睿宗皇帝
 
 景雲元年(庚戌、710年)六月、李隆基が決起して韋氏を誅し、睿宗が即位する。
 上は皇太子を立てようとした。宋王成器は嫡子で年長だが、平王隆基には大功があり、迷って決定できなかった。すると、成器が辞退して言った。
「国家が安泰ならば嫡長を先にし、危機が迫ったら有功を先にする。その宜しきに違えたら、四海は失望します。臣は例え死んでも、敢えて平王の上には居りません。」
 涕泣して、累日固辞した。
 大臣達も多くは平王の功績が大きいので皇太子に立てるよう言った。
 劉幽求が言った。
「『天下の禍を除く者が、天下の福を享受するべきだ。』と、臣は聞きます。平王は、社稷の危機を救い、君親の難を救いました。功績を論じるに莫大です。徳を語れば最も賢人。疑ってはなりません。」
 上は、これに従った。
 丁未、平王隆基を立てて皇太子とする。隆基は何度も上表して成器へ譲ったが、許さない。
 戊申、宋王成器をヨウ州牧・揚州大都督・太子太師とする。また、温王重茂を内宅へ置く。
 太常少卿薛稷を黄門侍郎・参知機務とする。
 稷は上が藩邸に居た頃から、工書で仕えていた。その子息の伯陽は仙源公主を娶っていた。だから相となったのだ。
 許州刺史姚元之を兵部尚書・同中書門下三品とし、宋州刺史韋嗣立と許州刺史蕭至忠を中書令とする。絳州刺史趙彦昭は中書侍郎、華州刺史崔是は吏部侍郎とし、共に同平章事とする。
 己酉、衡陽王成義を申王、巴陵王隆範を岐王、彭城王隆業を薛王とする。太平公主へ実封を加え、一万戸とする。
 太平公主は、韋氏の誅殺にも関与した為、権勢は更に強くなった。詳細は、「太平公主の乱」へ記載する。
 七月庚戊朔、韋月将へ宣州刺史を追賜する。
 癸丑、兵部侍郎崔日用を黄門侍郎、参知機務とする。
 丁巳、洛州長史宋景(「王/景」)を検校吏部尚書、同中書門下三品とする。岑義が今までの役職を辞め、右散騎常侍・兼刑部尚書となった。
 景と姚元之は心を合わせて中宗時代の弊害を改革し、忠良を進め不肖を退けた。賞罰は極めて公平で、情実は行われなかった。綱紀は修まり挙がり、当時は言論・行動が一致して貞観や永微年間のようだった。
 壬戌、崔是が現職を辞め、尚書左丞となった。張錫は絳州刺史、蕭至忠は晋州刺史、韋嗣立は許州刺史、趙彦昭は宋州刺史となった。
 丙寅、姚元之が中書令を兼任し、兵部尚書・同中書門下三品李喬が懐州刺史へ降格させられた。
 丁卯、太子少師、同中書門下三品唐休景が高齢退職した。右武衞大将軍・同中書門下三品張仁原が現職を辞め左衞大将軍となった。
 黄門侍郎、参知機務崔日用と中書侍郎・参知機務薛稷が上の前で争った。
 稷は言った。
「日用は私利に走り、かつては武三思へすり寄っていた。忠臣ではない。友を売って功績を手にした。義士ではない。」
 日用は言った。
「臣はかつては過失もあったが、今は大功を立てた。張易之や宗楚客へすりよったのが、私利に走ったのでなくて一体なんだ!」
 上はこれによって、両者を免職し、日用をヨウ州長史、稷を左散騎常侍とした。 

 八月、挙兵した焦王が平定された。詳細は、「焦王の乱」に記載する。 

 万騎は諸韋討伐の功績を恃み横暴なふるまいが多くなり、長安の人間はこれに苦しんだ。詔が降りて、皆、外官へ除す。また、官奴を万騎とすることをやめた。
 その代わりに飛騎を作り、左、右羽林へ隷属させた。 

 姚元之、宋景及び御史大夫畢構が上言した。
「先朝の斜封官は全て廃止しましょう。」
 上はこれに従う。
 癸巳、斜封官およそ数千人を罷免した。
 しかしながら、彼等は二年二月に再登用された。その詳細は、後述する。 

