は、造反した諸城を討伐し、全部平定した。崔壽、常覇は業へ逃げ、封抽、宋晃、游泓は高句麗へ逃げた。
 趙が棘城を攻撃した時のことだが、燕の右司馬李洪の弟の李普は、棘城は絶対陥落すると考え、李洪へ疎開するよう勧めた。すると、李洪は言った。
「天道は幽遠なもの。人の分際で未来は判らん。それに、既に大任を与えられたのだ。軽々しく動いて悔いを取ってはならんぞ!」
 李普は固く請うて止まない。そこで、李洪は言った。
「卿がそう思うのなら、止めはせん。ただ、俺は慕容氏から大恩を受けたのだ。義として、立ち去ることはできん。死に場所はここしかないのだ!」
 それで、李普は涙を流して兄と別れた。結局、李普は降伏し、趙軍と共に南へ帰ったが、石勒の喪の時の動乱に巻き込まれて死んだ。李洪は、この一件によって忠篤者として有名になった。

 さて、石虎は渡遼将軍曹伏へ青州の兵卒を与え、海島を守備させた。ここへは三百万斗の兵糧を供給した。又、三百艘の船で三十万斗の穀物を高句麗へ送った。そして、典農中郎将王典を、海濱に屯田させた。青州では軍艦を千艘造らせた。これらは全て、燕攻略の準備だった。

 十二月、段遼が、密雲山から趙へ降伏の使者を派遣したが、途中で後悔し、燕へ降伏の使者を派遣した。
 石虎は征東将軍の麻秋に三万の兵を与えて段遼を迎えに行かせたが、その時言った。
「降伏を迎えに行くとはいっても、戦争と同様だ。油断してはならぬ!」
 又、尚書左丞に抜擢していた陽裕を、麻秋の司馬として同行させた。
 慕容皇は自ら兵を率いて段遼を迎えに行った。
 段遼は、密かに慕容皇と連絡を取って、趙軍攻撃の計略を練った。結局、慕容皇の命令を受け、慕容恪が七千の精鋭兵を率いて密雲山に伏兵となった。趙軍は、三蔵口にて大打撃を受け、兵卒の六、七割方が殺された。
 麻秋は馬を棄てて逃げ、陽裕は燕軍に捕らわれた。
 趙の将軍鮮于亮は、馬を失い、山中を歩いたが、進退を失い座り込んでしまった。これを燕兵が取り囲み、立てと叱りつけたが、鮮于亮は言った。
「私は貴人だ。小人から命令されるいわれはない。殺すなら殺せ!しかし、連れ去ることはできんぞ。」
 鮮于亮は偉丈夫で、声色も荒い。燕兵は位負けして殺すこともできず、慕容皇へ報告した。慕容皇は馬を連れて迎えに出て、彼と語り、大いに気に入った。そこで、彼を左常侍に抜擢して崔必の娘と娶せた。
 この戦いで、慕容皇は段遼の部下を吸収した。段遼については上賓の待遇で扱い、陽裕は郎中令と為した。
 石虎は麻秋の敗北を起こり、その官爵を剥奪した。

 五年、四月。段遼が燕へ対して造反を謀った。燕は段遼とその与党数十人を殺し、首級は趙へ送った。

 冬、慕容皇は燕王の地位を承認させる為、劉翔を東晋へ派遣した。(詳細は「慕容、業に據る」に記載。)

