東 莱 博 議

 衛の州吁

(左氏伝)

 衛の荘公は、末子の州吁を猫っ可愛がりに可愛がっていた。州吁は武張ったことを好んでいたが、荘公はそれを禁じなかった。しかし、荘公の正室の荘姜は、州吁を嫌ったのである。
 この時、石昔(正しくは、「石/昔」)が荘公を諫めた。
「子供が本当に可愛いければ、人間としての正しさを教え、道に背いた邪なもを遠ざけるものです。驕・奢・淫・佚は全て邪なもの。寵愛が度を超すと、これら四つに繋がります。
もしも州吁殿を世継ぎにしたければ、早々に皇太子になさいませ。しかし、『荘姜の子供に継がせるから、州吁を世継ぎにしない』と言われるのでしたら、接し方を変えないと、きっと災いを招きましょう。
 だいたい、寵愛されて驕らない人間は稀ですし、驕ってしまうとへりくだることができなくなります。無理してへりくだれば心中に怒りが鬱積しますし、そうなったら、普通の人間は、まず我慢できません。
 それに、下位が上位を侵し、幼が長を凌ぎ、疎遠な者が親近者より親しまれ、新参者が古株よりも用いられ、小身が太身を抑え、不義が正義を圧倒する。これを称して六逆と言います。対して、君が義に篤く、臣下は手足となって働き、父は慈しみ、子は孝で、兄は愛し、弟は敬う。これを六順と申します。
 順に背き逆に従うのは災いを招く道。主君となった以上、災いを無くすのが務めです。それなのに、今、却ってこれを招いて居られます。それで宜しいのでしょうか?」
 しかし、荘公は聞かなかった。
 石昔の息子の石厚は州吁と仲が善く、共に遊んでいた。石昔はこれを禁じたが、厚は聞き入れない。やがて、荘公が死去し、その嫡子が襲爵(衛の桓公)すると、石昔は隠居した。

 翌年、果たして州吁は桓公を殺して位を奪った。だが、それから半年ほど経っても、国民はなかなか州吁に懐かなかった。そこで、石厚が石昔に相談したところ、石昔は答えた。
「周の国王に謁見し、衛の領主として正式に認めて貰えば、貴族達も文句を言うまい。私は陳の領主と懇意にしている。周王に謁見する為には、彼に口を利いて貰えば良い。」
 そこで、石厚は州吁と共に陳へ出かけた。
 この時、石昔は陳へ使者を派遣した。
「州吁と石厚の二人こそ、我が主君を殺した仇です。しかし、私は老衰の身で、何もできなかっただけです。どうか裁いて下さい。」
 そこで、陳では州吁と石厚を捕らえ、衛の貴族の立ち会いの元で処刑した。

 君子は言った。
「石昔こそ忠臣の鏡。主君の仇を討つ為なら、我が子を顧みなかった。『大義、親を滅す』とは、まさしくこのことだ。」

(博議)

 相手が感情を面に出さなければ、その想いはなかなか判らないものである。そして、まだ生まれていない感情は、自分自身にさえ判らない。
 さてここで、既に起こってしまった有名な事件を指さして、これを批評させてみよう。 大勢の人間が、各々の判断で、誰が善で誰が悪で、誰が忠で誰が邪で、或いは、是・非・誠・偽とそれぞれ評価した時、正反対の評価が与えられることなど珍しくない。既に全貌がハッキリしたことへ対してでさえこれである。ましてや、表に現れていない感情など、どうして的確に判断できるだろうか。上辺は君子面していながら、その実腹黒い人間が、天下をメチャメチャにかき回すことはよく起こるが、大勢の人間がそんな悪人に騙されるのも、なるほど尤もな話だ。他人の心とゆうものは、実に判りにくいものなのだ。
 しかし、それ以上に判り難いものがある。
 博打をする人間は、必ず盗みを働く。彼が博打を始めた頃は、盗みをしようなどとは露ほども思っていなかった。しかし、博打を続けて財産が乏しくなれば、遂には盗みをするに至ってしまうのだ。同様に、罵る者は喧嘩をする。最初に罵った時には、よもや殴り合いになるとは思わなくとも、憤怒が激すれば、結局殴り合いの決闘にまで行き着いてしまう。だから、博打とゆう行動の中には、既に盗みとゆう理が内包され、博打とゆう行動には、既に決闘の理が内包されている。
 博打をやっている人間を見て、「こいつは盗人だ。」と看破できるだろうか?その相手は、盗みをしたことはおろか、現在盗みをしようと考えてさえいないのに。だが、その男は、将来確実に盗人となるのだ。
 その感情が動くよりも先に、理は既に芽生えている。これは他人が判らないだけではなく、当のご本人でさえも判らないことである。これこそ、最も判りにくいものだといえよう。