 刑部尚書、同中書門下三品裴談を蒲州刺史へ降格する。
 蘇安恒へ諫議大夫を追贈する。
 九月辛未、太子少師致仕唐休景を朔方大総管とする。 

 十月甲申、禮儀使姚元之、宋景が上奏した。
「大行皇帝神主を太廟に祀り、義宗神主を東都へ移して、別に廟を立てるべきです。」
 これに従う。 

 丁酉、幽州鎮守計略節度大使薛訥を左武衞大将軍兼幽州都督とする。節度使の名称は、訥から始まった。
 十二月には河西節度使、支度、営田等使を設置した。涼、甘、粛、伊、瓜、沙、西七州を領し、涼州を治める。
 二年七月己巳、右御史大夫解宛(「王/宛」)を朔方大総管とした。宛は三受降城の守備兵を考按し、十万人を減じるよう上奏した。 

 元年十月、もとの太子重俊を節愍と諡する。
 太府少卿の万年の韋湊が上書した。
「賞罰を加えられない人々へは、諡を与えて褒貶するのです。もとの太子重俊と李多祚等は詔を矯めて兵を率いて宮殿へ入りました。中宗は玄武門へ登って兵禍を避けましたのに、太子は平気で兵を指揮していました。そして、その党類が寝返り多祚等が死ぬに及び、太子は逃げ隠れました。この時宿衞が守り切れなければ、その禍たるや言葉にすることさえもできなかったでしょう!翌日、中宗は雨のように涙を零し、供奉の者へ言いました。『卿等と二度と会えないかと思っていた。』それほどの危機だったのです。
 今、聖朝が太子を禮葬し、『節愍』と諡されるそうですが、臣は密かに惑います。それ、臣子の礼として、廟を行き過ぎるときは必ず下馬しますし、位が過ぎる時は必ず小走りに走ります。漢の成帝は、太子の時敢えて馳道(皇帝だけが通ることのできる道)を通りませんでした。それなのに重俊は矯詔で兵を動かして宮殿へ入り、御前にて馬に跨ったままでした。なんとも無礼ではありませんか。
 もしも彼が武三思親子を誅殺したことを嘉するというのなら、兵を興して姦臣を誅殺した後、君父を尊んだならば嘉できます。しかし、彼は自ら帝位を取ろうとしたのです。これは『武三思と逆を為すを競った』のです。どうして嘉できましょうか!もしも韋氏を廃立したがったことを嘉するのだ、と言うのなら、この頃の韋氏の逆状はまだ顕わでもなく、大義もまだ絶えていませんでした。いやしくも中宗の命令によって廃立するのでなければ、これは父を脅かして母を廃するのです。なんで許せましょうか!
 漢の戻太子が江充の讒に苦しめられ、怒りを発して充を殺した時、兵を興して交戦したとはいえ、君父へ迫ったりはしませんでした。兵は敗れて死に、その孫が天子となって、始めて改葬されましたが、それでさえもなお、諡は『戻』だったのです。いわんや重俊の諡を『節愍』として、どうして良いものでしょうか!後の乱臣賊子が、この事件を引き合いに出して悖逆の端緒を開くようになることを、臣は恐れます。この諡は、善を表彰し悪を減らすことにはなりません。どうか改めてください。
 多祚等重俊に従って兵を興した者は、無罪ではありません。陛下が今、これを宥めるのはよろしいのですが、よき諡を与えるとゆうのは、よろしくありません。」
 上はこの言葉に非常に強く同意したが、執政が既に制命に従って諡を改めてしまっていたので、もういちど改めるまではせず、ただ多祚等へ官位を追贈するに留まった。 