 宇文逸豆帰は慕容翰の才名を忌んでいた。そこで、慕容翰は狂人の真似をして髪を掻き乱して歌を歌ったり、跪いて物を食べたりした。やがて宇文部では、国を挙げて彼を賤しみ、相手にする者さえいなくなってしまった。そこで、慕容翰はあちこち自由に行き来して、山川の地形を見ては頭へ叩き込んでいった。
 さて、慕容翰はもともと燕へ対して造反したわけではなく、猜疑されることを嫌って出奔しただけだった。そして、他国へ行ってからでも、何かと燕の為に計っていたので、慕容皇も彼のことを気にしていた。
 六年、慕容皇は商人の王車を間者にして、彼の様子を探らせた。慕容翰は市場で王車を見ると、無言で胸を撫で、頷くだけだった。
 報告を受けて慕容皇は言った。
「彼は帰りたいのだ。」
 そこで、慕容翰を迎える為、再び王車を派遣した。
 慕容翰の弓は三石余の強さで、常の物より長くて大きい。慕容皇はこれを造り、王車へ持たせた。王車は慕容皇の命令通り、これを道の傍らへ埋めて慕容翰へその旨を伝えた。 二月、慕容翰は逸豆帰の名馬を盗み、彼の二人の子供を携え、弓矢を取って逃げた。逸豆帰麾下の驍騎百余が追跡するが、慕容翰は言った。
「長い間帰りたかったが、今、名馬を得た。もはや、誰も止められんぞ。日頃はお前達を誑かすために狂った振りをしていたが、我が腕は衰えていない。むやみに近づくと、命を落とすぞ!」
 しかし、追撃者は彼を軽んじて追いすがる。そこで、慕容翰は言った。
「しばらく世話になった国だ。お前達を殺したくない。俺から百歩離れた所へ刀を立てろ。それを射抜いてやる。一発で当たったら、お前達は帰れ。当たらなかったら俺を追ってくるが良い。」
 そこで、追跡者達は刀を立てた。慕容翰が矢を射ると、それは一発で刀の環に当たった。それを見て、追跡者達は逃げ散った。
 慕容翰の帰還を聞いて、慕容皇は大いに喜んだ。以来、彼を甚だ厚く恩遇した。

 八年、十月。燕は龍城へ遷都した。

 同月、建威将軍の慕容翰が慕容皇へ言った。
「宇文部は強盛を誇り、屡々我が国へ害を為します。今、宇文逸豆帰は簒奪したばかり。(感和八年、乙得帰を放逐して簒奪した。)また、国民は彼に懐いておりませんし、彼の素質も凡庸で、将帥の才ではありません。国に防備が無く、軍には規律がない。臣は暫くあの国におりましたから、その地形は知り尽くしております。彼等は、けつ族の強国(趙)と友好関係にありますが、あれは遠いので、奴等の助けには成りますまい。今戦えば、百戦百勝は間違いありません。
 ただ、高句麗には注意が必要です。彼等は宇文部と連絡を密に保っています。宇文部が滅ぼされたら、次は我が身だと知っているのです。ですから、我等が宇文部へ攻め込めば、その隙を衝いて攻撃して来ます。もしも少数の兵卒しか残さなければ撃破されますし、守備を堅めすぎれば遠征の兵力が不足します。つまり、高句麗は心腹の病。宇文部攻略の為には、それに先行して、まず高句麗を討つべきです。彼此の兵力を見ると、一撃で勝てます。この時、宇文部は、守りを固めるだけで攻撃はしますまい。