 荘公が州吁を寵愛し始めた時、ただ、末っ子を溺愛したに過ぎなかった。その溺愛が州吁へ簒奪を奨めているのだと、どうして判っただろうか。州吁とて、寵愛された頃は、簒奪など考えてもいなかったのだから。
 それが、寵愛されることによって心が傲り、心が傲ることによって生活が放縦になり、放縦な生活を続けるうちに暴力沙汰が好きになり、結局、荘姜から嫌われ桓公から忌まれ、ここに至って始めて、州吁は命の危険を感じ始めて、簒奪の想いが芽生えたのだ。そうなってくると、国王になれるとゆう誘惑が彼を前から引っ張り、死にたくないとゆう想いが彼の行動を後押しする。こうして、武装クーデターとゆう結果になってしまった。
 州吁の心に、最初から簒奪の想いが、最初からあった訳ではない。その時の州吁を見て、そこまで判るわけがないのだ。

 石昔の諫言は善い言葉だ。しかし、惜しむらくは遅すぎた。
 その時、既に州吁は寵愛されていたし、武張ったことを好んでも禁じられなかった。それまで寵愛されていたのに、忽ち疎遠にされては怨まずにいれるだろうか?それまで許されていたのに、俄に禁止されたら怒らずにいられるだろうか?仮に、この時点で荘公が諫言を聞き入れて行いを改めたとしても、親子の間に溝ができてしまう。ましてや聞かれなかったのである。
 もしも昔が萌芽さえも兆す前に止めることができれば、桓公は殺されなかっただろう。州吁も簒奪を行わず、国家の危機も回避されたし、石昔の子供も死なずに済んだのだ。国賊を討伐したとゆう忠節が凛然として衛の歴史に輝いたとしても、私はなお、この災いを未然に防ぐことができなかったことを恨むのである。

 嗚呼、衛とゆうのは小国で、州吁はちっぽけな人間だ。この国で簒奪劇が起こったところで、蝸牛角上の争いのようなもの。議論するにも足りないことだ。しかし、私はこの事件で懼れることがある。
 人を殺して忌まない者は、世間から「暴虐」と呼ばれる。財貨を奪って極みなき者は、世間から「貪婪」と呼ばれる。勝手気儘で他を顧みない者は、世間から「荒淫」と呼ばれる。他人を平気で裏切り陥れる者は、世間から「陰険」と呼ばれる。これらの言葉で理由もなしに他人から罵られたら、怒らない者は殆ど居ない。
 しかし、世間でこれらの悪口を言うのは、ただ表に現れた行動へ対してだけなのだ。だが、これらの想いの萌芽が既に芽生えたとすれば、それは行動しなかっただけで、人間のレベルとしては、実践した者と同等まで堕落したのではないか?

 平穏無事な普通の日に、一度怒りを覚えたならば、まだ人を殺していないとは言っても、一念の「暴虐」が既に胸の中に芽生えたのだ。一度愛着を覚えたならば、まだ財貨を嗜んでいないとは言っても、一念の「貪」が胸の中に芽生えたのだ。欲望を抑えることができなければ、一念の「荒」が胸の中に芽生えたのだし、心を穏やかにすることができなければ、一念の「険」が胸の中に芽生えたのだ。

 しかしながら、この四悪の種が胸の中に芽生えた時に、それが成長して最後には悪行を起こさせることを、自分自身で判るだろうか?その時点では「人を殺したい」とか、「財貨を奪いたい」とか、「勝手気ままに暮らそう」とか、「他人を陥れよう」とかの想いすら浮かんではいないのだから。それこそ、州吁が寵愛された時、簒奪の悪行への道を既に歩み始めたのに、自分では全く気がついていなかったことと同様である。
 胸の中で芽生えた悪心が熟してしまえば、あとはきっかけを待つだけ。事件に遭遇して心は動く。外の悪習が内の悪念を召し、内の悪念が外の悪習に応じる。悪と悪とが遭遇すれば、堤防が決壊したように、枯れ野に火が点いたように、突っ走ってしまって、とてものこと制御することなどできはしない。ああ、危ういかな。

 だから、君子が自分の心を治める時には、明白に将来を見通さなければならない。秋毫の不正であっても認可してはならない。その不正が例え秋毫のように小さくとも、一粒の種を播くようなものだ。当初は、その実害はまるで見えない。しかし年月が経ち、雨露を与えれば、遂にははびこってしまうのだ。けだし、その根があれば、いずれは苗になる。
はびこらせまいとしたら、種を播いてはならぬのだ。
 だから、過ちを起こすまいとゆう人間は、まず過ちを起こさせる原因を良く知り、これを除かなければならない。それができなければ、どうして州吁を笑えようか。