衛の礼至、刑(正しくは、おおざと)の国子を殺す。

 

(春秋左氏伝)

 衛が刑を討とうとした。すると、礼至が言った。
「まず、刑の政権を掌握するべきです。我等兄弟が、刑へ仕官しましょう。」
 そうして、礼至は刑へ行き、うまく仕えることができ、順々に出世した。
 僖公の二十五年。衛は刑を攻撃した。刑の執政は、礼至兄弟を率いて都城を巡回したが、この時、兄弟は執政へ掴みかかって、これを殺害した。
 こうして、衛侯は刑を滅ぼした。
 ちなみに、衛と刑は同族である。

 この事件について、「春秋経」では、「衛侯燬が刑を滅ぼした」と記載している。これは、血の繋がった同族を攻め滅ぼした衛侯の行いを孔子が憎み、衛侯の名前(燬)を記載して、その行動を貶したのである。

 さて、この時礼至は自分の功績を誇り、何かの器物に銘文を刻みつけた。
「我は執政を捕らえて打ち殺したが、誰一人としてこれを阻めなかった。」

 

(博議)

 金や石ほど長持ちする物はない。もしも、千年前の金や石に刻まれた言葉があったとしようか?それは、そのまま千年先まで残るのだ。
 だが、金属もやがては錆びるし、石もやがてはすり切れ、最後には刻み込まれた文字が判別付かないようになってしまう。どんなものに記載しても、やがては時の彼方へ追いやられてしまうものなのだろうか?
 だが、ここに例外がある。ひとたびこれに託すれば、錆びないし摩耗もしない。悠久の時の流れを経てもなお、昨日のことを見るように読み返すことのできるもの。
 それは何か?
 それは聖人の言葉である。

「日々、心を新たに(日に新たにして、日び日びに新たに、又、日に新たなり)」とゆうのは、湯王の盤に刻まれた言葉だ。湯王の盤を見た者はいないが、湯王の盤にその言葉が刻まれていたことは、誰もが知っている。それは、「大学」に記載されているからである。
 同様に、周の量に文思の銘が記載されていることは誰もが知っている。周の量を見たことがない人間でも、それに記載された文章を口ずさむことができるのは、「周官」に記載されているからだ。
 さて、この二つの文章を口ずさむことのできる人間は、天下に多い。しかし、その現物である「湯の盤」や「周の銘」を、実際に見た人間はいるのか?いや、そもそも、この二つの現物は、今、どこにあるのだろうか?
 天下をかけずり回っても、今やその現物を見ることはできない。
 結局、「湯の盤」に刻み込んだからではなく、「大学」に記載されたから、その言葉は現在まで残っているのだ。「周の銘」刻み込んだからではなく、「周官」に記載されたから、その言葉は現在まで残っているのだ。
 だからこそ言える。金属や石よりも、聖人の言葉の方が長持ちする、と。
 聖人が善行を褒めたなら、それは未来永劫朽ちることない。同様に、聖人が悪行を貶しめしたなら、それは未来永劫朽ちることがないのだ。

 さて、衛の礼至は殺人を行い、僥倖にして国を奪った。彼は自身の暴虐な行いに対して括として恥を知らず、それどころか、却ってこれを功績と自慢し、銘文に刻み込んで後世へ遺したのである。
 人々は言う。
「礼至は、金石に託したから、万世へ悪臭を遺した。」と。
 だが、これは間違いである。確かに、礼至は金石へ銘文を刻み込んだが、その銘文が現在に伝わっているのは、金石のおかげではない。
 そもそも、彼はどのような物に銘文を刻み込んだのだろうか?鐘か?鼎か?食器か?祭器か?今となってはそれさえも判らない。なぜなら、既にその金石は滅没して塵となったか、蕩けて太虚となったか、今では糸髪も残ってはいないのだから。
 現物が無くなれば、刻まれていた銘文もなくなる。銘文がなくなれば、その悪行も消え失せてしまう。
 だが、礼至の悪辣なる所業は、現在に至るも衆人の知るところである。物は消えたが、その悪行の跡は消えない。だからこそ、これを後世に伝えたのは「物」ではなく、「君子の論」だと言えるのである。
 もし、幸いにして左氏がこれを記載しなかったならば、銘文が摩耗すると共に、彼の悪行も忘れ去られたに違いない。それが実際には、礼至と言えば今に至るも残虐なる悪人として罵倒されている。
 凡俗の徒から非難されても、隣町へ逃げ込めばそれでおしまい。人の噂はたちまち消え行く。だが、君子から非難されたら、万世に亘って忘れ去られることがない。権力を振りかざしている豪門寵臣が、君子の筆誅口伐に遭ってたちまちに意気消沈し、横暴を自粛してしまうのは、他でもない、ここを懼れてのことなのだ。