 十一月戊申、姚元之を中書令とした。
 壬子、侍中韋安石を罷免して太子少保とする。左僕射、同中書門下三品蘇壊を罷免して少傅とした。 

 裴炎の官爵を追復する。
 話は前後するが、裴由(人/由)先は光宅元年(684)流罪となって嶺南へ流された。ここから逃げ帰ったが、百回杖打たれて今度は北庭へ流された。彼は配所にて貨殖と任侠に明け暮れ、いつも客を派遣して都でのできごとを調べさせていた。長寿二年(693)武后が流人を誅殺しようとすると、由人は事前に察知し、胡中へ逃げ込んだ。北庭都護が追いかけて捕らえ、上聞した。使者が到着した時、流人は死に尽くしたけれども、由人だけは命令を待っており、まだ殺していなかった。ところがこの時、武后は、「流人を安撫して、まだ死んでいない者は放免して都へ返すように」との制を下していたので、由人は都へ帰ることができた。
 ここへ至って、裴炎の縁者を捜したが、生き残っていたのは由人だけがだったので、・事丞を拝命した。 

 壬戌、王同皎の官爵を追復する。
 庚午、許文貞公蘇壊が卒した。その子息の廷(「廷/頁」)を工部侍郎とするよう制が降りた。廷は固辞した。そこで上は李日知を説得の使者として派遣した。だが、日知は坐ったまま一言も喋らずに帰ってきて、上奏した。
「彼の哀しげな有様を見ると、臣は何も言えませんでした。無理強いして死んでしまっては、家系が絶えてしまいます。」
 上はこれを聞いて制を取り下げた。 

 十二月癸未、上は西城、隆昌の二公主を女官として、天皇太后の冥福の資とし、城西へ道観を造ろうと思った。すると諫議大夫ィ原悌が上言した。
「先朝の悖逆庶人は娘を愛しすぎた為、愛娘は驕慢を極めて禍へ陥りました。新城、宜都の二公主は庶出で大切にされなかったので命を全うしました。また、釈、道の二家は清浄を本文としておりますので、広い寺観を造って労力や財を浪費することなどふさわしくありません。前には梁の武帝が敗れ、後には先帝が禍を取りました。『殷鑑遠からず』と申します。今、二公主が道教へ出家し、その為に道観を造るなど、祟麗が行き過ぎており、四方から誹謗を受けましょう。又、先朝が親狎していた諸僧がまだ左右にいます。これらは排斥するべきでございます。」
 上はこれを御覧になり、善しとした。 

 宦者の閭興貴が長安令李朝隠へ願い事をしたが、朝隠は彼を牢獄へ落とした。上はこれを聞き、召し出して朝隠へ会い、これをねぎらって、言った。
「卿が赤県令となって、このように職務を遂行している。朕にはもう何の憂いもないぞ!」
 そして承天門へ御幸して百官及び諸州朝集使を集め、朝隠のやったことを宣示した。そして、下制して言った。
「寛柔な時代の宦官は、必ず威権を弄ぶ。朕は歴史を見るごとに嘆息したものだ。朕のその思いに適うのは、実にこの人である。一階を加えて太中大夫とし、中上考及び絹百匹を賜る。」 

 旧制度では、三品以上の官へは冊を授け、五品以上へは制を授け、六品以下へは敕を授ける。皆、尚書省へ委ねて奏擬させた。文属は吏部、武属は兵部、各々の尚書を中銓といい、侍郎を東西銓と言った。(尚書と二人の侍郎で三銓である。)
 中宗の末、腰巾着が事を用い、人事は混乱し、綱紀はなくなった。
 ここにいたって、宋景を吏部尚書、李乂、盧従愿を侍郎とした。皆、権貴を畏れなかったので、裏口推薦の道は途絶えた。集まる者は一万余人なのに、留まる者は三銓で二千人を超えなかったが、人々はその人選の公平さに服従した。
 姚元之を兵部尚書、陸象先、盧懐慎を侍郎として武者の人選もまた治まった。
 従愿は承慶の族子で、象先は元方の子息である。
(訳者、曰く。太宗や高宗皇帝の頃は、「敕」の字がよく出てきていましたが、則天武后の頃から「制」が増えてきました。ここの説明では、これは相手の官位による違いになっていますが、そうすると、武后頃から役人の官位が一律に上昇したのでしょうか?少し研究したい一文です。) 