 既に高句麗を奪ってから、還って宇文部を取る。二国を平定すれば、東海は我が内海。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いもなくなります。そうしてこそ、中原を図ることができるのです。」
 慕容皇は言った。
「善し!」
 さて、高句麗攻撃に際して、高句麗への道は二つあった。北道は平闊で、南道は険狭。そこで、誰もが北道を行くべきだと考えたが、慕容翰は言った。
「敵も同様に考え、北道の警備を厳重にしているはず。南道は険狭で大軍の皇軍には不向きですが、精鋭兵で南道から進撃し、敵の不意を衝きましょう。そうすれば、丸都(高句麗の首都)も一撃です。そして、別働隊に北道を行かせ、万一の蹉跌に備えるのです。その心腹を潰せば、四肢は何もできません。」
 慕容皇はこれに従った。
 十一月。燕が高句麗を討った。
 慕容皇は自ら四万の兵を率いて出陣し、南道を進む。先鋒は慕容翰と慕容覇。又、長史の王寓に一万五千を与え、別働隊として北道を進ませた。
 高句麗王は、果たして弟へ五万の精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身は残り者の弱兵を率いて南道へ出た。
 南道の合戦では、まず慕容翰が先行し、彼が高句麗王と戦っている間に、後続の慕容皇本隊が到着した。
 鮮于亮が言った。
「俺は虜となる筈なのに、王は国士を以て遇してくれた。この恩、なんで報いずに居られようか!今日こそ、俺の命日だ!」
 言葉と共に、僅か数騎を引き連れて、高句麗の陣へ突撃した。彼等の命知らずの猛攻撃に、高句麗の陣は大いに乱れた。燕軍はこれを見逃さず、すかさず総攻撃を掛け、高句麗軍は大敗した。
 左長史の韓壽は、高句麗の将軍阿仏和度加を斬った。
 燕軍は、勝ちに乗じて追撃し、遂に丸都へ突入した。高句麗王は単騎で逃げる。軽車将軍慕容泥が追撃し、王母の周氏と王后を捕らえて還った。
 片や、高句麗の主力を引き受けた王寓は敗北したので、慕容皇は深追いを避けた。そこで、使者を派遣して高句麗王を招いたが、王は出向いてこなかった。
 慕容皇が退却しようとすると、韓壽が言った。
「高句麗は、地形的に守るのに不向きです。今でこそ、主君が滅んで民は逃散していますが、我等の大軍が去れば、彼等は集まって再び勢力を取り戻しましょう。そうなれば、後々の患いとなります。
 そこで、高句麗王の父親の屍と、王母を我が国へ持ち帰り、高句麗王自身に出頭させましょう。そして、奴が出てきたら、人質を帰してやります。こうやって恩を与えて慰撫しておくことが上策です。」
 慕容皇はこれに従った。こうして、高句麗王の父親の墓は掘り返され、屍が取り出された。更に、燕軍は府庫に収められた累代の宝を奪い、男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き丸都を壊して、帰国した。

