西域      
 
 貞観六年(庚寅、632) 秋、七月、丙辰。焉耆王突騎支が使者を派遣して入貢した。
 もともと耆は、磧路経由で中国へ来ていたが、隋末にこの通路が塞がってしまい、高昌を経由して中国へ来るようになっていた。突騎支は、従来の磧路を開通させて往来の便を図りたいと請願し、上はこれを許した。
 これによって高昌は耆を恨み、兵を出してこれを襲撃し、大いに掠奪して去った。
 十二年、處月、處密と高昌が、共に焉耆を攻撃して、五城を抜き、男女千五百人を掠め、その盧舎を焼いて去った。
 十三年、十二月壬申、唐は交河行軍大総管、吏部尚書侯君集等へ兵を与えて、高昌を討った。十四年、侯君集が高昌を滅ぼす。詳細は、「高昌」へ記載する。 

 十八年、焉耆が西突厥と二股を掛けた。西突厥の大臣屈利啜は、弟へ焉耆王の娘を娶らせた。これ以来、焉耆は朝貢しなくなった。そこで安西都護郭孝恪は、これの討伐を請願した。
 九月、孝恪を行軍総管として、歩騎三千で銀山道から出て焉耆を撃つよう詔が降りる。その時、焉耆王の弟の頡鼻兄弟三人が西州へやって来たので、孝恪は頡鼻の弟の栗婆準を道案内とした。
 焉耆城の四面は、皆、水だった。その険を恃んで、彼等は備えをしていない。孝恪は道を急いで、夜半に城下へ到着すると、将士へ水に浮かんで渡るよう命じた。暁の頃には兵卒達は城へ登り、敵の王突騎支を捕らえた。斬捕した敵兵は七千人。栗婆準を留めて国事を執らせ、帰国する。
 孝恪が去った三日後、屈利啜が兵を率いて焉耆救援に駆けつけたが、間に合わなかった。彼等は栗婆準を捕らえると、孝恪を追撃し、銀山にて追いついた。孝恪は、これを迎撃して破り、数十里追撃する。
 辛卯、上は侍臣へ言った。
孝恪は八月十一日に焉耆を攻撃に行くと上奏した。二十日には向こうへ到着して、二十二日には、必ずこれを破っている。朕が旅程を考えるに、今日には使者が到着するぞ!」
 言い終わらない内に、駅騎が到着した。
 西突厥の處那啜は、その吐屯に焉耆の国政を執らせて、唐へ入貢の使者を派遣した。上は、これを詰って言った。
「我が兵を出して焉耆を獲ったのに、、汝はこれに據るなど、何様だ!」
 吐屯は懼れてその国を返した。
 焉耆は、栗婆準の従父兄の薛婆阿那支を立てて王としたが、處那啜へ臣従した。
 十月、郭孝恪が、焉耆王突騎支とその妻子を鎖で縛って行在所へ連行した。敕が降りて、これを宥める。
 丁巳、上が太子へ言った。
「焉耆王は賢者の補佐を求めず、忠義の謀を用いず、自ら滅亡の道を採った。挙げ句に、鎖で縛られて万里を連行されたのだ。人は、これで懼れる。こうやって、懼れを知らせられるのだ。」 

 二十三年、六月、太宗皇帝が崩御した。
 永徽二年(651)焉耆王婆伽利が卒した。国人は、元の王の突騎支を再び立てるよう請願した。
 四月。突騎支へ右武衞将軍を加えて帰国させるよう、詔が降りた。 

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