頴考叔、車を争う

 

(春秋左氏伝)

 鄭伯と斉候と魯公で、許征伐の話がまとまった。
 鄭伯は許との戦闘の為、大宮で武器を分配した。この時、公孫閼と頴考叔が戦車を奪い合った。頴考叔が戦車を牽いて駆け出したので、公孫閼は棘を抜いて追いかけたが、結局逃げられてしまい、公孫閼は大いに立腹した。
 さて、実際に許を攻める段になり三国連合で先頭に立ったのは、鄭である。その中でも頴考叔は、鄭伯の旗を持って敵の城へ一番乗りを果たした。この時、公孫閼は下から弓で射て頴考叔を殺してしまった。鄭伯の旗は瑕叔盂が取り、彼は自軍へ向かって言った。
「我が君が敵城を占拠なさったぞ!」
 鄭軍はこれに勇気づけられて猛襲を重ね、遂に許を陥した。

(博議)

 元気(自然界のエネルギー)が万物にあるように、理も天下に満ちあふれている。
 春の気が万物を覆えば、その根、その茎、その枝、その葉、その華、その色、その香り、それらが様々に変化する。その変化は万物において一つとして同じ物はない。しかしながら、彼等をそう変化させたのは、春になったとゆう、一つの気の変化である。二つの、ましてや万に及ぶ別々の気が天下にあるわけではない。
 理とゆうのも同様に一つだけである。忠と言い孝と言い義と言い信と言い、様々な種類があるように見えるが、その理は一つだけなのだ。胸の中にある一つの思いがあったとしよう。その一つの思いが、親と遇った時には孝となって発現し、君主と遇えば忠となり、兄弟と遇えば友となり、朋友と遇えば義となり、宗廟に於いては敬となり、軍隊に於いては粛となる。置かれた状況によって発現の仕方が変わり、それぞれに名前が付いているので、千万に及ぶ理があるように見えるが、全ては同一の理なのだ。

 気が二つとないように、理もたった一つしかない。しかし、それぞれの事象は気の一部分だけしか内包しないので、その理も偏っている。完全な気を受けているものは人間だけである。それ故、人間の持つ理も完全なのだ。
 物には偏(かたより)がある。だから荼(草の一種、苦い)は甘草になることができず、松は柏になれず、李は桃になれない。各々その一を守って相通じることができないのは、その「物」の罪ではない。「物」の受けた気が偏っているだけなのだ。
しかし、人間は天地の全ての気を得ているのだから、その心には完全な理が備わっている。それなのに、たった一つの善行を身につけただけで、それを状況に合わせて変化させることができない。これは明らかに人間の罪である。

 頴考叔は、鄭では名の知れた孝行者である。彼が一度母を思えば、端で見ていただけの荘公が、自分の母親と仲直りしてしまった。
この孝行は、もとより嘉すべきことだ。だが、もしも彼がその孝の想いを推し広げ極めれば、きっと天地に塞がり四海に横たわるほど素晴らしいものになっただろう。
 そもそも、天地の理といっても、「孝」以外にはないのだ。頴考叔はこれほど素晴らしい孝心を持ちながら、どうしてそれを推し広めることができなかったのだろうか?
許との戦争の時に、たった一台の戦車を取り合い、結局殺されてしまった。ああ、誠に惜しい死に方である。
 彼が荘公と談笑した時、温良楽易、なんとも和やかだった。それが、公孫閼と闘争した時は、忿戻攘奪、何と暴虐なことだろう。
同一人間でありながら、前後でこうも違うのだろうか。

 食事を賜った時、彼はその母を想った。後、武器を分配された時には、果たして彼は母親を想っていたのだろうか。肉を脇へ除いた時、確かに彼は母を想っていたのに、戦車を牽いて走る時、どうして彼は母を想えなかったのだろうか?
前にはこれを想い、後にはこれを忘れる。そう、頴考叔は羮に母を見て、戦車に母を見なかったのだ。
 もしも頴考叔が親へ仕える時の敬虔な気持ちを推して宗廟での敬虔と為せば、戦車の奪い合いには絶対ならなかった筈だ。親へ仕える時の厳粛さを軍時での厳粛さに変えれば、戦車を牽いて駆け出したりしなかった筈だ。
ただ、彼は推し広めることができなかった。だから、始めには純孝の名声を得ながら、最後には「闘狠して父母を危うくさせる。」の戒めを犯す結果となったのだ。

 すると、ある者が聞き返した。

「頴考叔は許を討伐する時、命を惜しまず先陣を切った。これは孝を推して忠や勇へ変えた結果ではないか?それなのに、どうして孝を推し広められなかった、等と譏るのだ?」
 お答えしましょう。

 車を奪い合ったのは私憤だ。これは不孝者のすることである。そして先陣切って戦ったのは公である。これは確かに孝の現れ。自分の体を大切にするのが、親へ仕える孝であるし、命を捨てて励むのが君へ対する忠である。
しかし、忠と孝と二つあるわけがない。孔子の門下でも孝行者で名高い曾参は、「戦場で勇気のない者は、孝ではない。」と言われた。してみると、頴考叔の勇気は、まさしく、曾参の言う「孝」である。
 しかしながら、頴考叔は先陣切って戦ったから戦死したのではない。あくまで公孫閼から射殺されたのだ。
これは私闘で命を落としたのであって、公の戦争で殉職したのではない。この死に方が、どうして君子から責められずに済まされるだろうか。
だから、私は彼が孝を推し広められなかったことを惜しむのだ。

゛ああ、孝子。その心乏しからねば、永くその友に恵むなり。゛
 これは、頴考叔の孝心を讃えるために、左氏が引用した詩経の一節である。
 今、彼の生涯を見回すと、肉を脇へ置くことはできたが、戦車を脇へ置けなかった。その孝心は、時によっては乏しくなった。そして荘公を感化させることができたが、公孫閼を感化できなかったのだ。つまり、その友に、恵むことができなかった。もしも頴考叔の魂が先程の詩を三復したら、きっと慚愧の想いを持つだろう。

 左氏はこの詩で頴考叔を誉めた。しかし、私は同じ詩で、彼の非を責めるのだ。

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