 伯楽に遭うのは駑馬の不幸。匠石に遭うのは悪木の不幸。そして、左氏に遭った事こそ、礼至の不幸だった。もし、礼至の悪行が、幸いにして左氏の筆を逃れたならば、今では誰一人としてその悪行を知ることはなかっただろう。衛の一国を挙げての嘲笑も、左氏の一筆に敵わないのである。
 だが、この礼至の悪行は、他人が彼の為に額に汗するにも関わらず、当のご本人は、却って自慢の種としていた。思うに、彼は君子がそれを記載してくれることを望んでいたのではないか?礼至は、辱と自慢を混同していた。恥知らずの極みと言うべきだ。
 しかし、それはまあ、深く責めることではない。彼一個人が人間の屑だったと言うに過ぎないのだから。そんなことよりも、もっと深く考慮しなければならないことがある。

 戦国時代から、秦・漢へ至ると、これは世相にまで広まってしまった。世に兵法者と称する連中の所業は、反復狙詐を旨としている。おおむね礼至の同類ではないか。いやいや、彼等が自らそれを誇っていただけではない。歴史を記す学者達まで、その功績を讃美頌嘆して後世に誇示している。ああ、風俗は日々軽薄になって行き、ここまで甚だしく頽廃しきってしまったか。
 春秋の時、一人の礼至が居た。もとより、人々は彼を指さして異端と称し、ことさらにこれを書物に記して世の笑い物とした。だが、誰ぞ知らん、後世、礼至の同類は、幾千幾万人に及んでもまだ止まず、遂には学者達まで礼至の同類となり果ててしまったのだ。ああ、風俗は日々軽薄になって行き、ここまで甚だしく頽廃しきってしまったか。

 しかし、更に畏るべき事があるのだ。
 春秋左氏伝を読んだ人々は、礼至の痴妄を笑う。だが、戦国・秦・漢の名将達の行動は、礼至とどこが違うのか?にもかかわらず、これを記載している史実を読むと、彼等の知謀や勇猛に、胸を躍らせ心を動かす。史書を読む者は、その言葉に奪われて事実を眩まされ、慨然としてその名将達を慕ってしまうに違いない。
 この二つは、同一のことだ。にも関わらず、左伝を読めば左氏に同調してこれを軽蔑し、後世の歴史書を読めば、その編者に同調してこれを珍重する。それでは、読者の軽重の、真の基準はどこにあるのか?
 ある日は賢人の書を読み、その世界に心を遊ばせ、他日は世俗の書を読み、その世界に遊ぶ。しかし、読者はどちらも同一の人間なのだ。
 諸々の清廉な人間にたち交じって貪婪な人間を見れば、これを軽蔑して絶対にそんなことはやるまいと思う。そして、諸々の邪悪な人間にたち交じって貪婪な人間を見れば、これを慕って同じ事を必ずやり遂げてみせると心に誓う。清廉の人間はなかなか居らず、邪悪な人間はどこにでもゴロゴロ転がっている。こうして、多くの人間は小人へと転落して行くのだ。ああ、何と畏るべき事だ!

 

(訳者、曰)

「春秋左氏伝」と「戦国策」。その毀誉褒貶はまるで正反対である。これは、儒家と縦横家の違いもあるだろうが、春秋時代と戦国時代の違いもあったに違いない。
 同じ様な権謀術数が、春秋時代では唾棄され、戦国時代では賞賛されることも、充分考えられる。それは、道義心を第一に置くか、功績を建てることを第一に置くかの違いである。

 時代の風潮は、確かにある。
 世を挙げて功績に走れば、道徳云々は見棄てられる。そのような時代に、事の善悪を説き、窃盗・殺人の悪を説いても、誰がそれを判るだろうか?彼等はそもそも、それが悪であると理解していないのだ!
 しかし、書物の中には、時代が残る。戦国の世に生まれようが、南北朝の世に生まれようが、五経や伝を通して聖賢の道を学ぶなら、道義心をわきまえることはできただろう。
 だが、そうやって善悪の基準を分明に定めることができたとしても、それを誰と共に語ればよいのだろうか?
「諸々の邪悪な人間とたち交じるな」と言われても、戦国時代や南北朝時代に生まれたならば、我が言葉を、誰が嘲り笑わずに聞いてくれると言うのか?そうなってしまった時、一体誰とつきあえば良いのだろうか?これでは、世を捨てて孤高を貫き通すしか道がないではないか!

 翻って鑑みれば、中国では、いつの時代にも世捨て人が居た。学識が篤ければ、人々との交わりを断つしか術がなかった時代が、何と多かったことだろう。これを以て史書を見れば、あの孤高の人間達が、痛ましく思えるのである。