 侍御史の藁城の倪若水が国子祭酒祝欽明と司業郭山軍を上奏して弾劾した。郊祀にて韋后が亜献したことについて、この二人が主君の望みに媚びへつらって祀の手順をおかしな方へ改めたとゆうのだ。ここにおいて、欽明を饒州刺史、山軍を括州長史へ左遷した。 

 侍御史楊孚は権貴を避けずに弾糾した。権貴がこれを譏ると、上は言った。
「鷹が狡兔へ襲いかかった時、すぐに助けなければ、必ず兔から噛みつかれてしまう。御史が姦匿を捕まえる時もそうだ。いやしくも人主がこれを保衞しなければ、必ず姦匿から噛みつかれてしまう。」
孚は、隋の文帝の姪孫である。 

 二年正月己未、太僕卿郭元振、中書侍郎張説を供に同平章事とした。
 温王重茂を襄王として、集州刺史を命じた。中郎将へ将兵五百を与えて派遣し、防御させる。
 乙丑、劉氏を粛明皇后と追立する。陵を恵陵と名付ける。徳妃竇氏は昭成皇后と追立し、陵を靖陵と名付ける。皆、招魂して東都の城南へ葬る。京師へ廟を立て、儀坤廟と号する。竇氏は、太子の母である。 

 丁丑、太子を監国に命じ、六品以下の除官及び徒罪以下の裁断は太子の処分に任せる。詳細は、「太平公主の乱」へ記載した。 

 殿中侍御史崔位(「草/水/位」)、太子中充薛昭素が上言した。
「斜封官は、先帝が任命したもの。その恩命は既に発布されていたのに、姚元之等の建議で、一朝にしてことごとく奪ってしまいました。これは先帝の過失を顕わにするばかりでなく、陛下の為には怨みを招きます。今、衆人は口々に恨み言を述べており、海内に広まっています。これでは非常の変事が起こることを恐れます。」
 太平公主も、又、同じ事を言った。上は同意する。
 二月戊寅、制が降りる。
「諸縁により斜封の敕で官職を授かりながら、先日罷免された者は、再び登用する。」
 同月、中書舎人、参知機務劉幽求がやめて、戸部尚書となった。太子少保韋安石を侍中とする。
 安石と李日知が姚、宋に代わって政務を執るようになってから、綱紀は紊乱し景龍の頃に戻ってしまったようになった。前の右率府鎧曹参軍柳澤が上疏した。その大意は、
「斜封官は、皆、僕や妾の専横によるもの。なんで孝和の意向でしょうか!陛下がこれを一切罷免した時、天下にその英明を称えない者はいませんでした。ですか、一旦にして忽ち尽くして、再び与える。善悪が定まらず反復相攻める。陛下の制令は何と一貫しないことか!議者は、太平公主が胡僧の恵範に命じて彼等を動かし、陛下を誑かしていると称しております。臣は、小が積み重なって大となり大きな禍となることを恐れるのです。」
 上は聞かなかった。
 澤は、亨の子孫である。 

 同月、左、右万騎と左、右羽林を北門四軍として、葛福順等へ指揮させた。 

 二月太平公主を蒲州へ安置する。
 四月甲申、宋王成器が司徒を辞退した。これを許して太子賓客とする。
 韋安石を中書令とする。
 同月、上は太子へ譲位しようとしたが、太子は固辞した。これらの詳細は、「太平公主の乱」へ記載する。
 戊子、制が降りる。
「およそ、政事は全て太子へ処断させる。軍旅、死刑及び五品以上の除授は、まず太子と協議してから、その後に上聞せよ。」
 五月、太子が位を宋王成器へ譲った。許さず。太平公主を京師へ呼び戻すことを請願した。これは許す。 

 辛卯、李日知を守侍中とする。 

  庚戌、制を降ろす。
「則天皇后の父母の墳を昔通り昊陵、順陵として、それにみあった官属を置く。」
 太平公主が、武攸既の為に請願したのである。
 なお、上官昭容は七月癸巳に追復し、恵文と諡した。 

  辛酉、西城を金仙公主、隆昌を玉眞公主として、各々の為に道観を造る。奪い取った民の居住は非常に多く、費用は数百万を使う。
 右散騎常侍魏知古、黄門侍郎李乂が諫めたが、聞かない。 