 康帝の建元元年(343年)、二月。宇文逸豆帰の命令を受け、宇文部の相莫浅渾が燕を攻撃した。
 燕の諸将はこれと戦いたがったが、慕容皇は許可しない。莫浅渾は、敵が恐れていると思いこみ、酒を飲んだり狩猟をしたり、警備など全くしなくなった。そこで、慕容皇は、慕容翰へ出撃を命じた。
 莫浅渾は大敗し、命辛々逃げ出した。その兵卒は、大半を捕らえた。

 二年、正月。慕容皇と高羽が宇文部攻略について語った。
 高羽は言う。
「宇文部は強盛。今取らなければ、必ず後の患いとなります。」
 彼は、退出した後、知人へ言った。
「今回出征したら、俺は多分生還できまい。しかし、忠臣はそれを避けないものだ。」
 慕容皇は、親征を決意した。前鋒将軍は慕容翰、副将は劉佩。慕容軍、慕容恪、慕容覇及び折衝将軍慕容根に兵を与え、三道に分かれて進軍させた。
 高羽は、出征する時、妻に会わず、別れの挨拶を人伝に伝えただけだった。
 これに対して逸豆帰は、南羅大の渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させた。
 慕容皇は使者を派遣して慕容翰へ言った。
「渉夜干の勇名は三軍に鳴り響いている。少し退却した方がよい。」
 すると、慕容翰は言った。
「逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属した。渉夜干には、もとより勇名があり、国中の頼みの綱である。だから、これを撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れる。
 それに、俺は彼奴の為人を知っている。虚名こそあるが、与し易い相手だ。退却するのは良くない。我が方の志気を挫くだけだ。」
 かくして、進撃して戦った。
 慕容翰自らが陣を飛び出すと、渉夜干もこれに応じて飛び出した。すると、慕容覇が傍らから援護して、遂に渉夜干を斬り殺した。
 これを見た宇文部の兵卒は、戦わずして潰れた。燕軍は、勝ちに乗じて追撃し、遂に都城まで攻略した。
 逸豆帰は逃げ出し、漠北にて死んだ。こうして、宇文部は散亡した。
 慕容皇は彼等の家畜、財産を略奪し、住民五千余落を昌黎へ強制移住させた。この戦勝で、燕国は領土を千余里広めた。
 渉夜干の居城を「威徳城」と改称し、弟の慕容彪を守備として残し、燕軍は引き上げた。
 なお、高羽と劉佩は、流れ矢に当たって戦死した。
 高羽は、天文に精通していた。かつて、慕容皇は彼に言った。
「卿は、占星術の佳書を持っていると聞くが、見せてもくれない。それで忠義を尽くしていると言えるのか?」
 すると、高羽は答えた。
「『主君は要を執り、臣下は職を執る』と聞いております。要を執るからこそ、逸楽であり、職を執る者は疲れます。だからこそ、后稷が種を播いていた時、堯は実務に手を出さなかったのです。さて、占いや天文とゆうものは、夜通しの観察をせねばならず、甚だ辛いもの。至尊が自ら行うものではありません。殿下がどうしてその書物を使われますのか!」
 慕容皇は黙然とした。
 さて、宇文逸豆帰は、趙へ対して甚だ恭順に仕えており、朝貢を欠かしたことがなかった。だから、燕軍が逸豆帰を討伐した時、石虎は、右将軍白勝とへい州刺史王覇を救援に向かわせた。
 だが、彼等が到着した時には、既に宇文氏は滅んでいた。彼等は、威徳城を攻撃したが、勝てずに退却した。

 慕容翰は、この戦いで流れ矢に当たり、暫く伏せっており、出仕もできなかった。後、漸く癒えてきたので、家にて馬に試し乗りしてみた。すると、それを見た者が慕容皇へ告げた。
「慕容翰は、病と称して家に閉じこもり、密かに乗馬の練習をしております。」
 これは、慕容翰を猜疑させようとしての讒言だが、慕容皇はうまうまとその手に乗って、慕容翰へ死を賜った。心中、彼の勇名を恐れていたのだ。
 慕容翰は言った。
「吾は罪を負って出奔したが、オメオメと戻って来た。今日死ぬとしても、むしろ遅すぎる。だが、けつ賊が中原に闊歩しているのだ。だから、吾は身の程もわきまえずに、国家を強くして、天下を統一させようと思った。この志を遂げきれなかったが、怨むまい。天命だ!」
 遂に、毒を飲んで死んだ。

 

(訳者、曰)

 慕容皇が法令を厳格に適用した為、慕容翰は亡命し、慕容仁は造反した。国を二分して戦ったことは、どれ程の疲弊をもたらしただろうか。そして、慕容翰が復帰した途端、燕は高句麗を蹴散らし、宇文氏を滅ぼした。だが、その慕容翰を、慕容皇は猜疑心から殺してしまうのだ。
 彼等が力を合わせていたら、燕ばどれ程の強国になっただろうか。石虎がその暴虐で自滅することを考えるなら、中原制覇も夢ではなかっただろう。慕容皇は、凡庸な主君ではなかった。だが、彼にしてこの欠点があった。惜しむべき事である。

 慕容翰に対しては、言うことがない。なかんずく、宇文氏を滅ぼした計略は見事としか言えない。
 そもそも、蘇東坡が魏の武帝を論じたように、敵の弱みにつけ込まなければ、大功を建てることはできない。
「宇文氏を攻めれば高句麗が動くが、高句麗を攻めても宇文氏は動かない。」
 その敵国主君の性格分析は、実績として証明された。「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず。」とはこのことだろうか。
 更に、彼は武勇があり、節義を知り、故国を忘れなかった。誠の国士である。死に臨んでは理不尽さえも怨まない。その潔さは慕うべし。しかし、それ故に哀しいのだ。