 この頃、使者を派遣して、十道を按察していた。議者は、山南道が遠くて広いので、東西の二道へ分け、隴右を分けて河西道とするよう論じた。
 六月壬午、天下を、ベン、斉、?、魏、冀、并、蒲、鹿(「鹿/里」)、ケイ、秦、益、帛(「帛/系」)、遂、荊、岐、通、梁、襄、揚、安、ビン、越、洪、淡の二十四都督に分けた。彼等は各々麾下の刺史以下の善悪を糾察する。ただし、洛及び近畿の州は都督府へ隷属させなかった。
 太子右庶子李景伯、舎人盧甫(「人/甫」)等が上言した。
「都督は殺生の権までもっており、その権限が重すぎます。つまらない人間を登用したら、その弊害は大きゅうございます。今、御史は序列は卑しいですが、重んじられています。彼等を時々巡察させれば、姦悪な人間も自制するでしょう。」
 その後、遂に都督を廃止し、ただ十道按察使のみを設置した。 

 乙卯、高祖の元の邸宅の枯れた柿の木が再生したので、天下へ恩赦を下した。 

 八月、庚午、中書令韋安石を左僕射兼太子賓客、同中書門下三品とした。
 九月庚辰、竇懐貞を侍中とした。
 十月甲辰、吏部尚書劉幽求を侍中、右散騎常侍魏知古を左散騎常侍、太子・事崔是を中書侍郎として、皆、同中書門下三品とした。中書侍郎陸象先を同平章事とする。
 全て太平公主の意向である。詳細は、「太平公主の乱」に記載する。 

 右補闕辛替否が上疏した。その大意は、
「昔から、道を失い国を破り家を滅ぼすものは、口で説くより身体で味わう方が切実で、耳で聞くよりその目で見る方が強烈です。ですから、陛下がその目で見た事で言わせて下さい。
 太宗皇帝は陛下の祖父で、乱世に発して正しい世の中へ戻し、基礎を開き極に立ちました。官職は妄りに授けず、財産は浪費しませんでした。寺院や道観を多くは造らなかったのに福があり、僧尼への出家をあまり認めなかったのに、災いはありませんでした。天地は佑を垂れ風雨は時節に合致し、粟も帛も充分で蛮夷は皆服従し、国は久長、名声は万古へ高まりました。陛下はどうしてこれを手本になさらないのですか!
 中宗皇帝は陛下の兄です。祖宗の業を棄て、女子の言うままになりました。数千人もの役立たずへ禄を与え、功績なくして封じられる者は百余家。寺を造ってやまずに数百億の財貨を浪費し、数え切れない人間へ度牒を与えて僧尼としましたので、数十万の人間が租庸を免除されました。出費は火にかさみ、歳入は日々減少します。百姓からは口の中の食べ物まで奪って、貪欲な人間を養い、万人の身体から衣を剥ぎ取って土木の費用に充てました。ここに置いて人は怨み神は怒り、衆は叛き親しき者まで離れてゆき、水害旱害が並び興って公私共に使い果たし、国は永く続かずに禍が我が身に及びました。陛下はどうしてこれに懲りて改めようとなさらないのですか!
 近年来、水害旱害が相継ぎ霜害蝗害まで起こって人々は食に事欠く有様なのに、賑恤の話を聞きません。それどころか、二娘の為に道観を造営し、百余万緡を浪費しています。陛下は、今の官庫の貯蓄と中外の経費がいくらあるかを計りもしないで、軽々しく百余万緡の費用を無用の労役に浪費しています。こんなことが、どうして許されましょうか!陛下は韋氏を一族誅殺しながら韋氏の犯した悪業を取り去らず、太宗の法を平気で棄てながら中宗の政を棄てるに忍びないのですか!それに、かつて韋氏の党類が幅を利かせていた頃、陛下と太子は日夜憂危し、群凶へ対して切歯扼腕しておりました。今、幸いにしてこれを除くことができたのに、その所業を改めない。臣は、陛下へ対して切歯扼腕している者がいることを恐れます。それならば陛下は、一体群凶のどこを憎んで誅殺されたのですか!
 昔、先帝が悖逆(安楽公主)を憐れむと、宗晋卿は彼女の為に第を造り、趙履温は彼女の為に庭園を造り、国財も尽力も底を尽きました。第は完成しても住む間もなく、庭園は完成したのに、遊ぶ閑もなく、彼女は死んでしまいました。今、道観を造り奢侈へ走っているのは、陛下の御心には見えません公主の本意を、宗・趙のような連中が焚き付けて助長させているのです。察しなければいけません。陛下がこのような工事をやめなければ、人々の愁苦は、前朝の時から減りません。
 人々はその禍敗を知りながら、敢えて口にしません。言えば刑罰に落とされるからです。韋月将・燕欽融等は先朝に誅殺されましたが、陛下は彼等を称賛しました。その陛下が、直言が国の利益になることを、どうしてご存知ないのですか!臣が今言ったことは、先朝の直言と同じです。ただ、陛下、お察しください。」
 上は従うことはできなかったが、その懇切な直言を喜んだ。 

 壬辰、「天下の百姓は、二十五で軍に入り、五十五で免除とする」と令を下した。 

 上が、天台山道士司馬承貞(「示/貞」)を召して、陰陽術数を問うた。対して言った。
「道者は、情欲を減らしに減らし、無為へ至るのです。なんで心をすり減らして術数を学びましょうか!」
 上は言った。
「無為の理は、人が身につければ崇高だ。国には何の理がある?」
「国も人も同じ。物事に従って自然に振る舞い、心に私心を持たない。それが天下の理です。」
 上は嘆じて言った。
「廣成の言葉は、過ちではない。」(廣成子は、黄帝が下風に立って道を問うた道者。)
 承貞は、山へ帰ることを固く請い、上はこれを許した。
 尚書左丞盧蔵用が終南山を指さして承貞へ言った。
「この中にも佳處は沢山あります。なんで天台山に限りましょうか!」
 承貞は言った。
「愚道の目で見れば、これは仕官の道筋に過ぎません!」
 蔵用はかつて終南へ隠遁していたが、則天武后が召し出して左捨遣とした。だから承貞はこう言ったのだ。 

 先天元年(712)正月辛巳、睿宗が南郊で祀った。諫議大夫賈曾の建議に従って、始めて天地を合祭した。
 曾は言忠の子息である。
 戊子、産(「水/産」)東へ御幸し、籍田を耕す。
 己丑、天下へ恩赦を下し、太極と改元する。
 乙未、上が安福門へ御幸し、突厥の楊我支と宴を開き、金山公主を見せた。
 しかし、やがて上が帝位を譲ったので、結局この婚姻は成立しなかった。
 左御史大夫竇懐貞、戸部尚書岑羲を共に中書門下三品とする。
 二月辛酉、右御史台を廃止する。 

 五月戊寅、上が北郊を祭る。
 辛巳、天下へ恩赦を下し、延和と改元する。 

 七月、彗星が出た。これを口実に、睿宗は譲位を決意した。詳細は、「太平公主の乱」へ記載する。
 八月庚子、玄宗が即位した。睿宗を尊んで太上皇とする。
 上皇は「朕」と自称し、命令は「誥」といい、五日に一度太極殿にて朝を受ける。皇帝は「予」と自称し、命令を「制」「敕」と言い、毎日武徳殿にて朝を受ける。三品以上の除授及び大刑政決は上皇が決め、それ以外は全て皇帝が決める。 

 十一月、上皇が、皇帝を巡辺へ派遣すると誥を下した。西は河、隴から東は燕、薊へ及ぶ。将と練兵を選んだ。ただし、結局実行されなかった。 

 開元元年(713)七月、太平公主へ死を賜る。
 この一間では、高力士が大いに活躍し、上の信任が厚くなる。以来、宦官の勢力が強まった。
 これらの詳細は、「太平公主の乱」に記載する。 

 四年(716)六月癸亥、上皇が百福殿にて崩御した。己巳、上の娘の萬安公主を女官として、追福した。

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